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2012年2月26日日曜日

西宮神社 ー西宮の地名の由来となった神社をX-Pro 1で撮るー

 西宮市に移り住んで、半年になる。西宮市って、夙川や苦楽園、甲陽園などの高級住宅地や、関西の名門私立学校キャンパスの所在地というイメージがあるが,それ以外、あまり想起するものは無かった。そうそう、お酒好きには灘五郷の一つ、西宮郷は辰馬酒造の故郷でもあるが。

 しかし、この西宮という地名は、この地に鎮座まします西宮神社に由来する事を、これまであまり意識して来なかった。古来よりこの地は鳴尾村と呼ばれ、漁業が盛んであったそうだ。この西宮神社のご神体、えびす様も、この鳴尾村の漁師が和田岬の沖で見つけたご神像をこの地にお祀りしたのが始めとされているそうだ。したがって豊漁の神様として信仰が篤かった。また、この地はかつて西国街道の宿場町としても開けた土地で、定期的に市も立っていたことから、商売繁盛の神様としても崇められてきた。神社の創建の年代ははっきりしないが、平安時代後期の文献には記載があるそうだ。

 そういう事で、西宮神社は、福の神、えびす様をお祭りする全国のえびす宮の総本社である。毎年一月の「十日えびす」は100万人の参詣者で賑わうほか、十日払暁の開門神事、走り参りは「福男選び」として、新年を告げる行事となっており、全国的にも有名だ。関西では大阪の今宮戎が商売繁盛の神様として有名だが,ご本家はコチラなのだそうだ。

 神社の境内は、重厚な大練塀に囲まれた広大なものだ。この「練塀」とは土を着き固めて築造する土塀のことで、古代大陸から渡ってきた、城塞や土塁の構築法である「版築法」が起源とされている。筑紫の国太宰府の大野城の土塁にその原型を見ることが出来る。しかし、これほどの規模で現用されている練塀をここだけのようだ。

 また神域は、鬱蒼たる杜に囲まれている。この「えびすの森」は県指定の天然記念物である。本殿は「三連春日造り」という珍しい構造の建物で国宝。初代の本殿は1663年に徳川四代将軍家綱によって造営された。古地図によれば今の西宮神社のある場所は,かつては海に突き出た岬といった地形であったようで、その名残か境内には松林が残っている。阪神電車と阪神高速の高架に挟まれた市街地の真ん中に、このような由緒正しく静かな神域がある事に今まで気付かなかったのは不覚であった。

 神社仏閣巡りが面白いのは、いくら時代が進んで辺りの光景が様変わりしても、ほぼ創建時の位置に存在している(もちろん移築されたり、様々な事情で破壊されて再建されなかったりするものもあるが)点である。古来からの信仰、伝承や、由緒、文物を今に承継するタイムカプセルの役割を果たしている。特に神社は、後にその時代時代の権力者が創建した有名な神社ばかりでなく、日本古来の祖霊信仰や、自然崇拝のための、いわば「鎮守の杜」がいたるところに現存している点が面白い。歴史のタイムスリップホールは、京都や奈良にばかり存在しているのではない。自分の住んでいる町や村の神社の由来を調べてみると、きっと新たな発見があると思う。

 ところで、この散歩、新しくゲットした富士フィルムのX-Pro 1の撮影デビューであった。スライドショーで見ていただくのが,くだくだ語るより雄弁にその写りの良さを語ってくれるのだが、ひとことで言って、軽快な取り回しと、高精細な写りに感動した。特に「ファインダーを通じて被写体と向き合う」という、これまでの銀塩カメラのお作法を、ストレス無く執り行なうことが出来ることは、デジタル一眼レフと比べて軽量でコンパクトなカメラであるだけに、あらためて写真撮影の楽しさを思い出させてくれた。そして、LeicaM9, RicohGRXのライカMモジュールに続き、ローパスレスとなったX-Pro1のすっきりした画がうれしい。デジカメ独特のもっさり感が無くなった。

 これからの季節、このX-Pro1を連れ出しての花と歴史散策が,一段と楽しくなるだろう。幸い梅も例年より2週間ほど開花が遅れているそうだから、焦る事は無い。春の訪れとともに一斉に開花する花々が彩る歴史の舞台、考えただけでワクワクする。


(撮影機材:Fujifilm X-Pro1, Fujinon 18mm, 35mm, 60mm)

2012年2月20日月曜日

Fujifilm-X Pro 1 遂にゲット!

