ページビューの合計

2009年9月29日火曜日

飛鳥稲淵 棚田を巡る








今年から出来た秋の大型連休シルバーウイーク。敬老の日が入ってるのと春の大型連休ゴールデンウイークに対抗して命名されたのだろう。日本も本当に休みが増えた。national holidayが先進国の中でももっとも多い国の一つになってしまった。日米貿易摩擦の時にアメリカに「日本人は働き過ぎ」とバッシングされたのはもう20年も前のバブル真っ盛りの頃。いまの日本はかつての日本ではない。働き過ぎどころか「働くところがない」。ゆとり教育世代は「働く気がない」で、「休んでばかりでなくてもっとしっかり働かんかい」のはずが、国民の祝日は増えるばかり。

で、そんな秋晴れの一日を飛鳥の稲淵で過ごし彼岸花に彩られた棚田散策を楽しんだ。飛鳥から飛鳥川に沿って芋峠を越えて吉野へ向かう上市古道。山と谷に挟まれた稲淵はその途中にある美しく豊かな山里である。この地形と人々の営みのコラボレーションが美しい棚田の景観を生んだ。

この道は、かつて持統天皇が足繁く吉野へ通った道だ。その後も多くのみやこ人達が吉野詣でに通った道だ。そして大海人皇子が皇位継承争いに巻き込まれて芋峠を越えて吉野へ身を隠した道。その後決起して大和へ向かい、戦いに勝利して皇位につく。壬申の乱の舞台の一つになったところでもある。こうして即位したのが天武天皇、すなわち持統天皇の夫である。この歴史に名を残した夫婦の天皇は飛鳥の天武/持統合葬陵墓に仲良く葬られている。

シルバーウイークの稲淵はこうした古代の出来事をゆっくりと思い起こさせるような静かな佇まいとは無縁の連休狂想曲なまっただ中であった。棚田は美しく秋の実りを誇示し、地元の農家の人々は刈入れ前の最後の稲田の手入れに余念がない。しかし、普段は静かな山里もこのときばかりは押し寄せる車の波とヒトの波。高速道路一律1000円で安近短トラベラーの車はこんなところにも殺到。山道は路上駐車の県外ナンバーの車で埋め尽くされ、片側しか通れなくなった道をワレ先に通ろうとする車で大混乱。クラクションの応酬。河内弁の罵声! 田んぼのあぜ道はヒトの列でおすなおすな。そう言ってる我々もその人の波の中にいた訳だが、元来人ごみが嫌いな私は、都会の喧噪を避けてきたのに「よりによってなんでこんなところにいるんだろう」とため息。

稲淵ではちょうど地元の人々の企画で「案山子祭り」が催されていた。100体近くの手作りの案山子が棚田沿いのあぜ道に並びアイデアとユーモアを競っている。ハイキングしながら見て回って好きな作品に投票するという趣向だ。なかなかユニークなものや微笑ましい案山子があって楽しませてくれる。地元の元気な小学校生たちが案山子の説明をしてくれたり、飲み物の世話をしてくれたりで、けなげでかわいらしかった。商業主義的な店や看板や幟旗が乱立するでもなく、村のお祭り的な雰囲気で安らぐではないか。

そう思ってみればあながち行楽地の喧噪を恨めしく語るのではなく、のどかな秋の日の一日を楽しむ場を地元の人たちが提供してくれたことに感謝する気持ちがわいてくる。あくまでも青い空、黄金色の棚田、畦を彩る真っ赤な彼岸花、ユーモラスな案山子に象徴される人々の暖かさ。やはり大和は國のまほろば。

ありがとう稲淵のみなさん。
































Leica M9登場

ライカM9がついに登場。

いわく「世界最小のフルサイズデジタルカメラ登場」。つまり36×24mmのフルサイズCCD搭載のデジタルレンジファインダーカメラというわけだ。M8では27×18mmのAPS-HサイズCCDを採用、そのため普通の35mm判(すなわちライカ判)用レンズ装着時には焦点距離が1.33倍となる。従って50mm標準レンズは65mm中望遠レンズとなる。M9ではこれが50mmは50mmとして使えるようになった,という事だ。

