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2016年7月30日土曜日

 私の「青い山脈」 〜「青」というモチーフ〜

 大阪から高知へ飛ぶ双発プロペラ機ボンバルディア。エンジンをうならせながら高度を上げようとするが低空飛行のまま四国山地の険しい山々に差し掛かる。越えられるのかと心配になるが、健気に機体を震わせながらようやく飛び越えると、視界に突然太平洋が広がる。青い山脈、幾山河。そこを越えれば青い大海原だ。

 今月で40余年のサラリーマン生活に終止符を打った。海外生活11年、単身赴任生活10年。どちらかというと決められた定常的な仕事をこなして行く、というよりは誰もやったことがない新規ブロジェクトを企画実行する仕事ばかりだった。こういうとカッコイイが、不毛の荒野を開墾して種を植えるわけだから、常にあらゆるリスクと向き合う生活で、そんなカッコイイものではない。いちばんのフラストレーションは周りの理解をなかなか得られないということだったが、そんなことは慣れっこになった。失敗はつきもの。失敗するとバッシングがオマケについてくる。しかし成功の喜びは何にも替え難い。良き理解者やメンターにも恵まれた。幸いストレスで体を壊すこともなく、精神を病むこともなく、とうとうゴールテープを切ったわけだ。これからは肩書きと他人が決めたスケジュールから解放された自由人。資本主義のロジックと、所属する組織独特のロジックからも解き放たれる。出世欲、名誉欲、物欲といった煩悩とは無縁の閑人人生をスタートさせるのだ。ま、少しくらい欲は残るかもしれない。いや、なかなか煩悩から解脱できないだろうから、ちと覚悟しておく必要があるが...

 「青雲の志」を抱いて飛び出した故郷。あこがれの「青い山脈」から始まった私の人生は、その画期となる通過点に達した。確かに大きな節目ではあるが、新しい人生の出発点でもある。そこにはあの頃の「青い山脈」や「坂の上の青空に浮かぶ一朶の雲」はない。与えられたモデル、ゴールや目標ではなく、これまでに自分で歩んだ道のりを観照して、そのプロセスを見つけ、自ら設定する目的地に向かって歩み始める。

 「幾山河越えさりゆかば寂しさの果てなむ国ぞ今日も旅ゆく」(若山牧水)

 「人間到処有青山」 人間到る処 青山有り(釈月性)

 そう、旅はまだまだ続く... 今振り返ってみると、これまでのことは未達のゴールへの道標にすぎない。孫悟空のように本当の宇宙を知らずお釈迦様の掌の上で暴れていたに過ぎないのに天下取ったような気分でいただけだ。道は彼方まで続いている。日暮れて道遠し。だが、急がず慌てず、脚下照顧。自分の足元を見ながら歩を進めよ。行け「青二才」!夜明けの来ない夜はない。自分のストーリーを求めて。



2016年7月19日火曜日

静嘉堂文庫美術館探訪 〜東洋の至宝と英国調建築の調和〜

静嘉堂文庫
英国調の洋館に日本や東洋の貴重な古書籍が収められている


 人気のエリア東急二子玉川駅から、商店街を抜けて20分ほど歩いた閑静な住宅街に静嘉堂(せいかどう)文庫と付属の美術館がある。世田谷区岡本。この辺りは雑木林が未だあちこちに残っており、坂と水路が交錯する武蔵野の面影を色濃く残す街である。明治以降は政財界で活躍した人物の別邸が多くあったところだ。

 静嘉堂文庫も小高い丘陵の上にあり、鬱蒼とした緑の塊が遠くにいても目に入ってくる。入り口から続く上り坂をゆるゆると歩む。この道は木立に覆われ、今日のような梅雨の晴れ間の蒸し暑い日でも緑陰の涼しい風がそよいでいて気持ち良い。とやがて目の前に英国風の堂々たる近代建築が現れる。これが静嘉堂文庫だ。その左手には付属の美術館が。これらは岩崎彌太郎の長男で三菱財閥の二代目総帥岩崎弥之助(静嘉堂)の墓所のある敷地に建てられている。岩崎弥之助、小弥太親子が収集した古典籍、東洋美術品のコレクションが収蔵されている。


(以下、静嘉堂文庫美術館のHPから引用)

