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2017年1月28日土曜日

「野村碧雲荘」探訪 〜京都南禅寺界隈別荘群を巡る(2)〜

 
東門
鹿ケ谷通りに面する表門


 幸運にもこのたび京都の「野村別邸碧雲荘」を見学する機会を得た。ここは野村証券や旧野村銀行/大和銀行の創業者である野村徳七翁(得庵)が私財を投じて作り上げた南禅寺界隈きっての数寄屋建築、庭園を配した別荘である。現在でも人手に渡らず創業家/その関連事業体が所有、維持する稀有な邸宅である。時代の変遷に伴い所有者が転々と変わる別荘が多いなか、ある意味珍しくなっている。さすが野村グループである。所有者が変わらないのはこのほか、住友家の「友芳園」くらいだ。6000坪に及ぶ広大な野村別邸は、大正4〜5年頃から建設、造庭が始まり昭和3年に完成した。建物は数寄屋大工第一人者の北村捨次郎、作庭は第7代小川治兵衛(植治)。ちなみに公開されている旧山県有朋別邸「無鄰菴」を含め南禅寺界隈の邸宅群の多くの庭園は七代目植治が手がけている。平成18年には文化財指定された。

 事業も趣味(能楽、茶道)も超一流。現在の野村グループへと続く事業を成功させた創業者であるというだけでなく、趣味人としても完成の粋に達している。こうした数寄者の極みを後世への遺産として残した野村翁だ。この境地に立てる人物は少ない。ただ金持ちだから出来る道楽、ということでなく、そこまでなんでも極めるというコミットメント。文化の保護と継続に対する高い目線と感性と情熱。そういう人生を全うするとは実に羨ましい限りだ。富豪だからと言って、人品骨柄卑しからずとはいかない例を最近見せつけられることが多いだけに。

 当日の京都は雪模様で、寒い一日であった。西門から入り、待月軒に通される。茶会で用いられるという不老門をいったん出て再び邸内に入り、庭園、茶室や書院を見学の後、東門から出るというコースで案内していただいた。東門がこの邸宅の表門である。

 まずは待月軒からの池庭の全景に思わず息を飲む。東山連峰の南禅寺山、永観堂の多宝塔を借景とし、常緑の赤松と芝生が池端を彩る。左手には大きな桜の木が、右手には舟型の茶室が見える。池には白鳥が泳ぎ、一艘の舟が浮かぶ。七代目小川治兵衛の手になる名園だ。折も折、小雪がサラサラと園池に舞い、東山の山肌に白い雪が霜降り模様を生み出す。待月軒の障子窓に縁取られた庭園の全景が、まるで一幅の絵のようであった。池端に佇めば白鳥がフレンドリーに寄ってくる。がこれはフレンドリーだからではなく、縄張りを主張しているからだとか。

 邸内を案内されて進むと、舟型の茶室盧葉庵と観月台を兼ねる舟舎羅月がある。現存する舟型茶室としては日本に3つしかないという。数寄者の極みであろう。その脇には立方体の巨石がしつらえてある。大阪の勝尾寺から運んできた銘石だという。大きすぎて幾つかに分割して運んだらしく、よく見ると表面に切れ目がある。そこまでして運ばせる。ここにも数寄者ぶりが遺憾なく発揮されている。

 ところで池には水が満々と満ちているが、流れるべきところに水が流れていない。滝も落水がない。本来は水の流れの中に据えられているべき蹲が、立ち位置を失って所在無げである。聞けば、ここ数日琵琶湖疏水の水路の清掃中で、水が来ないのだそうだ。いわば断水中。図らずも南禅寺別荘群の植治作庭の池泉回遊式庭園は、琵琶湖疏水があるからこそできた名園であることを知ることとなる。

