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2009年10月27日火曜日

久しぶりの大阪 ー 新・大大阪の夢 ー

すっかり秋も深まった大阪へ戻ってきた。薄暗くて寒い昨日に比べ,今日は久しぶりの晴天。しかし,大阪は何とも季節感のない町だ。緑地面積が少ないせいか?東京の方が季節の移ろいを感じることが出来る。大阪城公園では紅葉が始まっていることがオフィスの窓から分かるが。

今日の日経新聞に中之島のダイビル建て替えの話が出ている。大正14年(1925年)竣工の大大阪を象徴する8階建ての堂々たる洋風建築のビルだ。設計は当時の関西を代表する建築家渡辺節。他にも神戸の商船三井ビルなどを手がけている。外装はスクラッチスタイルの茶褐色のレンガ造り。内部はにはアーケードを設けるなど、発展する大阪を象徴する代表的なビルである。結局はこのビルの取り壊しを惜しむ声に応えて、2013年完成を目指す新ダイビルは低層部に現在の外観を復元し,上に高層棟を継ぎ足した地上22階建てのビルとすることで決着した。外装のレンガや石材を保存して復元し、内装も床タイルを再利用する。

東京でもこのような「保存」措置がとられた新ビルが数多くみられる。第一生命ビル、農林中金ビル、明治生命ビル、銀行協会、丸ビル、新丸ビル、みな眼の高さは近代建築としての景観を残したが,見上げると高層のグラスアンドスチールビルだ。しかも高さがどれも異なるので町並みが不揃いになってしまった。私が記憶するお堀端から丸の内辺りの景観は昭和の首都東京にふさわしいものであった。皇居前の高さが統一された整然とした町並みは美しかった。

ロンドンやパリの中心街のような歴史的景観はもはや東京や大阪には残されていない。地震や戦災にあって破壊を受けたことを考慮しても、せめて破壊を免れた歴史的な建造物を保存して欲しいものだ。「景観」の持つ価値そのものがあまり重視された形跡がないのが残念だ。日比谷の三信ビルなどのように無惨にも跡形もなく取り壊されてしまったのではどうにもならない。

そうは言っても、最近は経済合理性優先の町づくりへの反省と、日本人がようやく少し成熟した大人の市民に近づいてきたのとで、こうした景観保存、修復への動きが出てきているのは歓迎すべきことだ。丸の内に三菱一号館が復元されたことも朗報だ。ここに展示されている昔の「一丁倫敦」の写真を見ると、当時の東京はこんなに美しい町並みだったのか、と驚いてしまう。そしてこれらの赤煉瓦の建築群が時代の流れの中で消滅してしまったことを改めて知らされた。三菱一号館に続いて東京駅の赤煉瓦駅舎のオリジナル復元工事も始まった。少しずつ伝統的な建造物が復活することが楽しみだ。

そう思って大阪の町を歩いてみると、街中には大大阪時代の素敵な建築物や土木構造物が数多く残っていることに気付く。先ほどのダイビルのある堂島、中之島あたりは無論のこと、堺筋を歩くと、ここがかつての船場の中心街で、東洋のマンチェスター、東洋一の商工都市,と呼ばれていた大大阪のメインストリートへ発展していったことが分かる。今でこそ大阪のメインストリートは御堂筋になっているが、戦前の道幅6mの淀屋橋筋の拡幅工事や地下鉄工事などの大胆な大阪都市改造計画の成果が花開いたのは戦後のことだ。

ライオンの難波橋、北浜の大阪証券取引所、道修町の薬屋街、高麗橋、備後町、安土町の証券、銀行街.....多くの全国的な企業が本社を構えた。そしてかつての堺筋には大阪の主だったデパートも軒を連ねていた。三越大阪店が北浜に8階建ての高層ビルを建てたのもこの頃だ(いまや日本橋の高島屋別館(かつての松坂屋)を除いてデパートは一軒もない)。その大大阪の香りが随所に今も残されている堺筋周辺には今も往時を思い起こさせる近代建築が破壊を免れて現存している。東京のようにこれらの景観を惜しげもなく壊してしまって欲しくはない。いや皮肉なことに今の大阪は東京みたいに元気がないので、町が破壊されるスピードも緩やかだろう。

