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2010年1月27日水曜日

Leica M9は 「Leica M」か?

ニューヨークにいる娘が,久しぶりに帰って来た。一時帰国,というヤツだ。
と、突然、私の愛用のライカM4ブラッククロームボディーとズミクロン35ミリを、「これいいね」と、持ってかれてしまった。

な、なんで? 35ミリは一眼レフ。あとはハッセルしか使わないと言ってたのに...

急にライカを使ってみたくなったとか。なんとコワい「気づき」だこと。

「そもそもレンジファインダーってなに?」から始まり、パララックス補正、フレーム選択、ピント合わせ、被写界深度概念、フィルム装填法、等々、ライカのお作法を教える。写真やってるだけに飲み込みは早い。

その娘が金属ライカM4で撮影する姿はなかなか様になっている。自分で使ってるときはあまり気付かなかったが、思ったより以上にシャッター音が小さくて,布幕シャッターの威力を再認識。それと良くいわれることだが、撮られ手に威圧感を与えない、というのも本当だ。思わずカメラ自体に眼がいってしまい、撮られていることを意識してない自然な写真になっている。そもそも、コンデジ時代にこんなコンパクトなカメラのファインダーに眼をくっつけて撮影するスタイルが新鮮だ。

娘も気に入って,ずっとM4をぶら下げている。若い娘が使い込まれたライカを手にしているのはカッコイイものだと感心する。久しぶりにM4が活躍する姿を見て、こちらもフィルムライカを撮影に持ち出したくなった。

ところで、最近戦列に加わったM9はなかなか手になじんでいいカメラだと思うようになって来た。何よりもデジイチとは異なる撮影スタイルが良い。ライカの血を受け継いでいると,実感する。そして、撮影結果をすぐに確認出来るのはデジタルの良さだ。この二つが体感出来るだけでもワクワクするカメラだ。

しかし、M4を久しぶりに手にして、ふと、M9は本当にライカMの系譜を引くカメラなんだろうか、との疑念がよぎった。エレキの流れてない潔い金属カメラを手にして,これがライカだったんだ...と。いかんいかん,せっかく現代的で知的なM9をいとおしく思い始めたのに、ふと昔の彼女に出会って、ちょっと不器用だが優しかったその心を思い出して,これで良かったのかと迷う浮気性な男、みたいな...

ちょっと苦しくなって来たぞ。恋はいつも苦しいものだが。しかし両方とも愛せばいいのだ、と心に言い聞かせる。どちらも古風で頑固な性格を持っているではないか。どちらもライカのお作法をわきまえていることを求められる。それに彼女と違ってカメラは両方愛してもスネないぞ。

デジタル化は不可避のトレンド。その画像再現性は,解像度と色再現において遥かにフィルムを越えた。勿論フィルムにはフィルムの「味」がある。画を出現させるプロセスにもそれなりの職人技が発揮出来る余地がある。しかし、デジタルも限りなくフィルムのアナログな色再現性や、「味」や、画像処理プロセスによる画造りを0、1のビットで仮想空間で実現してみせることが出来る。しかもより忠実に...よりきめ細やかに...

ビットレートが高くなり,CPUの処理速度が速くなるにつれ、アナログの曖昧さをより再現出来るようになって来た。サイエンスがアートの世界に、アートがサイエンスの世界に相互乗り入れし始めた。

しかし,それだからこそライカのメカニカルでケミカルな職人芸的なアナログ性を、最先端のデジタル処理技術で再生してみせることの意味が益々あいまいに感じる。職人芸で生まれた「いい仕事してますねえ」の道具は、わざわざ別の技術で再生してみせなくてもそのままでいいんじゃないのか?

まあ、さはさりながら今更ライカはライカのままでいてくれ。デジタルで再現しないでくれ。少なくともライカ社自らの手でデジタル化してくれるな,とも言えないが。彼等も事業として厳しい世の中を生き延びて行かなくてはいけないのだ。わかっている。

伝統の職人技をデジタルで再現する。これはこれでまた、新しい時代の職人技なのだ。ライカのように伝統の技をプロトタイプとして「型紙化」できるマイスター集団だけが,それをデジタル化技術によってレプリケートし、未来に引き継ぐことが出来るのかもしれない。一眼レフにおけるニコンの場合も同じであるが。

よし、M4もM9も両方愛すことにする。愛せる。両方ともライカMファミリーメンバーなのだ...


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                                                                            (大阪 四天王寺庚申祭にて Leica M9, Summicron 50mm f.2 とても今風の写りだ)

2010年1月19日火曜日

天空の城、高取城 その城下町土佐町






それにしても凄い山城だ。標高583.8メートルの高取山の山頂に延々3キロに渡って縄張りされ,大天守、小天守はじめ33もの櫓で構成された高取城。まさに「天空の城」だ。

元々は南北朝時代に豪族の越智氏が築いた山城であったが,その後筒井順慶が改修し、さらには、天正3年(1585年)大和郡山城主豊臣秀長の命を受けた重臣本多正俊が入城して郡山城の詰城として大改修を行ったのが、今の威容を誇る高取城だ。