 父子二代によるコレクション

 静嘉堂は、岩﨑彌之助(1851~1908 彌太郎の弟、三菱第二代社長)と岩﨑小彌太(1879~1945 三菱第四代社長)の父子二代によって設立され、国宝7点、重要文化財84点を含む、およそ20万冊の古典籍(漢籍12万冊・和書8万冊)と6,500点の東洋古美術品を収蔵しています。静嘉堂の名称は中国の古典『詩経』の大雅、既酔編の「籩豆静嘉」(へんとうせいか)の句から採った彌之助の堂号で、祖先の霊前への供物が美しく整うとの意味です。

明治期の西欧文化偏重の世相の中で、軽視されがちであった東洋固有の文化財を愛惜し、その散亡を怖れた岩﨑彌之助により明治20年(1887)頃から本格的に収集が開始され、さらに小彌太によって拡充されました。彌之助の収集が絵画、彫刻、書跡、漆芸、茶道具、刀剣など広い分野にわたるのに対して、小彌太は、特に中国陶磁を系統的に集めている点が特色となっています。

 文庫創設から美術館開館まで

 図書を中心とする文庫は、彌之助の恩師であり、明治を代表する歴史学者、重野安繹(成齋 1827-1910)、次いで諸橋轍次(1883-1982)を文庫長に迎え、はじめは駿河台の岩崎家邸内、後に高輪邸(現在の開東閣)の別館に設けられ、継続して書籍の収集が行なわれました。
大正13年(1924)、小彌太は父の17回忌に当たり、J・コンドル設計の納骨堂の側に現在の文庫を建て図書を収蔵しました。そして、昭和15年(1940)、それらの貴重な図書を広く公開して研究者の利用に供し、わが国文化の向上に寄与するために、図書・建物・土地等の一切と基金とを寄付して財団法人静嘉堂を設立しました。
美術品は、昭和20年(1945)、小彌太逝去の後、その遺志によって、国宝・重要文化財を中心とする優品が孝子夫人から財団に寄贈され、昭和50年(1975)、孝子夫人の逝去に際し、同家に残されていた収蔵品の全てと鑑賞室等の施設が、岩﨑忠雄氏より寄贈されました。
1977年(昭和52年)より静嘉堂文庫展示館で美術品の一般公開を行ってきましたが、静嘉堂創設百周年に際して新館が建設され、1992年(平成4年)4月、静嘉堂文庫美術館が開館しました。世界に3点しか現存していない中国・南宋時代の国宝「曜変天目(稲葉天目)」をはじめとする所蔵品を、年間4~5回の展覧会でテーマ別に公開しています。(曜変天目は常設展示ではありません。展示期間については美術館までお問い合わせください)


 以前訪問した駒込の「東洋文庫」も岩崎家創設の私設図書館である。こちらは岩崎弥之助の弟で、三菱財閥三代目の総帥である岩崎久彌のコレクションである。なかでもモリソン書庫の圧倒的な古書空間が印象的だ。(東西文明の邂逅 〜知のラビリンス「東洋文庫」探訪〜


 上述のように静嘉堂文庫美術館には多くの国宝・重要文化財が収蔵されているが、なかでも有名なのは、中国南宋時代の「曜変天目茶碗」。現在、完全な形で残っているものは世界に三個しかない。しかもその全てが日本にあるという貴重な逸品だ。一つはここ静嘉堂文庫美術館のもの。もう一つは大阪の藤田美術館所蔵のもの。そしてもう一つは京都の大徳寺龍光院所蔵のものだ。なぜ窯元があった中国に一個も残っていないのか(破片は見つかっているが)謎である。静嘉堂文庫美術館所蔵の曜変天目は元は徳川家の所蔵で三代将軍家光が春日局に贈ったもの。その後春日局の子孫である淀藩稲葉家に伝わったため「稲葉天目」とも呼ばれている。不思議な魔力を秘めた椀だ。見ての通り一椀のなかに宇宙が見える。