戦前の大阪は大正14年には人口200万を超えて,東京をしのぐ世界第6位の大都会であった。その繁栄の痕跡が町のいたるところに残されている訳だ。しかし、大阪はその戦前の活気と栄光を取り戻すことが出来るのか?堺筋は「歴史の道」になってしまうのか?産業革命の面影を残す現代の「マンチェスター」になってしまうのか。町は時代とともに変貌を遂げる。もはや御堂筋ですら、心斎橋辺りのデパートはそごうが再生の努力も虚しく閉店し、残るは大丸のみとなってしまった。南北軸の両端である梅田や難波が賑わいの中心となり、今日の大阪府議会で決着がつくはずだが、橋下大阪府知事が躍起になっている大阪府庁のWTC移転が決まれば,今度は東西軸の町の発展が見込まれるのだろうか。

江戸時代から続く天下の台所大坂、日本の資本主義の発展とともに歩んできた大阪。歴史的な建造物の残し、歴史と伝統の重みを感じる景観を保護しつつ、新たなエネルギーを放ち発展する「新・大大阪」を時空を超えて旅してみたいものだ。

2009年10月19日月曜日

出張で忙しい「時空トラベラー」のつぶやき

ここんところ、妙に仕事のスケジュールがたて込んでいて出張ばかり。四国の松山と高知へ行ったり、東京と大阪を何往復もしたり。なかなか歴史のトリビアを訪ねる旅に出る機会がなくなった。邪馬台国が遥か彼方へ..... かと言ってカメラをもてあそぶ時間もない。であるがゆえにこのブログも書くネタに事欠く。一番フラストレーションが溜まる事態だ。

ライカM9は発表したとたんに、メーカー在庫切れで入荷時期未定。すっかりネットショップ上からも姿が見えなくなってしまった。そんなにもったいつけられるとすっかり鼻白んでしまう。この不況のご時世に、こんな高価なカメラが飛ぶように売れるなんてホント!?  需要予測間違いならお粗末だし、意図的な少量生産なら白々しいし.....

おまけにここんところの円高。日本でのM9のプライシングは1ドル110円のまま設定してるんじゃないかと思ってしまう。NYのB&Hの値札が魅力的だ。1ドル90円ならこれは買いでしょう。在庫があればの話だが.....

そうこうしてる間にニコンからD3sが発表に。プロから絶賛されているフラグシップD3の改良機がお約束通りデビューという訳だ。こちらはライカM9の価格を見てしまうとずっとお値ごろ品に見える。11月28日発売だそうで予約すれば発売日に配送される。ライカはあてにならん。やはりニコンにするか。金もないくせに夢だけは膨らむ。

日本とドイツのモノ造りとマーケティングの違い、といえば違いだが。やっぱりニコンやキャノンが売れる訳だよ。製品性能、パフォーマンスの安定性、市場へのデリバリーの迅速性、コストパフォーマンス。やはりあらゆる点で信頼感がある。

ライカもデジタル化した以上、ドイツ流のクラフトマンシップが発揮出来るのはボディー筐体や、光学ファインダー、レンズの部分で、写真の画造りを決定するCCDやチップセット、特に画像エンジン部分を他社供給に頼っている以上は、私のようなライカブランドにノスタルジアを抱き、過去のレガシーレンズ資産をデジタルでも活用したい、と思っている趣味人を除いて、プロや一般のアマチュアの欲求を満たす製品造りは難しいかも。

商業的に成功させることと、本当によいモノ、楽しいモノを作ることとは必ずしも一致しないことを分かった上でもなお.....である。ライカはどこへ向かう? いつまでもブランド資産に依存したニッチプレーヤーでは事業として継続出来ないだろう。ここでもビジネスモデルイノベーションに取り組む経営決断が迫られている。

まあとにかく、早く良い道具を片手に時空トラベルを再開したい。しかし私のスケジュール帳には「時空トラベル」のは入り込む隙間がない。秋晴れの青空がうらめしい。

(とは言っても東京の秋も素敵。「復元なった三菱一号館」「NYで人気のアバクロ銀座進出」「皇居三の丸庭園の空」の3枚をご覧あれ)





2009年10月2日金曜日

鞆の浦埋め立て架橋事業差止判決 ー時代は変わるー

10月1日の新聞、NHKニュースをにぎわした話題に、広島県福山市の鞆の浦埋め立て架橋事業の差し止め判決がある。歴史的に価値のある鞆の浦の景観を残す為に、広島地方裁判所が住民の訴えを認めて県の湾の埋め立て事業を差し止めたものだ。景観の保護への配慮、あるいは、もっと進んで「景観利益」を保護することが、今後は公共事業の推進、デベロッパーによるマンションやショッピングセンター開発などの事業にも考慮されなければならなくなる時代が到来した。歴史的景観を求めて旅する時空トラベラーにとっては画期的な判決だと思う。

