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2010年1月27日水曜日

Leica M9は 「Leica M」か?

ニューヨークにいる娘が,久しぶりに帰って来た。一時帰国,というヤツだ。
と、突然、私の愛用のライカM4ブラッククロームボディーとズミクロン35ミリを、「これいいね」と、持ってかれてしまった。

な、なんで? 35ミリは一眼レフ。あとはハッセルしか使わないと言ってたのに...

急にライカを使ってみたくなったとか。なんとコワい「気づき」だこと。

「そもそもレンジファインダーってなに?」から始まり、パララックス補正、フレーム選択、ピント合わせ、被写界深度概念、フィルム装填法、等々、ライカのお作法を教える。写真やってるだけに飲み込みは早い。

その娘が金属ライカM4で撮影する姿はなかなか様になっている。自分で使ってるときはあまり気付かなかったが、思ったより以上にシャッター音が小さくて,布幕シャッターの威力を再認識。それと良くいわれることだが、撮られ手に威圧感を与えない、というのも本当だ。思わずカメラ自体に眼がいってしまい、撮られていることを意識してない自然な写真になっている。そもそも、コンデジ時代にこんなコンパクトなカメラのファインダーに眼をくっつけて撮影するスタイルが新鮮だ。

娘も気に入って,ずっとM4をぶら下げている。若い娘が使い込まれたライカを手にしているのはカッコイイものだと感心する。久しぶりにM4が活躍する姿を見て、こちらもフィルムライカを撮影に持ち出したくなった。

ところで、最近戦列に加わったM9はなかなか手になじんでいいカメラだと思うようになって来た。何よりもデジイチとは異なる撮影スタイルが良い。ライカの血を受け継いでいると,実感する。そして、撮影結果をすぐに確認出来るのはデジタルの良さだ。この二つが体感出来るだけでもワクワクするカメラだ。

しかし、M4を久しぶりに手にして、ふと、M9は本当にライカMの系譜を引くカメラなんだろうか、との疑念がよぎった。エレキの流れてない潔い金属カメラを手にして,これがライカだったんだ...と。いかんいかん,せっかく現代的で知的なM9をいとおしく思い始めたのに、ふと昔の彼女に出会って、ちょっと不器用だが優しかったその心を思い出して,これで良かったのかと迷う浮気性な男、みたいな...

ちょっと苦しくなって来たぞ。恋はいつも苦しいものだが。しかし両方とも愛せばいいのだ、と心に言い聞かせる。どちらも古風で頑固な性格を持っているではないか。どちらもライカのお作法をわきまえていることを求められる。それに彼女と違ってカメラは両方愛してもスネないぞ。

デジタル化は不可避のトレンド。その画像再現性は,解像度と色再現において遥かにフィルムを越えた。勿論フィルムにはフィルムの「味」がある。画を出現させるプロセスにもそれなりの職人技が発揮出来る余地がある。しかし、デジタルも限りなくフィルムのアナログな色再現性や、「味」や、画像処理プロセスによる画造りを0、1のビットで仮想空間で実現してみせることが出来る。しかもより忠実に...よりきめ細やかに...

ビットレートが高くなり,CPUの処理速度が速くなるにつれ、アナログの曖昧さをより再現出来るようになって来た。サイエンスがアートの世界に、アートがサイエンスの世界に相互乗り入れし始めた。

しかし,それだからこそライカのメカニカルでケミカルな職人芸的なアナログ性を、最先端のデジタル処理技術で再生してみせることの意味が益々あいまいに感じる。職人芸で生まれた「いい仕事してますねえ」の道具は、わざわざ別の技術で再生してみせなくてもそのままでいいんじゃないのか?

まあ、さはさりながら今更ライカはライカのままでいてくれ。デジタルで再現しないでくれ。少なくともライカ社自らの手でデジタル化してくれるな,とも言えないが。彼等も事業として厳しい世の中を生き延びて行かなくてはいけないのだ。わかっている。

伝統の職人技をデジタルで再現する。これはこれでまた、新しい時代の職人技なのだ。ライカのように伝統の技をプロトタイプとして「型紙化」できるマイスター集団だけが,それをデジタル化技術によってレプリケートし、未来に引き継ぐことが出来るのかもしれない。一眼レフにおけるニコンの場合も同じであるが。

よし、M4もM9も両方愛すことにする。愛せる。両方ともライカMファミリーメンバーなのだ...