 茶室は、先ほどの池に浮かぶ舟型茶室盧葉庵のほかに、藪内流の花へん亭、それに続く又織庵(織部様三畳)と南光庵(利休様二畳)がある。その前には飛鳥から移築したという酒船石を配した露地庭園がある。招客、目的によって茶室を選んだと言われている。野村翁は比較的晩年になって茶道に目覚めたようだが、極め人はここまで拘って茶室を営んだ。茶号を得庵と号す。

 中書院の前庭には大きな藤棚がしつらえられている。この藤は上むきに花がつく珍しいもの。この二階は野村翁の書斎であったそうで、二階の窓から上に伸びるこの藤の花を愛でたという。また上むきに伸びる藤の花は事業の隆盛を象徴する縁起の良いものとして珍重されたそうだ。ここから見える池の真ん中には丸い丘がある。冬のこの時期は何もないが、夏にはここに半夏生の白い葉が生い茂り、まるで池面に映る満月のように見えるとか。なんと粋だこと。

 大書院は数寄屋建築というよりは寝殿造りに近い荘厳な建物となっている。大玄関を入ると応接間があり、その隣に能舞台がしつらえられている。野村翁の能装束の木造が置かれている。その奥が大書院となっており、昭和3年の昭和天皇即位の御大典にさいし、列席の久邇宮殿下/妃殿下が滞在された。大広間にかかる扁額「碧雲荘」は久邇宮殿下の御真筆。この翌年殿下は逝去され、これが絶筆となった。

 大玄関の正面に東門がある。ここがこの別邸の正門であるが、威圧的な構えではなくいかにも数寄屋風別邸を楽しむための入り口といった趣である。こうして西門からスタートしたひと時の別世界ツアーはエピローグを迎え、ここで野村碧雲荘を辞すこととした。非日常世界を堪能させていただいた後、此の東門をくぐると、いつもの観光客で賑わう鹿ケ谷通りに出た。夢の世界を徘徊したのち、いきなり現実世界へ立ち戻った浦島太郎の気分である。

 邸内は非公開である。定期的な公開の予定もないという。生前のスティーブ・ジョブズが是非見学したいと申し出てもなかなか実現しなかったというエピソードが語り継がれている。邸内見学ができたということはそれだけでとても幸運なことだ。当然フォトグラファーにとっては写真撮影を試みたい貴重な機会である。写欲を激しく刺激してくれるしつらえ。えも言われぬ超絶景観。どれを取っても写欲煩悩を抑えきれない。しかし基本的には撮影禁止。ただ一切の出版物やSNS,ブログなどに公開しないことを条件に、ようやく数枚の記念写真撮影が許可された。したがって残念ながらここに邸内の写真を公開することはできない。もっともこうした私的な空間である邸宅、庭園をやたらに他人が勝手に撮影して公開するのは差し控えるべきであろう。また下手な素人写真でその深遠なる静寂と華やぎ、あるいは遊び心を切り取った気になって、ネット上に流布させることが、そのイメージを傷つけることにもなりかねない。やはりできれば、実際にその場に身を置き、その空気を嗅ぎ、自分の目で見、耳で風を聞き、肌で佇まいを感じるのが良い。そういうパーソナルな経験にとどめておいたほうが良い。中々その機会を得るのが困難であるが、それだけにその機会を得たときの喜びもひとしおである。今回は「雪の碧雲荘」を深く心に刻んでおこう。



西門
この右手に「不老門」がある


西側の景観
この左隣は「清流亭」




参考:南禅寺界隈別荘群とは

旧山県有朋別邸「無鄰菴」以外は非公開。
明治初期の廃仏毀釈にともない廃止された南禅寺塔頭跡を利用
ほとんどの庭園は第七代小川治兵衛(植治)の作
東山の借景
琵琶湖疏水を利用した池泉式庭園。
数寄屋作り建物

