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2010年8月30日月曜日

元薬師寺にホテイアオイの群生を愛でる そして三輪へ

 (第一部)元薬師寺にホテイアオイの群生を愛でる

 8月ももう終わりだというのに今年の夏は半端でなく暑い。関西では35℃以上の猛暑日がもう14日も連続している。異常としか言いようがないこの暑さ。

 しかし、この暑さは、夏の終わりの風物詩、元薬師寺のホテイアオイ開花にとっては最高の条件。先日藤原京跡から回った時には、藤原京の睡蓮が咲き誇っていたが、元薬師寺のホテイアオイはまだまだ。チラホラ開花した株もあった程度。

 今日こそは絶好のホテイアオイ日和。晴天、気温朝から30℃超。週末珍しく早起きして、近鉄鶴橋から大阪線に乗り、大和八木経由、橿原線の畝傍御陵前まで「時空エキスプレス」に乗る。駅からは東に炎天下を15分程歩くと元薬師寺跡だ。

 見えた見えた、一面のホテイアオイの群生。いっぱい咲いている。1.7ha程の休耕田に約14,000株のホテイアオイが植えられている。地元の畝傍北小学校の生徒達が植えたものらしい。ホテイアオイの花は一日花。朝一斉に開花して夕刻には花の命を終える。翌日には新しい花がまた咲く...このように群生していても結構はかない花なのだ。しかも、日照時間や気温などによって咲いたり咲かなかったりする。一斉に咲いても翌日はチラホラしか咲かなかったりする。しかし、今日はこの天気だ。盛大な咲きっぷり。

 既に、何人かのカメラ小僧(オヤジ)が思い思いに自慢の愛機を構えて写真撮影に余念がない。思ったよりデジタル一眼レフはニコン派が多いようだ。皆一様に地べたに這いつくばって撮っている。美しい花弁をクローズアップしながら,背景の畝傍山も入れてやろう、という意図だ。だいたいわかるシロウトのアングルは。コンデジの人も多いが、こういう人は車でサアッときて写真とってサアッと帰ってゆく。デジ一持ってる人は「地べた這いつくばり」派、オバさんカメラマン(ウーマン)も多い。中には杖付きながらやってきて、風景のど真ん中にドッカと立ち尽くして、やおらバッグからデジ一取り出して周りを撮ってるオバさん(おばあさん?)もいる。「ちょっとどいてくれよ」「あなた、ホテイアオイ風景のど真ん中に入っているよ」。しかし元気だ、いくつぐらいだろう。

 すっきりと青い空、キレギレの白い雲、緑の木立に薄紫色の涼やかなホテイアオイの花が群生する様は壮観だ。しかもここは1300年前の薬師寺の古跡。暑さを忘れてこちらもニコンD3s(今日は気合い入れて来た)を取り出し撮影開始。標準ズームと望遠ズーム(85−400mm)で戦闘開始。これだけ群生するとどう切り取るかなかなか難しい。

 この元(本)薬師寺は藤原京造営の時代、610年に天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を記念して建立した官寺である。のちに710年に平城京へ遷都となった時には、この薬師寺が、今の西ノ京の地にそのまま移築された。現在の東塔はこの元薬師寺から移築された東塔そのものだと言われている。

 いまは、ここ元(本)薬師寺跡には金堂跡(礎石が並んでいる)、東塔跡(芯礎を囲んでこんもりとした木立が)、西塔跡(田んぼの中に土まんじゅうのような基壇跡が)が、当時の伽藍配置そのままに残されている。西ノ京と同じ広さの境内が一面のホテイアオイの田んぼに変わっている。

 1300年の時空を超えた大寺の痕跡とそれを埋め尽くすようなホテイアオイの薄紫の花の群落。西には金剛山系の山々を背景に畝傍山が、東には大和青垣山系がこの地を取り囲んでいる。大和国中を彩る風景。たまらんなあ。

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 (第2部)そして三輪へ

 早起きしたこの日はこの後、時間もたっぷりあったので、さらに桜井まで電車に乗り、そこでJR桜井線(最近、「まほろば線」と改名)に乗り換えて一駅目の三輪まで足を伸ばした。大和の東の神聖なる神奈備型の山、三輪山。山自体がご神体である大神神社に参拝。ここの祭神は大物主神。ここ大和の地主神である。蛇に姿を変えて、やまとととひももそひめと結婚したとされている。この媛こそ箸墓の主である。ここは仏教伝来以前の倭国の世界だ。自然、精霊を祀る日本古来の宗教世界だ。三輪展望台へ登る。そこから大和三山、大和国中が、そして日が沈む西の方角に,もう一つの神聖なる山、二上山を展望した。