「景観利益」は必ずしも確立した法的権利ではない、というのが学会の有力説であるが、司法の場で景観が保護される判決が出たことには重要な意味がある。広島地裁は「鞆の浦の景観は住民だけではなく国民の財産というべき公益で、事業で重大な損害の恐れがある」として「公益」を守る為に事業の差し止めを命じた。

鞆の浦は江戸時代からの港町の景観と瀬戸内海の島々の景観両方ををよく残した美しい景勝地である。古くは朝鮮通信使が江戸へ向かう途中、必ずこの鞆の浦で宿を取り「日東第一の景勝地」と賛美した土地でもある。写真を見ても海辺の穏やかな町の佇まいに心癒される。私もいつか訪れたいと思いつつまだ果たしていない。しかし、利便性を求める現代の生活をもはやこの町が受けとめる余地はなく、車のすれ違いにも不自由な狭い道や、老朽化した水利施設などの社会インフラを整備する必要に迫られていたのも事実。ご多分にもれず過疎化と人口の老齢化が急速に進み、「若者が戻ってこない」ことが町の活性化を阻害しているとして、早急なインフラ整備を求める声が一方の住民のなかから上がったのもうなずける。

「景観か、利便性か」という二者択一の議論がなされがちだが、そのような二元論はなんの解決も生み出さない。利便性はどのような価値を実現する為の利便性なのか。景観はまたどのような価値を生み出すのか。ただのノスタルジアやロマンだけでは価値を認める人とそうでない人に分かれるだろう。こうした「価値論争」は充分な議論が尽くされてはいないし、地元住民や国民のコンセンサスも得られていない。また若者が戻ってきてどのように町を「活性化」するのか描けているとも思えない。まさかここに工場誘致したり、ショッピングモール造ったり、ディスコやゲーセン開いたりする為に道路を造る訳ではないだろう。通り過ぎる為だけのバイパスなら地元にカネは落ちない。景観が破壊されるだけだ。埋め立てなので取り返しのつかない破壊となる。「景観」が価値を有すというコンセンサスがどう形成されるか。こうした判決や議論が積み重ねられて一歩一歩進んでいくのだろう。

戦後日本が高度経済成長まっしぐらの時代には、「景観」なんて価値概念すらなかった。とにかく経済優先、成長優先。新しければよい。古いものは捨てる。結果、日本のランドマーク、東京日本橋をぶざまな高速道路の高架橋でフタしたり、江戸城の外堀を埋めて銀座の数寄屋橋を消滅させたり、伝統的町家を壊して無機質なマンション建てたり、緑の丘陵を剥ぎ取って博覧会したりゴルフ場造ったり..... ちょうど胡同四合院の生活を破壊してビル建てたり、紫禁城の外壁を撤去して高速環状道路造ったりの今の北京や上海と同じだった。しかし、今やアメリカやイギリスなどの成熟資本主義国家では高速道路の高架を撤去して景観を取り戻す動きが出ている。お隣韓国でもソウル市内の川を覆う高速道路の高架を撤去して清流を都市に蘇らせた。成熟した国では「景観」に価値を見いだし始めた。

どのみちこれから日本はグローバルエコノミーの戦いの中で経済大国にはならない。東京はますます世界の地方都市化しており、世界の富は少なくとも東京一極集中はしない。一方、首都への富の一極集中、という現象は、発展途上の国の都市と田舎の貧富格差を象徴するものであり、もういい加減終わりを迎えるだろう。そのような大都市への集中のおこぼれという富の分配を求めるのではなく、地方独自の価値を富に変える知恵出しと行動が必要だ。もともと日本は江戸時代までは地方分権国家だった。徳川幕藩体制は富を蓄積した地方の国々(藩)を統治する為の体制だ。中央集権が進んだのは西欧列強に対抗する為の「富国強兵」「殖産興業」を進める明治維新以降だ。