といった共通点がある。

 明治・大正・昭和初期の政財界の大物による別邸構築。山縣有朋がその嚆矢であったという。しかしこれらの豪華かつ伝統的な建物や庭園を今に伝える努力も並みや大抵ではない。次々とオーナーが変わるのは、その維持にかかる費用と労力が生半可ではないからだ。なかなかこうした文化財を所有し維持できるだけの財力を有する資産家が少なくなっているのが現状だ。その対策として創業家の資産から切り離して、法人たる会社で所有し迎賓館として利用したり、公益財団法人に資産を移管するケースが多い。また料理旅館や結婚式場などへ転換する例もある。

 明治以降、かつてはこうした文化や芸術は華族や政財界の大物である資産家などがパトロンとなって育成保護、継承を行なってきた。しかし、最近は突出した素封家がいなくなり、個人としてコミットできるケースは少なくなっている。ある別邸の現在のオーナーは、次々と転売され所有者が変わる現状について、「私もその一人であるが、この時期にバトンタッチした者として、この国民の文化財を大事に引き継がせていただきます」と述べている。そういう覚悟と使命を心に刻める資産家が最近は少なくなってしまったようだ。数少ない現代の個人資産家も、もう少し文化のパトロンの視点から社会に富の還元をしてほしいものだ。文化財の保護と継承はその時代の富裕層の義務である。アメリカのつまらん会社を高額買収などするのでは無く。おおっと、野村証券のコーポレートバンキング部門の商売を邪魔しちゃいけない。



 代表的な南禅寺界隈の別邸(順不同):

野村碧雲荘(野村別邸)
有芳園(住友別邸)
對龍山荘(ニトリホールディングス所有)
怡園(旧細川家別邸)
智水庵(旧横山家別邸)
清流亭(旧西園寺公別邸)
流響院(真如苑所有)
真々庵(パナソニック所有/旧松下幸之助別邸)
無鄰庵(旧山県有朋別邸)
何有荘(ラリー・エリソン所有)

桜鶴苑(株式会社目黒雅叙園桜鶴苑 結婚式場)
八千代(料理旅館)
菊水(料理旅館)
順正書院(湯豆腐順正)


 2015年1月に訪問した「無鄰菴」に関するブログをご参考まで:
「無鄰菴」庭園散策 〜南禅寺界隈別荘群を巡る(1)〜
こちらは一般公開されている。


 以下の写真で、南禅寺界隈別荘群エリア散策の雰囲気を感じていただければ幸甚。

この界隈の邸宅はどこもこのような長大な壁に囲まれている

怡園
旧細川家別邸

清流亭
旧西園寺公別邸
左手が野村碧雲荘

右の生垣内は真々庵
松下幸之助別邸

琵琶湖疏水

八千代

對流山荘

對流山荘外観

菊水
對流山荘の向かいにある

順正
南禅寺順正書院跡

何有荘

無鄰菴庭園

(撮影機材:LeicaQ Summilux 28mm 1.7f ASPH)



南禅寺界隈別荘群配置図
京阪電車HPより借用





2017年1月5日木曜日

2017年 世界は戦後レジームの終焉へ 〜資本主義崩壊への序章?〜

「時代の画期」2017年の夜明け
主役はこの人↓
第45代アメリカ合衆国大統領 Donald J. Trump






 年が明けた。2017年という年が。おそらく後世の歴史家からはひとつの時代の終焉とあらたな時代の始まりという画期(turning point)の年として記録され、人々に記憶されることになるだろう。1945年以来72年続いた戦後レジュームの終わりという。そして予測不能の混沌に時代へ突入していった年として。2016年6月。イギリスのEU離脱、という、まさかの国民投票結果に始まり、それに続く11月のアメリカ大統領選挙における想定外の泡沫候補トランプの勝利。両方とも国民投票、大統領選挙という民主主義の手続きにもとずく国民の選択であった。その「まさか」と「想定外」が世界を動かすことになる。今年イギリスはEUからの脱退手続きに入り、いよいよトランプが第45代アメリカ合衆国大統領に就任する。さらに今年はフランス、ドイツでも選挙がある。ネオナチなど極右勢力、反移民/EU離脱を主張する勢力が欧州各国で力を得て台頭するだろう。EU崩壊は時間の問題となった。「ナチの亡霊」が世界を徘徊し始める。中国では全国人民代表大会があり習近平が再任されて権力基盤を確立できるかどうか微妙な時期だ。全てに想定外、まさかの事態が続出する予測不能な恐ろしい時代へと世界は転がり落ちてゆく。

