ページビューの合計

2014年12月22日月曜日

映画「黒田、藩主やめるってよ」 〜大河ドラマ「軍師官兵衛」続編登場か?!〜

 今年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」がついに大団円。かつて司馬遼太郎の「播磨灘物語」で描かれたものの、これまであまり歴史の主人公としてハイライトを浴びることのなかった人物にもかかわらずこれだけ話題になった大河ドラマも珍しい。史実と異なる、という論争も喧しいが、歴史ドラマとして楽しめるストーリー展開と、知られざる官兵衛の魅力がよく描き出されていて面白かった。それでいい。

 最終話は、黒田官兵衛孝高(如水)とその子長政二代で勝ち取った筑前国五十四万石。福岡城築城の復元CGも登場(なんと小さく右隅に天守閣らしき建物が...) しかし如水はそんなもので満足するつもりはなかった。関ヶ原で徳川東軍と石田西軍が争っている間に、九州から攻め上がって天下を取るという野望。しかし関ヶ原の戦いが予想より早く、たった1日で決着したので、せっかく九州を平定したのに、東へ攻め上る機会を失ってしまった。しかも息子長政の関ヶ原における活躍のせいで...皮肉なものだ。という筋書きだ。「内府殿がお前の右手を握って武功をたたえたというが、その時お前の左手はなにをしていたのだ」という如水の長政に対する有名な言葉も再現されている。

 これらエピソードは後世、福岡藩第3代藩主黒田光之の時、福岡藩の儒学者貝原益軒が表した「黒田家譜」に記述されているもの。ごたごた続きで藩政にほころびが出るなか、祖先の偉業を思い起こさせて奮起させようと書かれた「如水武勇伝」だ。如水に本当にそんな野望があったかどうか今となってはわからないが、藩祖が太閤、家康に一目置かれた英雄であることを強調する逸話として記録されている。初代藩主長政が家康に重用されていたのは間違いなさそうだ。関ヶ原以後の豊臣恩顧の大名、肥後熊本藩主加藤清正も安芸広島藩主福島正則も早くに徳川幕府に取り潰しにされているが、黒田長政だけは明治まで続く筑前福岡藩主の家系を残した。もっとも如水、長政の嫡流の血統を引き継ぐのは6代目継高まで。

 筑前黒田家では早くから正史としての「黒田家譜」が編纂されたので、比較的詳細な歴史を辿ることができる。黒田一族は、近江源氏佐々木氏の末裔(したがって黒田軍の旗印は近江佐々木の平四つ目紋に佐々木大明神)で、出身地が近江黒田の庄であったが、故あって備前福岡に移り住んだという。ちなみに我が一族のルーツも近江佐々木の末裔で、黒田とは祖先を共有していると我家の家系図にある。もっとも戦国時代には、武士が名のある家に仕官するする際に、自らのルーツが正統な血筋であることを証明するために、しきりに「系図買い」が行われたようだ。黒田家の出身地についても論争があり、元々は備前の土豪であるが由緒正しき宇多源氏の血を引く近江佐々木の一族である、としたのかもしれない。日本書紀の例をまつまでもなく、正史というものの性質上、その一族の系譜がいかに由緒正しき血筋で、天下を治めるにふさわしい祖霊を有しているか、ということを伝えるために記述されているわけだから、全てが史実であるとは言い切れない。文献による歴史研究にあたってその点を念頭に置いておく必要があることは言うまでもないが、黒田家祖先の必死の乱世生き残り作戦と、そういう戦国の時代背景を垣間見ることができて面白い。

 ところで、その後の福岡藩黒田家はどういう道を辿ったのか。如水、長政父子の活躍ののち、平和な時代になってからの三代目(第2代福岡藩藩主)はあの黒田騒動を引き起こした忠之だ。長政は、度量が狭くて粗暴な性格の長男の忠之ではなく、人望の厚い三男の長興(のちの秋月藩藩主)を福岡本藩藩主後継に決めていたが、栗山大膳(あの官兵衛/如水の右腕と言われた栗山善助の子)ら重臣に反対され、結局忠之を後継者とする。しかし、長政が生前危惧した通り、長政の死後、忠之は暗君/暴君ぶりを遺憾なく発揮し、如水、長政以来の重臣との間に軋轢が生じ、ついには御家騒動に発展する。当時幕府は外様大名の締め付けを強めており、主君と家臣の争いは、お家取りつぶしの格好の材料であった。これを案じた栗山大膳は、敢えて幕府に訴え出るという手段に出た。主家を守るための捨て身の行動であった。結果的には黒田家は、幕府により一旦領地召し上げとなるが、再び黒田に領地を与える、という苦肉の策によって救われる。黒田家を守ろうとこの御家騒動を幕府に訴え出た忠臣栗山大膳は、結局、騒動を起こした狂人として陸奥盛岡藩お預けとなる(盛岡藩では流人としてではなく忠義に人として遇されたという)。いらい栗山家は盛岡の地に足を下ろすことになる。如水から栗山善助が託されたあの赤合子兜も、今ではもりおか文化館に保存、展示されている。