本城である大和郡山城も堅固な城であるが、城内が周囲約3キロ、郭内は周囲約30キロの規模を誇り,平地からの高低差446キロの高取城はいかにも難攻不落の山城である。また、山城は通常天守等なく、いわゆる「かきあげ城」という砦のような城が多いが、ここは山上に、まるで平山城と同規模の連郭式縄張りで、大天守、小天守、御殿はじめ数々の櫓の白漆喰塗籠の建物が延々と立ち並んでいた。これが別名、芙蓉城と呼ばれたゆえんである。麓の城下から眺めた城の姿を「巽高取 雪かとみれば 雪ではござらぬ 土佐の城」とうたわれるほどの景観であった。

江戸期に入って徳川譜代大名の植村氏が入城し、明治4年の廃藩置県まで植村氏の居城であった。今でも植村氏の子孫が山麓の土佐町に居を構えている。あのナマコ塀の長屋門の館がそうである。

明治26年には天守等の建造物はことごとく破却されてしまう。今建物は何も残っていな。破却直前の写真を見ると、石垣だけの姿も異様に壮大だが,さらに山上に立ち並ぶ櫓と大手門がその山城としての重装備加減を押し出している。このような山上の城では手入れが行き届かず,当時は補修するにもいちいち幕府の許可を取らなければならないので、徐々に放置され、廃墟化することが多かったようだが、高取城は三代将軍家光から、補修は勝手にやってよい,とのお墨付きをもらっていたらしく、明治の廃城までその威容を維持して来た。

難攻不落ぶりを遺憾なく発揮したのは、幕末の1863年の天誅組の乱である。高取城を拠点とした幕府軍は十津川郷士等1000名の攻撃をたやすく撃退。天誅組の乱が失敗に終わる大きなきっかけとなった。この城に登ってみればその難攻不落ぶりが容易に体験できる。いまは登山道が整備され麓の黒門跡からは1時間半ほどで山頂の本丸跡にたどり着けるが、それでも七曲がり坂や直線の一升坂などの難所があり、ようやく二の門の石垣にたどり着く。ここからが平城の縄張りと同じで、石垣の間の迷路のように曲がりくねった坂を歩かされることになる。

本丸跡からは大峰山、大台ケ原、高野山などの紀伊山系の山々が展望出来る。まさに牙牙たる山々が連なる神々の聖域だ。神武天皇はこんな山々を越えて熊野から大和に攻め入ったコトになっている。神武東征を神格化するに充分な地形的舞台設定だ。古代人はこうした山々に畏怖の念と神秘性を感じたのだ。神々は天から降り,山々から国にやってくるのだ。高千穂の峰であれ、熊野の山々であれ。

一方、西に眼を転ずると、国見櫓跡からは大和国中、大和三山を直下に見渡すことが出来る。さらに目線を少し上げると生駒、葛城、金剛山、二上山が遠望できる。晴れた日にはこれらの山稜の合間に河内平野、大阪が展望出来る。古代官道、横大路や後の竹内街道が大和から河内へ繋がってゆく様が見える。今は高速道路が白く無粋な直線で大和盆地を切り裂いているが。雄大な眺めである。中世、近世以降この城がいかに大和一国を押さえるに重要な位置を占めているかが一目で分かる。

土佐町はこの山城、高取城の城下町として建設された。高取城へ一直線に続く大手筋、土佐街道沿いに武家屋敷や商家が寺が並び、道の両側には水路が整備されている。建物は通りに面して棟を平行に軒並を整えて,外観は「つし二階建て(屋根裏物置付き)」に連子格子、虫籠窓で黒壁白壁で意匠を競っている。細長いこじんまりした城下町だが今もその町並みと景観は良く保存されており、伝建地区に指定されてはいないが、かなり濃厚な歴史景観地区になっている。阪神大震災の際に掘り出された神戸の路面電車廃線跡の敷石がいまはこの土佐街道の両端を縁取っている。

織田氏の山城、松山城の城下町として発展した大宇陀松山に類似性を見ることも出来る。紀伊山系、吉野山系から採れる豊富な薬草を資源とした薬の町として発展している点も両方に共通している。

ところで、なぜここは「土佐」なのか?街道脇に設置されている説明板によれば、その昔大和朝廷に労役の為に土佐から大和に徴用された人々が、その年季明け後も帰るに帰れず,この地に定住したことから,故郷を懐かしんで「土佐町」と称した、とある。ここの人々は土佐人の末裔なのか。

ヤマト王権の時代から古墳の造営や都宮の造営などで他国から大勢の人々が駆り出された。律令体制整備後には労力の提供は租庸調の税としても定められていた訳だ。中には国に帰ることが出来ずヤマトに残った人々も多かったのだろう。勿論朝鮮半島からの渡来人もあちこちに定住していたから,ヤマトは今の東京のような地方人や外国人の雑居地域だったのかもしれない。むしろそれが大和という国だったのだろう。

今回の時空旅は,高低差446メートルを含む往復約10キロを歩き、大いに体力を消費したが、メタボ気味の体にはちょうど良い運動だった。帰りは近鉄壺阪山から特急で阿倍野橋へ直行で帰った。二上山に沈む夕陽を眺めながら所用時間約45分で日常の現実世界へ舞い戻る。

写真集1:城下町としての土佐町




見事な大和棟のお屋敷


薬草の産地でもあり薬店が軒を連ねる





武家屋敷
現在は医院となっている

旧家老屋敷








明治以降、旧藩主家族の住まいとなった








写真集2:高取城への道





猿石
明日香への分岐点に置かれている


ようやく石垣が
















写真集3:高取城からの展望

紀伊山地








二上山
明日香

畝傍山

耳成山


大和三山を望む