 予約しておいた富士フィルムの新デジタルカメラ、X-Pro 1とレンズ三本(18mm, 35mm, 60mm)とグリップが、2月18日の発売日に送られてきた。久しぶりに物欲煩悩を激しく刺激する新ジャンルのカメラが、富士フィルムから出された。これまでのX100やX10とのシリーズ性を主張しつつも、撮影に本気出させる本格的な道具へと進化したシステムカメラの登場だ。ボディー、レンズ全てに誇らしげにMade in Japanの刻印があり、それが高品質、高品位を示すブランドになり、商材としても高い付加価値を生む事を証明しているのがうれしい。

 まず,開封。最初の印象。「デカイ!」 X100より一回りくらい大きいのかな?と思っていたが、チョットした一眼レフ並み、あるいはライカM9並のボディーサイズだ。いわゆるミラーレス機サイズを想像していたら,大きく期待を外される。実際、富士フィルムはこれをミラーレス機とは称していない。レンズも鏡胴が太くてまさに一眼レフ並だ。

 そのファーストインプレッションの衝撃は、ライカM5が発売された当時に,保守的なライカユーザがM3サイズを想像していたのに、そのサイズに裏切られた、と大騒ぎしたのに近いくらいのインパクトかもしれない。しかし、Xシリーズはこれでむしろ丁度手になじむ本格撮影機材となった感じがする(ライカM5も一番手になじむボディー形状だが)。

 今の日本製のコンデジやミラーレス機は、正直言って小さすぎる。扱いづらい。思いもかけずへんなボタンに触ってしまって,誤作動させたりしがちだ。カメラというものは両手でしっかりとホールドして撮影する道具のはずだから、極小化を目指す必要なんてないのに、やたらに軽小短薄を競って、世界最小、とか、歴代最軽量、とか、薄さを極限まで追求、だとか、余計な競争しなくていい。あげくにSonyのNexシリーズのようにボディーとレンズがアンバランスなデザインになったりする。道具はその適切な「形」が命なのだ。個人的には、程よい握り心地の大きさで,ずっしりした手応えのあるカメラが好きだ。

 少し気になる点は、スイッチオンで働くプレAFが、一生懸命ピント合わせようと、ギコギコ絶えずレンズを前後させる音(と,思ったら、絞り羽根を自動調整する音も重なっていた)。静かな所では結構耳につくだろう。全般にレンズの駆動音は大きめのようだ。

 ところでX-Pro 1はミラーレス機(そもそもこの定義もはっきりしないが)なのか?富士フィルムはそうでは無い,としているが、それではなんなんだろう。もちろん一眼レフ機ではない。じゃあ、レンジファインダー機か?まあ,カメラの分類学などどうでも良いのだが、敢えて言えば、ライカMシリーズのような古典的なレンジファインダー機のスタイルを継承した、あたらしいハイブリッドファインダー機かな?

 デジカメになってファインダーの存在意義が薄れてきた,という人がいるが、やはりキチッとした見えの良いファインダーは、写欲を増進するし、感性を刺激する重要なデバイスだ。そういう意味でミラーレス機が、一眼レフから文字通りミラーとプリズムファインダーとを取り除いたシロモノだとすると、なにかカメラから大事なものが無くなったような喪失感を感じてしまう。しかし、電子撮像センサー導入で、光学ファインダー(かなりコストのかかる仕掛けなので)省略が可能となり、大幅なコストダウンを実現したのも事実だ。

 一方、ライカMシリーズのような光学レンジファインダーカメラは、その完成度の故に(今でもライカM9は20世紀の技術をそのまま搭載している)、日本のカメラメーカーがとうとう追いこせなかった。したがって一斉に一眼レフに転換した歴史が示すように、ライカの独壇場だ。しかし、その見え方は職人芸並の美しいものではあるが、いかんせんデジタル時代には古くなってしまった技術だ。パララックス(視差、すなわちレンズ位置とファインダー位置のズレ)は欠点だし、レンズ交換毎に光学式のフレームをファインダー内に浮き立たせる仕掛けは、20世紀中葉当時は素晴らしい発明であったが、厳密なフレーミングは一眼レフのそれにはかなわない。

 そこで登場したのが、この富士フィルムのハイブリッドファインダーだ。光学式ファインダーの、美しく写欲を刺激する見え方と、正確なフレーミングで多様な撮影情報を表示出来る電子式ファインダーの両方を、一つの窓に切り替え表示する事により、20世紀的感性と21世紀的革新性を両立させる事に成功したのだ。これはすごい発明だ。日本の技術の素晴らしさを再認識させる画期的な発明だと思う。

 このX−Pro1は、ライカM9のような、伝統の光学技術を駆使したレンジファインダーと,デジタル撮像センサーを組み合わせた、いわばデジ/アナ混合カメラの将来形を指し示すカメラとなっているような気がする。次のライカM10は、光学ファインダーを捨てるのか。あるいはハイブリッドにして、ライブビューまで取り入れたカメラとして出てくるのだろうか。楽しみだが、そんな近未来型は、既に富士フィルムやリコーやソニーが世に出しているので,ライカはやはり最先端よりも伝統にこだわった製品を出すのだろう。ライカの命であるレンズやファインダーなどの光学系技術を最大限全面に押し出すのだろう。光学レンジファインダーは永遠なのかな? あとは価格に見合う価値をユーザーが感じるかだ。