それにしても「世界最小」を言うか。ニコンやキャノンのフルサイズデジタル一眼レフと比べて,という事ではね。ま、そのとおりだ。

ボディーサイズはこれまでのM8, 8.2と同じ。外見上は軍艦部のバッテリー表示と撮影枚数表示用の丸い液晶窓がなくなり、旧来のM型デザインを踏襲した段付きになった。外装はブラックペイント、しぼ皮、赤ロゴ(復活)、とスチールグレーペイントという新色の2種。写真、カタログ見ても確かに変化はない。

ライカ社の発表によると、有効画素数1800万画素CCD(M8は1030万画素)を採用、レンズ性能を活かすことを主眼にローパスフィルターは今回もなし。しかしCCD前には新たにフィルターガラスが採用されて、従来のようなマゼンダかぶり防止のフィルターをレンズに取り付ける必要がなくなった。また、レンズ情報伝達用の6ビットコードは引き続き採用されるものの、ボディー側でレンズ情報を手入力出来るようになったので、古いレンズでも周辺光量などの最適化が可能となった。これはいいね。また現像ソフトとして従来のCapture Oneにかわり、Adobe Photoshop Lightroomが同梱される。

心配なのはホワイトバランス。あの不安定さは改良されたのだろうか?また撮影後にPCで現像ソフトで修正しろ、ってことだとちょっとなあ。何しろ価格が価格だけに、やっぱりカラーマネジメントソフトの開発に精力を注いだ日本製のデジタルカメラに比べてあまりにも見劣りがする。また最近の中級以上のデジタル一眼レフはダイナミックレンジを調整する機能が標準装備されているが、これもないんだろうな。

しかし、フルサイズデジタルMが出て伝統的な「ライカ判」が本家ライカのデジタルプラットフォーム上でついに復活、というファンの期待に応えた形だ。つい去年の11月にM8.2を出したときに「フルサイズは出さないのか」という問いに、ライカ社技術陣は「従来のMボディーサイズを出来るだけ踏襲し、Mレンズ資産を使えるボディーとする為にはフルサイズは無理」と断言していた。しかし一年後にYesの答えを出したのは技術陣の根性と賞賛すべきなのだろうが、その時M8.2を買ったファンはなにか割り切れない思いでM9に(M8を下取りに出して)買い換えるのだろう。

さて、9月下旬には製品出荷、とアナウンスされていたM9だが、例によって今日現在で実機を手にしたユーザは限られているようだ。時たま「ついにゲット」などとリポートするブログを目にするが、まだまだ出荷台数が限られているようだ。ライカジャパンのHPhttp://www.leica-camera.co.jp/home/では、出荷遅れのお詫びと納期が約束出来ない旨のアナウンスが出ている。ビックカメラでも予約客への配送は10月下旬以降、と。これも伝説のライカを神格化するマーケティング戦略だろうが手の内が分かってるだけにあまりインパクトもない。慌てて買う必要はない。欲しけりゃ待てば良いだけだ。でもできるだけ早く欲しい.....いや、やっぱり待てん。oon hitono ashimoto miyagatte.

「M9_catalog_jp.pdf」をダウンロード







2009年9月25日金曜日

土佐の高知 我がルーツ


平四つ目紋

歴代川崎源右衛門の墓


仕事で高知へ行った。
まず松山に用事があったので伊丹からボンバルディアで飛ぶ。松山からは高速バスで高知まで2時間半。時間距離は意外と近い。しかし心理的な距離は遠い。四国山脈をくぐって太平洋まであと00キロの表示を見ながら、延々と続くトンネルを抜け、連続する峻険な峡谷を渡りたどり着いた高知はすっかり日が落ちていた。
こんなに小さな島に2000m級の山々がそそり立って行く手を阻んでいるんだ。それにしても日本の土木技術はすごい。瀬戸大橋もすごいがこの四国縦断高速道路もすごい。

高知は我が父祖の地。父方だけでなく、母方も、連れ合いの父方も、皆一族の故郷は高知。
といっても自分自身が生まれた訳でも、育った訳でもなくて、祖父母から高知なまりで聞かされた「故郷」の思い出が、父母から聞かされた「帰省先」としての高知の話があるだけだ。