国宝「曜変天目茶碗」
静嘉堂文庫美術館のHPより引用

 この洋館はジョサイア・コンドルの弟子である桜井小太郎の設計。1924年(大正13年)に竣工。スクラッチタイル、鉄筋コンクリート造りの英国風の建物だ。英国の田舎を散策すると、よくこのようなマナーハウスやコテッジに出会うことがある。そうした雰囲気がこの武蔵野の林によく似合う。明治期のセレブには英国風の建物を好む傾向があったようだ。駒場の旧前田侯爵邸もそうだ。駒込の旧古河邸も。今回は撮影できなかったが、岩崎弥太郎の墓所はジョサイア・コンドルの設計だ。コンドルは岩崎家の洋風建物を多く手がけている。岩崎家高輪邸(現在三菱開東閣)、岩崎家茅町本邸(現在旧岩崎邸庭園)、岩崎家深川邸(現在清澄庭園。建物は現存せず。)などがそうである。また三菱一号館もそうだ。こうした洋館が日本や東洋の文化財を収集、保存する器として建設されたことに時代を感じる。明治以降の日本における西洋文明と東洋文明の調和を象徴するものだろう。

 中国/日本の古籍や東洋美術の海外流出を憂え保存しようという動きは、明治初期の西欧文化優先の風潮への反省から起こったものだ。岩崎家は代々こうした文化財の収集と保存、海外流出を食い止める活動を進めてきた。確かに大英博物館やメトロポリタン美術館、ボストン美術館を訪れるたびにそこに収蔵されている日本の古典や美術品の山を目の当たりにして、なぜこのようなところにこれほどの逸品が集まっているのか不思議、かつ、日本にないことを残念に思っていた。こうした古美術品や文化財級の逸品は、えてしてその時代に富を蓄積した国に集まるものだ。19世紀のこの時代は欧米列強諸国というわけだ。すなわちそれらの国の支配層、貴族や富裕層の財力で集められたものだ。残念ながら近代化を進めるに必死であった当時の日本では、一時期日本や東洋の古い文化を「遅れた文化」と捉え、こうした日本や東洋に固有の文化財を「文化財」と認識しない風潮があった。廃仏毀釈の嵐が貴重な仏像や寺院を破壊してしまった。さらに、版籍奉還、藩主の身分の剥奪により封建領主としての生活基盤を失った大名、そしてその大名に金を貸していた富裕大商家は債権の焦付きで倒産する。藩主や上級武士や富豪が生活のために大量に放出したお宝は、安値で西欧の富裕層の手に渡った。かつて江戸文化のパトロンであった家系は没落していった。一方で、なんとか日本にこうした文化的な遺産を残そうという動きが出てきた。岩崎家のような明治維新以降の新興財閥がこうした運動の中心になった。時代はめぐるわけだ。

 しかし一旦海外に流出したお宝は、日本が経済大国になっても、なかなか戻ってこない。その価値が認識されず、海外の博物館の収蔵庫の奥深くや個人の屋敷の片隅に今も眠り続ける文化財も数多あることだろう。バブル時代の日本の成金たちは、金になりそうなゴッホの絵やヨーロッパの城などを投機の対象として買って喜んでいたが、江戸末期から明治期に流出した貴重な文化財の買い戻しには金を使わなかった。もちろん、その価値に早くから気付いていた欧米のコレクターたちがそうやすやすとは手放さなかったし。文化の破壊や無関心は取り返しのつかない結果を将来に残すことを痛切に感じる。そしてもはや日本では、岩崎家のような芸術や文化のパトロンになる事業家は数少なくなってしまったようだ。










文庫正面




 静嘉堂文庫のある地域は現在、岡本静嘉堂緑地として整備され、岡本民家園が隣接する。江戸時代の豪農の屋敷で、よく保存されており市民に公開されている。静嘉堂文庫の英国調建物とはある意味対照的な純日本風の茅葺の建物だが、不思議なコラボレーションを感じる。この辺りは明治時代には東京市の郊外で、武蔵野の丘陵や林が残る田園地帯だった。このころから政財界の大物がこの豊かな田園地帯という環境を求めて別邸を建て始めた。現在その建物はほとんど残っていないが、今この辺りは東京の閑静な住宅街として人気のエリアになっている。













2016年7月8日金曜日

水郷柳川に川下りを楽しむ 〜梅雨の晴れ間の猛暑にもめげず〜




 