 光学ファインダーと電子ファインダーを切り替えて使うのはX100から承継された技術だが、これにASPサイズのCCDと交換式のフジノンレンズ群を組み合わせる訳だから、かなり本格的な撮影機材に発展したと言える。電子ファインダーの見え方も格段に向上している。光学ファインダー切り替え時にも撮影情報は表示されるし、交換レンズによってフィンダーの画角と視野率も自動変化するなど、インテリジェントで素晴らしい出来だ。アイセンサーも付き、撮影スタイルとしてはレンジファインダー機的にも、背面の液晶でのライブビュー撮影を使ってコンデジ的にも、両方で行けるのが良い。

 同時発売されたフジノンレンズは18mm(27mm相当), 35mm(52mm相当), 60mmマクロ(90mm相当)の単焦点レンズ3本。写りについてはこれから見てみたいが、なぜ定番の35mm相当が無いのか?これはX100を買え、という暗示か?同時にX100ブラック限定モデルを発売し、X-Pro 1との一体性をアピールしていなくもない。もっとも今後、ズームを含むレンズラインアップは増やして行くそうだ。また、ライカMレンズアダプターも発売される。楽しみだ。

 デジタルカメラも、次々とその道具性に磨きをかけた秀逸な製品が増えてきており、銀塩カメラの金属質な手触りにしびれて、なかなかデジカメに移行出来なかった好き者も、そのフィルム感染症の度合いが徐々に薄れつつある。「一生モノ」とまではいかないまでも、かなり愛着の湧く、長く使える道具に進化しつつあるデジカメの世界に期待が膨らむ。

 このカメラからは、「カメラは家電製品ではないぞ」という写真機材メーカー、富士フィルムの強いメッセージが伝わって来る。銀塩フィルムというコア技術で生きてきた会社が、デジタル化に伴う技術イノベーションにより、そのコア技術を捨ててざるを得なくなり,新たなデジタル技術をコアとし、事業モデルを大きく変換させつつある。この辺が、連邦破産法Chapter 11適用、写真部門を閉鎖した、かつてのフィルム写真の巨人、Kodakとの違いだろう。

 5年ほど前、アメリカにいた時、大手光学機器メーカーの技術陣の方にこういう話を聞いた事がある。かつてはカメラメーカーには、カラーマネジメントという技術、ノウハウは無かった。メーカーの優劣は、そのレンズ性能(明るさ、解像度、収差、フレアー等)、シャッター精度(安定走行、高速化)、フィルム走行メカの信頼度、ファインダーの良し悪し、によって決まった。しかし、デジタルカメラ時代に入り、きれいな色味を高精細に出現させるのはフィルムではなく、カメラそれ自体(撮像センサーと画像エンジン)でなければならなくなった。デジタルカメラは、いわばフィルム付きカメラみたいなものなので、かつてのフィルムメーカーの有する基盤技術の中で、もっとも重要な技術の一つであるカラーマネジメント、すなわち「画造り」のノウハウを取得しなくてはならなくなった。そういう意味では、富士フィルムが長年にわたって蓄積してきた、カラーマネジメントノウハウを基盤にデジタルカメラ造れば、おそらく我々にとって脅威になるだろう、と。

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(開封の儀。ファインダーが正面右端に位置しているのはライカと同じ。しかし、光学式ファインダーを使わない限りパララックスの問題は無い。ファインダー左の目玉はAF補助ライトが。暗い所ではかなり明るく照射するので隠し撮りは無理。正面左のレバーは、光学ファインダー、電子ファインダーの切り替え用。)

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(操作ボタン類の配置はX100, X10をほぼ踏襲しているが、新しいボタン設定も増えた。親指位置のホールド感は良くなったが、Qボタンに不用意に触れてしまうことがある。ファインダーの視度補正ダイアルが無くなったのは何故?))

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(グリップとレンズを付けると結構なボリュームのカメラになる。レンズフードは角形。プラスチック製(と思ったら金属製だそうです)。18mmも同じ角形フード。)

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(軍艦部はアナログ的なダイアル配置で感覚的に扱いやすい。プログラムモードでは、シャッタースピードダイアルのA位置とレンズ絞りのA位置をセットする。シャッター速度優先では絞りをAに、絞り優先ではシャッターダイアルをAにセットする。おまかせモードやEXRモードはない。シャッターダイアルには真ん中にボタンがあり,これを押さない限り勝手に動く事は無い。露出補正ダイアルのクリック感はX10の方がある感じ。)