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                                                                            (大阪 四天王寺庚申祭にて Leica M9, Summicron 50mm f.2 とても今風の写りだ)

2010年1月19日火曜日

天空の城、高取城 その城下町土佐町

それにしても凄い山城だ。標高583.8メートルの高取山の山頂に延々3キロに渡って縄張りされ,大天守、小天守はじめ33もの櫓で構成された高取城。まさに「天空の城」だ。

元々は南北朝時代に豪族の越智氏が築いた山城であったが,その後筒井順慶が改修し、さらには、天正3年(1585年)大和郡山城主豊臣秀長の命を受けた重臣本多正俊が入城して郡山城の詰城として大改修を行ったのが、今の威容を誇る高取城だ。

本城である大和郡山城も堅固な城であるが、城内が周囲約3キロ、郭内は周囲約30キロの規模を誇り,平地からの高低差446キロの高取城はいかにも難攻不落の山城である。また、山城は通常天守等なく、いわゆる「かきあげ城」という砦のような城が多いが、ここは山上に、まるで平山城と同規模の連郭式縄張りで、大天守、小天守、御殿はじめ数々の櫓の白漆喰塗籠の建物が延々と立ち並んでいた。これが別名、芙蓉城と呼ばれたゆえんである。麓の城下から眺めた城の姿を「巽高取 雪かとみれば 雪ではござらぬ 土佐の城」とうたわれるほどの景観であった。

江戸期に入って徳川譜代大名の植村氏が入城し、明治4年の廃藩置県まで植村氏の居城であった。今でも植村氏の子孫が山麓の土佐町に居を構えている。あのナマコ塀の長屋門の館がそうである。

明治26年には天守等の建造物はことごとく破却されてしまう。今建物は何も残っていな。破却直前の写真を見ると、石垣だけの姿も異様に壮大だが,さらに山上に立ち並ぶ櫓と大手門がその山城としての重装備加減を押し出している。このような山上の城では手入れが行き届かず,当時は補修するにもいちいち幕府の許可を取らなければならないので、徐々に放置され、廃墟化することが多かったようだが、高取城は三代将軍家光から、補修は勝手にやってよい,とのお墨付きをもらっていたらしく、明治の廃城までその威容を維持して来た。

難攻不落ぶりを遺憾なく発揮したのは、幕末の1863年の天誅組の乱である。高取城を拠点とした幕府軍は十津川郷士等1000名の攻撃をたやすく撃退。天誅組の乱が失敗に終わる大きなきっかけとなった。この城に登ってみればその難攻不落ぶりが容易に体験できる。いまは登山道が整備され麓の黒門跡からは1時間半ほどで山頂の本丸跡にたどり着けるが、それでも七曲がり坂や直線の一升坂などの難所があり、ようやく二の門の石垣にたどり着く。ここからが平城の縄張りと同じで、石垣の間の迷路のように曲がりくねった坂を歩かされることになる。

本丸跡からは大峰山、大台ケ原、高野山などの紀伊山系の山々が展望出来る。まさに牙牙たる山々が連なる神々の聖域だ。神武天皇はこんな山々を越えて熊野から大和に攻め入ったコトになっている。神武東征を神格化するに充分な地形的舞台設定だ。古代人はこうした山々に畏怖の念と神秘性を感じたのだ。神々は天から降り,山々から国にやってくるのだ。高千穂の峰であれ、熊野の山々であれ。

一方、西に眼を転ずると、国見櫓跡からは大和国中、大和三山を直下に見渡すことが出来る。さらに目線を少し上げると生駒、葛城、金剛山、二上山が遠望できる。晴れた日にはこれらの山稜の合間に河内平野、大阪が展望出来る。古代官道、横大路や後の竹内街道が大和から河内へ繋がってゆく様が見える。今は高速道路が白く無粋な直線で大和盆地を切り裂いているが。雄大な眺めである。中世、近世以降この城がいかに大和一国を押さえるに重要な位置を占めているかが一目で分かる。