 去年の11月に巻向遺跡で発掘された3世紀半ばの神殿とおぼしき建物群は、三輪山を背に、二上山を正面に、東西軸上に配置されていたのが確認されている。時期が魏志倭人伝に記述されている邪馬台国の卑弥呼の時代と一致していることから、卑弥呼の神殿発見(?)と騒がれた。箸墓古墳が卑弥呼の墓であるとの説も年代が近い,というのがその根拠になっている。三角縁神獣鏡が多く出土した黒塚古墳もここから北へ向った田原本にある。邪馬台国近畿説の証拠や舞台装置はそろったような感じもあるが、まだまだ状況証拠の域を出ない。

 この東西軸の建物配置の思想は、ここから見渡せる藤原京や、その後の平城京、平安京が南北軸上に配置された「天子南面す」の設計思想に基づく都であったのと異なる。中国から神仙思想や、道教や風水の思想が伝わる以前の土着の古代倭人、弥生人はごく自然に日が昇る東、日が沈む西を基軸に自分たちの世界を理解していたのだろう。ここ三輪山の麓に立ってみてその世界観が理解出来たような気がする。

 こうして三輪山の麓から二上山のある西を望むとこの大和国中も邪馬台国の時代から、飛鳥を経て藤原京、さらには平城京の奈良時代へと移り変わる、そうした時空を超えた風景に見えてくる。このすぐ北には箸墓古墳や巻向遺跡や大和古墳群が山辺の道沿いに並んでいる。倭国、邪馬台国発祥の地だ,と言われるとそのような気がする景観とたたずまいだ。もっとも九州の八女地方や山門地方のそれも極めて大和地方と似ている。古代倭人はこのようなセッティングに神を感じ、安らぎを覚えたのだろう。

この狭い見渡すことの出来る範囲が当時の倭人の世界だったのだろう。現代の日本人には当時の倭人のDNAが引き継がれているのだろうか。

2010年8月21日土曜日

伊豆 奈良本の庄

 夏休みはいつもの隠れ家、伊豆奈良本へ。といっても、大阪へ転勤となってからはなかなか行きにくくて、ほぼ2年ぶりの伊豆行きとなった。

 伊豆は近畿からはいまでも遠い。まして奈良や京都に都があった時代にはとても簡単に行ける所ではなかった。伊豆国は奈良時代には駿河国から別れて一国となった。国分寺は三島、国府も三島におかれたと言われるが、その遺構は発掘されてない。いずれにせよ都から見れば、伊豆は文字通り遥か東国、天さかる鄙である。今でも新幹線で新大阪から東京へ向う途中、三島の手前の右側の車窓から海中に牙牙たる山並みが続いているのが見える。これが伊豆半島だ。伊豆半島は海に大きくせり出した山なのだ。

 奈良本は伊豆半島東海岸、相模湾沿いの賀茂郡の里である。
ここに永年のなじみとなっている作右衛門宿、山桃茶屋がある。今では伊豆急行線の熱川駅から車で急な山道を上れば20分程で到着する。海辺の温泉街からは遥かにはずれていて山に囲まれた狭い里の静かな集落の中にある。もともとこの地の庄屋の屋敷であったそうで、立派な古民家とナマコ塀の蔵が美しく手入れされた庭とともに、ここがこの地域の有力者の屋敷であったことを彷彿とさせてくれる。一日に2組しか泊まれない露天風呂の宿と、しし鍋、へらへら餅などのひなびた郷土料理を食べさせてくれる大きな古民家の座敷料亭と...あまり人に教えたくない隠れ処という風情である。

 地元の人々は、奈良本はその昔、奈良時代に政変や権力闘争を逃れて移り住んだ都人の隠れ里であったと言う。確かに日本の秘境地域に点在する平家の落人部落を感じさせるたたずまいに似ている。都からの距離感、しかしどこか雅な空気感がここにも漂っている。奈良本は山里であるが,同時にのどかな海の見える里である。その点で九州の椎葉村のような山々で隔絶された環境でいかにも秘境という雰囲気はない。いや海と山に隔絶されてはいるが、かえってそれが明るいリゾートの雰囲気を醸し出している。

 今でこそ国道135号線や伊豆急行線で伊東から先へも行きやすくなったものの、その昔は伊豆の峻険な山々を越え、海岸の断崖絶壁に身の危険をさらしながら来なくてはならない秘境であった。
 川端康成の「伊豆の踊り子」でも、旅芸人の一行と山道を歩き、天城トンネルを抜けて下田へ向う道中の様子が描かれている。東京へはもっぱら下田から船、というのは踊り子の最後のシーンを思い起こせば理解出来る。