2012年2月14日火曜日

大和の環濠集落を巡る(2)ー山辺の道 竹之内/萱生集落ー

前回訪ねた、大和郡山市の稗田、若槻、番条集落に次いで、今回は山辺の道周辺の環濠集落を訪ねた。

竹之内集落と萱生(かよう)集落である。この二つの集落は現在の行政区域としては、天理市に属す。山辺の道の北より、すなわち、天理側。JR桜井線(万葉まほろば線)の駅で言えば、長柄駅から東へ歩いて20分ほどの傾斜地にある。この辺りは大和(おおやまと)古墳群の真ん中、周辺には衾田古墳や西殿塚古墳などの3ー5世紀に築造された大型古墳や、その陪塚、その他の中小古墳が散在している。

長柄駅近く,古代の下ツ道沿いには旧官幣大社、大和(おおやまと)神社がある。この辺りはおそらく大和最古のエリアであったろう。そもそも「やまと」とは「山処」すなわち山の麓、辺り、という意味である。魏志倭人伝のような中国の史書では、当時の日本を「倭國」と呼称しており、これは華夷思想による「小さくて背中の曲がった人の国」という意味の蔑称であった。後にこれを嫌ったヤマト王権は「倭」(訓読みで「やまと」)に換えて「和」を用いる。さらに地名を二文字化する政策で、「和」の字に修飾語の「大」を付けて「大和」とした。そしてこれを、この辺りの地名である「やまと」と読ませた。この神社の名称は「大和」と書いて「おおやまと」と読ませるのは、こうした背景と、この辺り一帯の豪族「大倭(おおやまと)」氏に由来するものであろう。さらに天武。持統天皇時代に日本書紀が編纂され始めると、「倭国」を捨て、「日本」とういう国号を用いる事になる。「日本」を「やまと」と呼ぶのもこれらに由来するのだろう。

ここは戦艦大和の守護神としても知られており、戦艦大和及び護衛艦で戦死した英霊が祖霊社に祀られている。また、邪馬台国の卑弥呼の宮殿はここにあったのでは、と唱える学者もいる。これは一昨年に纏向遺跡で発掘された3世紀の宮殿/神殿とおぼしき建物跡が卑弥呼の宮殿あとではないか、と騒がしくなっていることから、少し大和神社説は静かになった感がある。

話を環濠集落に戻すと、ほとんどの環濠集落が平地の田園地帯の中に形成されたのに対し、この竹之内。萱生集落は標高100mほどの傾斜地に形成されている。西側から緩やかな坂を登ると集落は、すぐにそれと確認出来るほどで、微高地に建物がまとまっている。集落内には立派な門構えの屋敷、大和棟や本瓦葺きの豪壮な建物が密集している。環濠趾はほとんど残っておらず、一見、普通の集落に見える。
それでも竹之内集落では、集落の西側の入口付近に環濠趾が確認出来る。一部は埋め立てられて児童公園や自治会の集会施設が建っているが、比較的分かりやすい。
一方、萱生集落ではやはり、集落の入口付近にある、農産物の集荷場の屋根をくぐると、右手に環濠趾が確認出来る。集落の西側の低位部にあった古墳の周濠を利用したもののようだ。集落の外周を歩いてみると、南側に小さな水路があり、小さな小川に流れ込んでいるが、これは環濠の痕跡なのか、後世に作られた水利施設なのかよくわからない。

いずれにせよ,このような傾斜地の環濠とはどのようなものだったのか想像しにくい。何処から水を引いたのか、斜面部分の濠にはどのように水が貯められたのか。今残っている濠趾は全て集落西側境界の低位部だけなのは納得出来る。どの程度防衛的な効果があったのだろう。

この山の傾斜地に形成された二つの環濠集落の起源はあまり明らかになっていないようである。集落内には寺や神社があるが、村の鎮守の杜と言った風情で、今井町のような寺内町ではなさそうだ。平地ではないので、唐古鍵遺跡のような弥生時代の農耕集落(ムラ)でもない。ヤマト王権時代の豪族の居館でもないだろう。平安時代の荘園でもない。武士の時代の国人、土豪の居館や砦でもない。おそらくは南北朝時代以降の農村集落が戦乱の中、自衛の為に濠を巡らしたものなのだろう。

ここからは、奈良盆地が一望のもとに見渡せる。葛城、金剛、生駒山と、奈良盆地を形成する西側の山々が連なっている。山脈がやや途切れる辺りに二上山がその双峰を見せている。贅沢な眺めだ。倭国の時代の官道、山辺の道に沿って歩けば、東に龍王山,さらには三輪山が迫り、見た目イッパイの風景がヤマト国中なのだ。ヤマト王権発祥の地であるこの辺りは、今では柿の産地で、傾斜地に柿畑が広がる。奇妙な枝ぶりの柿の木越しに「国のまほろば... 」が広がっているのである。竹之内も萱生も史跡でも観光施設でもなく、この辺りの農地で生産活動を行う人々の、まさに生活の場である。決して貧しい農村集落ではなく、平和で豊かさを感じさせる住環境がうらやましい。

