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2016年11月28日月曜日

マンハッタンの都市公園に深まる秋を感じる 〜Central Park, Bryant Park, Washington Square Parkを巡る〜

 ニューヨーク・マンハッタン。人口稠密な大都会。林立するビル群。摩天楼の間から覗く四角く区切られた青空。季節感を味わうにはちょっと寂しい街のような気がする。ハドソン川とイーストリバーに挟まれた狭い中洲にビル満載といった景観のマンハッタンだが、しかしこの街のもう一つの特色は適度に散りばめられたオープンスペース、公園の存在だ。代表的な公園は言わずもがなのセントラルパーク。このいかにも広大で人口的に創造されたな長方形の公園は、実はコンクリートジャングルの中の緑のパッケージが凝縮した空間だ。マンハッタンの肺といっても良い。このほかにもワシントン・スクエアー・パーク、ユニオン・スクエアー・パーク、マディソン・パーク、ブライアント・パークと、意外に緑地が多い。特に秋のニューヨークは美しい。大きな街路樹やヨーロッパの街のような並木道はないが、公園の紅葉・黄葉が美しい。ちょっと公園を歩いてみよう。この人口的な街の人口的な公園に深まる秋の訪れを感じるじゃあないか。「自然」はこういう場所では人間があえて作っていかないと存在し得ない。それがうまくコラボすると街の魅力が生まれる。

 もう一つの大都会、東京も同じだ。意外に緑が多く季節の移ろいを感じることができる。実は東京のもう一つの魅力になっている。江戸時代の大名屋敷や寺社、江戸城などの広大な邸宅敷地、庭園が明治以降残されて、皇居や上野公園や代々木公園、芝公園のような緑地として保存活用されているからだ。西欧文明で言うところの「公園」としては日本も19世紀後半の明治期に整備されていった。まず日比谷公園が日本初の洋式公園として開園した。さらには六義園や後楽園、清澄庭園、浜離宮庭園などの大名庭園が残されていて市民の憩いの場となっている。これだけの人口密集大都会にしては結構な緑地密度だ。江戸のレガシーが近代に生きているのだ。有名な明治神宮の森が、林学者や植物学者の知恵で100年先を見越しながら人口的に創出された森である点はセントラル・パークの由来に似ている。

 一方、世界のもう一つの大都会、ロンドンは広大な公園が多いことで有名。こちらはハイドパーク、ケンジントンガーデン、リージェントパーク、セントジェームスパーク、リッチモンドパーク、ハムステッドヒースなど、一つ一つが広大な敷地を有している。もともとが領主の狩場であったり、邸宅であったり。ある意味では江戸の大名屋敷と類似のルーツかもしれないが、その広大さと、自然のまま今に至っている点は他の追随を許さない。むしろシティーやウェストエンドなどのオフィス街や商業地の方が後からできたのもので、都市の中に緑地を求めて公園整備したニューヨークや、「公園」概念を欧米から輸入して既存の寺社地や大名屋敷跡を「公園」指定した東京とは異なる歴史を有している。すごいとしか言いようがない。。

 さて、今回は秋も深まったマンハッタンの3つの公園をご紹介しよう。いずれも定番中の定番。しかし、何度訪れても心に響く都市公園。彩りと季節感あふれる都会の庭。I am in a New York state of mind. アップタウンのセントラルパーク (Central Park)、ミッドタウンのブライアントパーク(Bryant Park)、ダウンタウンのワシントンスクエアーパーク (Washington Square Park)だ。



1)セントラル・パーク (Central Park)

 アップタウン59丁目から110丁目まで南北51ブロックに渡る広大な公園だ。ルーツは19世紀初頭にアッパーマンハッタンの開発の一環として企画された公園だそうだ。マンハッタンは南端から人が住み始め、徐々に北へと開発されてた。従ってアッパーマンハッタンは人気もまばらで乱雑に居住地区が形成されていたようだ。あまり裕福な人々が住んでいたわけではなかった。そうした住人を追い出して公園や新しい街区を作る。都市再開発につきものの光と陰の歴史を刻む。公園自体は元々の自然の池や地形を生かしつつ、植栽を施し人口の森や牧草地を形成していった。しかし幾つも露出している岩山を爆破して道を通したり、作庭にはかなり苦心したようだ。今でもここに来るとあちこちに大きな岩が露出していて、マンハッタン島は巨大な岩山、いや岩礁であることが理解できる。岩盤がしっかりしていて地震も怖くないからあんな高層建築が次々と建てられたという訳だ。セントラルパークは1878年に現在の規模で開園された。当時、ニューヨークの住民は主にロアーマンハッタンに住んでいた。しかし、あたりには緑地も少なく、公園らしい公園もない。公開の空き地も乏しかったので、市民はこの公園の計画に大いに期待したが、なにせアッパーマンハッタンなのでセントラルパークまで行くのに時間とお金(交通費)がかかる、と開園当時は評判が悪かったそうだ。