土佐町はこの山城、高取城の城下町として建設された。高取城へ一直線に続く大手筋、土佐街道沿いに武家屋敷や商家が寺が並び、道の両側には水路が整備されている。建物は通りに面して棟を平行に軒並を整えて,外観は「つし二階建て(屋根裏物置付き)」に連子格子、虫籠窓で黒壁白壁で意匠を競っている。細長いこじんまりした城下町だが今もその町並みと景観は良く保存されており、伝建地区に指定されてはいないが、かなり濃厚な歴史景観地区になっている。阪神大震災の際に掘り出された神戸の路面電車廃線跡の敷石がいまはこの土佐街道の両端を縁取っている。

織田氏の山城、松山城の城下町として発展した大宇陀松山に類似性を見ることも出来る。紀伊山系、吉野山系から採れる豊富な薬草を資源とした薬の町として発展している点も両方に共通している。

ところで、なぜここは「土佐」なのか?街道脇に設置されている説明板によれば、その昔大和朝廷に労役の為に土佐から大和に徴用された人々が、その年季明け後も帰るに帰れず,この地に定住したことから,故郷を懐かしんで「土佐町」と称した、とある。ここの人々は土佐人の末裔なのか。

ヤマト王権の時代から古墳の造営や都宮の造営などで他国から大勢の人々が駆り出された。律令体制整備後には労力の提供は租庸調の税としても定められていた訳だ。中には国に帰ることが出来ずヤマトに残った人々も多かったのだろう。勿論朝鮮半島からの渡来人もあちこちに定住していたから,ヤマトは今の東京のような地方人や外国人の雑居地域だったのかもしれない。むしろそれが大和という国だったのだろう。

今回の時空旅は,高低差446メートルを含む往復約10キロを歩き、大いに体力を消費したが、メタボ気味の体にはちょうど良い運動だった。帰りは近鉄壺阪山から特急で阿倍野橋へ直行で帰った。二上山に沈む夕陽を眺めながら所用時間約45分で日常の現実世界へ舞い戻る。

2010年1月12日火曜日

大和五條 新町通りの時空散策

年明けの時空旅は、奈良県五條市。ここには「新町通り」という歴史街道が延々1キロ以上に渡って続いている。江戸時代の町並みを今に残していることで有名だ。初めて訪れた。伝統的建造物群保存地区にも指定されていないが、その町家の数と、紀州街道沿いの町並み景観の保存状況は,文字通り江戸時代にタイムスリップしたような体験をさせてくれる。大和、河内にはこうした町並みがあちこちに良く残っている。今井町、大宇陀松山、富田林、大和八木、郡山、高取など。

さて,五條へ行くには結構不便。今回は近鉄鶴橋駅から近鉄大阪線で大和高田まで行き、そこでJR和歌山線に乗り換える。一時間に一本の和歌山行き2両編成のワンマン電車(電化されてるが単線)は、左右に金剛山系と吉野の山並み、高野山を見ながら、吉野川(紀ノ川)沿いを瀑走する。揺れがすごいが景色が素晴らしい。車両は旧山手線、中央線各駅停車、大阪環状線で活躍した往年の名車達。第二の人生という訳だ。途中吉野口で近鉄南大阪線と、また橋本で南海高野線と接続している。奈良県は本当に「奥深い」県だと痛感。

さて、ここ五條は歴史上の大きな出来事に関わるヒストリアがあちこちにちりばめられていることに驚く。

まず、明治維新の魁、天誅組の乱の発祥の地である。桜井寺を本陣とし、幕府の五條代官所を襲撃して代官はじめ6名を殺害し、一時五條政府と称していた。これは孝明天皇大和行幸に先駆けて決起する尊王攘夷クーデター。結局京都での尊王攘夷派は破れ天皇行幸がなくなってしまい、はしご外された天誅組は転戦の後、幕府2万の兵に取り囲まれ抹殺される。しかし、これが明治維新に向けての尊王攘夷運動の先駆けとなったことは我々も歴史で習った。

次に、この歴史の町並み、新町通り。ここは関ヶ原後に大和二見城に入城した松倉重政によって建設された商業地区であった。多くの町家が立ち並び、殷賑を極めた。今井町や富田林のような寺院が中心となって集落が形成された寺内町ではなく、大宇陀、高取のような城下町として建設され,後に城が破却された後も街道沿いの商業地として発展した町である。新町通りの半ばくらいに西方寺という寺があり、その小さな広場に松倉豊後守重政の顕彰碑が地元の人々によって建立されている。

しかし、松倉重政?! どこかで聞いたような…..
もしかして、あのキリシタン弾圧、苛斂誅求で歴史に悪名轟く暴君の肥前島原藩主松倉重政? 島原の乱を引き起こす原因を作ったあの男? そうその通り。その男はここにいたんだ...