JR長柄駅から歩き始め、大和神社から山辺の道へ向かい、それを南下。竹之内集落、萱生集落、大和古墳群、長岳寺から、崇神天皇陵、柳本織田陣屋、黒塚古墳と回り、JR柳本駅(長柄駅の一駅先)から、桜井経由で帰途についた。


(撮影機材:SONY NEX-7,18-55mm Zoom)



大きな地図で見る(竹之内集落)


大きな地図で見る(萱生集落)

2012年2月8日水曜日

豊の国 宇佐神宮と六郷満山

 大分県の宇佐神宮は全国約4万社あると言われる八幡宮の総本社である。京都の石清水八幡宮、福岡の箱崎八幡宮とともに3大八幡宮とも言われる。

 宇佐神宮を守る神宮寺弥勒寺が現在の八幡宮境内にあったそうであるが、明治の廃仏棄釈の時期に破壊されてしまって現存しない。聖武天皇の勅願により、この神宮寺彌勒寺は創建されたが、国東半島の寺院群は宇佐神宮弥勒寺との関係が強いと言われている。八幡大菩薩、すなわち、八幡様は深く仏の道に帰依して菩薩になったという。神仏混淆の世界がこの、宇佐、安心院(あじむ)、国東半島一帯に展開されている。なかなか奥深い地域である。

 宇佐神宮は8世紀、称徳天皇の時代の、宇佐神宮御神託事件で有名である。女帝である称徳天皇(孝謙天皇重祚)に重用された僧侶の弓削道鏡が御神託により天皇になろうとした。その神の意志の信義を確かめる為に、平城京から和気清麻呂が天皇勅使として宇佐神宮に遣わされ、改めて伺ったところ、道鏡を廃して,国体を守れ、との御神託であったとして、道鏡は下野に配流となった、という話である。続日本紀に記述がある。

 この事件については、後世いろいろ解釈されている。藤原仲麻呂(恵美押勝)を交えた称徳天皇の後継争いが背景にあり、道鏡のような人物が皇位を狙ったので、これを廃して皇統を守った、というもの(戦前は和気清麻呂は楠木正成などと並んで国体を護持した忠臣として評価された)や、皇位継承紛争に利用されただけで、道鏡自身は皇位を窺ってはいなかった、というものや、宇佐神宮のステータス向上の為に作られた話である、とか....

 コトの真偽はともかく、ここで不思議に思うのは、都から遠く離れた九州の宇佐神宮が、なぜ皇室にとって、伊勢神宮と並ぶ、あるいはそれ以上に、御神託を求めてわざわざ平城京から勅使が遣わされる、という高い地位を持っていたのか,という事である。

 宇佐神宮の御祭神は、八幡大神(応神天皇)、比売大神(宗像三神)、神功皇后である。伊勢神宮の天照大神は皇祖神として位置づけられているが,その子孫たるずっと後の世の神々である。もとは地元の豪族(辛島氏)が天から降臨した比売大神を祀った磐座(隕石が展示してある)が元祖であるとされているが、奈良時代の神亀年間に宇佐神宮として創建とされている。このように古来からの地主神が祀られていた所が、のちに時の支配者によって自らの権威の象徴たる神社に衣替えしたケースは珍しくない。春日大社、大神神社や伊勢神宮もそうだ。
 それにしても大和国中からはるかにはなれた筑紫の地に、ヤマト政権の意思決定に大きな影響を持つ神がいるとはどういうことなのだろう。

 8世紀初頭の奈良時代、豊の国は、いまだ南の隼人との戦いの最前線であった。710年(平城京遷都の年)には隼人がヤマト政権に服属したとされているが、その後も隼人の反乱が続き、最終的には721年には完全に大和中央政権体制に組み込まれたとされている。このように最後までその権威を広める事に苦労した地域が、九州の熊襲、隼人、東北のエミシであった。おそらく記紀に現れる神功皇后の三韓征伐の話も、7世紀の斉明天皇の朝鮮出兵にともなう筑紫進駐の話も、隼人との戦いの話の続編なのかもしれない。そうした事からこの宇佐の地はヤマト政権と地元豪族が連合して南方の日向隼人と戦った最前線基地だったのだろう。宇佐神宮の境内にも戦いで死んだ多くの隼人の霊を慰める百體神社が祀られている。