 その日は梅雨の晴れ間の35℃の猛暑であった。しかも柳川駅で電車を降りるなり、突然のにわか雨に見舞われ、幸先の悪さを嘆いたものだが、やがて雨は止み青空に。今度はジリジリと太陽が照りつける猛暑。しかし不思議に雨の後の蒸し風呂のような不快さではない。水辺の街だからだろうか。意外に涼やかな風が吹きわたる。柳川はクリークが町中に張り巡らされ、城下町と町人町、沖端の漁港がセットになった独特の景観を有する街だ。旧立花家の邸宅である御花や、北原白秋の生家・資料館が観光の2大ポイントだが、なんといっても水郷の川下りとうなぎのせいろう蒸しが柳川を有名にしている。そのほかにも最近は武家屋敷の公開や、城下町の街並みが復元整備され、街並み散策ファンにも十分魅力的になった。そういえば琴奨菊も柳川出身だった。

 西鉄柳川駅(最近リニューアルされていい感じに。駅の建物がグッドデザイン賞を受賞したそうだ)近くの河岸から御花まで、約一時間の川下りの船が出ている。柳川にはこれまで何度か来たことがあるが、実はこれまで一度も川下りしたことがなかった。今回が初めての体験だ。静かな水面に船頭さんの名調子。川面の涼風と岸辺に生い茂る楠の木の緑陰に心癒される時間が流れる。真っ青な空と白い雲、赤いカンナとネムノキの花の綿毛。狭くて低い石橋の下をくぐるちょっとしたアドベンチャー。気温の割には涼しささえ感じる。これまでクリーク沿いの遊歩道を散策したことはあったが、ゆったりと水上から眺める風景にはまた別の情緒がある。もちろん遊歩道から川下りを楽しむ人々を眺めるのも悪くない。こうして立花家邸宅である御花、北原白秋生家へとむかった。

 さて、柳川に来たらうなぎのせいろう蒸しを食せばなるまい。特にこのような猛暑に見舞われた日はせいろう蒸しで元気回復!こればかりはなかなか東京や関西では味わうことができない。蒸篭(せいろう)にうなぎの蒲焼とご飯を入れてタレをかけ、じっくりと蒸し上げる。仕上げに時間がかかるのでせっかちな都会人には向かないメニューだ。アツアツをハフハフ言いながら食すわけだ。絶品だ!幸せを感じるひと時だ!

 こうして約一時間かけての川下りで水郷柳川の情緒を存分に味わうことができた。しかし、帰りに御花から柳川駅に向かうために乗ったバスの車窓から見る柳川の街は、なんの変哲もない普通の地方都市にしか見えなかったのが不思議だ。しかもわずか10分ほどの乗車というあっけなさもあって、さっきのゆったりした水辺の旅の柳川はどこへ行ってしまったのか。「アトラクションは終了です。お帰りはこちら」みたいな場面転換... 水路は昔の柳川の重要交通手段。自動車の走る道路は今の柳川の重要交通手段。この旅の最後に、所要時間も情緒も異なる対照的な移動手段の違いを知ることとなったわけだ。そのギャップに「時代の移り変わり」を感じた。急ぎの旅でなければ帰りは岸辺の遊歩道をブラブラ歩く方が良いかもしれない。

 アクセス:

 西鉄福岡(天神)駅から西鉄柳川駅まで特急で約45分。西鉄特急は30分ごと発車で特急料金はいらない。また柳川観光特急「水都」を走らせている。これも別料金なしで乗れるのが嬉しい。駅前からはバス、タクシーがあるが、クリーク沿いをのんびり歩いて御花や白秋生家にゆくのがオススメ。また駅近くからは川下りの船が出ている。約一時間のゆったりコースで御花まで連れて行ってくれる。水郷情緒を味わうにはこれがイチオシであることはいうまでもない。

 うなぎのせいろう蒸し:

 有名なのは「本吉屋」「若松屋」。どちらも柳川にしか店を出していない老舗。本家本元なので間違いはない。人気店なのでいつも混んでいるし、注文から出来るまで待たされることを覚悟する必要がある。チャッチャと食べてチャッチャと席を立つなどというせっかちな江戸っ子や浪速っ子を自認する人には向かない。御花には落ち着いた和風レストランがあり、庭園を鑑賞しながらのせいろう蒸しもゼッピンだ。うなぎの苦手な人向けには懐石料理や鯛茶漬け御膳などという憎いメニューもある。

2012年6月に柳川を散策した時のブログです。



柳川古文書館を見ながら出発

多くの橋をくぐって進む

川下り発着場

味噌屋さんの並蔵

緑陰を行く

武家屋敷あと


ネムノキがいたるところで

途中の水上マーケットで一服

船頭さんの後ろに入道雲


梅雨の晴れ間の猛暑


立花家(御花)洋館





御花正門
洋館と和館の対比が印象的





木造の洋館

御花松濤園
柳川といえばうなぎのせいろう蒸し


北原白秋の生家



北原家は酒造業であった



新装なった西鉄柳川駅






2016年7月7日木曜日

もう一つの怪物レンズ Leica Apo-Vario-Elmarit SL 90-280mm ASPHがやって来た!