よく見ると今まで気付かなかった資源が、幸い都市部の経済発展による破壊に遭わなかった分だけ地方によく残っている。経済発展に取り残された地域ほどよく残っている。それを価値に換え、富に生まれ変わらせる。「景観」もその貴重な資源の一つだ。それがまず「価値」を持つことを共通認識とすることから始める必要がある。さらにそれが「富」を生む可能性を追いかける。ここからはさらにハードルが高くなる。何でも金に換えることを旨としてきたエコノミックアニマルマインドが薄れないと本当の「富」の創出は難しいかもしれない。

こういう話をしていると、私がかつて在籍したLSE(London School of Economics and Political Science)で指導教授Peter SelfとのTutorialで議論した、「経営(Business administration)と行政(Public administration)における合理的意思決定(Rational decision making)とは?」。「tangible valueとintangible valueのいずれを実現するかで企業経営か、行政サービスか分かれる、という議論はmake senseか?」。「科学的な分析手法(Cost Benefit Analysisのような)は合理的な意思決定を助けると言えるか?」といった古典的な問いをまた思い出した。もちろん答えはIt does not make sense.なのだが、ではどのような価値を実現するのが経営であり行政なのか?なにが合理的(rational)なのか、まだ答えは揺れている。

話がトンでもないところへ飛躍してしまったが、これからゆっくりした経済成長と少子高齢化が進む日本、経済合理性だけではなく、今までとは異なる価値を認め、もう少し成熟した落ち着いた大人の社会にしていくほうがいい。これは価値観の問題だ。価値観は多様であるべきだ。価値観は変わる。価値観が変わればそれによって生み出される富も変わる。合理性の判断基準も変わるだろう。

高度経済成長時代、バブル時代に話題になった交通標語「狭い日本そんなに急いでどこへ行く」。今こそもう一度ほこりを払って看板出したらどうだろう。

2009年10月1日木曜日

ヤマトの農耕環濠集落 唐古-鍵遺跡



桜井から奈良へ向かうJR桜井線沿線には、各駅毎に時空トラベラー御用達の史跡や遺跡があり、一駅一駅、毎週末に廻ってもなかなか制覇出来ない。ぼちぼち踏破するつもりだが....

今回は近鉄田原本駅に降り立ち、弥生時代の代表的な環濠集落跡である唐古・鍵遺跡を訪ねた。ここはこれまでの山辺の道、三輪山麓などの微高地とは異なり、ヤマト盆地中心の平地に広がる農耕集落の跡である。ここからだと三輪山や青垣は遥か遠くに見える。

まずは唐古・鍵考古学ミュージアムを訪ねる。ここは田原本駅から東に歩いて20分ほど。田んぼの中にこつ然と現れる超近代的なビルのなかにある。この建物は田原本青垣生涯学習センター、という地元の交流センターのような施設で、その一部が博物館として公開されている。ちょっと周辺の景観とマッチしないが.....

中はなかなか充実した展示内容となっており、楼閣が描かれた弥生土器の破片や、褐鉄鉱容器に収納されているヒスイ勾玉、遺骨から復元された弥生倭人の顔などの有名な出土品のほかに、当時の農耕の様子がうかがえる道具や生活食器などが数多く展示されている。

ちょうど行ったときには中高年の団体さんが展示室をほぼ占拠した状態だった。このごろはリュックにウエストポーチに帽子、というハイキングスタイルのおじさん、おばさんが大挙して遺跡や展示施設に押し掛ける光景がいたるところで見られる。古代史ブームだ。博物館が主催するセミナーや説明会でも参加者の大半が中高年。

一方、奈良や京都の神社仏閣は、このごろの歴史ブーム、仏像ブームで若い女性、「歴女」「仏女」が押し掛けている。昔は中高年のランデブー(この言葉が出てくることじたい中高年)、合コン(「合ハイ」:合同ハイキングって言ってたなあ)は寺や神社だったんじゃないのかなあ。だんだん居辛くなって古代遺跡に鞍替えかな?