 また、記紀では、天孫降臨の地は筑紫の日向の高千穂である。また、初代天皇である神武天皇の東征伝説は、日向から始まり、豊前岡田の宮で瀬戸内海を東に向う風待ちを3年もしたことになっている。しかし、記紀が編纂された7世紀後半、日向は未だヤマト政権に服属しなかった隼人の国であった。さらに日本武尊伝説にもあるように、おそらく5世紀と思われる「熊襲征伐」のはるか以前から、既に「筑紫の日向(ヒムカ)」が天孫降臨の地とされていた。なぜ、ヤマト王権の権威が及ばなかった隼人/熊襲の国々がヤマトの発祥の地とされたのか。 豊、肥を含む北部九州がほぼヤマト王権の支配下に入ったのは6世紀前半の528年、継体天皇の時代の筑紫磐井乱鎮圧後の事である。前述のように、その後も隼人との戦いは続いていたのに、7世紀に編纂された日本書紀のヤマト日向起源のエピソードは何処からでてきたのだろう。

 記紀の記述だけでは相矛盾するストーリー展開で推理に苦慮する。これを魏志倭人伝のような中国の歴史書と照らし合わせてもなかなか史実を検証することが出来ない。魏志倭人伝にいう、邪馬台国と敵対した狗那国は、熊襲の国であったとする説もあるが,証明出来る文献も考古学的証拠も見つかっていない。日本の古代史は解明されない事が多過ぎる。

 ともあれ、九州はようやくヤマト体制に服属した地域であり、その新しい支配地域が、大王家、後の天皇家にとっても重要、且つ国発祥のルーツの地であると説明する事によって、支配の正統性を示す意図があったのかもしれない。少なくとも、宇佐神宮は8世紀には天皇家にとって伊勢神宮にならぶ重要な神社として尊ばれていたという事実だけは否定出来ない。

 その結果、往時は、宇佐神宮は絶大な権威と,豊かな経済的な基盤を有していた。平安時代にかけては、国東半島に、田染荘などの広大な荘園を保有し、多くの神宮寺弥勒寺の末寺を持つ,いわゆる六郷満山の仏教文化の中心ともなっていった。八幡様を祀る神社がこの地域の仏教文化の庇護者となっていた訳だ。.

富貴寺大堂
豊後高田市HPより
なかでも富貴寺大堂は、宇治の平等院鳳凰堂、平泉の中尊寺金色堂と並ぶ阿弥陀堂で、西国では唯一のものである。国宝で九州最古の和様建築物。簡素だが均整のとれたまことに美しいお堂だ。内陣中央には榧材寄木造りの阿弥陀如来座像が安置されている。堂内は、傷みが激しいものの美しい平安時代の壁画で覆われている。境内には国東塔、板碑,梵字石などが多数ある。山門の阿吽の仁王像は石像仏である。素朴な力強さを感じる。富貴寺は六郷満山を統括した西叡山高山寺の末寺の一つであった。その名から分かるように天台宗の寺院である。

 富貴寺から5キロ程はなれた真木大堂は、六郷満山六十五カ寺の本山本寺であり三十六坊を有した馬城山伝乗寺の寺坊の一つであった。その後、各寺坊が衰退したので諸仏をこの一堂に集めたものだという。本尊の阿弥陀如来座像の他、四天王立像、不動明王と二童子像、大威徳明王像が並び壮観だ。いずれも平安時代の作だが、鄙には稀な美しい仏像である。

 この他にも,国東六郷満山にはかつて程ではないにしても,いまだに数多くの寺や石仏が残っており、中でも熊野の磨崖仏は藤原末期の物と推定されている。これだけ豊かで、濃密な仏教世界がこの国東の地に出現していた事に感動を覚える。

 両子岳を中心とする国東半島には古来より、山岳信仰、修験道が盛んであったようで、ここに神宮寺弥勒寺の末寺が展開し、さらには平安時代に入って天台密教、阿弥陀信仰が盛んになり、山筋と山筋の間(六郷)に数多くの寺院だ創建された(満山)。今は、その寺院はほとんどが姿を消したが、富貴寺、両子寺、胎臓寺、真木大堂などが往時の隆盛を示す残映のごとく残っていることにあらためて感動する。なかなか通りすがりの時空トラベラーには不思議で奥深く、かつ空白の時代をまたがった複雑な世界である。いまだその「不思議」は解明されていない。


(撮影機材:Fujifilm X10)

2012年2月1日水曜日

大和の環濠集落を巡る ー稗田/若槻/番条ー

大和地方の典型的な農村風景は、山々に囲まれた奈良盆地に広がる田園地帯にポツポツと固まって身を寄せあう集落の存在だ。これらは大抵が環濠集落である。奈良には一説に200以上の環濠集落が確認出来るとされている。今や開発の波に飲まれつつある奈良盆地に、散在する環濠集落の風景を目視する事は極めて難しくなってしまった。しかし、それでもなお、奈良盆地を、いや、大和地方を特色付ける居住形態は環濠集落であると言っても過言ではないし、仔細に見ればそこかしこに環濠集落の痕跡を確認することが出来る。