 黒田二十四騎という最強家臣団もこの頃には散りじりになる。ドラマでも最後の付け足しエピソードみたいに触れられていたように、後藤又兵衛は長政との確執で黒田家を出奔し、大坂の陣で大坂城に籠城し戦死している。ドラマでいつも如水に寄り添っていた側近中の側近、栗山善助の栗山家は前述のとおり黒田家を去ることとなり、また井上九郎右衛門の井上家はその後黒崎城主となるが、忠之によって断絶させられる(いわゆる井上崩れ)。登場人物で、今でも福岡に子孫の方が残っているのは「黒田節」の主人公、母里太兵衛の母里家。また長く黒田家の家老を務めた三奈木黒田家だ。官兵衛が荒木村重の説得に向かい有岡城に幽閉された時に、牢に繋がれた官兵衛を手厚く面倒観た牢番の息子を解放後に家臣に取り立てている。これが三奈木黒田家の始祖黒田一成だ。

 忠之の時代の黒田騒動は、その後も尾を引き、三代の光之の時代になっても家臣とのゴタゴタが絶えず、かつての家臣団との結束を取り戻すことはできなかった。古株の家臣団に対する若殿の息苦しさもわからないではないが、結局家の結束を壊してしまったのでは何もならない。この頃、創業の精神を、と貝原益軒によって著されたのが、先ほどの「黒田家譜」である。光之の偉大なる祖先への回帰運動も功を奏さなかったようだ。

 こうして関ヶ原以来、徳川家/幕閣に信任のあった黒田家は徐々にその存在感を失ってゆく。かわって代々黒田家と対抗関係にあった細川家が九州における徳川の藩屏となってゆく。雄藩薩摩の島津家との関係を取り持つため肥後熊本藩に移封されたのもこのためと言われている。

 お世継ぎ問題も黒田家を悩ませた。如水の血筋が継承されたのは第6代継高まで。その後は御三卿の一つ、一橋徳川家からの養子が黒田を継ぐようになる。その後も京極家、藤堂家や島津家からの養子が藩主となるが、正室が徳川家から嫁すなど、徳川家の家系に取り込まれてゆく。福岡本藩の方はこうして如水の血脈は途絶える。

 しかし、如水/長政の血筋は長政の三男長興の秋月藩黒田家に引き継がれ、明治維新まで続く。こちらも途中で他家からの養子が藩主を継ぐが、女系で黒田の血統は継承される。そのなかにあの上杉鷹山の甥で高鍋藩秋月家から黒田家に養子に入った長舒がいる。ちなみに秋月氏は黒田入府前の秋月の領主で、島津方についていたが、秀吉の命を受けた官兵衛の九州平定時に降伏し、日向高鍋藩に移封された。黒田家への養子とはいえのちに旧領に返り咲いた訳だ。歴史の巡り合わせというほかない。この秋月藩も忠之によって一時福岡本藩への吸収合併の危機にさらされるが、藩主長興の機転により、福岡藩とは別に幕末まで幕府内にも独自の序列を保つ秋月黒田家として存続することとなる。

 福岡本藩に戻ろう。幕末期には薩摩島津家からの養嗣子として入った第11代藩主長溥は、年の近い島津斉彬と兄弟同様に育った。斉彬同様、英明な君主で蘭癖大名として名をはせる。しかし、薩摩、長州、土佐、肥前と並ぶ尊皇勢力を誇った筑前も、最後の最後に筑前勤王党一派を大弾圧し、家老の加藤司書らを処刑してしまう。これで西南雄藩には珍しく福岡藩は佐幕派と見なされ、維新に乗り遅れてしまう。さらに明治新政府になり、贋札事件で藩知事黒田長知はその職を追われる。如水、長政以来、あの黒田騒動をも乗り切って、一度も改易も断絶も受けなかった黒田家は、明治に入って最後の改易大名となる。しかも廃藩置県の前に...