松倉重政はもともとは大和郡山の筒井順慶配下の武士。関ヶ原では東軍で参戦。家康にその武功を認められて、ここ大和五條1万余石を領地として拝領。その後、大坂夏の陣ではいち早く豊臣方の郡山城を攻めて活躍。今度は肥前島原4万3千石城主に出世。大出世ではないが戦国生き残りゲームの中くらいの勝ち組だろう。

島原では小藩の規模に似合わぬ壮麗な島原城を築き,今日までその町割りを残す立派な城下町を整備。そしてこの分不相応な町づくりの為に地元農民から徹底的に年貢を搾取したことで有名。その後、三代将軍家光のキリシタン禁教令、追放令が出るや、残虐な方法で領内のキリシタンを弾圧、処刑。さらには長崎奉行所にまで提案して長崎中のキリシタンを雲仙阿鼻叫喚地獄に集めてで殺戮した。彼の死の7年後には島原の乱が起きており、その原因を作った暴君とされている。彼は57歳で急死している。あまりの苛烈さに幕府の間者に暗殺されたとの噂さえある。

ありがちではあるが、跡を継いだその息子は凡庸で、いかにもどうしようもない2代目。しかし、領民に対する容赦ない税の取り立て、苛斂誅求さとキリシタン弾圧の苛烈さは父にも勝るとも劣らぬモノだった。結局、江戸幕府開闢以来、最大かつ最悪の反乱、島原の乱が起きる。全国から集められた幕府軍の原城攻略で乱は鎮圧したものの、その責めを問われて松倉家は断絶。武家としては後世に恥を残す斬首刑に処せられる。

ここ五條では名君としてその遺徳をしのぶ為に石碑が建てられている。大和二見城主であった期間はわずか8年しかなく、その間にこうした町割りを作ったのは功績であろうが、領民を搾取する間もなく、出世して肥前島原にご栄転になったのだから,五條の民には良い思い出しか残っていないのだろう。肥前島原の領民はその苛政に苦しんだというのに。

悪名高いキリシタン弾圧も最初のころはそれほどの厳しさはなかったようだが、いざ幕府から取り締まり強化の指示があると、「そこまでやれとは言ってないだろう」といわれるくらい、期待以上の弾圧で幕府に存在感をアピールする。要するこの松倉という人物、時の権力者に取り入って、おもねることで出世するタイプに見える。その為には下に無理難題を押し付けてはばからない。良く出来るが「上を見て,下を顧みない」現代の管理職の一類型みたいな人間だったのだろう。

もうひとつのヒストリア。ここには未完成の旧五新鉄道線のアーチ橋が残る。新町通りを横切る形で高架橋が吉野川に向って伸び、突然川岸で途切れている。奈良県五條市から和歌山県新宮市までの鉄道新線計画!! 明治期に構想され、戦前から建設が進められ,戦後に至って鉄道建設公団により工事が継続されたが、吉野川橋りょうの所で工事が中止されてしまう。

国鉄が、採算性とは無関係に次々と建設される新線の経営を押し付けられて,ついに破綻してしまったことは戦後の政治と官僚と経営が、バラバラにそれぞれの思惑で自己実現を果たそうとした公共事業、官業の無責任さの典型として語られる。その「産業遺産」がここに残っている。

しかし、このアーチ橋、アッピア街道を横切るローマの水道橋のようで美しいのが皮肉だ。新町通りの歴史的景観を破壊してないのが面白い。こうした「負の産業遺産」も時代とともに熟成し,発酵して古い酒と混じりあって独特の味わいを醸し出してゆく。歴史の積み重ねというものだろう。

2010年1月7日木曜日

アンティークブックショップ巡り ニューヨーク、ロンドン

 ニューヨークにいた時、35丁目とMadison Avenueとの角に、その名もThe Complete  Travellersという古書店を発見。 ウエッブサイト(http://www.ctrarebooks.com/)で見る限り、旅行に関する結構な稀書コレクションを持っており、Japanのセクションだけでも19世紀後半から20世紀初頭のものを並べている。Lafcadio HearnやIsabella Birdも並んでいる。なんと私向きな本屋だ、と早速仕事の帰りに寄ってみた。