 ファシズムを打ち倒して第二次世界大戦に勝利し、戦後、共産主義の本家ソ連との冷戦に勝利し、世界の唯一の超大国となったアメリカに、史上最も無知で蒙昧な大統領が誕生した。アメリカ人はその男を選んだのだ。1945年以降、アメリカが営々として築きあげてきた世界における西欧型秩序と安定。自由と民主主義と法治主義という正義の理念の守護者としての地位。彼らはそれを投げ捨ててしまう選択をした。それはアメリカの建国以来の歴史の中で多くの若者の汗と血、そして知性で贖ったものなのだが、それを全て反故にして、自分の国さえよければそれで良いというただの国になろうという。笑ってしまうのは「アメリカを再び偉大な国に!」(We make America Great Again!)というキャッチフレーズ。さぞ世界中から祝福され、憧れられ、尊敬を集める国になれることだろう。おおっと、ユーラシア大陸の不安定要因、不正義のシンボルであるロシアと中国が跳梁跋扈するチャンスが巡ってきた。風向きが変わってプーチンの思惑通りに事が進み始めた。トランプがプーチンを「好きだ!」と言った。大統領選でクリントンを追い落とすハッキングによるの選挙介入が功を奏した。トランプのスキャンダル/弱みを握っているからアメリカは俺の意のままに動く、とプーチン。習近平は未だ共産党内の権力基盤を磐石にする事ができず焦っていたが、この事態に狡猾に沈黙するが、内心は小躍りして喜んでいる。南シナ海は俺の者だ!「同志、チャンスが巡ってまいりましたぞ」と。しかし彼らはいずれも国内に潜在的な爆弾を抱えている。ロシアも中国も常に政権の内部崩壊の危機にさらされている。国内の富の分配システムの不都合で国民の不満が爆発寸前。だから対外的に強硬な策を展開して、国民の目をそらし自らの統治権力の正統性を国民に見せつけようとする危険国家の道を歩まざるを得ない運命にある。それを牽制できたのは唯一アメリカだった。そのアメリカが彼らと同様、内部崩壊の危機に直面し、対外的には急速に力を失い予測不能(unpredictable)な危険国家に転落する。アメリカの同盟国は揺れ動いている。とりわけ、米中露という厄介な覇権国家の狭間にある日本や台湾、韓国は難しいポジションに立たされる。リーダーには自らの立ち位置を見極める情勢認識と、したたかな外交手腕が求められる時代に突入する。

