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2024年1月28日日曜日

古書を巡る旅(44)W. グリフィス著「タウンゼント・ハリス伝」:Townsend Harris The First American Envoy in Japan 〜もう一つのハリス伝〜



時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 古書を巡る旅(10)「タウンゼント・ハリス日本日記完全版」The Complete Journal of Townsend Harris ...: 麻布善福寺にある タウンゼント・ハリス、初代米国公使館跡碑 益田孝、藤原銀次郎が献納し朝倉文夫が彫刻した 裏面 今日は一日雨模様。コロナ感染もいよいよ第四波が来て不要不急の外出は憚られる。こんな日は以前にゲットした古書を読んで過ごそう。そして自宅「時空旅」に出よう。 今回の古書を...

上記のブログ(2021年4月14日)でマリオ・コセンザ編著「ハリス日本日記完全版」(1930年刊行)を紹介したが、この35年前に、同じハリスの日記を元にした「ハリス伝」が刊行されている。ウィリアム・グリフィス:William Elliot Griffisの著作「Townsend Harris The First American Envoy in Japan: タウンゼント・ハリス 〜初代駐日アメリカ全権公使〜」1895年である。著者は明治初期に「御雇外国人」として日本に招聘された外国人教師で、ジャパノロジストの草分けの一人である。以前のブログ(2022年1月22日古書を巡る旅(19)「Verbeck of Japan:フルベッキ伝」)で紹介した、幕末にやってきた宣教師、フルベッキの評伝の著者でもある。前回のブログでハリスの通訳で書記官であったヘンリー・ヒュースケンの日本日記を取り上げ、このところ幕末/明治の日米交流史に関する古書の紹介が続くが、今回も、この続編としてグリフィスの「ハリス評伝」を取り上げることをお許しいただきたい。

グリフィスの「ハリス伝」は、ハリスの直筆の日記を典拠としている点ではコセンザ版「ハリス日記」と同様であるが、ハリスの生い立ちや日本赴任以前の経歴は、日記も参照しているが、グリフィス自身の筆による評伝となっている。下田入港以降の、日本滞在記録は、ハリスの日記を引用した記述であるが、全記録を詳説するのではなく、いわば抄録となっている。後半(特に条約締結後)は日記自体が逸失しているため、ハリスの手紙や日本側の記録に基づく論評となっている。全体としてグリフィスによる、ハリスの日米関係構築、日米親善交流に果たした業績を評価する評伝となっている。

グリフィス「ハリス伝」の構成:

Part I:Preparation for work in Japan 日本赴任準備
ハリスの生い立ち、ニューヨーク市教育委員会委員長として市立大学創立、その後のアジアでの貿易商、ニンポウ寧波副領事としての活動、ペリーの日本遠征で日本行きを希望したこと、初の駐日米国領事へ任命、アメリカでの出発準備から船旅の途中寄港地、シャムでの出来事が語られている。 ハリスの日記からの引用ではなく、日本での活躍の前史としてのサマリーである。主語が「Mr. Harris」または「He」で始まる文章となっている。

Part II: Mr. Harris's Journal ハリス日本滞在日記
1856年8月21日 日本、下田上陸から始まる日本滞在記 下田での領事館開設、幕府役人との交渉、江戸参府、将軍謁見、条約交渉まで、ハリス日記の記述に基づく解説が時系列的に記録されている。主語が「I」で始まる文章。

Part III: Success Repose, and Honor ハリスの貢献、成果
1858年2月27日でハリスの日記は終わっている。以降は彼の手紙や日本側の文書に基づく彼の事績と、その後の日米関係発展への貢献とグリフィスの評価が書かれている。日清戦争の勝利、条約改定という、日本が「一等国」への道を歩み始めた時期までを総括している。しかし、対日外交の主役はアメリカからイギリスへ。主語が「Mr. Harris」または「He」で始まる文章となっている。

コセンザ「ハリス日記」の構成:

イントロダクションはハリスが駐日公使に任命される経緯とその過程について
ジャーナル1:1855年5月21日から1856年4月13日(米国出発前)、
ジャーナル2:1856年4月15日から7月6日(航海日記、シャムとの条約交渉など)、
ジャーナル3:1856年7月7日から1857年2月25日(下田到着以降、領事館開設)、
ジャーナル4:1857年2月26日から12月2日(条約締結予備交渉、江戸参府に向けて交渉)、
ジャーナル5:1857年12月7日から1858年2月27日(江戸参府、将軍謁見、条約本交渉)、
断片メモ:ハリス病気療養中の断片(日記中断中の和紙に書かれたメモ)1858年5月15日、6月7日、6月8日、6月9日。

コセンザはこの日記公開、刊行にあたっては、先行するこのグリフィスの著作に言及し、出版社Houghton Miffin社から出版の承認を得ている。ハリス日記の寄託者であるハリスの姪、日記の収蔵機関であるニューヨーク市立大学にも謝辞を述べている。

このように、この二冊はハリスを取り上げ、日本の幕末維新史、日米交流史、またアメリカのヨーロッパ列強に対抗する東アジア戦略の研究書としても興味深く、歴史資料として押さえておくべき重要著作である。ただ、前述のように、そのスタイルと、刊行の時代背景、出版に込めたメッセージは異なっている。グリフィスは、ハリスの人物像描写に力を入れて、幕末におけるハリスの日本の門戸開放、日米関係発展に貢献した役割を浮き立たせている。そのメッセージは、明治日本の驚異的な進歩への驚きと称賛である。日清戦争に勝利し、念願の条約改定も進み、日本が列強と肩を並べる「一等国」の道を歩み始めた所で終わっている。まさに、ハリスがその「道」に繋がる扉を開け、基礎を作ったのだとその業績を高く評価している。しかし、アメリカは内戦勃発(南北戦争)で、対日外交どころではなくなる。ハリスは帰国し幕府は倒れ、アメリカに代わってその外交主導権を取ったのは討幕派、維新政府を支えたイギリスである。「America First!」で急にいなくなるアメリカ。ペリーの後に来て条約を締結したエルギン卿とオルコックのイギリス。その移行過程を繋いだのはハリスであると。グリフィスの忸怩たる思いが表れている。そうした日本が世界に向けて「一等国」デビューを果たしつつある1895年(明治27年)の刊行である。一方で、コセンザの業績は、ハリスの日記の完全版を紹介するという、いわば文献史学的な意義があると思われる。もちろんその日記公開の趣旨はハリスの功績を改めて紹介しようというものであるが、問題はそれを刊行するタイミングである。すなわち、刊行年の1930年(昭和5年)は、満州事変前夜という昭和初期の太平洋の平和が危うくなっていった時期であり、まさにコセンザ教授の巻頭の一行「To The Peace of The Pacific:太平洋の平和に向けて」にそのメッセージが凝縮されている。太平洋の東西の国の「歴史的出会い」を思い起こし、ハリスが念じた日米の友好親善関係を、もう一度思い出そうではないか。そして日米が、手を取り合って太平洋の平和に協力しようというメッセージである。そして、ついに起きてしまった日米の戦争、そして終戦。新たな日米関係のスタートにあたり、1959年(昭和34年)に出された第2版の巻頭言で、マッカーサー駐日米国大使が、「ハリス日記」刊行にあたって、コセンザと笠井重治の戦前、戦後を通じた日米友好関係強化への貢献を称えていることが象徴的である。