 環濠集落とは何か? 防御的な観点から家々が固まって集落を形成し、周囲を水をたたえた掘割ないしは、空堀(この場合は環「壕」集落という)で囲み、外敵の侵入を防ぐ集落のことを言う。こうした居住形態は古代中国にそのルーツがあるとされ、農耕文化の発展に起因する居住形態である。日本には大陸からの稲作技術の流入に伴って、弥生時代の前期辺りから出現した。さらには中世、特に応仁の乱以降の戦国時代にかけて、土豪や領主の城や居館、寺院を中心とした集団防衛集落としての環濠集落が出現したと言われている。

 弥生時代前期には、既に、福岡県糟屋の江辻遺跡で環濠集落跡が見つかっている。弥生中期になると、初期の稲作遺跡である福岡市の板付遺跡が、環濠集落であった事が確認されている。さらに弥生中期以降になると、佐賀の吉野ケ里遺跡のような、三重の壕の取り囲まれた極めて大規模な集落、いや都市が形成さるようになる。大和地方の唐古・鍵遺跡や、大阪の池上・曽根遺跡が環濠集落跡として有名だ。このころから大和地方には次々と環濠集落が発生して来たとされる。富の生産と保存管理、生産手段である土地と鉄、人民の支配、戦いの時代を象徴する集落形態である。その後,ヤマト王権の確立とともに、公地公民制や班田収授法による土地/人民が公有化されると、徐々に「自衛するムラ」は姿を消して行き、さらに平安時代に入るとの貴族の荘園へと変質して行く。

 時代を下ると、再び大和にはさらにその時代の要請に応じた多くの環濠集落が形成される。現存する町として著名な例は今井町。一向宗の寺院を中心に形成された寺内町で、河内の富田林、平野郷などと同様に、戦乱の時代に自治権を持ち、富を集積した自治都市としての集落が生まれた。奈良盆地にはこの他にも、天理、山辺の道の萱生集落、竹之内集落などが環濠を今に残す集落として知られている。それ以外でも地図を見ると,盆地の田園地帯に散在する小さな集落には、かすかに掘割や空堀の趾が確認出来る集落があちこちにある。

 その中で,今回は、大和郡山の稗田環濠集落、若槻環濠集落、番条環濠集落を訪ねた。最初は歩いて廻るつもりであったが、JR郡山駅前の観光案内所で道筋を伺うと,とても歩くと時間がかかる事が分かり,急遽自転車を借り、巡った。三カ所を訪ねて(途中、道に迷って別の集落へも寄り道してしまったが)約2時間半の行程であった。

1)稗田環濠集落

 観光ガイドブックにもでてくる比較的有名な環濠集落だ。もともとは地元の豪族の居館の周辺に集落が集まって出来たのでは、といわれている。ここは環濠がよく修復されており、集落がコンクリート製の護岸で囲まれている。今はもちろん防衛的な意味合いは無いが、濠は農業用水として利用されているという。チョット立派すぎて想像力を働かす余地が無くなっているカンジだ。しかし、環濠越しに眺める,大和棟の民家や、土蔵の風景は画になる。写真を撮っていると地元のご老人が声をかけてくれて「このアングルから撮ると写真展に入賞出来ますよ」と、立ち位置を教えてくれたりする。やはり訪問者が多いのだろう。優しいお顔立ちのこの方は「ここは有名な環濠集落ですからね...」と自慢しながら,ユックリと集落の中に消えて行った。

 集落に入ると、狭い地域にびっしりと人家が林立している。車一台がやっと通れる細い通りは所々鉤の手に曲がっていて、防衛都市の名残を見ることが出来る。古い板塀、本瓦屋根の民家も多いが、かなり改修されてわずかに原形をとどめる家や、完全に今風に立て替わっている家もある。基本は今も生活の場なのだから、現代的な生活の質を手に入れようとすると、駐車場や、エアコンや、サッシ窓は必需品だろう。「TOTOのリフォーム」作業中、などというのぼりがはためく家もあったりする。旅人のノスタルジアだけで町を眺めてはいけない。

この地は古事記の口承者として歴史に名を残す、稗田阿礼の縁の地である。稗田集落には賣太(めた)神社(航空写真の右下に見える杜)があり、稗田阿礼を祀っている。ここに語り部の碑というのがある戦前の創建によるものだと書いてある。いかにも... 記憶力抜群の阿礼にあやかって、この神社は学問の神様として地元の敬愛を受けているそうだ。

 もともと稗田阿礼の一族、猿女族が古来より居住する土地であり、猿女族のルーツは古事記に出てくる天照大神を天岩戸から引き出す場面で活躍するアメノウズメノ命(漢字変換不能)だと伝承されている。ちなみに稗田阿礼は女性だったのでは、という説があるが、これはこのルーツ伝承に由来していると考えられる。