 
OMG!

 Vario Elmarit SL24-90mmASPHが故障者リスト入りになった途端、もう一つの怪物がやって来た。SLシリーズの2本目のレンズとなるApo-Vario-Elmarit SL 90-280mm ASPH望遠ズーム。なんという皮肉なタイミングだ。相方が入院中だというのに... 最初期の入荷数はわずかしかなくて、Lieca Shopにも数量限定でしか入ってこなかった。やっと追加入荷となった。

 掲載の写真を見て欲しい。前評判通りのバズーカ砲のような重量級総金属ガタイ。ボディーなしでもで1.7キロだ。フード(プラスチック)つけると全長が30センチ超というモンスターレンズだ。インナーフォーカスで、かつズームしてもレンズ長は変わらないのがよいが、この重量、長さで前玉を繰り出すとフォロントヘビーで画質にも影響を与えるだろう。手振れ補正機能はレンズ側にあるが、この巨体で手持ち撮影、どうやって扱えばいいのか...  私のようなマッチョではないフツーのフォトグラファーには最低でも一脚が必要だろう。十分にダンベルで腕力つけてからでないと現場での戦力にならない感じだ。搬送もカメラバッグでは体重のバランスを取るのが心もとない。超望遠レンズ用バックパックでなけりゃ運べないだろう。三脚座はむしろ、上に回してハンドグリップにしてぶら下げるのがよさそうだ。いや、カメラストラップも通常のやつではダメで、三脚座にフックをねじ込み、キャナビラで吊るす方式じゃないと難しいだろう。

 しかし、ちょっと試写してみた限りではこのレンズの高解像度には目を見張るものがある。やはり怪物だ。望遠端280mmの画質に驚愕する。全くと言ってよいほど解像度に劣化もないし、周辺部分の描写にも破綻がない。最短撮影距離は90mm側で90cm、280mm側で1.4mと近接撮影にも威力を発揮する。望遠マクロ的な使用も出来るしその写りに問題は感じない。まだ実写例をご紹介するほどのものを撮ってないのでここまでにするが、こりゃすごいレンズだ!描写性能優先で妥協なく作るとこうなる、という事例みたいなものだ。ますます筋トレに励まなくてはならない。

 このレンズ、SLボディーに装着するのも良いが、APS-CフォーマットのTボディーに装着すると、ボディーが無視できるほど小さくてよい。むしろレンズ本体に撮像アタッチメントがついたくらいの感覚で、かえって使いやすいかもしれない。少し軽くなる(!?)。焦点距離は90−280mmが135−420mmという超望遠ズームとなる。しかもレンズ内手振れ補正つきだ。こりゃあいい!もちろんその場合、Tボディーをホールドして撮影することはススメない。カメラボディーのマウント部からレンズごとパカッと外れそうな気がする。たぶんそんなことはないと思うが、心理的に落ち着かない。

 逐次、実際の撮影現場に持ち出して実写してみたいがまだその機会がない。きっとやたらに目立つのだろうな。あいつ、いったい何をぶら下げてきたんだ?と。ということでなかなか実写する機会がやってこないのがまたフラストレーションだ。

こうしてみるとNikon70-200と比較しても意外にリーズナブルなサイズではないか、という声もある。この比較写真はそうしたことを印象付ける目的のものだが、見た目とは別に実際に持ってみるとその重量感とホールディングに思わずよろめく。SLボディーだってミラーレスという軽量イメージとは全く裏腹にレンガブロックのような重量とサイズなのだから、この二つ合わせて3キロを超える機材を担いで「山河を跋渉する」のは並や大抵のことではない。もっともそれだけのことはある結果を生み出すことができるのだが。