  トランプはMake America great again!とわめいている。反グローバリズム、自由貿易粉砕!、アメリカファースト、移民排斥、イスラム教敵視、金を払わない同盟国は見放す。プーチンは偉大だ!? 北朝鮮の金正恩と会ってやってもいいぜ!etc.etc. 何を戯言並べているんだ。自由と民主主義と法治主義、世界の外交戦略とパワーバランスを本当に理解しているのか。言ってることは支離滅裂。無知蒙昧な史上最低の大統領にしか見えない。国民との対話は拒否し、マスメディアを敵視し、ツイッターで一方的に腹立ち紛れの暴言を放つだけ。無知で傲慢な奴ほど自信過剰だ。彼は政治経験は無いシロートだ。ただビジネスマンとしての経験が豊富だと言われている。しかしそんなことより彼の人としての資質が問題だ。第一、彼はニューヨークの不動産屋でビジネスマンですらない。国際的なビジネスなどやったこともない。彼の世界観は、Japan as Number Oneの時代、日米貿易摩擦でヒートアップしていた時代のものだ。アメリカの貿易赤字の50%が日本であった時代のものだ(今や中国が50%、日本は9%になっている)。そんな時代はとうに終わり、アメリカで売れている「日本車」のほとんどは、アメリカで製造され、アメリカ人の労働者が作ったMade in USAのTOYOTAやHONDAやNISSANになっている。彼の国際ビジネス環境に関する知識は30年前のそれから変わっていない。しかもアメリカが世界を圧倒的にリードするITやバイオや知財によるサービス産業に関する知識は全く無いに等しい、オールドエコノミーの人間だ。そんな彼がどうしたら「アメリカを再び偉大な国に」できるのかさっぱりわからない。もう少し勉強してから大統領になれよ。そんな無知な奴を選んでしまったアメリカ人は惨めだ。実は彼はMake China great again!、Make Russia great again!を進めているジョーカーなんだ。アメリカ国民はそんなジョーカーを引いてしまった。日本のトランプゲームで一番ルールがわかりやすいババ抜きの「ババ」だ。最後まで持ってると沈没する。しかしその影響はアメリカだけにとどまらない。同盟国は一蓮托生でババを引かされ沈没する。冗談じゃないよ。であるから「一抜けた」が続出する。最後までアメリカに付き合ってババ持たされる国はどこだ?Americsa First! America First! America First!アメリカが一番最初に滅びる、っていうことか?


 反知性主義(大衆迎合ポピュリズム)、反グローバリズム(ナショナリズム、反移民政策、保護貿易)。この道はいつか来た道。理想国家ドイツワイマール共和国の後のナチス/ヒットラーの熱狂的な登場。国家社会主義(ナチズム)というナショナリズム、アーリア人優越思想、反ユダヤ主義、わかりやすい言葉を使う独裁者。その共同幻想体、それを打倒したのはアメリカを中心とする連合国陣営であったはずだ。その後の冷戦時代に鉄のカーテンの向こうにいた共産主義イデオロギー国家ソビエトを崩壊させたのもアメリカだった。しかし、一方で西欧列強の食物(くいもの)にされてきた中東諸国の混沌のパンドラの箱を開けてしまったのもアメリカのブッシュ親子だった。テロは世界中に拡散し、アメリカ本土にまで及んだ。難民はヨーロッパに大量流入。どうしてくれるんだ。今更手を引くなんて... そういう点では、演説は上手いが外交安全保障無策の知性派オバマの罪も大きい。今そのアメリカが崩壊の危機を迎えている。皮肉な歴史の巡り合わせだ。今からでも遅くない。世界のリーダになった時から自分勝手なことできない国になってしまったことを覚悟すべきだった。世界に紛争とテロの種をばら撒いてしまった以上、世界の警察官をやめるわけにはいかない。大英帝国の二番煎じをやるつもりなのか。世界に戦乱と紛争をばら撒いておいて、自分は自国に引きこもり隠居生活を送る「好好爺」を演じるつもりか。アメリカはもっと歴史に学ぶべきだ。このままではどうやら終わってしまった国になるだろう。「再び偉大な国に」ではなく、パクスアメリカーナの時代に幕を引き、観客のブーイングの嵐のなか舞台から退場する。「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」(ビスマルク)。

