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2014年9月28日日曜日

Alpa Kern-Macro-Switar 50mm f.1.8 + Leica M Type240という不思議な世界

 スイスの伝説の一眼レフAlpa Reflexの標準レンズKern-Macro-Switar 50mm f.1.8。このとろけるようなマクロのボケを久しく味わってなかった。残念ながら本家Alpaのボディーで撮影する機会は極めて少なくなってしまったので、宝の持ち腐れであった。なんとか復活させたいと画策。そこで、Leica M Type240ボディーにマウントアダプター(Kipon製)を介して、この伝説のレンズを装着し、覗いてみることにした。

 なんと不思議な世界だろう。まず、Leica MのライブビューモードでMacro-Switarの像を直接見ることが出来る事に感動。あのとろけるようななだらかなアウトフォーカスが、液晶モニターに再現されているではないか。外付け電子ビューファインダー(EVF)を通して覗くと、まるで異界に引きずり込まれるような錯覚さえ覚える。開放で撮影すると,合焦深度(被写界深度)が極めて薄いので、ピント合わせは慎重に行わねばならない。幸いEVFを装着すれば正確なピント合わせが可能だ。

 Leica Mは好きだが、ライブビューモードが搭載されてもなお、レンジファインダーカメラの最短撮影距離70cm(NOCTILUXは1m!)の呪縛から逃れられない(逃れようとしない)Mレンズ群に対しフラストレーションを覚えるこの身にとって、このAlpa Macro-SwitarやNikkorのLマウントレンズのように、近接撮影が出来るクラシックレンズは魅力的だ。なんとか禁断の世界をLeicaで覗いてみたいと思うのは罪悪なのだろうか?ともあれ薄暗い防湿蔵の奥で長い眠りについていた名レンズが、Leica Mの限界と呪縛を打ち破る魔法のレンズとして再登場した事に興奮している。




ヤブラン
このなだらかなボケ。立体感すら感じる。
開放f.1.8

やっと咲いたデュランタの小さな花房も違う花に見える。
近接撮影開放f.1.8

もちろん標準レンズとしての描写も秀逸。
フィルム時代のクラシックレンズとは思えない。
f.5.6

Alpa 11el+Kern-Macro-Switarを開放f.1.8で撮影
ピント部分のクリスプな描写とアウトフォーカス部分のクリーミーな表情のコントラスト...

Leica M Type240にKern-Macro-Switar 50mm f.1.8を装着した勇姿
この写真は日本製コンデジで撮影。
破綻のない描写性能だが、良く写っているというだけであまり面白みがないのはなぜ?



2014年9月26日金曜日

當麻寺の謎 〜豊穣の時を迎えた當麻の里散策〜

 當麻寺は、創建の由来などはっきりした記録が残っていないが、飛鳥時代に聖徳太子の異母弟、麻呂子親王が河内から現在の當麻に遷した万法蔵院が起源だと言われている。あるいは地元の豪族當麻氏の氏寺であったとも言われ,詳細は分かっていない。いずれにせよ私寺であるが南都仏教の学問寺として開設され三論宗が講ぜられたようだ。しかし、奈良時代後半には西方浄土信仰、曼荼羅信仰で當麻詣でが盛んになり、平安時代になると弘法大師が真言密教の寺として再構築し、大師信仰の寺としても崇敬を集める。一方で中将姫伝説と阿弥陀信仰で、都人の憧れの地となり、浄土宗の聖地にもなってゆく。以降、真言宗・浄土宗共立の寺となる。その後平氏の南都焼き討ちで大きな被害を受けた寺も、多くの人々の信仰の力で再建され現在のような姿になったという。

 當麻寺は、古代大和の“西方”に位置し、白鳳・天平様式の大伽藍、多くの塔頭を有する古刹である。金堂の弥勒仏や四天王、梵鐘などの白鳳美術を今に伝えるほか、我が国最古の三重塔が東西一対で残る全国唯一の寺としても知られる。

 本尊として祀られる「當麻曼荼羅(たいままんだら)」は、奈良時代、藤原家の郎女・中将姫が写経の功徳によって目の当たりにした極楽浄土の光景を壮大な規模で表したもので、守り本尊「導き観音さま」とともに今も多くの人々のよりどころになっている。

 當麻寺の歴史、由緒については下記のウエッブサイトに詳しいので参照願いたい。

當麻寺の歴史(當麻寺のウエッブサイト) http://www.taimadera.org/history/index.html

 
伽藍配置の図(當麻寺ウエッブサイトから)
左下が現在の山門。東西の三重塔の間にかつては南大門があったのだろう。

 ところでこのように人気の當麻寺には、あちこちに謎が潜んでいる、いわば不思議がいっぱいの寺である。例えば...