ちなみにこの1895年グリフィス版初版、1930年コセンザ版初版、さらに1959年の第2版(マッカーサー大使の巻頭言つき)の3冊とも、日本の衆議院議員でのちの日米文化振興協会会長の笠井重治氏の旧蔵書である。マッカーサー駐日大使の巻頭言にあるように、戦前から戦後の日米両国が困難な時期にあったときに、笠井氏とコセンザ教授の果たした日米友好への貢献は高く評価されるべきであろう。このハリス日記の出版が、その努力を象徴するものである。しかし、今回グリフィス博士の著作を手に入れてみると、そこにもグリフィス博士と笠井氏の、「ハリス伝」刊行を通じた交流の姿が見えてくる。昭和2年と思われる、グリフィス博士から笠井重治氏宛のハガキ(日本国内郵便一銭五厘切手)と、W.Griffis夫妻写真、Francis King Griffis, William Elliot Griffisの署名入りの礼状が、笠井重治氏の旧蔵書であった本書に添えられている。大事に本書と共にしまって置いたものだろう。グリフィス夫妻と笠井重治氏の交流を示す貴重な資料である。当時の笠井氏にとってグリフィス博士は、明治初期の日本を知る「大先輩(当時おん年84歳、年齢差43歳)」である。グリフィス博士は、コセンザ教授の「ハリス日記」の出版を見ることなく、ニューヨーク発の世界大恐慌、やがて日米関係がキナ臭くなり、太平洋の平和に影が差す事態を見ることなく、1928年(昭和3年)に他界している。



グリフィス著「タウンゼント・ハリス伝」1895年初版

ハリス肖像


表紙



William Elliot Griffis:ウィリアム・E・グリフィス(1843〜1928)

明治期の「お雇い外国人」、ジャパノロジストの一人である。日本に関する多くの著作を残しており、The Mikado's Empire,  Japanese Fairy World,  Japan: In History,  Folk-Lore and Artなどがある。アメリカ・ペンシルバニア州フィラデルフィア生まれ。ニュージャージー州のオランダ改革派教会系のラトガース大学卒業。そこで教鞭を取り、理科を教える。幕末に留学生としてラトガース大学に在籍していた福井藩士、日下部太郎の縁で、1870年(明治3年)日本に渡り、福井藩藩校「明新館」で1年間理科(科学と物理)を教えた。越前福井藩は松平春嶽の代から、早くからラトガース大学へ若い藩士を留学生として出し、外国人教師を招聘して若者の教育に力を入れていた。版籍奉還で福井藩が無くなると、1872年(明治5年)ラトガース大学の先輩宣教師、大学南校(帝国大学の前身)の教頭となっていたフルベッキの招聘で東京へ移り、大学南校へ移籍。物理と化学を教えた。1875年(明治8年)帰国後は宣教師となり、日本に関する著作の執筆や講演に精力的に取り組んだ。グリフィスの功績の一つは、幕末/明治期の「お雇い外国人」の記録を後世に残すべく、1858〜1900年の間に幕府や明治新政府に雇われて来日した外国人の資料を収集し整備したことである。このために本人だけでなく、その子孫や親族、教え子や友人などの関係者を巡り、聞き取りや手紙、日記などの資料収集に努めた。こうした調査、資料収集、研究の一環として、このTownsend Harris評伝、Verbeck of Japanに関する著作、Matthew Perryの評伝が生まれた。また彼の代表作、The Mikado's Empire 1876年もその一つである。グリフィスが収集した膨大な日本関係資料(グリフィス・コレクション)が、母校ラトガース大学アレクサンダー図書館に保管されている。


グリフィス肖像(Wkipediaより)



Mario Emilio Cosenza:マリオ・E・コセンザ (1880−1966)

ニューヨーク市立大学(CUNY)古典語学教授、前ブルックリン・カレッジ学長 前ニューヨーク市立タウンゼント・ハリス高校校長。ニューヨーク市立大学の創設者であるタウンゼント・ハリスの日記の完全版刊行に力を入れ、ジャパン・ソサエティー、笠井重治氏の協力を得て1930年に刊行に至った。


コセンザ肖像(ニューヨーク市立大学HPより)

コセンザ版「ハリス日記完全版」1930年初版と1959年第3版



笠井重治(1886−1985)

笠井重治は戦前から日米友好に尽力してきた山梨県選出の衆議院議員であった。身延町の出身。戦前に旧制山梨中学からアメリカのシカゴ大学に進学し、ハーバード大学の行政大学院(今で言うケネディー・スクール)卒業後、日米開戦前の排日運動盛んな米国で日米友好親善の重要性についての講演を続け、一方で、反米感情高まる日本でも講演を行い、太平洋の平和:The Peace of The Pacificを熱心に説いて回った人物である。米国に多くの友人を持ち、Dr. Cosenza:コセンザもその一人であった。そしてこの「ハリス日記」の出版にも協力した。戦前の国会議員選挙に何度も出馬したが、大政翼賛会に属さなかったため落選して苦労している。戦後、衆議院議員に当選し、GHQのダグラス・マッカーサー元帥にも幾度も嘆願書や提案書を出し、日本統治のアドバイスや善政を引くよう要望し続けた。その時の縁で、のちの駐日アメリカ大使ダグラス・マッカーサー2世(マッカーサー元帥の甥)にこれまでの日米友好への努力が高く評価され、その功績が序文で言及されている。衆議院議員引退後は日米文化振興協会の会長を務めた。墓は多摩霊園にあり、彼の事績を記した石碑がある。ちなみにコセンザ教授の「ハリス日記」1930年の初版本は、この笠井重治の蔵書であった(蔵書印と蔵書ナンバーがある)。また、グリフィス博士の「ハリス伝」1885年も笠井重治氏の旧蔵書である(蔵書ナンバー付き)。彼は多くの日米関係史に関する蔵書を有していたようで、神保町の北澤書店が笠井氏の蔵書をまとめて引き取ったという。本書には(前述のように)グリフィス博士から笠井重治氏宛の自筆のハガキと、夫妻の写真を添付した謝礼のカードが添えられてされている。グリフィス博士、コセンザ教授との思いの詰まった貴重な書籍を不肖私が手に入れたというわけだ。大切に後世に繋いでゆかねばならない。


笠井重治肖像(Wikipediaより)

本書に挟まれていたグリフィス博士から笠井重治氏宛の葉書(昭和2年6月4日の消印)と、夫妻の写真、サイン入りのカード。



グリフィス夫妻の写真(晩年のものと思われる)


2024年1月21日日曜日

古書をめぐる旅(43)「ヒュースケン日本日記」:Henry Heusken Japan Journal 1855-1861

ヘンリー・ヒュースケンは、初代駐日アメリカ公使となったタウンゼント・ハリスの通訳、アシスタントとして雇用され、幕末、ペリー来航直後の日本、下田にハリスとともに赴任した。彼はアメリカ・ニューヨークに移住したオランダ人で、当時、日本で通じる唯一の西欧語であるオランダ語と、英語を解する通訳としてはうってつけであった。彼はフランス語とドイツ語も話せるマルチリンガルであった。日本に行ってからは日本語も驚くような速さで習得し、その語学能力の高さを示した。しかし、不幸にも江戸で攘夷派の浪士に襲撃され斬殺される。そう、その「ヒュースケン事件」の主役として知られている。その彼は、ニューヨーク出港から日本に到着して、アメリカ代表部の外交官として、日米修好通商条約締結など数々の重要の交渉に関わり、また下田や江戸での日常生活を経験した日々の記録を日記として残した。今回紹介するのはその「ヒュースケン日本日記」である。長らく原本の存在が不明で、ようやく戦後になって発見され、1964年に英語訳で出版された。ヒュースケンの没後、すでに100年が経過している。