2016年7月1日金曜日

さらば九州帝國大學 〜西南学派へのオマージュ〜

 九州大学は現在、伊都キャンパスへの全面移転を進めている。医薬歯系の堅粕キャンパスを除き、平成18年に移転開始、平成30年までに移転完了予定だ。すでに六本松キャンパスは校舎が取り壊されて再開発が進められている。メインキャンパスの箱崎も工学部系は移転済みで、理学部、農学部が順次これに続いている。貝塚の法文系も間もなく全面移転する。この移転計画に伴い、東京、京都に次ぐわが国で三番目の帝國大學として福岡の地に開学した九州帝國大學、その後進の九州大学は、その発祥の地、箱崎キャンパスを去ることになった。旧帝國大学でメインキャンパスを捨てて全面的に移転するケースは珍しい。43haという全国でも屈指の広さを誇り、古来からの箱崎松原に包まれた箱崎キャンパスは今や荒れ果てて、学生の姿もなく、100年という長い歴史の中で数々の研究成果を生み出した研究棟建物も次々に取り壊されている。往時の活気を偲ぶよすがさえなくなりつつある荒涼たるキャンパスに佇み、我が青春の時を回想する。

 私が学生生活を過ごしたその時代とは、1970年代初頭、高度経済成長期、団塊世代最後尾、大学入試は史上最高の狭き門、そして大学紛争真っ只中という時代であった。

70年反安保闘争、ベトナム反戦闘争、学園紛争(反日共系全学連、全共闘運動が全国に広がる)そして中国では文化大革命の嵐。紅衛兵、毛沢東語録、造反有理...
1968年:米原子力空母エンタープライズ佐世保寄港反対闘争(九大は全国の闘争拠点に)
1968年:米軍ファントム戦闘機九大箱崎キャンパス墜落(反米、ベトナム反戦闘争のシンボル化)九州大学学園闘争激化。
1969年:東大安田講堂攻防戦。
その結果同年の東大入学試験は中止。
タイミングよく(?)前代未聞の事態に遭遇した受験生となってしまった訳だ。
やむなく願書を出し直して九大受験。
しかし、これは波乱の始まりに過ぎなかった
九大入学試験粉砕(受験二日目、六本松の試験会場封鎖。急遽、近くの予備校に用意された試験会場に移動)
入学式粉砕(記念講堂での式典中、全共闘乱入)
全学バリケード封鎖(入学後1ヶ月で講義無し)
機動隊導入、半年後封鎖解除。しかし...
荒廃した学内、疑心暗鬼の連鎖、社会科学系研究体制への失望感...
卒業式無し(卒業証書は事務部でもらった)
なんという大学生活。

 そんな九大になぜか5年在学。きっと何かを探して彷徨していたんだろう。なにか砂を噛むようなザラザラとした思い出ばかりが残る。ノンポリではないが全共闘運動に没入するわけでも、ノンセクトラジカルを標榜するわけでもない。学生集会に参加したり、小田実のベ平連の活動に共鳴して清水谷公園から新橋までのデモ行進に参加するくらい。この時代を生きる人間として何かしなくてはという思いがあったが、それ以上でもそれ以下でもない。やがて全共闘運動は、孤立し先鋭化した連中の連合赤軍「事件」(1970年のよど号ハイジャック事件、1972年の浅間山荘事件、ダッカ空港、テルアビブロッド空港など海外での赤軍派テロ事件等)へと変質して行き終焉を迎える。その後、私は最初目指していた学究の道を諦める。ともあれこんなところで呻吟していても「一点突破全面展開」は起こらないと気づいた。世の中を知らない若輩者は社会に飛び出るべきだと。社会を知らずして何の社会科学だ!そして営利主義に走らない公益事業を選んだつもりが、期せずして民営化とグローバル化の波に巻き込まれてゆく。気がつくとボーダレス資本主義のロジック丸出し、バブル時代のモウレツ「企業戦士」へ。考えてみると時代の必然だった。学生時代を振り返るいとまさえなかった。まるであの時代を語るのが憚られる空気を纏いながら。まさに「いちご白書をもう一度」みたいな世代...  