 奈良時代以降,伊豆は権力闘争に敗れた人々の流刑地でもあった。源頼朝が伊豆に流された話は有名だが、それ以外にも歴史上多くの悲劇がこの伊豆の地に伝わっている。特に都から遠く離れた東海岸の賀茂郡と伊豆七島は「遠流」すなわちもっとも重い流刑の場所であった。左遷と言うとよく引き合いに出される九州の太宰府だが、都の最も位の高い人々の赴任地であって、中央政界からは都落ちだが、立派な官職を得ることの出来る土地だったので比べるべくもない。

 奈良本もひょっとすると,落人の隠れ里というよりも、こうした都での政治闘争に敗れ、送られて来た人々の末裔が住み着いた場所だったのかもしれない。闘争に敗れた我が身をはかなみ、世間に恨みを抱き送られた流刑地。赦免の日も来ぬまま彼の地に留まり、しかしこの地に最後は安らぎを見出したのかもしれない。

 穏やかで暖かい人々。緑濃く、ひんやりとした空気、河鹿が鳴き、21才の老猫が迎えてくれる、変わらぬ里の静けさに心癒されて過ごす。今は都会での心身の疲れを癒すリゾート隠れ里だ。ひょっとするとここは「愛の流刑地」なんだ。いや、そういう意味ではなく...





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(夏の夜の海を彩る花火。伊豆今井浜は今、若者や家族連れで賑わい、海辺の一夜のイベントで盛り上がる)




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(蓮の花が伊豆の地に散った都人とその末裔の想いを乗せて咲き誇る。人気のアトリウムに咲く蓮が今は人々を癒してくれる)

2010年8月15日日曜日

2010年 8月15日 65回目の終戦記念日

 今日は65回目の終戦記念日。

 今年も暑い暑い鎮魂の夏がやって来た。

 毎年8月15日、先の戦争で亡くなった人々の御霊を慰め、不戦を誓う。

 日本人だけでも310万人もの人々が犠牲になった,日本の歴史上類を見ない悲劇。

 アジア太平洋地域の人々に多大なる惨禍を与えた先の大戦。

 明治維新でアジア諸国の中ではいち早く近代化を果たし、アジアの盟主たらんとした日本。
 
 戦争でアジアの人々を苦しめ、日本人自身を苦しめ、破滅の道を歩んだ日本。

 戦後、奇跡の復興を成し遂げ高度経済成長を遂げた日本。

 そして21世紀に入り、中国や韓国やインドの経済発展に追いつかれ追い越されようとする日本。

 戦争で亡くなった大勢の人々は今、彼の地からこの日本をどう見ているのだろうか。

 65年目のこの夏,東京には新しい建造物が建設中だ。

 出来上がれば、世界一の高さを誇る電波塔となるという。

 その名も「東京スカイツリー」。

 地上デジタル放送用の塔だが、今更21世紀の世界に高さを誇る電波塔が必要なものなのか。

 光ファイバーや高速モバイルを使ったブロードバンド時代に...

 2010年8月15日、終戦から65年目の今日のこの日、東京の空にそびえる建設中の東京スカイツリー。
 
 せめて戦争の犠牲となった人々の鎮魂のモニュメントたれ。

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(浅草吾妻橋から,隅田川越しに建設中の東京スカイツリー)
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(アジア諸国からの観光客で賑わう浅草寺山門から望む東京スカイツリー)

2010年8月12日木曜日

奴国、伊都国、末盧国幻影(福岡・博多シリーズ第2弾)

 中国の三国時代、英雄達が活躍した三国志の時代だ。魏の陳寿が編纂した史書。その倭人の条(魏志倭人伝と呼ばれている)は、日本国家の起源を知る上で重要な邪馬台国の記述がある唯一の文献資料として有名だ。

 そこには朝鮮半島の東の海上に浮かぶ倭人の国、女王卑弥呼が都する邪馬台国に至る道のりと国々の様子が描かれている。その道程の記述から邪馬台国が九州にあったのか、近畿にあったのか大論争になっていることは有名だ。

 この倭人伝に記されている国々のうち,ほぼ位置が特定出来ている国は対馬、壱岐を除くと、末盧国(松浦半島)、伊都国(糸島半島)、奴国(博多湾)の3カ国だけである。とりわけ奴国については魏にさかのぼる漢の時代の史書「後漢書東夷伝」に倭の奴国王が朝貢したことが記述されており、そのとき漢の光武帝が奴国王に与えた金印「漢倭奴國王」が江戸時代に博多湾の志賀島から出土していることから、文献上の記述が考古学的な物的証拠で証明された貴重な例とされている。