「ヒュースケン日本日記」1964年英語版初版表紙
下田奉行所での会談模様図(ヒュースケンの直筆)


下田玉泉寺のアメリカ領事館とヒュースケンの自室
いずれもヒュースケンのペン画

岩波文庫「ヒュースケン日本日記」青木枝朗訳


1)「 Japan Journal 1855-1861 」by Henry Heusken 英語版

translated and edited by Jeannette C. van der Corput and Robert A. Willson, Rutgers University Press 1964

本書を和訳した書籍が岩波文庫から刊行されている。「ヒュースケン日本日記1855−1861」 青木枝朗訳 岩波文庫 1989年。原著に忠実に訳されており、英語版のロバート・ウィルソン教授の解説も和訳されている。原著の英文も現代語なので読みやすいが、この日本語訳と合わせ読むとより理解が深まる(末尾のの和訳引用文はこの岩波版から引用したもの)。

日米交渉史の立役者となったタウンゼント・ハリスについては、その日記、「The Complete Journal of Townsent Harris」1930年のほかに、いくつかの伝記、研究書が刊行されている。この「ハリス日記完全版」を編纂し刊行したニューヨーク市立大学のマリオ・コセンザ教授は、ハリスの日記は1858年6月9日で途切れており、この直後の日米修好通商条約の締結や、開港問題、攘夷派のテロ、江戸に移ってからの幕府や各国との交渉という、幕末日本の重要なイベントの記録が逸失している。そうしたことから、ヒュースケンの日記が新たに発見されれば日米交渉史の重要な資料となるだろう、と書いている(1930年当時)。ヒュースケンの日記はその存在は確認されていたものの、近年までオリジナルの草稿が発見されていなかったからである。フランス語の草稿の一部がドイツ語訳でドイツ東アジア協会紀要(1886年)に掲載されているが、断片的な引用の研究論文であり、日記の全容がわかるものではなかった。

その後、長く彼の日記の存在が忘れられていたが、1951年になってヒュースケン自筆のフランス語草稿(ヒュースケンはフランス語でも日記を書いていた)がオランダで発見され、アメリカUCLA図書館が買取り、同大学日本史教授Robert A. Wilsonにより英訳刊行が進められた。一方、同時期にオランダで、検事で小説家のJeannette C. van der Corput女史によってオランダ語の草稿が発見され、アメリカのWilson教授と連携し、両者が共同翻訳/編纂するという研究活動の一本化が実現した。こうして1964年に英訳版としてほぼ完全なヒュースケン日記が復元され刊行されるに至った。それがここで紹介する本書である。実にヒュースケンの没後100年余が経過している。

コセンザ教授が収集、編纂したハリス日記は、1930年に初版が出版されている。ハリスはほぼ完全な日記をつけていたことと、アメリカを代表する公人の立場を意識した記録であるので、その日記は公文書ではないが、歴史研究の一級資料としての価値が高いとされ、たびたび幕末史、日米交流史の研究者に引用されてきた。一方、ヒュースケン日記の方は、個人的な感情や観察模様を書き記すという体裁で、時々、詩の形で表現されるなど、私的な記録の性格が強い。もちろん公務に関する臨場感あふれる貴重な記録、考察が顕著にみられ、ハリス日記を補完する資料として評価されている。また、熱心な聖公会クリスチャンで、厳格な性格のハリスに対し、年も28歳若く、自由で闊達で好奇心旺盛な20代の若者であったヒュースケンは、その人柄が愛され多くの友人を持っていた。仕事でも、通訳としてだけでなく、他国に先駆けて日本に赴任した外交官としての経験、人脈を有していたことから、他国外交団からも高い評価を得ていた。ハリスと異なる視点からの記録としても興味深い。個人的には「西欧の若者が見聞した幕末ニッポン」という風に読むと面白いと感じた。日本へ向かう途中の南回り航路上で寄港した街で、かつての栄光のオランダ海洋帝国の遺構を見て涙するところ、江戸へ向かう途中で見た富士山の孤高の山容に感動したり、下田での役人の外国人に対する扱い、それを強制される住民の姿など、大いなる皮肉とユーモアで記述している所など、その卓越した表現に思わず笑ってしまった(下記に引用)。また、これまで平和に暮らしてきた日本の未来が、これを機に大きく変わり、そのことが引き起こすであろう課題を指摘し、行く末を心配しているところなど(これも下記に引用)、少々センチメンタルな表現ではあるが、後の歴史を知る者としては、その指摘の先見性、人間への愛情と感性の豊かさを感じる。

先述の通り、ハリスの日記は1858年6月9日以降が見えないが、その空白を埋めるであろうと期待されたヒュースケンの日記も、ほぼ軌を一にして1858年6月8日で中断。2年半後の1861年1月1日再開、同月8日で終了している。この一週間後に攘夷派浪士に斬殺されている。

日記が途絶えたこの時期は、ハリスにとってもヒュースケンにとっても、最も重要な出来事が目白押しであった時期であったはずである、特にハリスは、アメリカ側全権代表として、幕府との度重なる条約締結交渉、開港場の選定交渉、領事裁判権、関税決定権、自国人の行動の自由と安全確保など、重要なアジェンダが山積し、最も緊張感漂う時間であった。その苦心の末の日米修好通商条約締結(1858年6月19日)。その批准(1860年)、アメリカ公使館の江戸移転(1859年)の時期の記述がない。もちろんこの間にやりとりがあった公式文書や書簡などは残っているが、彼自身の心情を綴った手記が見つかっていないのだ。ハリスにとって、世界に先駆けて日本との外交関係に主導的役割を果すという、「歴史の画期」とも言える事績を記録として残しておく格好の機会であるのに、それに無頓着であったとは思えない。コセンザ教授は、ハリスは、完全な日記をつけていたが、彼の没後に、その原本が散逸してしまったのではないかと推測している。ハリスは、この条約締結交渉中に体調を崩し、極めて重篤になり、一時は生死を彷徨うこととなった(このため1858年2月27日を最後に、日記が中断する)。幸い一命を取り留めて江戸に復帰。最後には帰国することができたが、このことも影響しているのかもしれない。一方のヒュースケンの方は、英訳者のウィルソン教授の見解によると、そもそもこの時期、記録をやめていた可能性があるとする。その理由は不明である。条約締結交渉に忙殺される時期であったことは確かだ。いずれにせよ、残念ながらハリスの記録の空白を埋めるようなヒュースケンの記述は見つからなかった。日米交流史を文献史学的視点からは、散逸したと思われるハリスの残りの日記が発見されることを期待するしかないのだろう。