 ただ、この時に得た学友達との交友関係は今日まで続いている。企業戦士になったものもいる。学究の道を歩んだもの、法曹界で活躍するもの、役人に成ったものもいる。銀行や某航空会社に職を得た友は早期退職で故郷に帰った。なかにはあれ以来音信がなくなってしまった学友もいる。何も考えず馬鹿話できるポン友というより、考え方も、進んだ道もそれぞれ違う友人たち。かなり硬派な連中だ。それはあの時代の空気を共有し、カオスの時代の生き方に対する共感があったればこそだと思う。決してアパシーではないが、かといって時代にコミットする確信など持てないという、そういう熱いが彷徨える時代を生きた仲間のいわば連帯感みたいなものだ。「孤立を恐れず連帯を求めて」というスローガンが心に刺さる世代だ。

 
 ところで簡単に九大創設の歴史を振り返ってみる。もともとは1867年(慶応3年)の福岡藩の医学所「賛生館」を母体とし、1903年(明治36年)京都帝国大学福岡医科大学創設。1911年(明治44年)古河財閥の寄付により九州帝國大学工科大學校が、そして1924年(大正13年)法文学部が創設された。こうして東京帝國大学、京都帝國大学に次ぐ3番目の総合大学としての九州帝國大学が生まれた。一方、その陰には地元福岡の財界人渡辺與八郎の献身的な誘致活動があった。かれは福岡に市内電車を開業したほか、循環道路を創設したり、福岡の発展に貢献した事業家であった。帝國大學創設に当たって、医科大学付近にあった遊郭を現在の清川/柳町に移転させるなど私財を投げ打って帝國大学キャンパスを確保した。さらに苦学生には奨学金を用意するなど九州帝國大学創設の恩人である。博多商人の心意気だ。その業績を市民は忘れていない。今でも福岡の繁華街「渡辺通」にその名を残している。

 明治維新に乗り遅れた福岡藩。明治新政府の九州統治の中心は熊本であった。帝國大学は福岡市が明治維新後、誘致に成功した唯一の官立組織(第五高等学校のあった熊本や、第七高等学校のあった鹿児島、医専、高等商業のあった長崎を差し置いて)である。福岡が今日あるのも帝國大学誘致に成功したからというと言い過ぎかもしれないが、福岡のポジションを一気に引き上げる快挙であったことは間違いない。初代総長はあの会津藩出身で東京帝國大學総長となった山川健次郎である。法文学部長は同じく東京帝國大學法学部の美濃部達吉という錚々たる創始者たち。こうしたトップリーダー始め、わが国における西南学派の学風を打ち立てんと、勇躍青雲の志を抱いて九州福岡に向かった若き研究者、教育者たち。我が父も戦後、九大薬学部創設メンバーとして、そうしたたぎる志を胸に東京から九州にやってきた若手研究者の一人だ。その父を誇りに感じる。

 こうした九州大学の歴史と伝統は新しい伊都キャンパスに引き継がれてゆくものと期待するのだが、一方、歴史的建造物・景観保存の視点で考えると、ただでさえ近代建築遺産の少ない大都市福岡で、100年の歴史を誇る箱崎キャンパスが廃止となり、貴重な文化財級建築物や施設、松原に包まれた美しい環境が壊されてゆくのはなんとも勿体無い。幸い工学部本館や大学本部など幾つかの建物は保存されることが決まったが、旧法文系本館など歴史ある建物が取り壊しの危機に瀕しているという。新しい酒には新しい皮袋が必要だと言うが、一方で芳醇な酒は古い樽、古い酒蔵で醸され熟成される。大学という器にはアカデミズムの歴史と伝統という酵母(アスペルギルス・オリゼ)が住み着いていなければならない。これは一朝一夕には住み着いてくれない。長い歴史の中で育てられるものなのだ。すなわち器の保存はただの懐古趣味でないことを強調しておきたい。いつまでも「帝國大学」という亡霊に固執していてはいけないが、イノベーションは過去から持続的に営まれる人間の自由な思索とたゆまぬ研究の蓄積と伝統の中から生まれる。