 博多ベイサイドプレイスから博多湾内をクルーズするレストランシップマリエラに乗船。古代の奴国と伊都国の幻影を追いながら水辺都市福岡の景観を楽しんだ。
 このクルーズ企画自体は、MATfukuokaという、福岡の近現代建築を探訪する「建築ツアー」イベントの一つで、福岡の都市景観を海から見て回ろうという画期的なものである。これに便乗した。

 福岡はこれまであまり知られていなかったが、世界中の著名な建築家が設計、建築した建造物作品が集積している都市である。磯崎新、黒川紀章、前川國男、アルド・ロッシ、シザー・ペリー、等々。これら建築物を文化的な景観,文化的資産として見直し、福岡という町の付加価値創造に役立てようという志のもとに、福岡の若手建築家、建築学生たちがプロデュースした活動がMATfukuokaである。建築物と都市景観を新たな福岡の魅力として再発見しようというなかなかユニークな試みであるし、何よりも参加して面白いツアーである。

 こうして海から福岡を見ると奴国の時代からこの博多湾が大陸への重要な窓口であったことがあらためて体感出来る。中世に栄えた港湾都市博多は、元寇や戦国の争乱など幾多の戦火による破壊を乗り越えて江戸時代の鎖国でその役割を終えるまで、日本を代表する国際貿易都市として発展してきた。大航海時代のオランダの世界地図にもFacataの名前が刻まれている。遣唐使の時代から謝国明のような華僑商人、神屋宗湛、大賀宗九などの豪商が活躍した「博多の黄金の日々」だ。

 その後鎖国時代に入り、博多の国際貿易港としての役割は長崎に移り、しばらくは停滞の時期に入る。終戦直後は大陸からの引き揚げ船の着く港となり、日本人がかつて体験したことのない未曾有の悲劇の舞台ともなった。博多湾には戦後間もなくから博多埠頭や須崎埠頭などの港湾施設が設けられ、香椎沖には最近アイランドシティーにコンテナ埠頭が新設されてガントリッククレーンが並ぶ姿が、再び新たな国際港湾都市福岡への再生の印象を強く主張している。

 目を西に転ずると、シーサイドももちから姪の浜のマリノアの都市景観は、新しい水辺都市福岡を強く印象付ける。大きな港湾施設を設けず、工場もなく、水辺をコンクリートで護岸せずに人工ではあるが砂浜で縁取り、福岡タワー、シーホクホテル、福岡ドームなど斬新なデザインの高層の建築群が軒を連ねる。今川橋に住んでいた子どもの頃,この辺りは地行浜、百道浜の海水浴場だった。近場の海水浴を楽しんだものだ。そこをアジア博(よかとぴあ)の時に埋め立てて新しい人工海浜都市、シーサイドももちが生まれた。近代的で自然と調和した都市生活、という福岡での暮らしを形容するにふさわしい景観となっている。

 博多湾は志賀島を陸地と繋ぐ長大な砂州、海ノ中道に囲まれた静かな内海になっている。その志賀島と能古島の間からは玄海島が望め、ここが天然の良港であり、朝鮮半島、大陸へのゲートウェーであることをあらためて感じることが出来る。また西には今津湾、糸島半島の可也山(糸島富士)が夕陽に染まり、古代の伊都国の残照を見る思いがする。

 船から陸地をぐるりと見渡すと、古代の倭国の国々(ムラムラ)の舞台はこのように博多湾という意外と狭いエリアであったようだ。邪馬台国の卑弥呼の代官、一大率が駐在したという伊都国もこの博多湾を囲む糸島半島の付け根あたりに位置していた。平原遺跡や三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡など、大陸伝来の副葬品が大量に出土した遺跡群が集まる場所である。魏志倭人伝に登場する伊都国の存在を考古学的に証明するものだろう。

 さらに西へと歩を進めると、末盧国のあった唐津、松浦半島となる。ここは福岡から地下鉄乗り入れで1時間余の所だ。昔は国鉄筑肥線であったが、福岡市地下鉄開通と同時に電化され、姪の浜から西は地上を走る。景色の美しい路線だ。伊都国のあった糸島半島を過ぎる頃、右手に美しい海と島が織りなす海岸線が車窓に広がる。この美しい風景に囲まれた豊かで平和な風土が古代から人々を寄せ付けて国家(ムラ)を形成したとしても不思議ではない。晴れた日には壱岐が望める。やがて虹ノ松原と鏡山が優美な姿を展開する。万葉時代から時空を超えて続く景観に見とれてしまう。