それにしても、ハリスにしてもヒュースケンにしても、職業外交官でも、名高い家柄や名門大学出身という背景もない、武功を立てた将軍でもない。どちらかというと庶民の出で、畑違いの民間人であることが面白い。その彼らが乗ってきた母国の軍艦は、彼らを異国の港に降ろすと、後も振り返りもせず「任務完了!」と出港してゆく。見知らぬ異国、異教徒の世界に単身放り込まれ、「ヘンなガイジン」の到来に表向きは慇懃に歓迎されるが、その実は厄介者扱いされる。それでも国益に関わる重要ミッションを完遂しなければならない。あとは孤軍奮闘、着任から一年以上もワシントンからの音信もなく、言葉が通じない(言語という意味以上に)未知の人々の訳のわからない理屈、システム、習俗に対抗して、自国の利益を主張し、必ず成果を勝ち取る。その私人の精神力、知力、胆力と突破力、そしてミッションの対する責任感には、ただただ敬意を表するしかない。この頃のアメリカという新興国の猛烈なエネルギーを感じる。しかしハリスが最後は体調を壊して帰国せざるを得なかった事情もよくわかる。誠にご苦労様と心から労いたい。また多くの人に愛され、日本での貴重な経験をバネに、前途洋々たる将来を期待された若者、ヒュースケンが無惨にも攘夷浪人に殺され、異国の地にその短い生涯を終え。異教の寺院の一角に眠っていることも誠に心が痛い。同年に起きた東禅寺事件で、重傷を負い帰国を余儀なくされたイギリス公使館の一等書記官、ローレンス・オリファントと同様、将来、日米、日英関係に重要な役割を果たしたであろう知日派の若者を、こうした攘夷浪人の狼藉で失ったことは痛恨事である。「人間至る所青山あり」。「彷徨えるオランダ人:Flying Dutchman」よ、願わくばその魂の安らかならんことを。

さらに関心ある方は、過去ログをご参照あれ。

2020年10月7日 伊豆下田の玉泉寺 最初の米国領事館

2021年4月14日 古書をめぐる旅(10)タウンゼント・ハリス日本日記 下田玉泉寺から江戸麻布善福寺へ


ヒュースケン乗馬図と考えられている(高麗環雑記より)
高麗環(こまたまき)は外国奉行と幕閣との間を取り次ぐ役人であった



2)ヘンリー・ヒュースケン:Henry Heusken(1832〜1861)略歴および関連年表

1832年オランダ・アムステルダム生まれ。

父が早逝したため学校を中退して父親の商売を継ぐ。

1853年 21歳の時のアメリカ・ニューヨークに移住 さまざまな職業を転々とする

1855年10月25日 初代駐日アメリカ総領事に任じられたタウンゼント・ハリスの英語/オランダ語通訳、アシスタントとして採用され、ニューヨークを米軍艦セント・ジャシント号で出発。

1856年8月21日(安政3年)下田入港 柿崎の玉泉寺にアメリカ領事館開設 ペリー来航「日米和親条約締結)から2年後。

1857年12月7日(安政4年) 江戸参府 将軍家定に謁見 大統領親書を渡す

1858年6月19日(安政5年) 日米修好通商条約締結(神奈川沖の米艦ポーハタン号船上で)

続いて各国も条約調印(安政5カ国条約)各国の通訳として活躍

1859年(安政6年)4月27日 ハリスは病気治療と休養のため、長崎から上海へ ヒュースケンが同行していたかは不明 下田にいた可能性

1859年(安政6年)5月27日 江戸・麻布善福寺にアメリカ総領事館開設(1875年(明治8年)12月18日まで米国公使館として使用)

1859年7月4日 ハリス/ヒュースケン不和の手紙?

1859年(安政6年)7月8日 ヒュースケン江戸に復帰 ハリス、ヒュースケンの功績に対し、報酬を引き上げるよう本国国務省に交渉。1860年1月1日報酬引上げ

1860年(安政7年)3月24日 大老井伊直弼暗殺(桜田門外の変)

1860年(安政7年)にはポーハタン号、咸臨丸(勝海舟)が批准書を持って米国ワシントンへ

1861年(万延元年)1月1日、プロシアの駐日代表オイレンブルグ伯爵に協力して日本と条約交渉開始

1861年(万延元年)1月15日 江戸・芝赤羽古川端で攘夷派浪士に斬殺される(享年28歳)


3)「ヒュースケン事件」とは

1861年1月15日夜、ヒュースケンはプロシア公使館(幕府の赤羽接遇所にあった)訪問の帰りに芝赤羽、古川橋付近で、攘夷派浪士と思われる数名に襲撃され瀕死の重傷を負う。直ちに善福寺のアメリカ領事館に運び込まれ治療を受けるが、翌未明に絶命。当時は護衛の騎馬侍3名、従卒、馬丁など7人がヒュースケンに付き添っていた。

襲った浪人は、その場から逃亡し、犯人の素性、襲撃の背景も不明である。したがって裁判も行われていない。薩摩攘夷派の浪士組の仕業であるとか、幕臣の遺恨だとか、後世に色々言われているが、どれも明確な根拠がなく断定はできない。横浜開港の当時頻発していた攘夷派浪士による一連の外国人(外国人に付き従う日本人も含む)襲撃事件の一つであり(外国人としては彼は7人目の犠牲者)、特にヒュースケン個人を狙ったり、怨恨や暗殺の意図があったものではないだろうと考えられている(本書のウィルソン教授もこの立場をとる)。

ヒュースケンの葬儀は、18日に執り行われ、幕府からも新見豊前守、村垣淡路守、小栗豊後守など外国奉行5名が参列し、各国公使、外交団の参列もあり壮大なものであった。軍楽隊の演奏に先導されて、星条旗に包まれた遺体をオランダ水兵が護衛するというもの。遺体は麻布光林寺に埋葬(土葬)され、現在もそこに墓がある(ちなみにアメリカ公使館のあった善福寺は土葬を許さないということであったようだ)。この事件で、幕府はオランダ在住の母親に弔慰金一万ドルを贈っている。

さらに同年5月28日には、イギリス公使館の駐日公使オルコックを狙った襲撃事件が起こり(第一次東禅寺事件)、オルコックは難を逃れたものの、一等書記官のローレンス・オリファントと長崎領事モリソンが重傷を負う事件が発生(2020年10月1日「江戸高輪東禅寺 イギリス公使館跡探訪)。これらの一連の攘夷派による外国人襲撃事件の衝撃は大きく、各国外交団は、幕府に厳重に抗議するとともに、江戸の公使館を撤収し、横浜居留地に移転する。また外交団と居留民保護のために各国軍艦の横浜駐留、各国警備部隊の増強を幕府に認めさせることとなり、幕府にとっては清国における情勢と同様の緊張関係が高まった。ただ、ハリスは幕府との軋轢を避けるために公使館移転には反対。移転派のイギリス公使オルコックと対立し江戸に留まった。

この時期のハリスの幕府と各国との間を調整する役割は重要である。各国に先駆けて、日本を開国させ、通商条約を締結をしたアメリカの全権代表として自信とプライドと共に、それなりの日本への責任があると考えていた。特にイギリスの、清国における武力を持って不当な条約を結ばせ、植民地化への第一歩である租借地を認めさせ、アヘン貿易で国を麻痺させるやり方を、歴史に汚点を残す非文明的行為と非難している。日本との条約交渉では、不平等条約を結ばせたという事実は否定できないが、ハリスが示した条約条件は、清国においてアヘン戦争やアロー号事件後にイギリスが示した条件とは大きく異なる。このハリスが締結した日米修好通商条約が、イギリスを含む各国との条約(安政五カ国条約ほか)の雛形になったことは記憶すべきである。このことを幕府外交官僚たちも理解していた。また、外国人を狙った攘夷派のテロの多発に対しても、ハリスは断じて容認はしないが、その一因に、江戸、横浜に一気に増えた外国人の数、特に中国から渡ってきた欧米人の、上海、香港租界さながらの傍若無人な振る舞いがあったことも認めている。さらに、「違勅問題」が幕府の統治権威を大いに棄損し、かつ横浜開港以来、矢継ぎ早の開市、開港圧力が、社会にも大きな不安を与えていること。これが攘夷派テロに口実を与えていること。故に幕府も苦慮していることを理解し、強引かつ拙速な開市、開港交渉を控える動きを示した。ハリスは幕府にとって、ある意味で良き外交アドバイザーであり、守護者でもあった。もちろんこれは幕府への好意だけではなく、ヨーロッパ列強諸国に対抗する独立後80年しか経っていないアメリカの権益擁護の観点からの対応であったが、ヒュースケンが殺害されたこと、ハリスが体調を壊して帰国してしまったことの、幕府と、その後の日本に与えた影響は小さくない。