 もう一つの皮肉は資本主義の運命だ。歴史に永遠はない。「驕れる者は久からず」「盛者必衰の理あり」。長く続いたイデオロギーとシステムもいつかは崩壊する。これが歴史が語る理(ことわり)である。そう、格差社会は極限まで来たのだろう。富の分配の不公平が極限まで来るとそのシステムの崩壊につながってゆく。少数の持てる者に対する多数の持たざる者の闘争が始まる。20世紀にカール・マルクスが予言した資本主義の終焉が21世紀になってとうとうやってきたようだ。持てる者と持たざる者、すなわち生産財を持つ資本家階級と、それに労働力を売るだけの「徒手空拳の」労働者階級。マルクスはその「労働力」こそが価値を生み出す源泉だと説いた。そして階級闘争が起き、「失う者は鉄の鎖以外なにもない」労働者が生産手段を奪取する社会主義/共産主義革命で資本主義の矛盾は解消するのだと。しかし、彼が提唱した社会主義/共産主義は皮肉な事に資本主義より前に破綻してしまった。

 だが、その資本主義が、今マルクスが予言した通りに着実に崩壊に向かって歩を進めている。現在の格差社会はそろそろ臨界点に達しつつある。昨年起きた「想定外の出来事」「まさかの結果」はそのプロローグの第一ページに過ぎない。あらたな持てる者とも持たざる者の階級闘争が起こる。反知性主義、反グローバリズムという形の階級闘争。グローバル経済の恩恵と金融資本のマネーで富の分配にありつけた者とそうでない者というあらたな階級闘争が。大統領選で民主党から立候補し、最後までクリントンと指名を争ったサンダース上院議員は、こうした富の再配分を主張する社会主義政策を打ち出し、若者を中心に高い支持率を獲得した。資本主義の依り代であるアメリカで社会主義を打ち出す大統領候補が出現し、最後まで接戦を演じたこと自体、資本主義の終末期を象徴しているように見える。一方で、結局は保護主義のオールドエコノミー資本家代表トランプが勝利したのは、資本主義最後のあがきかもしれない。最近ケインズが再び脚光を浴びつつあるという。戦後、英国労働党の社会福祉政策や産業の国有化などに理論的指針を与えたケインジアンモデル。しかし、結局は社会民主主義的な経済政策は国家の財政破綻や、市場の経済活動の停滞を招いた。「英国病」などと揶揄されていた現状を、保守党サッチャーの新自由主義経済政策(サッチャリズム)が変え、英国が復活したのは記憶に新しい。そして歴史は繰り返す。だがケインジアンモデルは現在の経済のグローバリズム、金融資本主義における富の再配分に有効な手を打てるのだろうか。これから起こる「予測不可能」という混沌は、理論的に計算できて避ける方法を考え出せる「リスク」とは異なり、誰も処方箋を書けない。未来を予想することは誰にもできない。「神の見えざる手」も及ばないかもしれない。そういう意味では経済学の限界が見えてきたと言えるのかもしれない。

 一方で、富の配分にありつけなかった者同士がわずかな残り物を争う構造は歴史の常である。こうした事態は社会的混乱を引き起こす。そこに極端な主張を弄ぶアジテーターが登場する余地を生み出す。そしてアレヨアレヨという間にヒーローに祭り上げられてゆく。白人失業者と有色人種移民。人種的マジョリティーの筈なのに富にありつけない層と、マイノリティー対策で「保護されている」筈だが富の配分には預かっていない層。そういう争いの二元論。それはしばしば宗教対立や人種差別に置き換えられる。「正義の神」と「呪われし異教徒」という形で。どちらも原理主義的な急進派のアジテーションが先鋭的に憎しみと暴力の連鎖を生み出しているのだが。イスラム教徒はテロリストだ。アラブ系移民はテロリストだ。メキシコ移民は犯罪者だ。中国人や日本人は俺の仕事を奪う悪い奴らだ。分かりやすく「一般化」して社会を分断化するアジテーションに容易に転換してゆく。問題の背景を捨象して、物事を単純な白か黒かで説明する。そんなアジテーターに共感する大衆。かつては、富の配分に与れない「徒手空拳のプロレタリアート」は社会主義や左翼アジテータを支持したものだ。しかし、彼らの凋落は眼を覆うばかり。かくして、悲しい事に、道に落ちている小銭を巡って争い、嫌悪しあう「負け組」はトランプのような感情のままに本音で暴言を吐く「大衆迎合主義者:ポピュリスト」を賞賛する。彼が一握りの超富裕層で「勝ち組」のチャンピオンであり、ウオールストリートを叩いていながら、実はユダヤ金融資本の一味であることを忘却している。崩壊した勤労中産階級や下層階級のことなど理解も共感もしない大金持ちであること。まして、人生で道端の小銭を奪い合った経験などない人間であることなどどこかに忘れてしまっている。この矛盾、まさに「ポピュリズムの幻想」そのものだ。