 オフィスからはPark Avenueを南へ5ブロック。このあたりはMidtownでもMurray Hill地区。ちょっとロンドンのCharing Cross Roadのあたりに雰囲気が似ている。 店は交差点に位置しており、古書店にありがちな入りにくい雰囲気ではなく気さくに歓迎してくれた。

 早速Japanのコー ナーを物色する。するとやはりあるじゃないか。Kwaidan(怪談)のNY初版本だ。さらに、店員の青年にIsabella BirdのUnbeaten Tracks in Japan(日本奥地紀行)が店のウエッブサイトにはあったことを伝えると、すぐに探しだしてくれたので、それも購入することにした。なんと全部で$500! この間出張で訪れた松江で旧小泉八雲邸に立ち寄ったら,同じ本が展示されていた。またUnbeaten Tracks in Japanはヨーロッパ人やアメリカ人の間でアジアの探検旅行がブ−ムとなった19世紀末から20世紀初頭の人気旅行記で、最近日本でもその翻訳本が出されたようだ。日光の金谷ホテルにも展示されていた。

 ロンドン時代、Charing Cross RoadやBritish Museum, Russell Squareあたりに数多くあったアンティークブックショップを回り、装丁の綺麗な本や、明治の頃の日本旅行関係の本を探したり、アンティークマップをあさったりするのが週末の楽しみだったのを思い出させてくれた。特にアンティークマップは、地域別の箱にぎっしり詰め込んであって,好きなの探して持ってけ,という雰囲気であった。その中からお宝を探し出すのだ。また大抵、そうした店の隣には,買った古地図をフレームに入れてくれる額装専門の店もあって、待ってる間にちゃっちゃっと仕事して、意外なほど安い価格で仕上げてくれる。

 イギリスは、さすがにそういった古書やプリント類の宝庫だ。ケントやサセックスなどの郊外のManor Houseを訪ねると,たいがいの館に自慢げにインドや中国や日本のアンティークコレクションが並んでいる。そしてこれまた壁一面の書棚には、必ずと言ってよいほど立派な装丁の本がぎっしりと並んでいる。旅行関係や地理,歴史、植物に関する本が多い。これは19世紀、当時のイギリスの上流階級や実業家がそろって七つの海をまたがる大英帝国内を旅行して回ることをステータスとしていたことの現れである。ことに日本は帝国の版図外(Far East)であり、極東にあってなかなか行く人も少なかったので、日本関係の本や陶磁器や武具甲冑、仏像を所有していることは、さらにステータスを引き上げる効果を有していた。こうした所から流れ出す書籍やプリントが店頭に並ぶ訳だ。

 アメリカはその点,やはり歴史が浅い国だといわざるをえない。NYにも古書店や古地図の店がいくつかはあったが、店の数、そのコレクションはイギリスロンドンのそれには及ばない。希少本コレクションを有している店も幾つかあるようだが、高級ブティックみたいに敷居が高く事前予約制でしか店にも入れてくれない。やはり歴史の違いだ。British Museum とMetropolitan Museumの収蔵品の違いを見ても理解できる。

 First Avenue/37th Streetのアパートからもちょうど良い距離なので、週末になってぶらりと散歩がてら、また行ってみた。今度は店主らしいそれっぽいオヤジがいて、めがねの上から私を見ながら「なにか助けが必要だったら言ってくれ」と。この鼻眼鏡って、古書店のなにか共通のアイコンもたいなものだ。

 しばらく店内を見回ってから「アンティークマップはないか」と聞いたら、良く聞いてくれた,とばかり「勿論あるさ、あそこがアメリカ、あっちがその他の世界」と自慢げに教えてくれた。ストックはロンドンのCecil RowのAntique Maps and Printsの店には及ぶべくもないが、一応それなりのものがある。当然かもしれないがアメリカの州や都市の地図が多い。また相対的に年代が新しいものが多く、19世紀後半から、20世紀前半、という感じだ。残念ながら16-7世紀の大航海時代のものはなさそうだ。日本の地図もある。ちょうど明治維新直後の時代の地図だ。