ヒュースケン襲撃の図

ヒュースケンの遺体の写真と言われている(出典は不明)
彼の生前の写真は見つかっていないので、これが彼の唯一の写真ということになる


ヒュースケン葬列の図(「プロシア日本遠征記」より)

麻布・光林寺のヒュースケンの墓(現存)


ヒュースケンは日本滞在中、下田と江戸に何人かの日本人女性がいたと言われている。その一人が江戸・麻布の芸妓「つる」さん。ヒュースケンの死に水をとったと言われる。抱いているのはヒュースケンの子供か。だとすれば、この二人の消息は、子孫はどうなったのか。(この写真の出典はオランダ海事博物館所蔵のアルバムだと言われる。「Mrs. Heusken」とあるそうだ)。しかし、幕府、公使館の記録には出てこないし、幕府から弔慰金がオランダの母親に支払われたが、妻と子の存在に言及する記述はないようだ。ヒュースケンの日記にも彼の個人生活に関する記述はなく、妻子についての言及もない。

つると息子

ヒュースケンのデスマスクから描き起こした肖像と言われている。

(注)これらの写真や解説には、出典や根拠の確かでないものもあり、さらなる検証が必要。ネット上の検索で引っかかったものを、参考として紹介するにとどめる。


参考:ヒュースケン日記の中から興味深い記述を引用(岩波文庫版 青木枝朗訳より)

① 下田の街を自由に歩けないことについて 1857年2月25日

「役人の付き添いなしに一歩も領事館の外へ出かけることができなかった。(中略)奉行所に抗議すると、それはあなた方を民衆から守る為だという。可哀想なのは日本の民衆である。我々がそれほど恐ろしい存在だと仕向けられている。(中略)下田の住民は我々と話をしないよう厳重に命令されており、我々が街に出かけるときには、住民は戸も窓も締め切ってしまう。特に婦人は我々が近づくと、まるで人類の敵に出会ったように大急ぎで走り去る。(中略)たまたま大胆に近づいてくる女性があるとすれば、それはシワだらけの八十婆さんで、目が悪いので「異国の鬼」と「自国の人間」との見分けがつかないのである。日本では普通大人しい牛馬までが、我々に出会うと目が覚めたように元気になり、後ろ脚で立ったり、跳ねたり、重い荷物を積んでいるのに全速力で駆け出したりする始末である。犬などは、月に向かって吠えるだけの動物のはずなのに、何をどう間違えたか、我々を見るとひどく騒ぎ立て、町中が犬の大合唱になり、我々の後を追いかけて街外れまで来ると、そこで郊外の犬に吠える権利を譲渡するのである。猫だけは外国人に過酷な日本の法律には従わず、無頓着に我々を見つめている。この冷淡な動物だけが、我々の最上の接待役であるというに至っては、我々も随分落ちぶれたものである」


② 江戸城に将軍に謁見した時の感想 1857年12月7日

「日本の宮廷は、確かに人目を引くほどの豪奢さはない。廷臣は大勢いたが、ダイアモンドが光って見えるようなことはなかった。(中略)シャムの宮廷の貴族は、その未開さを泥臭い贅沢で隠そうとして金や宝石で飾り立てていた。しかし、江戸の宮廷の簡素なこと、気品と威厳を備えた廷臣たちの態度、名だたる宮廷に栄光を添える洗練された作法、そういったものはインド諸国のすべてのダイアモンドよりもはるかに眩い光を放っていた」


③ 大統領の親書が将軍に手渡された瞬間の感想 1857年12月7日

「これが、この帝国から一切の異国的なもの、すなわちキリスト教的なものを放逐した君主(家康)の子孫(家定)の面前で行われたのである。(中略)しかし、新参の宗教に加えられた過去の残虐行為を理由として日本人を責めることはやめよう。(中略)我々の歴史を振り返ってみても、異端審問の火は容易に消えなかったし、(中略)優れた文明を誇り、「キリストのしもべ」と自称する我々ヨーロッパ人も、信仰を異にするからといってお互いに殺し合うことをやめず、そうしたすべての残虐行為や火炙りや絞首刑が、愛と恵みの主(愛と慈しみだけを教えたにも関わらず)に仕える為に必要だと公言するほど狂信的であったのだから」


④ 鎖国を終わらせて日本が世界の国々の仲間入りをした瞬間に立ち合った時の感想

「しかしながら、今や私が愛しさを覚え始めて居る国よ、この進歩は本当に進歩なのか?この文明は本当にお前のための文明なのか?この国の人々の質朴な習俗とともに、その飾り気のなさを私は称賛する。この国土の豊かさを見、至る所に満ちている子供の愉しい笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見出すことができなかった私には、「おお、神よ!」この幸福な情景が今や終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をこの国に持ち込もうとして居るように思われてならないのである」

2024年1月11日木曜日

新たな「日英同盟」の時代へ? 〜日本とイギリスの共通点と相違点〜



「日英同盟の復活」がちょっとした話題になっている。去年の一月に日本とイギリスとの間で、日英防衛協力、次期戦闘機の共同開発などを盛り込んだ二国間協定が締結された。いわば新しい日英同盟だと言われている。イギリスはEU離脱で、「グローバル・ブリテン」をスローガンに、ヨーロッパよりも、経済発展著しいアジア(かつて植民地を持ち、宗主国として影響力を行使していた国々)にフォーカスを当て、インド、オーストラリア、ニュージーランド、カナダなど旧大英帝国構成国との連携を目指してしている。さらに日本をアライアンスパートナーに選び、ロシアの軍事的脅威、中国の海洋進出、台湾有事など、武力による現状変更の試みに対抗しよう。自由で開かれたインド太平洋地域の保証、専制的な独裁体制に対し、民主主義、法の支配、自由主義といった価値観を共有する国同士の連携をしようという戦略だ。一国二制度が反故にされ、香港の民主主義が危機的事態に陥っていることも影響している。一方でこれはアメリカの影響力の退潮の補完であるとも言える。広大なユーラシア大陸の東西両端に位置する島国同士が、再び新たなアライアンスを組む。「イギリスはヨーロッパの国ではないのか。なぜアジアに?」という疑問をよそに、欧亜の新たな枠組みを企図するイギリス。その意図と歴史的背景は何なのか。5年前に書いたブログも参照願いたい。2019年3月28日「イギリスはヨーロッパなのか?」