 今や公園のイーストサイドにはメトロポリタン美術館、グッゲンハイム美術館、フリックコレクションや動物園、ウェストサイドには自然史博物館、ジョン・レノンが住んでいたダコタハウス、ストロベリーフィールズ、コロンビア大学。そして両サイドともニューユークを代表する高級住宅街となっている。そういえば国連大使公邸も総領事公邸もパークイーストにある瀟洒な建物だった。もっとも公園の北端はハーレム地区に接している。今でこそハーレムも治安が改善し、アポロ劇場のある125丁目など新たな観光地区として脚光を浴びているが、かつては足を踏み入れるのもはばかられる佇まいだった。セントラルパークの北端110丁目あたりはスラム街と高級住宅街が道路を隔てて接しているという、いかにもアメリカの光と影を象徴するようなエリアであった。セントラルパークもかつては治安が悪くて、20世紀後半はドラッグがらみの殺人事件や強盗の巣窟となっていた時期があった。夜はもちろん、昼間でさえ人気のないところは絶対避けるべし、と言われていた。80年代後半にニューヨークに赴任していた時には家族を連れて行ってみる気にもならなかったが、最近は劇的に安全になった。



秋深まるセントラルパーク


露出した岩が独特の景観を

プラザホテル
ロック


スケートリンク


シープメドウ



空から見たセントラルパーク
撮影機材:Leica SL + Vario Elmarit 24-90(最後の空撮写真を除く)


2)ブライアント・パーク (Bryant Park)

 42丁目と五番街の角にある。グランドセントラルやタイムズスクエアーの中間地点にあり観光客にも人気のスポットだ。セントラルパークなどと比べると限られたスペースの公園だが、ミッドタウンの中心に位置する貴重なオープンスペースだ。ニューヨーク公立図書館 (New York Public Library) が隣にある。五番街側から見るとまるでブライアントパークは図書館に付属する裏庭みたいにも見える。なんとその公園の地下は図書館の書庫になっているそうだ。オフィス街の便利なところにあるので周辺のビジネスマンの憩いの場所になっている。またニューヨーク・ファッションウィークなどの様々なイベント会場になる。この季節はアイススケート場がオープンする。この日はまたホリデーシーズンショップとしてファッショナブルでアートなお店がズラリと並んでいて楽しい雰囲気であった。ちょっと日比谷公園を彷彿とさせるポジショニングと規模感、雰囲気なので我々にとってもアットーホームな感じがする。実際、会社がすぐ近くのパークアベニューにあったので昼休みなどよく散歩したり、昼食にサンドイッチ食ったりした。ベンチの他、自由に動かせる椅子とテーブルがたくさんあるのでコーヒー飲んだり、喋ったり、気ままな雰囲気でくつろげる。なんとなくオシャレで、好きな公園の一つだ。ここへ来るとニューヨーカーになった気分を味わえる。

 元々はクロトン給水池(Croton Distribution Reservoir)があったところを、1884年公園として整備したものだそうだ。当時の奴隷解放運動家William Bryantの名を冠してBryant Parkとした。1899年には給水所跡に図書館を建設した(やはり図書館の方が後からできたんだ!)。20世紀後半になると、ベトナム戦争反対の大集会が行われたり、その後の厭戦気分や経済の停滞時期にはこの公園もドラッグ密売人の巣窟となったり治安が悪化。市民の憩いの場には程遠い存在になってしまった。そこで、公園再整備のための財団、団体を地元財界・市民が中心となって設立し、1988〜92年の間公園を一旦閉鎖して完全リノベーションを行なった。再開して今のブライアントパークがあるという訳だ。



ニューヨーク公立図書館

ブライアントパークの昼下がり

Citi Pondスケート場オープン!
図書館を背景に

子供達に人気のアトラクション


ファッショナブルな出店を眺めながら散策





エンパイアステートビルが見える









6番街側からの眺め

金曜日の夜はスケートを楽しむ家族で賑わう

夜も独特の雰囲気だ


図書館に付属するレストランも賑わっている

夜の公園も美しくロマンチック!