しかし、「土佐の高知」と聞くだけで何か懐かしい想いにとらわれるのは、やはり私にも土佐の血が流れているからだろうか。ワクワクしながらの高知到着だ。

街を歩くと、父母、祖父母、親戚の叔父叔母、から聞かされた懐かしい地名が次々に現れる。
枡形、乗出、八百屋町、唐人町は父方の本家、分家一族の居所。桜馬場、永国寺町は母方の一族。上町、水通町は連れ合いの父方一族の地。鏡川を隔てて向うにそびえる山が潮江山。最近は筆山と呼ばれてるようだ。ここには我が一族の墓所がある。高知支店の人たちの尽力で墓も見つけることが出来た。何しろ古い墓所だけに所在が不明な墓や荒れ放題の墓が多い。幸い市役所が管理している墓地なので登録情報があったのと、墓守の方が我が一族の墓を管理してくれていたのとで見つけることが出来た。高知支店の方々に改めて感謝感謝。ヤブ蚊にいっぱい刺されたが。

高知は背後を壁のような四国山脈、前を広大な太平洋に挟まれた狭隘な町だ。かつてはここに住む人たちは容易に京都や大阪や東京へ出て行けた訳ではない。土讃線が開通したのは長い歴史の中ではつい最近のこと。大阪へは浦戸湾から船で天保山へ行くしかない。山内一豊公も船で浦戸から入国している。太陽に恵まれた明るくて恵まれた土地だが、かといって高知にとどまっても何か出来る訳でもない。食い扶持も限られている。そんな土地に育った若者はやはりハングリーになる。瀬戸内海を見て育ったわけではない。太平洋を見て育ったのだ。「言うたちいかんちあ、おらんくの池にゃ、潮吹くビンビが泳いじょる」んだから。この海の向うはもうアメリカだ。そしてここを出てゆく。青雲の志を持って故郷を後にする。たまりにたまったエネルギーをやがて新天地で爆発させることになる。坂本龍馬をモデルとする土佐人像だ。

鹿児島もそうだ。そうした若者のエネルギーが日本を動かす。世界を動かす。高知も鹿児島も人口の少ない、県民所得も最下位に近い地域だが、出身者で世界をまたにかけて活躍している人たちが多いのには驚かされる。県人会が強力な人的ネットワークを形成している点も同じだ。鹿児島に行ったときに、地元のヒトから鹿児島県の人口よりも鹿児島県人会の会員数の方が多い、と言っていた。表現に多少の誇張はあるが県外にいる鹿児島県出身者が多いのは事実だろう。ちょうどアイルランド本国は人口800万人なのに、アイルランド系アメリカ人は3000万人いるのと同じ理屈だ。

我が一族の本家筋の人たちは地元高知で実業家一族として活躍しているが、わたしの祖父のような分家の次男坊は高知を出て行かざるを得ない。当時日本でもっとも繁栄した大大阪へ出て行って一家を成した。銀行員から転じて今はやりのベンチャー事業を起業し、西宮に屋敷を構えた。母方の祖父も同じだ。三男坊で、継ぐべき財産がなければ学問で身を立てるしかない。東京へ出てゆき帝大出を中央政府官僚として活躍した。つれあいの一族も次男坊以下は皆東京や大阪や上海へ出て行って立身出世していった。みんなハングリーで、豊かな未来を信じていた。そしてみな故郷高知を懐かしんでいる。集まると高知弁で話が尽きない。

ルーツの旅が出来る幸せをかみしめている。父祖の地を出て我々一族の新天地での基礎を築いてくれた祖父母、父母、叔父叔母に感謝の念を抱くとともに、私の世代の後に続く子々孫々の益々の繁栄を祈念するを禁じ得ない。

高知龍馬空港から、再びあの双発プロペラ機ボンバルディアに乗って高知を後にした。この峻険な四国山脈をエンジンを唸らせながらかろうじて飛び越て、わずか40分で大阪に着いた。次は土讃線に乗ってみよう。


川崎寺跡

川崎幾三郎家墓

墓園からの展望


高知城






桜馬場界隈
母の友人のお宅

県立城東高校
旧高知高女




山内家別邸

鏡川と筆山(潮江山)





川崎源右衛門家ゆかりの地
八百屋町、唐人町、要法寺町


川崎農林工本社

はりまや橋


四国山地上空を飛ぶ