明治の日英同盟(1902年締結)の背景には、大英帝国にとっても、アジアの新興国日本にとっても、共通する仮想敵国ロシアの存在があった。ロシアは、黒海に軍港を確保しようとクリミア戦争を起こしたり、アジア太平洋に不凍港や鉄道を求め、満洲・朝鮮権益を獲得しようとしたり、いわゆる「南下政策」に躍起になっていた。この動きに対抗するために、それをユーラシア東西同盟で挟み撃ちにしようというわけだ。海洋国家イギリスには、伝統的にアジアへ進出する際の障壁としてヨーロッパの大陸国家の存在があった、それはかつての新興国イングランドにとってはイスパニア/ポルトガルでありフランスであり、近代の大英帝国においてはロシア、フランス、ドイツであった。一方の、開国まもない新興国家、日本にとって安全保障上の脅威、「一等国への道」に立ちはだかる脅威は、朝鮮、満洲を狙うロシアであった。日本はイギリス、アメリカを味方につける戦略をとり、それが功を奏して日露戦争に勝利できたわけだ。その後、日本は列強諸国に肩を並べてアジア植民地獲得競争に参入し、ついに日英は対立し戦争までしたのだが、今日的には、両国はそのロシアに加えて、中国を脅威と捉え、再び同盟を組もうというわけだ。ユーラシア大陸の内陸国家に対抗する、海洋国家のアライアンス。その戦略の妥当性、効果の議論は別にして、「脱亜入欧」の日本、「脱欧入亜」のイギリス。 このユーラシア大陸の東西両端に位置する島嶼国の動きにはどのような歴史的、地政学的な背景があるのだろう? 再び光が当たり始めた日英の関係強化の動きを機に考察してみた。



「日英同盟」1902年


シンガポール陥落 1941年

新たな「日英同盟」2023年1月


日英両国は、言うまでもないことだが、ヨーロッパとアジアという地理的に異なる位置にあり、異なる歴史を歩んできた。しかし、地球儀を俯瞰的に眺めてみると、両国にはユーラシア大陸の周辺部の島嶼国であるという地理的な立ち位置と、その条件に規定された地政学上の環境、歴史に共通する点がいくつかあることに気づくだろう。「地政学上の近似性」、「歴史の同期性」とでも言うものかもしれない。もちろん多くの相違点もあるが、その歴史を比較研究すると、いろいろ日本にとって示唆に富むヒントが見えてくる。


両国の成り立ちの歴史の共通点は

一言で言えば、大陸の先進文明、大陸の強大な帝国の影響下にあった辺境の島国が、王権を確立し国の形を作り、その文明、文化の影響下にあり、それを長きにわたって受容しながらも、強大な帝国の政治的、経済的、文化的なプレッシャーから離脱して独自の帝国を築いてゆく、という歴史ストーリーを共有している。

すなわち、日本は中国文明圏の国であり、現代に至るまで、文字として漢字を用い、儒教的道徳観を持ち、日常生活のあらゆる面で中国文明の影響を受けた国である。倭国時代には歴代中国王朝に朝貢し冊封を受けて王としての統治権威を保証された国(クニ)であった。しかし、やがて歴代中国王朝中心の華夷思想、朝貢冊封体制から離脱し、日本独自の「天下」を目指す歴史を歩むことになる。さらに時代が下ると、長い鎖国を解き、開国以後は、中国文明圏である東アジアにありながら西欧文明をいち早く取り入れ、「脱亜入欧」をスローガンに西欧流の近代化を果たし、欧米列強諸国の一角に立つことを目指していった。そして日本は、そうすることで、歴史的な敗戦で荒廃しながらも、戦後は、世界第2位の経済大国に成長した。

一方のイギリスは、ヨーロッパ文明のルーツである、ギリシアやローマ文明圏の国である。言語もラテン語を基礎とし、ローマ字を今でも用い、キリスト教を受け入れる国である。かつてはローマ帝国の支配下に属州としてその身を置いた歴史を有す。他のヨーロッパ諸国がそうであるように、ローマ帝国の文明を継承している西ヨーロッパの国なのである。しかし、イングランドは長くローマ・カトリックというキリスト教圏にありながら、16世紀にはローマ・カトリックから離脱、ローマ帝国のレガシーを引き継ぐフランス、スペインなどのヨーロッパ大陸諸国とは袂を分かち、その脅威、圧迫から脱し、新興海洋国家として世界に羽ばたいていった。やがてイギリスは古代ローマ帝国をも凌ぐ、七つの海にまたがる大英帝国を築いた。戦後は多くの植民地を失い、ヨーロッパの一員に回帰してEUに加盟したが、大きな議論の末にEUを離脱し、再び「グローバル・ブリテン」を目指し動き始めた。この動きを不思議に思う人が多いが、イギリスは、EUにとどまることによる今日的なデメリットを感じる人々が多くなっていることだけでなく、我々が考える以上に、ヨーロッパ離れメンタリティーがその底流にあることに気づかされる。


両国の歴史の相違点は

とはいえ同じ島国でも、地理的、地政学的な立ち位置の微妙な違いにより、異なった国家/王朝の成立史を持っている。最も顕著な違いは「外からの征服者の存在の有無」である。

すなわち、同じ島国でも日本列島は大陸から比較的に離れていて孤立していたこと。ブリテン島のように簡単に渡れない島であった。逆に言えば、大陸の王朝や異民族からの侵攻、征服を受けにくかったと言える。大陸から列島への渡来人は、征服者ではなく亡命者、難民であった。縄文文化が1万年以上も続いたのも、この世界から「適度に」孤立した地理的環境のためであると考えられている。そのため、歴代中国王朝の帝国と地続きの周辺国(朝鮮半島、ベトナム、北方異民族の匈奴、モンゴル、女真族/満州族、西方異民族の突厥、ウイグル、チベットなど)は、中華思想/華夷思想(北狄南蛮東夷西戎)に基づく「朝貢冊封体制」に組み入れられたか、それをめぐっての長い攻防があり、時には異民族による王権簒奪、王朝交代すら起きた(万里の長城に象徴される)。しかし海を隔てた日本は、倭の時代をのぞけば、その華夷思想による東アジア的秩序の外にいた。逆に、歴代中国王朝は、基本的に大陸国家であり、周辺諸民族も中国王朝との攻防には関心が高かったが、東夷の海中にある日本列島に関心が薄かった。結果的に、日本は外敵の侵攻を恐れることもなく(元寇などいくつかの事件を除き)、列島内の、いわば同族同士の支配権力闘争に明け暮れた。支配王朝が外敵、征服者の侵攻を受けて打倒される歴史がない(中国王朝、イングランド王朝などのように)ため、「天孫族の子孫」である「万世一系の天皇」が支配する国という思想が生み出され、それが王権の歴史であるとされた(記紀の記述)。即ち中国における伝統的な「易姓革命」による王権交代という思想は取り除かれた。そこから「統治権威」と「統治権力」の二元統治制が生まれ、「統治権力」を天皇、貴族、武家が争い、奪い合っても、天皇の「統治権威」は不変とされた。対外的な脅威に対しては「鎖国」でこの秩序を守った。日本が外敵の侵攻を受け、外国の軍隊に占領されるという未曾有の大惨事にあっても、「国体護持」だけは守った。均質性と内向き、内部ロジックによる物事の決定、という伝統的思考方法が底流に厳然と貫かれた。