 この唐津は「唐津焼」で名の知れた土地でもある。中里太郎右衛門窯が現在も窯元として古唐津伝統の作品を生み出している。朝鮮唐津や高麗唐津など茶器として古唐津は外せない。他にも若手作家が多く育ち、駅前にはギャラリーには様々な「唐津焼」の作品が並んでいる。古代末盧国時代から大陸との交流が盛んであった土地の記憶を、こうした伝統陶器に重ねることができる。

 青い空、青い海、白砂青松、緑の島々... 近代的で個性的な建築群と都市景観... このような自然と都会、時空を超えた歴史と未来が織りなして美しい景観を生み出している。今も昔もアジアへのゲートウェーというポジションは変わってない。アジアの時代にこの福岡がどのように発展してゆくのか楽しみだ。

2010年8月11日水曜日

福岡と博多 ツイン・シティーの栄枯盛衰 (福岡・博多シリーズ第1弾)

 福岡と博多はそもそも別の街であったことをどれだけの人が知っているだろう。古くからの博多っ子ですらよくわかってない人がいるくらいだし、まして転勤族が多い福岡市民はあんまり考えたこともないだろう。別に知らなくても日常の生活に支障はないからどうでもいいのだが。しかし,そこには栄光の歴史と皮肉な運命と、衰退からの復活と再生のシナリオが隠されている。いろいろ教えられることがいっぱい隠れている。知るは楽しみなり。いざ時空旅へ!

 博多は中世に繁栄した我が国随一の国際貿易都市である。さかのぼれば太宰府の外港、那の津に起源を発し、大陸との重要な交通の要衝として発展した。遣唐使船もここ那の津で風待ちしてから出航し、那の津へ戻って来た。みやこにいた平清盛は太宰大弐の官位を自ら要求し、ここに袖の湊を開き宋との貿易を独占した。後に元寇で博多は戦火に焼き払われるも、謝国明など博多百堂の華僑豪商等によって復興し、中世には大友氏、大内氏、島津氏の利権争いの場となる程の繁栄を極めた。さらに戦国時代の戦乱で街がたびたび焼き払われ、一時衰退したが、豊臣秀吉によって復興された。神屋宗湛、島井宗室、大賀宗九などの博多を代表する豪商達が活躍する時代となる。「博多の黄金の日々」である。このような1300年余の歴史を持った街である。また博多の街を3m掘ると、江戸時代、近世、中世、古代から、弥生の集落、「クニ」の遺跡が重層的に発掘される。このように「博多遺跡」は3mの地層に2000年の歴史が積み重なるという稀有な遺跡だ。そう、博多は日本最古の都市なのだ。


今の博多の町割りはこの秀吉によってなされたもので、「流れ」という通りを南北に走らせた碁盤の目のような縄張りは「太閤割り」と呼ばれる(博多古地図参照[出典:福岡県立図書館])。秀吉のお膝元、大坂の船場の町割りと同じである。今でも博多祇園山笠の「流れ」はこの太閤割りに基づいている。

 一方、福岡は関ヶ原の戦い以降、豊前中津から入国してきた黒田長政によって新たに開かれた城下町だ。あの天才軍師黒田官兵衛(この頃には隠居して如水と号した)とその子、長政によって縄張りされた。官兵衛は秀吉の下で博多復興の指揮を取っていた訳だから、息子長政が筑前国主となって、博多に戻ってきたのも何かの縁であったのだろう。福岡400年余の歴史は長いが、博多に比べれば歴史の浅い町だと言えよう。

 黒田長政は筑前入国に際し、最初は博多、箱崎の東方に位置する小早川隆景が築いた名島城に入った。しかし手狭で52万石の大藩の城下町としては拡張性に欠けるとして、新たな場所を探した。結局、博多とは那珂川を隔てた西の警固村福崎に城を構えることとなった。ここを黒田一族の出身地備前福岡にちなんで「福岡」と名付けた。

 城は天守閣を設けず(一説には、あったが破却されたともいう)、石垣も一部にしか用いない平城だ。黒田氏が朝鮮出兵時に、難攻不落で、攻略に手こずった晋州城をモデルとしたと言われる。周囲を歩いてみると石垣も低く、堀も浅い一見無防備な城に見える。また、新たに建設された城下町部分は狭い作りとなっているが、博多という既存の大商業都市を取り込んでいる。西は草香江の津を背に(その一部が今の大濠公園)、北は細長い城下町を挟んで海に面し、東は那珂川を隔てて博多の街。さらには博多の外側に出城を配し、南は山、という攻めにくい構造となっている。戦国の世の山城とは違った新しい時代に即した、いかにも城づくりの名手,如水、長政親子らしい合理的で優美な縄張りだ。