 ロンドンのBritish Museum正門前の古書店でAbraham OrteliusのThe Theatre of The Worldの復刻版(これ自体がアンティーク本)を見つけたときには興奮した。とても持ち帰ることは出来るシロモノではない重さだった。店主は「送ってやるよ」と言ったが,見つけたものはすぐに自分で持って帰りたい人だから,駐車場に停めてあった車のとこまで、うんうん唸りながら担いで行ったことを覚えている。また、The CityのRoyal Exchangeのなかにも古書店があって、そこで16世紀末のベルギーのCartographer(地図製作者)Jan JansenのIaponia図を発見した。安土桃山時代の日本地図。先ほどのThe Theatre of The Worldにも含まれているOrteliusの原画を元に、航海者が持ち帰る新しい情報に基づいてアップデートしたものだ。オリジナルのカラーペイント版で額装すると素晴らしい。ロンドンキャブで自宅へ運んだ。今も我が家のお宝だ。

 さて、小一時間見て回った後、結局地図ではなく、NY関連書籍のコーナーでWashington IrvingのHistory Of New Yorkを見つけた。装丁もしゃれているので先ほどのオヤジに故事来歴を聞いたら、「Washington Irvingを探しているのか?」と。別にそれの特定しているつもりはないのだが「まあ、旅行関係が好きで、色々面白いのがたくさんあったけど、今日はこれが面白そうなので」というと、「ちょっと待て。こっちへ」といって奥へ連れて行き、鍵のかかった書棚に鎮座ましましているとっても美しい装丁の彼の著作、Story of Travel2分冊を出してきた。これはほとんど保存状態が良い。いわゆるdead stockだったのかもしれない。1896年の版でなかの挿画やデザインが素晴らしい。300ドルもするが、オヤジの説明だと発行部数が限られている稀少本であるし、あまりに魅力的なルックスだったのでふらふらと買ってしまう。オヤジは商売がうまい。というか,私は意志が弱い。

 また「Japanの旅行記にも興味があるけど、ここにあるだけか?」とやや挑発的に聞いたら、また「ちょっと来い」とさらに奥の鍵のかかった書棚へ。そこには稀少高価本が収められている。値札はついていない。オヤジは「別に買わなくてもいい。コレクションを見てくれ」と。出してきた幾つかの本のなかの一冊が、1914年、第一次世界大戦時に出版されたJapanese Empireというコンパクトな旅行ガイドブック。日本が史上最大の版図を維持していた時代の地図が挿入されており、誇らしく朝鮮半島、台湾、南樺太、千島列島全域が赤く塗られているではないか。また保存状態の極めて良い帝都東京の細密な都市図、日本列島各都市の詳しい地図も挿入されている。コリャいかん。また欲しくなった。値段を聞くと,オヤジはニヤリとして「300ドルだ」。数千ドルの希少本を見せた後で、私の心底を見透かすかのように... しかし、これはきっぱり断って店を出た(もっとも後でやっぱり購入してしまうが)。

 このオヤジ、さすが古書店店主という風貌で、また、それなりに幅広い知識を持っているのに感心した。饒舌ではないが、話しが面白い。文学,哲学からアートブックまでどんなテーマでもこなせそうな感じだ。イギリスのケンブリッジの古書店では、ケンブリッジ大学で古楽器演奏で学位取った、なんてオヤジに出会ったことがある。また,ケントの田舎町の古書店では、かつて外航船の船長で世界中を回ったという、精悍な顔つきの店主に出会ったこともある。なんかどれも雰囲気や人品骨柄が似ている。みな鼻眼鏡だし... このNYの店主もきっとどこかのPhD.くらい持ってたり、世界を旅して回った経験があるのかもしれない。今度聞いてみよう。

 時空を超えた膨大な歴史遺産に埋もれて暮らす古書店店主。本当のインテリ趣味人の究極の職業かもしれない。こりゃいい。第二の人生を是非こんな「知」のラビリンスで過ごしてみたいものだ..... キット金持ちにはなれないだろうがQuality of Life を楽しむことは出来るかもしれない。時空トラベラーの安息の場所を見つけた。