一方のイギリスは、ブリテン島が地理的に大陸に近く、早くから絶えずローマ帝国、アングロ・サクソン、デーン、ノルマンなどの異民族の侵攻、征服を受け続けた。ローマ帝国の属州となったのも、ヨーロッパ大陸に近い島という地理的な位置によるもの。11世紀のノルマンの征服で、ようやく異民族の侵攻に終止符を打つことができたのだが、このウィリアム1世のノルマン朝は、大陸から侵攻してきた征服王朝である。これ以降の、10王朝、41代続く英国王室の国王/女王の始祖である。一方、それ以降も絶えず大陸諸国、特にフランス、スペインの絶対王権との王位継承や領土、宗教をめぐる抗争に巻き込まれ続ける。大陸に領地を持つ王、それを抗争で失う王、ローマ法王に破門される王などがいて、封建貴族から王権が制約される(マグナカルタ)。100年戦争やばら戦争により封建領主が没落してゆくが、王権が大陸諸国に比べて弱く、身分制議会である議会制度が生まれ、力を持つこととなる。絶対王政が確立したのはヘンリー8世〜エリザベス1世の時代。英国国教会を建ててローマ・カトリックから離脱してゆく。しかしその後も議会勢力と非カトリック勢力が強く、イギリス革命により絶対君主制から議会を中心とした立憲君主制へと移行していった。英国国教会(非カトリック)+東インド会社(重商主義政策)という両輪で、ローマ帝国、ローマ・カトリックのレガシーを受け継ぐ大陸国家、絶対王権のフランスやスペインに対抗する歴史を歩む。国外情勢の変化が自国の存亡に直結するという歴史は、物事の決定は、身内の内部ロジックだけではなく、多様性を前提とした、外部環境の情報を収集、分析し、戦略的にという伝統を培った。


考察

日本にとっての中国文明、歴代中国王朝。イギリスのとってのローマ/ラテン文明、ローマ帝国/ローマ・カトリック。その受容と、そのくびきからの離脱。この緊張感が国家の成長と発展の大きな原動力になっていた点は共通すると言える。いわば、既存の、古いパラダイムから脱して、新しいパラダイムを開いていった。こうした地政学上の共通点で、ユーラシア大陸の東西両端の島国は、同じような道を歩んだと言って良いだろう。いわば、のちの時代にあっては、日本の「脱亜入欧」、イギリスの「脱欧入亜」という共通するモーメントにつながるのである。しかし、こうした動きへ突き動かす要素は何なのだろう。

まず、両国とも古代文明発祥の中心ではなく辺境であったこと。大陸から離れた島嶼国として先進文明を受容し変容させていった歴史を持つこと。その先進文明と強大な帝国の影響を受けつつも、その支配下に置かれるという桎梏と圧迫から脱しようとするモチベーションが常にあったこと。島国であり、広大な領土を有する大陸国家ではなかったことから、国力/経済力発展の源泉を海外に求めざるを得なかったこと。土地と資源のない貧しい国として、貿易拡大、科学技術の発展、産業革命と海外植民地拡大により国力をつけていったこと。日本は鎖国でイギリスに遅れること200余年で、そのムーヴメントにキャチアップして行こうとしたので時差があるが、こうした要素が根底にあるのではないか。

ただ既述のように、国家/王朝の成立事情には違いがある。イギリスは、大陸からの征服者の侵入が繰り返され、9世紀にアングロサクソンの統一王国、11世紀になって、フランスからやってきたノルマン王朝成立で、ようやくイングランド王国の基礎が固まった。しかし、以降も、周辺国との緊張関係と、生き残りへの危機感は、それに対応する対外戦略(外交と、最後は戦争という)を持つ必要に迫られた。日本は、5世紀頃、倭国に初期ヤマト王権が、7世紀に天皇制、律令制国家として日本(ひのもと)が成立した。王権の成立という点では日本が早かったといえよう。これは、外敵の侵入による征服、王権の簒奪がなかったことによると考えられる。17世紀の西欧勢力/キリスト教の来航に際しては「鎖国」で国を守った。いや「鎖国」しても誰も攻めて来ない幸運な外部環境だったとも言える。いずれにせよ、その結果、封建領主制度が19世紀半ばまで続き、19世紀の欧米列強の来航をきっかけについに開国し、封建制が崩壊した。「王政復古」(絶対王政から立憲君主制へ)という近代化革命を断行して危機を乗り切ろうとした。こうした歴史が、イギリスと異なり日本という国が、内政中心で対外戦争や外交に弱い原因の一つになっているとも思慮する。

21世紀の超大国は、ややピークが過ぎたアメリカと、中国そしてインド。いずれも大陸国家である。しかも海外進出に積極的に挑む大陸国家である。しばらくは三つ巴の覇権争いになるであろう。中国とインドは、長らく「古い文明の象徴」、「西欧列強の植民地」、「近代化に出遅れた新興国」という地位に甘んじてきたが、急速に経済成長し、人口も10億を超える大国である。それとともに軍事大国化も急であり、それが周辺国の脅威となっている。日本やイギリスのような大陸周辺に位置する島国が、経済大国に発展し繁栄した歴史は過去のものなのか? 過去の先進文明、巨大帝国からのサバイバル経験は生きるのか? 特に日本は、これまでのように、海で隔絶された島国、海洋進出に関心の薄い大陸国家が隣人、という「利点」をもはや享受できるわけではない。人、物、金、情報が自由に行き来するフラット化したボーダレスな空間の中で、強力な競争相手とやり合ってゆかねばならない。絶えず異質で多様な価値観に晒され、これを受容し、あるいは戦ってゆかねばならない。いわば「海に隔てられた囲まれ感」のない世界を生きてゆくことになる。また「追いつけ、追い越せ」で必死に走ってきたが、気がつくと「追いつかれ、追い越され」てしまった時の、次のゲーム・プランへのシフトができないまま30年思考停止している。同じ島国として栄枯盛衰を経験してきた、強かなイギリスは、日本がバブルで浮かれていた時には、「英国病」だ「「老大国」だ揶揄されて、ああなってはならない、の見本のように言われていた。日本人はイギリスに対して傲慢に見下していた時期すらある。しかしその後のイギリスの復活のプロセスへの評価と、それへの学びの姿勢は日本にはない。イギリスはその世界に冠たる繁栄の時代が200年続いた。日本の経済大国「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代はせいぜい30年。歴史に対する俯瞰的な視点と、未来を予測する想像力(下記、17世紀のウォルター・ローリーの論考を参照)を涵養する間もなく停頓の時代に突入してしまった。今こそ、イギリスの世界観、歴史観と、サバイバル戦略、外交戦略の歴史から学ぶことは多いだろう。戦後、アメリカばかり見てきた視点を少し変える必要がある。


参考(1): サー・ウォルター・ローリー「エッセイ集」「戦争論」1650年より引用

「ブリテンがローマ帝国に勝利して以降、聖職者は全てイングランド国王に臣従してきたし、ローマ法王が、イングランドにおいて、内政問題であれ、聖職者の活動であれ、いかなる法的な権力を有したことは一度もない」(翻訳引用)

海を制するものは交易を制す。交易を制するものは世界の富を制す。すなわち世界を制す」。17世紀のエリザベス1世の寵臣にして、冒険的航海者、歴史家、著作家であるウォルター・ローリーの言葉である。彼はの論考集の中で、反ローマ・カトリック、反スペインの姿勢を明確に論述し、やむを得ない戦争(大義ある戦争)と侵略を目的とした戦争(大義なき戦争)とを区別した戦争論を展開している。ローマ・カトリックをいわば「古いヨーロッパの(ローマ帝国のレガシー、系譜に連なる)価値観と思想の代表」と捉え、イングランドがやがて古い秩序と価値観を打ち破り、「古代ローマ帝国に代わる世界帝国としての繁栄と栄光を獲得する」という未来を予言する論説となっている。そのためにはスペインやフランスとの融和ではなく「大義ある戦争」に備えなければならない、と。このイングランドの未来を予見し、方向を指し示したこの論文が17世紀の初頭に発表されていることに注目したい。