 藩祖如水、初代藩主長政の武勇伝に比し、その末裔の辿った道筋は決して華々しいものではない。あまり「運が巡ってまいりましたぞ」とはいかなかった。むしろ運を掴めなかったのかもしれない。しかし、これは黒田家に限らない。名門と言われる家系でも、代々名君が続くケースの方が稀だ。ましてお世継ぎ問題は大名家の最大の頭痛の種であった。徳川将軍家でもその事情は同様である。黒田家だけが悲劇に見舞われたわけではないが、早い時期に創業時の武勇伝を「黒田家譜」に残した分だけ、かえって後世の落魄ぶりが顕著に際立ってしまう。あの黒田二十四騎も伝説となってしまった。江戸後期の10代藩主斉清の時に二十四騎の絵が復刻され、今でも福岡や博多の町屋の神棚にも祀られているが、これは黒田家の体たらくを見かねた斉清が、黒田家創業の精神を思い起こさせるため、絵師に二十四騎一人一人の往時の姿を調査させ、忠実に再現したものだという。結果、より伝説として神格化されてしまったわけだ。

 初代は苦労して未踏の荒野を開拓して一家をなし、二代目はその初代の背中を見て育ったので一族隆盛の基盤を確かなものにし、しかしてその三代目は平和で安定した中で生まれて苦労を知らずボンボン育ち。創業以来の家臣にも愛想つかされ家を潰す。「唐様で売り家と書く三代目」だ。

 ビジネスの世界も同じだ。創業者のイノベーティブなビジョンと行動力、ハングリー精神。突破力。それを受け継ぐ創成期の後継者たち。やがては安定した大企業となりエスタブリッシュされた組織となり、攻めの経営から守りの経営へ。創業者の家訓だけは壁に貼ってあるが、いつしか創業の精神は失われる。組織防衛と自己保身にのみ知恵を回すトップとその取り巻きが続出するとき、その企業は終わる。今の日本に思い当たるところがあるだろう。

 大河ドラマ「軍師官兵衛」の続編を誰か企画しないかなあ。タイトルは「黒田、藩主やめるってよ」!? そんな映画ありえへんか!

黒田二十四騎図
あの井上九郎右衛門が城主であった黒崎の春日神社に奉納されたものだが
黒田大明神とともに神格化され神社の御祭神となっている



福岡城多聞櫓
47もの櫓を配した堅固な縄張りの福岡城も
今はこの多聞櫓と潮見櫓などの復元櫓しか残っていない。

秋月黒田家の城館
今でも城下町の原型を色濃く残す筑前秋月は福岡の変貌ぶりと対極を成す。

2014年12月19日金曜日

東京の夜景 Night Skyline of Tokyo

東京は夜景の美しい街だ。だが日本三大夜景には入っていない。長崎、神戸、函館が挙げられている。これらはいずれも稲佐山、摩耶山、函館山など、街を俯瞰できる展望場所があることが共通点だ。東京のように平地に広がる大都会は全体を見渡す場所がないことから、「三大」には選ばれないことが多い。せいぜい高層ビルやタワーの展望台から見渡すことができるくらいだが、この夜景は世界一だと思う。

3枚の写真は、新しくできた虎ノ門ヒルズの51階のレストランからのもの。冷たい雨にけぶる新橋/虎ノ門あたりの夜景にも情緒を感じるが、やはり雨が上がった後のクリアーな夜景は絶品。無数に輝くビルの窓の一つ一つに都会に住む人々の暮らしと思いが詰まっている。そしてひっそりと広がる漆黒の空間は、皇居の森。昼間とは違った生きた大都会の姿がそこにある。



左の暗闇は皇居の森


日比谷/丸の内界隈

冷たい雨にけぶる新橋/虎ノ門

2014年12月14日日曜日

思わず「大阪ラプソディー♪」 第二弾 〜師走の大阪は恋の街だった〜


 師走の大阪ヘ出張。LEDを発明した3人の博士のノーベル賞授賞式も終わった今日、その21世紀を変える青い光に包まれた大阪。「大阪光の饗宴2014」と名打ったイベントが街の中心部で展開中だ。ビジネスの街大阪、モノ造りの街大阪、コト起こしの街大阪、いや「宵闇の大阪はふたり連れ恋の街〜♪」
 残念ながら「ふたり連れ...」じゃなかったけれど。




過去のブログ《思わず「大阪ラプソディー♪」第一弾》はこちらから↓
http://tatsuo-k.blogspot.jp/2014/09/blog-post_18.html



道頓堀といえばグリコ。LEDに変わった新グリコ!動くようになった。
スーパー「玉出」のネオンもあったんだ...

御堂筋/道頓堀あたり

御堂筋なんば方面


大丸本館 奥には上本町がチラリと...


大丸本館の電飾

ヴォーリズ設計の建物はこの季節に合う佇まいだ

中之島公園


中之島公会堂
いつの時代も大阪のランドマークだ

中之島プロムナード
淀屋橋方向


法善寺


一夜が明けて。生駒に上がる旭日の光芒
二上山のシルエットも