 かつて見たアメリカ映画の西部劇のお定まりのストーリー。メキシコ人強盗団と保安官、インデアンと奇兵隊。悪者と正義の味方の戦いという二元論。何度もなんども見せられて刷り込まれた正義の方程式。正義は必ず勝つ!というありきたりのストーリーで描けるほど世の中は単純じゃない。その保安官バッチをつけてるヤツは酒場で1ペニーも払えないようなオマエの味方じゃない。金ヅル持ってるヤツの代表なんだ。奇兵隊は、白人の侵略から自分の土地と、生活・家族を守ろうとするインデアン(実は先住民)をやっつけるヒーローだったんだ。何が正義なのか。あなたの正義は私の正義ではない。私の正義はあなたにとって悪かもしれない。価値の多様性、相対性を認めない限り永遠に憎しみと争いは無くならない。それがリベラリズム、ダイバーシティーだ。それを教えてくれたのもアメリカじゃなかったのか。「シェーン!カムバ〜ック!」

 しかし国家という仕組みや経済システムがもはや「個人の幸せ」に役立っていないという現実がだんだん目にも見えるようになった。それどころか国家が、国民/市民のささやかではあるが、穏やかで平和な日常生活を念じる気持ちにかかわらず、戦争を引き起こして、人々の平和と幸福を破壊してしまう。国のリーダー達は、独裁者であれ、民主的に選ばれた大統領であれ、敵とみなした相手国の人々への憎しみの感情を植え付ける。個人レベルでは全く恨みも憎しみもないにもかかわらず。そうなると知識階級やリベラルな政治リーダーが語る寛容性も多様性もどこかへ行ってしまう。そんなエスタブリッシュメントの言説よりも、はみ出しもののわかりやすいアジテーションに民衆は熱狂する。これがポピュリズムによる平和と繁栄の妄想だ。まさに「この道はいつかきた道」。落日のベルリンの総統官邸の地下で歴史の闇に消えたはずの「ヒトラーの亡霊」が再び欧州を徘徊し始める。そしてアメリカにもその影が覆い始める。さらに、マルクスは予言した。資本主義の矛盾によるシステムの崩壊と階級闘争は資本主義が最も発展した国で起こると。それは20世紀初頭においては大英帝国であった。20世紀後半から21世紀初頭ではアメリカである。皮肉にも20世紀の革命は大英帝国という最先進国でではなく、封建的農奴制国家という資本主義の成熟とは程遠い帝政ロシアで起こった。マルクスの予言は外れた。従ってそのソビエトという血塗られた企みは破綻に終わり、国内に矛盾を抱えたままの覇権国家ロシアを生み出した。しかし、今度こそ資本主義の牙城であるアメリカで崩壊が始まろうとしている。死せるマルクスはロンドン・ハイゲートの墓地から這い出て、ニューヨークのウオール街を徘徊し始めた。だが「マルクスの亡霊」は戦後アメリカ人が恐れた「共産主義イデオロギー」という形ではなく、新たな姿に形を変えて現れることだろう。トランプは資本主義崩壊の最後の抵抗虚しく、その終焉を看取る役割を強いられるだろう。その後、なにがどういった形で、世界をどこに導くのか。それは「予測不能(unpredictable)」だ。


 2017年の初夢はホラーストーリー。

落日の富士山