2022年9月12日「古書をめぐる旅(25)サー・ウォルター・ローリー エッセイ集」



参考(2):日英両国の成り立ち(古代〜近世)

日本

大陸からの中国文明の流入

古代中国王朝にとっては「東夷」の海中の「倭」

原住民 原日本列島人(縄文人)

紀元前10世紀〜 弥生時代の始まり 大陸から稲作と青銅器、鉄器の流入 縄文時代から弥生時代への転換 大陸からの渡来人と原日本人(縄文人)との混血

1世紀〜3世紀 中国王朝の朝貢/冊封体制のもとで「倭」国を統治 中華文明の影響下に。

57年  倭奴国王 後漢の光武帝に朝貢、冊封

107年 倭国王帥升等 後漢に朝貢、冊封

239年 倭邪馬台国女王卑弥呼 魏の明帝に朝貢、冊封

266年 倭邪馬台国女王壹与 晋に朝貢、冊封 以降、147年中国への朝貢の記録なし

413年〜502年 倭の五王 中国王朝に遣使、朝貢 朝鮮半島支配権の冊封を乞う

3世紀〜6世紀(古墳時代) 大陸は、漢王朝の滅亡、三国分裂、五胡十六国時代へ 統一王朝がない混乱の時代 大量の渡来人が来島(難民、亡命漢人) 倭国は、初期ヤマト王権の成立 中国の朝貢冊封体制から徐々に離脱 朝鮮半島との関係が強まる

369年 朝鮮半島三国の対立 百済の要請で朝鮮半島へ出兵

391年 百済、新羅を破る(好太王碑文)

404年 高句麗と戦闘 倭軍撤退

538年/552年 百済の聖王より仏教伝来

589年 中国に統一王朝「隋」の誕生、

618年 これを引き継ぐ「唐」の成立と繁栄の時代へ

607年、614年 遣隋使(朝貢使とは異なる扱い)

630年 遣唐使開始(朝貢使とは異なる扱い)9世紀初頭まで続く

645年 「乙巳の変」 大王権力の集中との強化に向けた大化の改新の始まり

663年 朝鮮半島利権をめぐって出兵 「白村江の戦い」で、唐・新羅連合軍に敗北 朝鮮半島からの撤退 列島への侵攻の危機

これを機に、倭国の国家体制、軍事体制の建て直し 中国王朝の制度を取り入れて「近代化」=「大宝維新」、天皇制、律令制 公地公民制、仏教による鎮護国家思想、正史の編纂よる独立国家アイデンティティー、中国王朝の朝貢冊封体制からの離脱完成 倭国から日本(ひのもと)へ

平安時代 貴族中心の摂関政治 律令制の変容 遣唐使がなくなり国風文化 一種の内向き志向の原型

鎌倉時代 武家政権誕生 元寇があり、初めて日本列島に外国勢力が侵攻してきた

室町時代 武家政権 海外進出を企図する 勘合貿易 しかし幕府の統治権力弱体化/群雄割拠の戦国時代へ キリスト教伝来 西欧文明とのファースト・エンカウンターの時代

江戸時代 武家政権の安定期 戦国内乱の時代の終息を経て、大航海時代に海外進出、海外との交易拡大を企図するも、キリスト教受容を拒否し鎖国 200年余り内向き志向

1854〜1867年の開国、明治維新 封建領主制(幕藩体制)の解体 武家支配の打倒「王政復古」 西欧流近代化(文明開花、殖産興業、富国強兵)、 中華体制/華夷思想を前近代のものとして否定(脱亜入欧)西欧列強と植民地獲得競争に参入するもやがてその競争に負けて敗戦、戦後はアメリカの庇護の下復興し、経済大国に


イギリス

大陸からのローマ文明/キリスト教の流入

原住民 ケルト族系ブリトン人

43年 ローマ帝国のブリタニア属州に

122年 北方のケルト人の侵入を阻むハドリアヌスウォール構築

375年 ゲルマン民族の大移動開始 ローマ帝国崩壊の兆し

395年、ローマ帝国の東西分裂、

409年 ローマ帝国、ブリタニアから撤退

449年、ゲルマン系アングロ・サクソンのブリタニア侵入 以降、絶えず大陸から異民族の侵入を受ける

476年 西ローマ帝国の滅亡 東ローマ帝国はビザンツ帝国へ(ギリシア正教)

489年 フランク王国成立(ローマ・カトリック教会、ローマ帝国のレガシーを引き継ぐ) のちのフランス、スペイン、ドイツ(のちには神聖ローマ帝国)

7世紀、イングランド7王国時代 アングロ・サクソンの王国が成立

768年〜814年 フランク王国シャルル大帝(ピピンの子) ローマ帝国、ローマ・カトリックのレガシー継承

9世紀、ノルマン(バイキング)の活躍、(ブリタニア、アイスランド、グリーンランド発見)

827年、ウェセックス王エグベルト、イングランド統一 イングランド王国成立

871〜901年、ウェセックス王アルフレッド大王の治世 アングロ・サクソンの王国

1001〜1004年、ノルマン人のイングランド侵攻

1016年〜1042年 デーン人によるイングランド支配 アングロ・サクソン王国と対立

1066年、「ノルマンの征服」 フランスのノルマンディー地方の貴族、ノルマンディー公ウィリアムがブリテン島に侵攻 へースティングの戦いでアングロ・サクソンのハロルド王を破りイングランド王ウィリアム1世として即位。征服王朝ノルマン王朝成立 強力な王権を確立し、以降大陸からの侵攻がなくなる フランス語の国王 フランスにも領土を持つ。

ノルマン朝は、現代まで続くイギリス王室の始祖とされ、以降10王朝、41人の国王、女王に継承される。ケルト・ブリトン文化、ローマ文化、アングロ・サクソン文化、ノルマン文化、フランス文化が重層的に重なり合った独特のイングランド王国の誕生 

中世は、西ローマ帝国、フランク王国の系譜を継ぐ、ヨーロッパ大陸のスペイン/フランス王権の隆盛、ドイツは神聖ローマ帝国皇帝を継承 ローマ・カトリックの権威、ローマ教皇の権力が強大 弱小島嶼国イングランドの苦闘

16世紀末 ヘンリー8世による宗教改革(英国教会設立)、ローマ・カトリック(ローマ帝国のレガシー)からの離脱 一方でピューリタンなど非国教会プロテスタントの抵抗もあり弾圧、北米へ脱出する(ピルグリムファーザーズ)

17世紀 エリザベス1世の絶対君主制 スペイン。フランスの勢力圏から脱して海外へ(スペイン無敵艦隊を撃滅) 反カトリック、重商主義 その後、イギリス革命を経て立憲君主制国家へ イギリス繁栄の基礎

18世紀以降、産業革命、インド支配など世界に海外植民地拡大で繁栄する海洋国家へ ローマ帝国を凌ぐ大英帝国へ

19世紀 大英帝国繁栄 パクス・ブリタニカの時代

二つの世界大戦に勝利するも、戦後は植民地を失い国力衰退、ヨーロッパ回帰(EU加盟) しかしEU離脱 再び「グローバル・ブリテン」復活へと舵をきる