 今更キャンパス移転の当否を、OBのノスタルジアで語るつもりもないが、首都圏や関西圏の伝統ある大学の郊外移転は、そのブームが去り、再び都心回帰が盛んであることを指摘しておきたいと思う。少子化の時代、広大なキャンパスは必要がなくなり、むしろ優秀な学生や研究者が世界中から集まりやすい魅力的なロケーションが好まれている。すなわち俗世に近い都心が好まれている。逆にそうでないと、ただでさえ少なくなっている学生が集まらない、他校との奪い合いになる(学生側のホンネで語ると、いいバイト先が近くにないとそもそも経済的に大学に行けない)。まして世界の大学と競争するには、広大なキャンパスや、近未来的な建物などではなく、世界とつながっている、優秀な研究者や教育者や学生が世界から集まっている、実社会とつながっている、そういうロケーションが求められる。特に社会科学系の研究にとっては重要なポイントだ。英国留学で過ごした社会科学研究の殿堂LSE(London School of Economics and Political Science)は、まさにロンドンのど真ん中に位置している。ここから移転しようという試みは全くない。OxfordやCambridgeのような俗世からアイソレートした大学都市が世界のイノベーションやアカデミズムの中心となるには100年単位のスケールで考えなければならない。中世の修道院をルーツとする欧州やアメリカの古典的な大学都市は数百年から千年くらいの時間軸でアカデミズムの歴史を積み上げてきた。日本で言えば高野山や比叡山だ。

 さはさりながら創立100年の九州大学の伊都新キャンパス移転構想は、その次の100年を見据えての事だろう。その100年単位の壮大なビジョンに向けて歩む道は、新たなアカデミズムの歴史を開く道のりで、それは決して平坦ではないだろう。あの時の砂を噛むような5年間という過ぎし日日を振り返る私は、ただこの一歩が新たなパラダイムに向けてのチャレンジとなり、いつの日か後世の人々が先人の英断とコミットメントを賞賛する時が来ることを祈りたい。それはかつての明治日本のアカデミズム「帝國大學」と、その伝統を継承する戦後日本の国立九州大学という過去に訣別して脱皮することを意味するのだろう。

 「さらば九州帝國大學。新たな西南学派パラダイムへの旅立ちに栄光あれ!そして西南学派の伝統へのオマージュ、近代建築群を守れ!」




九州大学正門(明治44年)
まだちらほらと学生の姿が見える
文科系、農学部はまだ移転していない

旧法文学部本館
なんと取り壊し検討中とか
特に保存運動も起きていない模様
悲しいことだ

旧中央図書館
これも取り壊し対象だ


旧文学部心理学教室
取り壊し対象


美濃部達吉博士創設のわが国3番目の帝国大学法文学部
日本における西南学派の立ち上げを心に誓って創設されたとある
旧法文本館玄関
法文系はこの建物を捨て貝塚キャンパスに移転した
移転後は応用力学研究所・生産研として改造された
今や閉鎖され立ち入り禁止に。

正門前の庭園跡
背後は旧法文系本館
当時としては巨大な建物であった

旧工学部本館
九大のシンボル的近代建築

堂々たる旧工学部本館
現在は九大研究博物館として保存されている

旧大学本部本館
保存が決まったようだ


工学部系は伊都キャンパスに移転したため
研究棟の取り壊しは急ピッチで進む
50周年記念講堂
あの入学式が粉砕された場所だ
学食もあり、賑わっていたが...


工学部応用化学研究棟
保存検討中


工学部航空工学研究棟
戦時中の迷彩がまだ残る貴重な建物
保存検討中


正門前の守衛室(大正3年)
保存が決まった
後ろは工学部本館


旧中央図書館
九州大学独特の景観だ

正門前にあった喫茶店プランタン
九大生の溜まり場であった
傾いた文字が哀れだ...

旧大型計算機センター
米軍ファントム機はこの建設中のこの建物のこの壁面に突っ込んだ
あの九大闘争のシンボル的建物もいまや荒れ放題

相変わらず福岡空港発着の航空機騒音に悩まされるキャンパス
これも移転の理由の一つか

文科系の貝塚キャンパス
正門前の旧法文本館の重厚な建物に比べ、なんとも...
手前の道路にはかつての西鉄貝塚線が走っていた「九大中門」電停はここにあった

現在の法文系本館。
バラバラで統一感のないつぎはぎ建物が九大法文系のステータスを表しているように感じる
まだ伊都キャンパスに移っていないが
理工系と違って山奥に引っ込んで優秀な学生や研究者が集まるのだろうか


箱崎キャンパスマップ
参考サイト: 箱崎九大跡地ファン倶楽部のサイトです。