 ちなみに福岡城(舞鶴城と呼ばれている)は、奈良時代から平安時代に設けられた外交、官製貿易のの拠点、太宰府の筑紫館(ちくしのむろつみ。別名、鴻臚館)があった所に築城されている。これは、当時そこが鴻臚館あとであることを知って築城した訳ではなく、戦後になって、城内の旧平和台球場跡から当時の館跡が発見され、現在も発掘が続いている。もともとこの辺りは博多湾を見下ろす高台に位置している。偶然なのだが、何時の時代にも、支配者は高台に陣取るものらしい。



新しく建設された城下には、上級家臣団が住む大名町、中下級武士が住む地行町、唐人町や、新たに樋井川の西に開発された西新町などが形成され、さらに豊前中津や播州から商人や職人を集め、大工町、呉服町(博多の呉服町とは別)、簀子町など、博多とは異なる町人町を配している。

 このように博多と福岡は全く性格の異なる都市であり、発生の時期も経緯も異なっている。那珂川の中洲を隔てて並存した、日本では珍しい双子都市である。ちなみに、博多の東には石堂川を隔てて箱崎,千代の松原があり、ここは箱崎八幡宮を中心に形成される寺社町として発展してきたところで、福岡とも博多とも一線を画した地域であった(福岡城参照[出典:福岡県立図書館蔵])。

 江戸時代に入ると鎖国令により、古代より続いた博多の国際貿易港としての役割は終わり、その役目は肥前長崎に移る。あれ程鼻息の荒かった自治都市博多も、徐々に黒田藩の城下町の一角をなすようになる。海外に雄飛した博多の豪商は姿を消してゆき,長崎をその活動の場とするか、新しい国主黒田氏の御用商人となった。徳川幕府は博多を直轄領とはせず,黒田の支配にまかせた。その黒田も隣の肥前佐賀藩の鍋島とともに幕府の命により長崎勤番の任務につき,博多より長崎の警備に多くの時間と費用をかけた。またそこで得られた海外の知識や技術を藩の権力機構に内包していった。

 明治になって、城下町福岡と商人町博多は合併し福岡市となる。議会で一票の差で新市の名称は「福岡市」となったという。今は博多の名は区制移行後の「博多区」とJR「博多駅」に残すのみであるが、しかし、福岡出身者は外へ行くと「私は博多っ子です」と自己紹介する。福岡部に住んでたか、博多部にいたかを問わずである。外では博多と福岡はどちらでも通用する名称であるが、「福岡」と「博多」はどう違う?という、うんちく話の好きなご仁に格好の題材を提供している。このブログのように...

 今でも博多と福岡の違いは祭りにその痕跡を残している。博多祇園山笠は博多の祭りで那珂川を渡って福岡部には入らなかった。博多総鎮守の櫛田神社の祭りだ。今でこそ新天町辺りに飾り山が並べられているが、世が世なればこれは有り得ないことだった。もう一つの博多を代表する祭り、博多松囃子とそこから生まれた「どんたく」も博多商人の祭りだ。祭りが多いのは博多の特色だ。今はお囃子のパレードは福岡市中央区の中心部天神、渡辺通をにぎやかに通るが、ここは博多ではない。城下町福岡の東の端っこだ。しかしここから西へは祭りの列は進んでゆかない。そういえば城下町福岡の祭りって、あまり聞いたことない。

 博多っ子はプライドが高く、福岡の人間が「博多は...」とか、「博多じゃあ...」と言うと、「ナンバ言いよおとか」「博多は山笠のあるけん博多たい」と、お定まりのセリフが返ってくる。県外へ行って「ご出身は?」と聞かれると、つい「博多です」と言ってしまう。何となく「福岡です」と言うと通りが悪い気がしてしまう。あるいは「福岡のどこですか?」と更問いが来るのがめんどくさい。しかし、那珂川と石堂川に挟まれた博多以外の「福岡市」で生まれ育った人は、自らを「博多っ子」と言っておきながら、なんか引け目を感じる。東京に住んでるからといって皆が「江戸っ子」という訳ではないのと似た感覚だ。

 話は変わるが、筑前福岡藩は明治維新に乗り遅れた藩である。明治新政府には福岡出身者の重鎮は少なく、九州の中でも長崎や熊本、小倉、門司に比べて存在感の薄い通過都市の悲哀を味わうことになる(福岡がこんなに発展するのは戦後のことである)。高等教育機関でも旧制高等学校ナンバースクールは、第五高等学校は熊本。第七高等学校は鹿児島だ。ただ九州帝国大学の誘致に成功したのは当時の福岡としては快挙と言わざるを得まい。