1)なぜ河内の近つ飛鳥から大和の當麻に寺が遷されたのか(と伝承されているのか)?
2)當麻曼荼羅は本当は誰がどのように紡いだのか?
3)なぜ真言宗と浄土宗の両宗共立となったのか?
4)なぜ伽藍配置が他の寺と異なっているのか?


1)大和世界に身を置いてみると、太陽は三輪山から昇って、二上山に没する。これが古代からの大和人(やまとびと)の宇宙であった。三輪山と二上山はちょうど方位的に東西軸にあり、二峰とも自然崇拝、太陽信仰の象徴的な山であった。ことに仏教伝来以降は、日の没する二上山は西方浄土のシンボルとして憧れの聖山となった。こうしたことから、「夢のお告げで」河内の地にあった寺を大和世界の西方浄土の地に遷したという。河内近つ飛鳥は、もともと蘇我氏系の土地であり、瀬戸内海、難波の津を介して大陸からの外来文化が大和に達する通り道であった。蘇我氏の系譜を引く大王(用明天皇、敏達天皇、推古天皇、聖徳太子など)の墓が多く集まる「王陵の谷」と呼ばれるしなが谷もある。しかし、現世に於けるみやこ、飛鳥古京や藤原京、平城京からは山一つ隔てられた地であり、大和に学問寺を移設する合理性はあったのだろう。地元の豪族當麻氏の氏寺だとしても、大和と河内を分ける山塊を背にして、なぜ聖徳太子の異母弟が寺を移設したという伝承が残っているのかは依然として謎である。

2)曼荼羅とは、仏法が描く宇宙観である。空海の真言密教も、難解な密教理論とその世界を分かりやすく見せる(可視化)するために、例えば京都の東寺の立体曼荼羅のような造形を作り上げた。當麻曼荼羅もこうした真言密教世界を解く仏画として有効なものだった。空海は嵯峨天皇の勅命により當麻寺に参籠し、中将姫が織ったと言う當麻曼荼羅の世界を感じ取ったのであろう。そしてそこを真言密教の道場とした。奈良時代の貴族のお姫様が、仏のお導きで西方浄土に赴くとそこに二上山があり、その麓に當麻寺があった。そこで夢に見た仏の世界を、出家剃髪した自分の髪や蓮の繊維で曼荼羅に織り上げた、という伝説は、密教を広めるためにも有効なレジェンドであったことだろう。中将姫は実在の人物だったらしいが、當麻曼荼羅制作にまつわる伝承は不思議で神秘的なものであるべきだった。真言宗、さらには後に浄土宗の浸透に有益なものとして大いに脚色もされていったのだろう。信仰にとって本当の作者は誰なのか、それは詮索する意味が無いのかもしれない。

3)真言密教の金剛界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅の世界観は、平安時代に入って盛んになった阿弥陀信仰、浄土信仰といった、浄土宗の教えにも合致するものでもあったろう。西方浄土に憧れ、導き観音により極楽浄土に旅立ったとされる中将姫、その仏教世界を現世に可視化した當麻曼荼羅が、浄土宗の布教に重要な役割を果たしたとしても不思議ではない。こうして平安時代以降、真言宗、浄土宗共立の寺院として栄えることとなったという。しかし、この両方の儀式を執り行うのは曼荼羅堂(すなわち当麻曼荼羅を祀る本堂)に於いてのみである。本尊弥勒仏がおわします金堂は真言宗の世界である事には変わりなかった。なお牡丹で有名な中の院、花の寺として有名な西南院は真言宗子院、護念院、奥の院は浄土宗子院である。