撮影機材:SONYα7RII + SONY EF 24-240


3)ワシントン・スクエアー・パーク (Washington Square Park)

 グリニッジ・ヴィレッジの中心にデンと鎮座ましましているランドマーク的存在の広場。シンボルの凱旋門は五番街の南端に位置している。1879年、合衆国初代大統領ワシントンの就任100年を記念して木造の凱旋門が建設されたが、のちに1892年に大理石の凱旋門に建て替えられた。ちなみにパリの凱旋門に似せたもの。公園の名は言うまでもなくそのワシントンにちなんだものである。

 17世紀オランダ人がマンハッタン島をネイティヴアメリカンから買い取って(ほぼ奪い取って)プランテーションを築いた時代は、ここにはネイティヴアメリカンからの襲撃に備える防御施設や農場、奴隷に与えられた土地があったそうだ。なんとオランダ東インド会社が支配していた地区だった。そもそもニューヨークはかつてニューアムステルダムと称していた(ここから南のマンハッタ島南端に位置していた)。長崎出島やジャワ・バタビアのオランダ商館でお馴染みの東インド会社はココにも進出していた。当時はオランダがイギリスに先んじて海洋帝国を築いていた時代。ニューヨークにはオランダの痕跡があちこちに見える。ハーレムもオランダ人が開いた居住地だった。ところでこの広場はかつて墓場であった時期もあり、今でも地下には多くの遺体が埋葬されたままだと言う。日本的仏教観で言うと、この公園には未だに成仏できない御霊が彷徨っているかもしれないと言うことか!19世紀になるとニューヨーク市当局により、ここに軍隊パレードのために広場が作られた。その後それが廃止になると、市民の憩いの場として整備された。ここもかつては20世紀後半にはヒッピーやホームレス、ドラッグディーラーがたむろするあまり好ましくない公園であったが、最近はすっかり改装整備されて安全で清潔な公園になった。

 しかしそんな歴史はともかく、団塊世代、フォーク世代にとって、ここは何と言ってもブラザーズ・フォアの「ワシントン広場の夜はふけて」でお馴染みの「広場」だ。当時高校生だった私は、ワシントン広場がどんなところか想像もできないままに、ギター片手に歌だけは学園祭で歌ったものだ。「そうかこんなところだったんだ」と初めてここに来た時は感激したものだ。今でも往年の「フォーク青年」が広場に集まって歌っているのを見ると、やはり青春のフォークの聖地なのだと認識させられる。この曲、実はヴィレッジ・ストンパーズというジャズ・フォークバンドがバンジョーかき鳴らしながら歌ったのがオリジナルで、ブラザーズ・フォアはカバーしていたんだということをずっと後になって知った。知らないことばかりで「昔はものを思わざる」だ。

 隣にはニューヨーク大学の建物群が立ち並んでいて、アカデミックでアルチザンな雰囲気に満ち溢れる地域であることを感じさせられる。高層ビルに囲まれたミッドタウンと異なり、空が広くて大きい。秋深まる公園の樹々や建物を夕日が照らし、いかにもヴィレッジの名にふさわしい佇まいだ。





プロテスターたちの集会場所としても「人気」

凱旋門からはエンパイアステートビルが
ここは五番街の終点なのだ。


西日が街路樹を赤く染める


往年のフォーク青年たち


深まりゆく秋の気配







New York大学職員住居
アパートなのだろうか?



撮影機材:Leica SL + Vario Elmarit 24-90


2016年11月21日月曜日

ニューヨーク郊外の小さな街 〜コロニアルタウン、ペンシルバニア州ニューホープ探訪〜


New Hope&Ivyland鉄道
New Hope駅

栄光の大陸横断鉄道の面影を今に残す客車


 ニューヨーク/マンハッタンから車で1時間半。ここニューホープ(New Hope)は、植民地時代から続く小さな町。フィラデルフィアからニューヨークにいたる幹線道路、Old York Roadのちょうど中間地点にある。デラウェアー河西岸ペンシルバニア州に位置し、橋を隔てて対岸がニュージャージー州ランバートビル(Lambertville)。独立戦争前の1773年に開かれたコロニアルタウンだ。今は週末の「小さな旅」を楽しむ人々に人気の歴史の町。元々は川の渡し舟があったのでCoryell's Ferryという名前であった。しかし、のちに1790年の火事で街が焼けたため、再建に立ち上がった住民が街の復興を祈念してNew Hopeと命名したという。