 この稗田集落は古代の官道である下ツ道沿いに位置している(航空写真で、集落の左端を縦に走る道が「下ツ道」趾)。下ツ道は南の旧新益京(あらましのみやこ)藤原京から、北は平城京の朱雀門に直結する大道である。この辺りは朱雀門までわずかの距離である。奈良盆地を平城京のスケールでながめ直すと現在の奈良市だけでなく、大和郡山市が平城京内に入るので面白い。





2)若槻環濠集落

 稗田集落から南へ下ると、大規模なアパート群、戸建住居群(県営稗田団地。濠は無いが現代の環濠集落だ)にぶつかる。これを通り抜け、中学校の真南に、若槻環濠集落がある。集落の入口に標識と立派な土蔵が立っているのでそれと知るが、掘割は確認しづらく、コンクリート製の細い水路となっている部分がそうであったのであろう、と推測する。それ以外は、田園にこんもりとした天満神社の杜と古風な家並が続く集落にしか見えない。もう一つ、変わった屋根の寺が見える。西融寺という真言宗の寺院だという。一向宗の寺院でない所が何を意味するのか... 謎解きは次回に。

 この集落のルーツについてはあまり資料が残っていないようであるが、稗田集落と同様に、豪族の居館を中心に形成された環濠集落であったのだろうと言われている。集落に入ってもほとんど人に会わない静かな地域で、農村風景のなかの添景と言った風情だ。こういう所こそ探検し甲斐があるというものだ。


3)番条環濠集落

 さらに南へ下ると番条集落がある。最初間違えて別の集落に迷い込んだ。こちらも古い民家と狭い道の集落であった。農作業している方に、「ここは番条集落ですか?」と伺うと「いや、番条はもっと西へ行って下さい,あそこに見える集落がそうです」と教えてくれた。しかし、ここもかつては濠に囲まれた環濠集落であったのだろう。いたるところにそういう雰囲気の集落がある所が大和らしくてよい。

 ようやく番条に入る。稗田、若槻と違って、何処にもそれと知らしめる標識は無い。なぜなのだろう? こちらは南北に細長い集落で、佐保川を西に、菩提仙川を北に(航空写真参照)、かなり防御効果の高そうな位置取りである。と同時に、両方の河川を通じて難波から情報や物資やカネが集まる商流拠点ともなる地の利だ。良い所を押さえたものだ。

 東から集落に入る一本道からは、かつての濠趾が確認できる。稗田集落のような、立派なコンクリート製護岸ではなく、細い水の流れが自然のまま残されている。こちらの方が想像力をたくましくして時空を超えるた中世の景観を心の中で再現するに都合がいい。集落に入ると、すぐ右手(北側)に造り酒屋がある。中谷酒造という。歴史を感じさせる佇まいだ。立派な門構えの建物と大きな酒蔵を配した造り酒屋である。利き酒が出来る、と書いてあるが、下戸の私には全く猫に小判。新酒を示す杉玉でそれと分かる。北のブロックはこの他に熊野神社がある。ここはかつての番条氏の居館趾とも言われている。しかし、南側のブロックの方が細長い道の両側にかなりの集積度で古民家が連なり雰囲気がある。

集落の中は、典型的な狭隘さと鉤の手になった見通しの利かない道筋で、防御性能を遺憾なく発揮している。建物は古風な大和棟や板塀、白壁の土蔵、立派な門構えに見越の松、といった、昔ながらの景観がよく残されている。西に佐保川の土手がそびえていて、街を見下ろす位置にあることに気付く。土手に登り、番条の町を望むとよく町割りが確認出来る。かなり大きな集落である事が目視出来る。

 番条は中世に形成された番条氏の居館を中心とした、いわば城塞都市であったようだ。奈良時代から平安時代にかけては奈良の大乗院の荘園であったが、戦国時代に入って、大乗院方の番条氏が筒井順慶などと対立したり、和合したり、群雄割拠の歴史を刻んだ痕跡だ。いまはのどかな農村集落であるように見受ける。それにしても立派な家々にあらためて驚かされる。豊かな農村だ。


 環濠集落は魅力的なタイムカプセルだ。その歴史を辿れば、権力者の著した「正史」や、壮麗な城郭や寺社などの建造物の遺構から知る大和とは異なり、歴史の流れを別の角度から垣間みることが出来る。しかも、それは遺跡ではなく、現代に生きる生活の場として継承されている。一方、古墳や、神社仏閣と異なり、なかなか保存運動の対象になりにくい文化遺産でもある。消えてしまわないうちに、これからも機会を作って,さらに環濠集落への時空旅を続けたくなってきた。

 やはり奈良は奥深い... 私の時空旅に終わりは来そうにない。
(撮影機材:NikonD3s Nikkor AF Zoom 24-120mm f.4)