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2010年2月19日金曜日

唐・新羅連合軍の侵攻に備える 太宰府大野城、水城の構築

 しばらく、公私ともに多忙でブログを書く時間がなかったが、ようやく少し時間が取れた。この前、太宰府の大野城に登った時のことをようやくアップできそうだ。

 7世紀のヤマトの時代、大化の改新を経てようやく王権を確立しつつあったヤマト。663年、百済からの救援要請に応えて出兵したヤマトは、唐・新羅の連合軍に白村江で大敗する。百済救援の目的を達することが出来ず、朝鮮半島における権益を放棄して撤退を余儀なくされた。多くの犠牲を伴った半島侵攻からほうほうの体で筑紫に戻ったが、それで安心することは出来ない。この敗戦は今度はヤマトが、大陸からの侵攻という危機に立たされることを予見させた。

 この頃の東アジア情勢は、強大な唐という中華帝国の成立を受けて大きくその周辺国の勢力図が塗り換えられつつあった。特に朝鮮半島ではヤマトと同盟関係にあった百済は滅亡し、多くの亡命百済人がヤマトに渡来して来た。ヤマトは半島における拠点と権益を失い、さらには本土までが侵攻の危機にさらされることになった。古代より倭、ヤマト、日本の国内権力構造は、大陸の動向の影響と無縁には存続し得なかった。そして筑紫は常にその最前線にあった。

 天智天皇は、朝鮮撤兵翌年の664年には筑紫からヤマトにいたる各地に防衛線をはり砦を築かせた。また全国から兵士を徴用し国境防衛にあたらせる為に防人をおいた。特にここ筑紫の地は国防、外交上の最重要地域であり、那の津にあったと見られる官衙、那の津宮家を太宰府の位置まで後退、移動させ、那の津と太宰府の境に外側に広大な堀を伴った1.2キロに及ぶ大堤防を築いた。すなわち水城である。また、太宰府防衛の拠点として羅城の北と南にそれぞれ大野城、基肄城を築く。

 九州北部にはこの他にも筑後地方や豊前地方に、後世「神籠石」と呼ばれる城の遺跡があちこちで見つかっているが、これらも当時構築された防衛施設の跡であったのかもしれない。中でも大野城、基肄城、長門城は朝鮮式山城であり、百済の亡命貴族によって構築指揮をとらせた、と日本書紀に記述されている。

 太宰府政庁の真北にそびえる標高400メートルの大野城(別名、四王寺山とも呼ぶ)に登ってみると、太宰府が一望のもとに見渡せる。北西に視線を転じると水城の向うには那の津側(今の福岡市)を展望出来る。さらに、都城を隔てて、南正面に基山を望むことが出来る。ここには北の大野城と同じく基肄城が築かれた。水城は大野城に接続しており南は遥か基肄城につらなる山々に小水城を介して連結している。こうした全体のシステムが当時の緊迫した国際情勢下で、防衛最前線として周到かつ広範に設計、建設された羅城、すなわち防衛都市システムであることが目視出来る。

 大野城は、中世の山城と異なり、闘いの為の砦というより、有事の都市機能の移転、籠城の為の要塞という性格の城だ。もちろん本丸や天守のような施設はない。石垣や土塁は尾根と尾根の間の谷を塞ぐ形で構築されている、長いものは100間程の大石垣が見つかっている。これらの石垣や土塁は外周6.8キロに渡って山頂部を取り囲んでおり、要所には城門が設けられている。とりわけ太宰府側に設けられている太宰府口城門は両翼に石垣と土塁を巡らせた壮大なもので、門柱の礎石からここには堅固な門扉を備えた門があったことが分かっている。

 土塁は「版築工法」という中国、朝鮮から伝わった盛り土工法により築かれている。ちなみに中国の万里の長城も版築である。水によって土塁が崩壊したりしないように、水抜き用の排水路が設けられている他、大きな水流がある谷には石垣を設けている。

 山頂部には約70棟の倉庫跡の礎石や、食料倉庫跡と思われる「焼き米が原」、水利施設が残っている。特にここにある鏡池は小さいが不思議な池だ。こんな山頂にあるにもかかわらず、渇水期にも水が涸れることもなく、今も満々と水をたたえている。すべてがここが都市機能を移転させて籠城する為の施設であったであろうことを想起させるものである。また平時においてもこの山城は米などの租税倉庫として使われていた模様だ。

 結局、唐・新羅はヤマトへ侵攻せず、これらの防衛施設は使われることなく終わったが、この事件がヤマトにとって、大陸からの文明を消化して、安定した統治体制を築き、国土の防衛体制を整備しようという強い動機となったことは間違いない。後に、戦争相手国であった唐へ遣唐使を派遣し、新羅とも交流し、大いに外の思想文化を吸収し、経済的関係強化に努めることになる。そしてこれまでにもまして筑紫太宰が太宰府としての機能を強化してゆくきっかけともなった。

 さて、いよいよ大野城山頂から太宰府政庁に向けて山を下ることにする。これがなかなかの難所である。古来から存在していた坂本口城門跡を下り大石垣を越えて真っ直ぐに下りれば政庁跡の真後ろに出るはずだが、平成15年の集中豪雨で大石垣と登山道が流出土砂に埋まり、未だに通行出来ない。復旧された大石垣まではなんとか進入禁止の柵を越えて行ってみたが、とてもそこから下ることは不可能に見えた。道が完全に土砂と倒木に埋まり谷が消失している。仕方なくまた坂本口城門まで戻り、別ルートで下る。これは結構な直線急勾配、ケモノミチルートで足がガクガクになる。ちなみに登りは西鉄太宰府駅から林道(車道)伝いに登るので、岩屋城跡までは楽であった。

 ようやく里に下りると、そこはちょうど太宰府政庁跡の真後ろ。大野城が太宰府の防衛要塞であることが実感出来る位置だ。しかし、今は坂本の里はのどかな田園地帯で、大伴旅人や山上憶良などの高官が暮らした屋敷跡や万葉歌碑が歩いて確かめられる。そうしてたどり着いた太宰府政庁跡(都府楼跡)にたたずんで振り向くと、今下って来た大野城が緩やかな山容を横たえている。白梅もほころび始めている。

 ちなみにこの大野城(四王寺山)には、戦国時代には岩屋城が築かれていた。ここは九州平定のため出陣した豊臣秀吉の救援を待ちつつ、島津軍の猛攻に抗して籠城の末全滅した高橋紹運の悲劇の城だ。この城跡には石碑が建てられており、そこからは太宰府、福岡が一望に見渡せる。その展望台からふと目線をおろした位置、小さな峯の頂上にその悲劇の武将高橋紹運の墓がある。その孤立して下界を見下ろす墓のたたずまいには、援軍の到着を待たず果てた武将の怨念のようなものを感ずる。

 それにしても今回もよく歩いたものだ。いつものことながら歴史の痕跡と景観につられてつい歩いてしまう。都府楼跡から政庁通りを真西に関屋まで歩き、西鉄都府楼前駅から電車に乗り天神へ戻る。