早く若い女性の間で古代史ブームが来てくれないかなあ、などとぼんやり考えながら展示室が空くのを待っていた。やがて潮が引くようにおじさんおばさんの一団がいなくなると、今度は見事に誰もいなくなった。私だけが広い展示室にポツンと立っていると、ボランティアとおぼしきガイドの男性と女性が近づいてきて、先ほどの団体さんの喧噪を詫びてから(ガイドの方々のせいじゃないけど)、丁寧に唐古.鍵遺跡の説明をしてくれた。

話を聞いているととても熱心な古代史ファンであることがすぐ分かる。つい、私も九州の吉野ヶ里遺跡や筑紫の造磐井の墓の話などすると、先方も「この間九州を廻ってきました」と話が盛り上がってしまい、一時間以上も立ち話してしまった。何だ、オレも結局団体さんではないが古代史ファンのオジさんじゃないか。

遺跡そのものはこのミュージアムから歩いて30分くらいのところにあるそうで、行き方をガイドの方に教えてもらっていざ出発。とにかく全てが歩きなので足腰を鍛えておくことが史跡巡りのボトムラインだ。

この辺りは奈良盆地のほぼ中央にある平地なので住居としても経済活動の場としても開発が進んでおり、近鉄沿線の新興住宅団地や国道沿いにパチンコ屋やカーディーラー、コンビニなどが並んでおり、古代の空気を感じながらの散策という訳にはいかない。結局、車がビュンビュン走る国道沿いをひたすら歩く。一歩国道を離れて内側の小道を歩くとずっと感じが変わるが、道が繋がってないので結局また国道へ出なければならない。国道沿いに唐古.鍵遺跡の道路標識が見えるところまで来て、ようやくのどかな田んぼのあぜ道を歩くことが出来るようになった。

遺跡は、現在の唐古池、鍵池という灌漑用ため池周辺に広がっている。唐古池畔にはあの土器に描かれていた楼閣が復元されているが、樹木に囲まれている為に遠くから見ることはできず、近くまで来て初めてそれと分かる。訪れる人も少なく荒れ果てた感じが、どこかフェイクな遺跡然としている。その他には遺跡を意識させるものはなく、「国指定唐古・鍵遺跡」の石塔がそびえているのみである。

唐古池畔に立って周囲を見回すと、三輪山や青垣は展望出来るが遥か彼方にしか見えない。ここがそうした山麓、微高地の神の霊力宿る神聖な場所、あるいはヤマト王権の王家の丘とは異なり、比較的広い盆地中央部の農業生産活動の場、人々の生活の場であったことが理解出来る。どこか佐賀平野の吉野ヶ里遺跡に共通した景観の中にある。年代もほぼ同じ紀元前3世紀頃から形成された弥生の集落である。現在は周辺の開発が進み乱雑な景観に変容しつつあるものの、基本はヤマトの田園地帯の中心に位置していて瑞穂の国の豊かさを感じることが出来る。

この辺りでよく見られる唐古池のような灌漑用のため池は江戸時代になって築造されたものだが、こうした水利施設の存在が、ここが時を超えて弥生時代から江戸時代を経て現在にいたるまで重要な農耕地帯であることを示している。唐古・鍵遺跡は面積42万平方メートルもある大型の環濠集落であったことが1936年からの数次の発掘で分かっている。紀元前3世紀頃から形成された環濠集落そのものは古墳時代には消滅してしまった。その後は、跡地に古墳が築造されたり、中世にかけて地元武士団の砦が築かれたり、農村集落が形成されたりして現在に至っている。しかし、ここが古代ヤマト王権の発祥の地であった形跡はないそうだ。純粋に農耕集落としての歴史を歩んできた。

帰りは古代の官道、「下津道」を南に下り、田原本までぶらぶら歩いて戻る。田原本も、前に訪れた隣町、柳本のように古い町並みが残る美しい町だ。ここは関ヶ原以降、賤ヶ岳七本槍で名を挙げた平野氏が所領とした地域で、平野陣屋跡や、鉤の手に曲がる道などの城下町の名残がある。街中にある寺院には「明治天皇行在所」との石柱が立っている。明治維新、王政復古の大号令のもとに天皇中心の国造りが進められる中、大和一帯に神武天皇陵を始めとした多くの天皇陵が比定された。明治天皇が皇祖の陵墓巡幸に際しここに宿泊したのであろう。

しかし、残念なことに、町並が良く保存されているとは言いがたい状況だ。新しい住宅に立て替えられてしまったものも多いが、古い屋敷が荒れるにまかせて、瓦が落下しないようにネットをかけられていたり、古い土塀が品のない落書きで埋め尽くされていたりで哀れを催す。伝建地区に指定でもされない限り景観を守ることが難しいことを示す光景だ。これからの日本は経済合理性一辺倒の成長を追い求めるだけでは楽しくない。文化的資産を生かす道を考える時期に来た。成熟した大人の国にならなくてはならない。「文化財守れる人が文化人」か。