Strand Bookshop in Soho

Orteliusの日本地図

2010年1月3日日曜日

2010年正月 初夢を見た

16世紀の大航海時代が始まる前のヨーロッパはユーラシア大陸の西端に圧迫された後進地域であった。森の中で獣を追っかけて西へ東へ移動していた狩猟民族の世界だった。文明の中心から外れた辺境の地ですらあった。ローマ帝国から広がったキリスト教はまだ世界宗教ではなく、東方の圧倒的なイスラム教世界に包囲された地方宗教に過ぎなかった。
そうした閉塞感の中、イスラムに何度も占領されたイベリア半島のポルトガルやイスパニアによるヨーロッパからの脱出行動は、ユーラシアの西端という閉ざされた地域の経済的閉塞状況の打破、大文明イスラム世界に包囲された中でのキリスト世界の生き残りをかけた挑戦だった。

10世紀から200年にわたって行われた十字軍の遠征に始まるイスラムとの戦いは,当時ユーラシア大陸東方に存在していると信じられていた伝説のプレスター・ジョン率いる幻のキリスト教王国との同盟によりイスラム世界を挟撃せんとする試みに発展してゆく。また13世紀のマルコポーロの「東方見聞録」に描かれた伝説のジパングに代表される東方世界、その黄金と香料という富に引きつけられ冒険者達が一攫千金を求めて,あるときは商人になり、あるときは海賊に変身して東方へ船出してゆく。

こうして東を目指したヨーロッパ人はアラブ世界が圧倒的に支配する陸路を避けて海路を進む。やがてバーソロミュ−・ディアスはアフリカの南端に喜望峰を「発見」する。バスコダ・ガマはさらにインドのゴア、カリカットに到達。こうしてアジアへ東航路が開拓される。さらにその後輩達はマラッカ、そして中国マカオに到達し,そこを植民地化し、ついに伝説の国ジパングに到達する。

一方、ポルトガルに東航路の制海権を支配されたイスパニアの国王はコロンブスに命じて、インド、ジパングを目指す西航路を開拓しようとした。そして偶然にも「新大陸」に行き当たる。サンサルバドルに上陸したコロンブスは最初はインドへ到達したと信じていた。やがて彼らの後続部隊がそこが未知の大陸であることに気付くと、キリスト教を持ち込み、在地の文明を滅ぼし、そこを侵略支配した。金が出た。そこはまさにヨーロッパ人にとって黄金の郷エルドラードだった。略奪帝国主義の時代のはじまりだ。

もっとも皮肉なことに,ヨーロッパ人達にとっての憧れであったはずの伝説の「黄金の島ジパング」は、時がたつにつれ、その輝きが薄れてゆく。東方へのパッセージの途中に香料諸島を見つけ莫大な利益を上げることが出来た。さらに新大陸の黄金はまさに想定外の世界帝国発展の源泉となる。わざわざジパングまで行かなくても…コロンブスもジパング探索どころではなくなった。マゼランもその世界一周航海の途中で日本近海を通過しているが、立ち寄ってみようともしなかった…

現に当時の日本は内戦状態の戦国時代。貧しく、資源の乏しい国であったし、絹も陶器などの工芸品も中国から輸入していた国であった。まして黄金などわずかしか産出しなかった。石見銀山が博多の豪商によって開発されて脚光を浴びるのはもう少し後の話だ。やがてポルトガル商人がこの銀に眼をつける。日本と中国の間での中継貿易に従事して大きな利益を上げたが、新大陸やモルッカ諸島で行ったような略奪的支配とまではいえない状況であった。

やがて旧教世界の盟主ポルトガル、イスパニアに替わって世界に躍り出たのは、ヨーロッパの新興国、旧教に対抗する新教国オランダとイギリスであった。イスパニアの植民地だったオランダは独立を果たし、イギリスに先駆けて世界へ乗出してゆく。この頃ようやくブリテン島内の混乱を治めたエリザベスのイギリスはイスパニアの無敵艦隊を破り、閉塞されていたビスケー湾を脱し、ついに大西洋へ出て世界へ進出する突破口を開いた。一時はスペインの脅威を避けて北極周りで東洋へ向おうという無謀な計画を立案,実施して,案の定手痛い失敗を経験したりもしている。これがその後のアラブ、インド、インドシナ,オーストラリア、新大陸、やがては香港にまたがる大英帝国の時代の始まりだ。