 そもそも幕末には福岡藩には家老の加藤司書や平野国臣、月形洗蔵などの筑前勤王党の志士がキラ星のように活躍し、薩摩や長州に並ぶ「尊王攘夷」勢力の中心であった。長州征伐では幕府軍の侵攻を停めさせ、幕府寄りであった薩摩と、倒幕派の長州の仲を取り持つなど、薩長連合(坂本龍馬の功績であるとされているが)を画策するなど幕末激動の時代の主役の一翼を担っていた。また京都での政変により下ってきた「七卿落ち」、すなわち倒幕派の公家たちは、長州藩、そして筑前太宰府に身を寄せている。

 しかし、勤王倒幕派が主流であった筑前福岡藩も、藩内の佐幕派の巻き返しに遭い、明治維新を2年後に控えた年に、加藤司書はじめ、倒幕派のほぼ全員が粛正されてしまう。野村望東尼が姫島に流されたのもこの時だ。

 黒田は外様とはいえ、関ヶ原合戦では徳川の東軍に組し、長政は東軍勝利に貢献したことで家康から筑前52万石を与えられている。薩摩の島津や長州の毛利が西軍の主力で、関ヶ原で敗走し、後に徳川に赦免された「西軍の残党」であったのとは異なる。この点は同じく徳川に土佐一国を与えられた外様の山内に似ている。黒田の幕末に置ける尊王倒幕のスタンスは、山内容堂が最後まで佐幕か倒幕か迷いに迷っていたのと同じ状況だ。ちなみに倒幕で活躍した武市半平太や坂本龍馬などの土佐勤王党は、そのほとんどが、かつて徳川に滅ぼされた長宗我部遺臣の子孫、山内レジームでの下士、郷士である。考えてみれば怨念とは恐ろしいものだ。毛利も島津も長宗我部も、関ヶ原の恨みを260年後に晴らした訳だ。

 福岡藩にはこうした土佐藩のような旧領主の家臣たちはいなかった。黒田如水(官兵衛)、長政父子を祖とあおぎ、いわば創業以来、君臣の結束が固かった黒田家(黒田二十四騎に代表される)も、三代目忠之の時の黒田騒動(殿のご乱心に栗山大膳が主家を見限る)に象徴されるように、父祖の代から黒田家に忠誠を尽くしてきた古参の家臣団との間に亀裂が入り、徐々に結束力が弱まってゆく。また、後世には嫡子に恵まれず、官兵衛、長政の血脈は途切れる。こうして他家(徳川、京極、島津など)からの養子が藩主の座につくようになる。

 黒田の最後の殿様、長ひろ(さんずいに専)は薩摩島津からの養子で、島津斉彬とは甥叔父の関係であった。蘭癖大名で、開明的な君主であったが、最後の最後で倒幕には組しなかった。日本の近代化の必要性、勤王の志は理解を示したものの、藩内の過激派、筑前勤王党一派を持て余し、土壇場で粛正して徳川幕府に忠誠を示した。徳川慶喜の大政奉還の数ヶ月前、明治新政府発足の2年前のことである。皮肉にも、同じく佐幕か倒幕かで逡巡していた土佐の山内容堂(大政奉還を建白する)とは対照的だ。激動の時代にあって、先を見抜く眼力、大局的に時代を読む見識、時宜を得た的確な判断をすることの難しさを教えている。これは単なる運不運では語れないだろう。リーダーには運を掴む力も必要なのだから。

 不幸はさらに続く。明治新政府になってから、福岡藩知事の黒田長知は、贋札事件の責任を問われ、廃藩置県を待たずに藩知事の地位を追われる。替わって皇族から有栖川宮タルヒト親王が藩知事となる。贋札発行は当時、財政逼迫事情から、各藩では密かに行われていたようだ。しかし、このように新政府に発覚してしまい、関ヶ原以来260年続いた大藩の藩主が更迭されるという前代未聞の事態を招いたのは福岡藩だけだった。皮肉にも幕藩体制崩壊直後の「改易」である。

 いやはや、先を読む眼力を備えた天才軍師と言われた藩祖如水(官兵衛)は、彼岸からどのような思いで、こうした子孫(といってもとうに血脈は途切れているが)の引き起こした「不手際」を観ていたのであろう。殿のご乱心による改易の危機を、身を捨てて切り抜けた忠臣栗山大膳も、あの世で泣いていることだろう。

