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2010年8月30日月曜日

元薬師寺にホテイアオイの群生を愛でる そして三輪へ






 (第一部)元薬師寺にホテイアオイの群生を愛でる

8月ももう終わりだというのに今年の夏は半端でなく暑い。関西では35℃以上の猛暑日がもう14日も連続している。異常としか言いようがないこの暑さ。

しかし、この暑さは、夏の終わりの風物詩、元薬師寺のホテイアオイ開花にとっては最高の条件。先日藤原京跡から回った時には、藤原京の睡蓮が咲き誇っていたが、元薬師寺のホテイアオイはまだまだ。チラホラ開花した株もあった程度。

今日こそは絶好のホテイアオイ日和。晴天、気温朝から30℃超。週末珍しく早起きして、近鉄鶴橋から大阪線に乗り、大和八木経由、橿原線の畝傍御陵前まで「時空エキスプレス」に乗る。駅からは東に炎天下を15分程歩くと元薬師寺跡だ。

見えた見えた、一面のホテイアオイの群生。いっぱい咲いている。1.7ha程の休耕田に約14,000株のホテイアオイが植えられている。地元の畝傍北小学校の生徒達が植えたものらしい。ホテイアオイの花は一日花。朝一斉に開花して夕刻には花の命を終える。翌日には新しい花がまた咲く...このように群生していても結構はかない花なのだ。しかも、日照時間や気温などによって咲いたり咲かなかったりする。一斉に咲いても翌日はチラホラしか咲かなかったりする。しかし、今日はこの天気だ。盛大な咲きっぷり。

既に、何人かのカメラ小僧(オヤジ)が思い思いに自慢の愛機を構えて写真撮影に余念がない。思ったよりデジタル一眼レフはニコン派が多いようだ。皆一様に地べたに這いつくばって撮っている。美しい花弁をクローズアップしながら,背景の畝傍山も入れてやろう、という意図だ。だいたいわかるシロウトのアングルは。コンデジの人も多いが、こういう人は車でサアッときて写真とってサアッと帰ってゆく。デジ一持ってる人は「地べた這いつくばり」派、オバさんカメラマン(ウーマン)も多い。中には杖付きながらやってきて、風景のど真ん中にドッカと立ち尽くして、やおらバッグからデジ一取り出して周りを撮ってるオバさん(おばあさん?)もいる。「ちょっとどいてくれよ」「あなた、ホテイアオイ風景のど真ん中に入っているよ」。しかし元気だ、いくつぐらいだろう。

すっきりと青い空、キレギレの白い雲、緑の木立に薄紫色の涼やかなホテイアオイの花が群生する様は壮観だ。しかもここは1300年前の薬師寺の古跡。暑さを忘れてこちらもニコンD3s(今日は気合い入れて来た)を取り出し撮影開始。標準ズームと望遠ズーム(85−400mm)で戦闘開始。これだけ群生するとどう切り取るかなかなか難しい。

この元(本)薬師寺は藤原京造営の時代、610年に天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を記念して建立した官寺である。のちに710年に平城京へ遷都となった時には、この薬師寺が、今の西ノ京の地にそのまま移築された。現在の東塔はこの元薬師寺から移築された東塔そのものだと言われている。

いまは、ここ元(本)薬師寺跡には金堂跡(礎石が並んでいる)、東塔跡(芯礎を囲んでこんもりとした木立が)、西塔跡(田んぼの中に土まんじゅうのような基壇跡が)が、当時の伽藍配置そのままに残されている。西ノ京と同じ広さの境内が一面のホテイアオイの田んぼに変わっている。

1300年の時空を超えた大寺の痕跡とそれを埋め尽くすようなホテイアオイの薄紫の花の群落。西には金剛山系の山々を背景に畝傍山が、東には大和青垣山系がこの地を取り囲んでいる。大和国中を彩る風景。たまらんなあ。


































(第2部)そして三輪へ

早起きしたこの日はこの後、時間もたっぷりあったので、さらに桜井まで電車に乗り、そこでJR桜井線(最近、「まほろば線」と改名)に乗り換えて一駅目の三輪まで足を伸ばした。大和の東の神聖なる神奈備型の山、三輪山。山自体がご神体である大神神社に参拝。ここの祭神は大物主神。ここ大和の地主神である。蛇に姿を変えて、やまとととひももそひめと結婚したとされている。この媛こそ箸墓の主である。ここは仏教伝来以前の倭国の世界だ。自然、精霊を祀る日本古来の宗教世界だ。三輪展望台へ登る。そこから大和三山、大和国中が、そして日が沈む西の方角に,もう一つの神聖なる山、二上山を展望した。

去年の11月に巻向遺跡で発掘された3世紀半ばの神殿とおぼしき建物群は、三輪山を背に、二上山を正面に、東西軸上に配置されていたのが確認されている。時期が魏志倭人伝に記述されている邪馬台国の卑弥呼の時代と一致していることから、卑弥呼の神殿発見(?)と騒がれた。箸墓古墳が卑弥呼の墓であるとの説も年代が近い,というのがその根拠になっている。三角縁神獣鏡が多く出土した黒塚古墳もここから北へ向った田原本にある。邪馬台国近畿説の証拠や舞台装置はそろったような感じもあるが、まだまだ状況証拠の域を出ない。

この東西軸の建物配置の思想は、ここから見渡せる藤原京や、その後の平城京、平安京が南北軸上に配置された「天子南面す」の設計思想に基づく都であったのと異なる。中国から神仙思想や、道教や風水の思想が伝わる以前の土着の古代倭人、弥生人はごく自然に日が昇る東、日が沈む西を基軸に自分たちの世界を理解していたのだろう。ここ三輪山の麓に立ってみてその世界観が理解出来たような気がする。

こうして三輪山の麓から二上山のある西を望むとこの大和国中も邪馬台国の時代から、飛鳥を経て藤原京、さらには平城京の奈良時代へと移り変わる、そうした時空を超えた風景に見えてくる。このすぐ北には箸墓古墳や巻向遺跡や大和古墳群が山辺の道沿いに並んでいる。倭国、邪馬台国発祥の地だ,と言われるとそのような気がする景観とたたずまいだ。もっとも九州の八女地方や山門地方のそれも極めて大和地方と似ている。古代倭人はこのようなセッティングに神を感じ、安らぎを覚えたのだろう。

この狭い見渡すことの出来る範囲が当時の倭人の世界だったのだろう。現代の日本人には当時の倭人のDNAが引き継がれているのだろうか。