一方、大西洋の向うの新大陸では、スペイン。ポルトガルの略奪帝国主義的な支配が南米大陸に及び、インカ、アステカ、マヤなどの幾多の現地文明を破壊したのに対し、北米大陸はノバイスパニア(メキシコ)を除き、彼等が望むようなエルドラード(黄金郷)が見つからなかったせいで征服の意欲を失い、やがて後発の新興国のフランス、オランダ,イギリスが「残り物に福あり」とばかりに植民地化してゆく。そしてやがてはイギリスからの独立を獲得したアメリカという新興国が生まれることになる。

こうして世界は19世紀、20世紀を迎えてヨーロッパとアメリカといういわば欧米キリスト教文明(西洋文明)が世界を支配する時代となる。世界は欧米中心の経済、文化、政治、戦争を含む外交、思想、宗教の時代となった。世界観も欧米中心世界観となった。イスラムはキリスト教に対する異教徒.近代文明への脅威であり、野蛮な戦いの相手。インドは文明から取り残された未開地域。中国は閉鎖的な孤立した文明。日本に至っては伝説と異なり,現実は遥か東の果て(Far East)のそれほど豊かでもない島だった。

しかし、こうした欧米中心の世界観が唯一無二、無誤謬ではないことは歴史が示しはじめている。そして時代は大きく場面展開を果たしつつある。21世紀に入り時代の転換点にきた。中国やインドやアラブイスラム世界諸国と言った「新興国」が、17世紀〜19世紀20世紀、未開の文明のレッテルを貼られ、発展から取り残され、帝国主義の時代を迎えて欧米諸国の植民地というつらい屈辱的な時代を経たのち、再び世界の中心的な経済圏、文化圏として歴史の舞台に踊り出ようとしている。

このきっかけを作ったのはユーラシア大陸の東の端にあって、かつて黄金の島「ジパング」と伝説化され、しかし現実には、貧しくあまりの辺境(Far East)ゆえ欧米の植民地化を免れた日本というアジアの鎖国国家。19世紀中葉以降のその急速な近代化、「改革開放」の動きであった。欧米植民地主義への恐怖とそれへの挑戦が日本の近代化「富国強兵」「殖産興業」の大きな原動力であった。やがて世界の舞台にそろそろとデビューした小さな国日本は、中国の支配政権であった清朝を破り,南進してアジアを狙う後発帝国主義国ロシアを破り,一気にアジア随一の近代国家、軍事大国として躍り出た。しかし、列強の帝国主義的野望をくじき、アジアを解放するとした日本の拡張政策は次第に欧米列強の脅威になるまでになり、想定通り反発を招いたのみならず、皮肉にも欧米列強に伍してアジアにおける帝国主義的植民地争奪戦に参戦するという事態に突き進んでゆく。すなわち「日本の欧米化」である。その結果、宗主国である欧米列強諸国と現地双方からの激しい反抗に合い、無惨にもその野望は破綻する。

しかし、この出来事が皮肉にもアジアにおける欧米列強の植民地支配の終焉をもたらした。日本が本来意図したはずのアジアの自立と繁栄を実現させるきっかけとなる。最後まで残った欧米のアジア植民地、香港とマカオが中国に返還されたのは記憶に新しい。また欧米に永年牛耳られて、あたかも文明世界への脅威の様に扱われて来たイスラム世界が、石油という戦略資源をテコにして、また経済的な発展の可能性を武器にして、復興の時代を迎えようとしている。

世界の景色は21世紀初頭から大きく変わるのだろう。「旧世界」の中国、インド、イスラムの「新興国」が新しい世界の表舞台に復活してくる。人口で世界のマジョリティーを占めるこれらの地域が一斉に経済発展を始める。明国鄭和の大船団が再び世界を闊歩する。アラブの大商人イブンバツータが再びやってくる。大航海時代の16世紀から、世界戦争の時代20世紀にかけて世界を、そして地球文明をリードしたヨーロッパ、そしてそのエクステンションであるアメリカの時代が徐々に終焉を迎えるのかもしれない。

高校時代に大学受験で世界史を必死で覚えさせられた悪夢がなぜか今再び… 
覚えられない!という悲痛な叫び!
気がつくと汗びっしょりで眼がさめた。
よかった。もう大学受験の時代なんぞとうに終わっていた…

しかし正月早々壮大な夢を見たものだ。