 このように歴史をひもとくと、那珂川を隔てた二つの双子都市は、奇しくもともに時代の変遷に伴う苦渋を味わった。博多は鎖国政策により、古代から続いた日の本随一の国際貿易都市としての黄金の日々を失い、福岡は明治維新に乗り遅れたため、地方通過都市への転落を余儀なくされ、明治新体制では、福岡人は西南の雄藩出身者の後塵を拝することとなった。栄枯盛衰は歴史のことわりとはいえ皮肉なものだ。

 しかし、戦後の福岡の発展には目を見張るものがある。連合国占領軍GHQは九州の拠点を熊本ではなく福岡に定めた。これがキッカケとなり、戦後、明治以来の福岡の地位が逆転することとなる。マッカーサーは、上述のような福岡の明治維新における歴史的な経緯などを考慮する立場には無いし、知りもしなかっただろう。ただ朝鮮半島にも近い「極東アジア」における福岡の地政学的なメリットを勘案して拠点に選んだのだろう。彼は古代から続く博多・那の津の東アジア的な役割を歴史に学んだ訳ではないが、結果的に福岡・博多のポジションの重要性をよく認識していた。

 今や人口150万を突破し、名実共に九州随一の大都市に発展し、九州の盟主に躍り出た福岡市。特にアジアの時代、21世紀に入って、福岡・博多が再び東アジアの中核都市として世界に開かれたハブになる日がやってきた。東京を向いたドメスティックな「支店文化の町」ではなくこの歴史的双子都市が、かつてのようなグローバルな舞台設定の中でどのように発展してゆくのか楽しみだ。

2010年8月9日月曜日

デジタルオリンパス・ペンF復活 F.ズイコーレンズ再び...

 オリンパスのE-P1は、マイクロフォーサースフォーマットのデジタルカメラで、一眼レフ特有のペンタ部がないコンパクトな外観で人気商品の一つだ。

 往年のオリンパス・ペンFの外見もペンタプリズムを廃し、ダッハプリズムという当時画期的な光学技術を用いたスマートな独特のボディー形状となっていた。そういう意味では、デジタル化されて同じ外見を継承したことはファンにとって嬉しい限りだ。

 ただ、往年のオリンパス・ペンFユーザは、お小遣いをコツコツ貯めて買いそろえたペンF用のコンパクトなズイコー交換レンズ群を付けて撮りたいではないか。それでこそデジタル化したオリンパス・ペンFの復活だ。

 ペンFは35mmフィルムの半分、すなわちハーフサイズ用カメラなので、35mm換算でレンズ焦点距離は40mmなら1.3倍の約50mm相当となる。フォーサーズフォーマットなら2倍となるので、40mmのFズイコーレンズは80mmの中望遠レンズとなるはずだ。

 ところが、意外にペンF⇔マイクロフォーサースマウントアダプターがない。
オリンパスからもパナソニックからも純正アダプターはラインアップされてない。その他のブランドメーカーからも、このF用だけがリリースされていない。
どうやら香港製のモノがある、無名のガレージメーカが出しているそうだ、という噂は聞いていたが、実際にお目にかかることはなかったので、ほぼ諦めていた。

 先日、福岡へ行ったとき、時々ぶらりと立ち寄る天神のカメラ屋のショーケースを覗いてみると、たまたま発見。探している時はないが、忘れた頃に見つかるもんだ、こういうたぐいのモノは。

 どこの製造か全く表示もない(PEN-m4/3と白抜きで刻印してるが)が、とりあえず使ってみる。
ボディー側のマウント外周にはローレットが切ってあり取り付け時の手がかりがよい。カチッと装着。しかし、レンズ側のマウントが甘い。ガタガタする。取り付けたズイコーレンズのフォーカスリングをまわすと、マウントロックが外れてしまう。無限大ピンとも少し甘い。工作精度はいまいちだ。

 写りはさすがに、最新のデジタル専用のレンズのようなシャープさとコントラストの良さはないが、「そうそうこんな写真だったよ、あの頃撮ったのは...」というノスタルジックなテイストが出ている。シーンモードでポップアートを選んで撮ると面白い。遊べる。

 しかしFズイコーレンズ装着した姿はなかなかのもの。コンパクトでスマートなE-P1ボディーにコンパクトなFズイコーレンズ。とにかく「デジタルオリンパス・ペンFの完成です!」マウントリングの出来上がりは「いただきました、☆三つです」とはいかないが、Fズイコーレンズ群を生かせるデジタルオリンパス・ペンFの復活にマニアックな一人喜びの感動を味わってる。

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