デラウェア川渡河作戦の図
メトロポリタン美術館蔵
独立戦争の時にはジョージ・ワシントンがデラウェアー渡河作戦を控えて、この地に滞在したと言われている。1776年のクリスマスの夜のことであった。これまでイギリス軍に押し込められてペンシルバニアまで撤退を余儀なくされるという劣勢を挽回すべく、デラウェア川渡河作戦を決行した。そしてトレントンの戦いでドイツ人傭兵部隊を破った。これまで独立に自信を持てず懐疑的であったアメリカ植民地軍を勇気付け、独立へと向かうきっかけとなった戦いだと言われている。アメリカ独立戦争の画期となったこの歴史的な渡河作戦は、様々な絵に描かれており、メトロポリタン美術館やホワイトハウスなどに掲げられている。まさに「鞭声粛々夜川を渡る」場面だ。



 ニューホープは現在は人口2500人ほどで、主な産業は観光。また不動産の取引価格ランキングではペンシルバニア州で一位になるなど人気の地域でもある。街のメインストリートは小さくて週末は観光客の車と人で結構混雑しているが、周辺の森には広大なリアルエステートが広がっている。前回のブログ(ジョージ・ナカシマ木工家具工房探訪)で紹介したジョージ・ナカシマの工房もこの一角にある。街の真ん中に珍しく鉄道の踏切がある。かつてのNorth Pennsylvania鉄道のNew Hope支線の跡が、今は観光用の鉄道として動態保存されていているからだ。見るからにアメリカ大陸を走り回るために製造した、という風貌の重量級のディゼル機関車と蒸気機関車(この日は見えなかったが)が保存運用されている。客車も鉄道全盛時代のアメリカンな骨董品クラスの車両が修復され運用されている。美しい風景の中を往復45分ほどの鉄道の旅を楽しむことができる。しかし今回はジョージ・ナカシマ木工家具工房訪問が主目的だったので時間がなく、残念ながら大好きな鉄道の旅は次回にお預けとなった。

 街にはコージーなレストランがいくつかある。初めての町でガイドブックにも出ていない小さな町でも、最近はスマホ・ネットで人気店がすぐ見つかる。コロニアルスタイルの瀟洒な建物を利用したベジタリアン向けやイタリアンが人気らしい。ただ、この日は週末で人気の店はどこも満席。空くのを待つ時間の余裕もなかったので、結局アメリカンなハンバーガーとパニーニを売りにしている店に入った。小さいが古民家を利用したアットホームな店で結果オーライであった。むしろゆったりと食事を楽しむことができた。混んでいるとは言っても東京の郊外の観光地をは大違いだ。



クラシックな車がよく似合う


コロニアルスタイルの建物


旧New Hope Town Hall
今は観光案内所になっている
この裏手に小さな監獄があるのが歴史を感じさせる。

小さな街だが週末は長い車の渋滞

観光客で賑わう通り

Elections Dayの前々日だった
あんな結果になるとはこの時は想定していなかった...


晩秋の佇まい

Bucks County PlayHouse
劇場

クリークがあちこちに


New Hopeのメインストリート
その名もBridge Street
Delaware川にかかる鉄橋に直結している

New Hope / LambartvilleBridge
Pennsylvania州とNew Jersey州の州境を流れるDelaware川にかかる鉄橋

Delaware川
静かでゆったりとした流れ
George Washington軍はこの川をクリスマスの夜に渡りトレントンの戦いに勝利する。
「鞭声粛々夜川を渡る」







2016年11月15日火曜日

イサム・ノグチ美術館探訪 〜The Noguchi Museum in Queens, New York〜 

 イサム・ノグチは20世紀のアメリカを代表する日系人彫刻家、総合アーティストである。そのアトリエと美術館がマンハッタンのイーストリバーを隔てた対岸のクイーンズ(ロングアイランドシティー)にある(The Noguchi Museum in New York公式HP)。ニューヨークにいた時、国連本部近くのアパートに住んでいた私は、そこから展望する川向こうにクイーンズ地区の古びた倉庫街、工場街の光景が広がっていたことを覚えている。JFKからマンハッタンに車で入るときに通る渋滞で有名なミッドタウントンネルのクイーンズ側入り口がそこにある。華やかなマンハッタンと荒涼たるクイーンズ。此方岸と彼方岸。いずれにせよ、憧れるような楽しい印象はなく、足を踏み入れて見たいとも思わなかった。そこにイサム・ノグチ美術館があることは知っていたが、そんなこともあって一度も行ったことがなかった。

 孫娘がその美術館の子供向けのクラスに通い始めた、というので娘に連れられて、ようやく行ってみる気になった。案の定、周りは人気のない倉庫街。夜間は絶対歩きたくない雰囲気だ。最近ようやく再開発で忽然とコンドミニアムが建ち始めるようなところである。人気の街アストリアが比較的近いので、悪くないロケーションといえばそうだが、あんまりグリニッチヴィレッジのようなアルチザンな場所という雰囲気でもない。なぜ彼はここをアトリエに選んだのだろう。重い石材を搬入し、重機を使う石像彫刻の工房なのでこうした汗臭いところの方が良かったのだろうか?

 美術館の外見は意外なほど殺風景でコンクリートの建物に小さな入り口が一つあるだけ。そのファサードも美術館という趣ではなく、むしろ周りの倉庫街にマッチした感じだ。しかし、一歩中へ入るとそこは別世界。イサム・ノグチの世界が隅々まで広がっている。その内外のギャップがドラマチックだ。光をいっぱいに採り入れることのできる大きな窓が作品を際立たせている。庭園は緑と彼の石像彫刻とのコラボレーションが心地よい。この日は子供たちの来館者が多くて、庭園で何かキッヅ向けツアーをやっている。うちの孫娘もこうした仲間に入っているのだろう。来館者も引きも切らず訪れてなかなかの盛況だ。マンハッタンの有名どころであるメトロポリタンやMoMaのようなわけにはいかないが、それでも世界中から人が集まっている。みんなどうやってここまで来たのだろう?バスもないし地下鉄だと結構不便なロケーションなのだが。イサム・ノグチに引き寄せられてきた人々にとってそんなことはどうでもいいのだが。


美術館入口!
これが外観!

 
 以下に、美術館の雰囲気といくつかの作品の写真(人が入らないように撮るのが苦労であったが)を掲載しているのでご覧いただきたい。イサム・ノグチの略歴と所感はこの写真集の最後に。





















庭園





 イサム・ノグチは1904年ロサンゼルス生まれの日系アメリカ人。1988年ニューヨークに歿す。彫刻家であり、建築、作庭、公園設計、舞台美術、環境設計、インテリアデザインなど多彩な分野で活躍した。「地球を彫刻した男」と呼ばれているくらい世界中に彼の作品が広がっている。父親は英文学者で詩人の野口米次郎。母親はアメリカ人で小説家のレオニー・ギルモア。ロサンゼルスに生まれ、日本とアメリカの間を行き来して育つ。多彩な人々と交流し、非凡で数奇な人生を送っている。その作品は枚挙にいとまがないほどである。

 1961年にクイーンズ、ロングアイランド・シティーに工房を開き、1985年には同地にイサム・ノグチ庭園美術館を開館する。日本には1969年に屋島と五剣山を背後に控えたロケーション、庵治石の産地である高松牟礼町に石像彫刻のアトリエを開いた。以降、こことクイーンズの工房を行き来して創作活動に勤しんだ。現在はイサム・ノグチ庭園美術館となっている。日系人建築家で家具デザイナーのジョージ・ナカシマとも交流があり、奇しくも同じ牟礼町にジョージ・ナカシマ記念館がある。

 父が日本人で母がアメリカ人、というイサム・ノグチは、その時代の日系米国市民の御多分に洩れず、ルーツが日本人であるというだけで困難な立場に立たされた。さらにいわゆるハーフゆえの日米双方からの微妙な扱いにも悩まされた。戦時中、彼は志願してかの日系人収容所に入ったのだが、日系人からは米国政府のスパイじゃないかと疑念を持たれ、やむなく出所を決断する。すると今度は米国政府からは「敵性外国人」は出所させないという。自由の国、移民の国アメリカの現実を思い知らされた。さらに戦後は、広島の原爆慰霊碑のコンペで提案を求められ応募したが、結果的には「米国人」の案を採用するわけにはいかないとして却下された。その一方、米国大統領の記念碑のコンペでは、「日本人」だからということでやはり却下されたという。国籍や人種を超越した人類の宝にしてこれほどの天才であっても、国家の都合、政治的なコンフリクトの都合で理不尽な扱いを受ける。人類にとっての普遍的な価値や美意識、個人の能力の評価、私人としての平和な日常生活。これらを妨げる「国家のロジック」とは一体なんなのだろうか。今回のニューヨークへの旅は、ちょうど11月8日のElections Dayに重なり、移民排斥やイスラム教徒の入国禁止を主張するような人物が次期米国大統領に選出された。これまで米国が築き上げてきた民主主義や自由主義という価値観を根底から覆しかねない「憎しみ」を前面に打ち出した人物を選んだ米国人。この結果に全世界が驚愕するという歴史的場面に遭遇しただけに、その感を強くせざるを得なかった。



ニューヨークのロックフェラーセンターの建物壁面レリーフの一つはイサム・ノグチの作品。
あまり彼の傾向と異なる作品なのでこれまでそうとは気がつかなかった。