4)伽藍配置を見てみよう。なにか不思議な配置であることに気づくだろう。奈良の大寺(東大寺、興福寺、薬師寺、唐招提寺いずれをとっても)はたいてい南に山門(南大門)があり、そこから入ると左右(東西)に塔が配置され、正面(北)にご本尊を祀る金堂、さらにその後ろには講堂が配置される、いわば南北軸の伽藍配置である。

 ところがこの當麻寺は、まず東に寺の入り口である山門(仁王門)があり、正面(西)に本堂(曼荼羅堂)がある。そしてその手前、左に、本来だと伽藍の中心であるべき金堂が、右に講堂が並ぶ、さらに不思議なのは、金堂のさらに左(南)に日本最古と言われる三重塔が東西に並び立っている。これはどうしたことか? 順路に従ってご本尊弥勒仏を拝観するため金堂に入ると、いきなり大きな壁が立ちはだかっている。ここは弥勒仏、四天王の真後ろではないか。ぐるりと南側に回るとようやくご本尊を拝むことが出来る。なぜこのような向きになっているのか。

 実は、現在の當麻寺の伽藍配置を90度傾けてみると分かりやすい。かつては南に山門があったようだ。そこから入ると左右(東西)に三重塔が配され、正面(北)に本尊を祀る金堂が、その後ろに講堂が配置されている。南都大寺にある南北軸の標準的な伽藍配置であったのだ。しかし、いつしか南北軸が東西軸に変わってしまったので上述のような不思議が発生してしまったのだ。

 寺の由来説明では、かつては寺の南を通っていた竹内街道側から入るようになっていたものを、みやこが飛鳥、藤原京から平城京へ移るにつれ、みやこからの参詣者の利便性を考えて東から入れるようにしたのだろう、と。しかし、それだけではないだろう。先にその歴史を辿ってきたように、もともとは三論宗の学問寺、さらには真言密教の(女人禁制の)道場として、南北軸を基本とした配置であったものが、平安時代以降中将姫信仰、曼荼羅信仰、阿弥陀信仰が盛んになるにつれ、従来の曼荼羅堂を大きく拡張し、むしろ寺の中心的なお堂(現在の本堂)とし、それにつれて東から入って曼荼羅堂が正面に見える配置に変えたのだろうと思う。

 ちなみに境内の地形を見ると真南は山地になっていて竹内街道とは直接繋がっては居ない。また南大門の跡というようのものも見つかっていない。元々の南北軸時代の入り口はどうなっていたのだろうという疑問も残る。また、東西三重塔は金堂や講堂、塔頭よりも高台に建っている。南北軸の伽藍配置とするにはかなり無理な地形であったような気がする。ともあれ、この伽藍配置の変化は、當麻寺の寺としての性格(すなわち南都仏教から平安仏教へ)の変遷を表したものではないかと思う。

 しかし、さらに不思議に思うのは、二上山との関係である。古代ヤマト人、飛鳥人が憧れた落日の聖なる山と、寺の関係に方位という点で関連性がが見えないのはなぜだろう。當麻寺の位置は二上山の真南でもないし、真東でもない。二上山は寺の北西方向に見える。一方、二上山は壬申の乱後の混乱のなかで自死に追いやられた大津の皇子の眠る山。當麻寺はその鎮魂の寺、怨霊封じの寺という役割も与えられたのであろう。あまり厳密に方角にこだわるのではなく、この美しい二上山麓の穏やかな里に憧れの聖地、鎮魂の寺があるということで良いのかもしれない。

 當麻の里は、今まさに実りの秋を迎え、何時にもまして豊かで美しく平和だ。大和国中を隔てて真東には三輪山を望むことが出来るこの地が、何時の時代にも人々の憧れの地であった事は不思議ではない。二上山の落日は今でも神々しく感動を覚える。そして近鉄当麻寺駅前の中将餅は何時食しても旨い。ただし寺を参詣する前に買わないと帰りには売り切れているから、念のため。




山門(仁王門)
本堂は東に面しており、参道はこの山門から遥か東に向って伸びている。

本堂(曼荼羅堂)
ご本尊は中将姫が紡いだと言われる當麻曼荼羅

三重塔
結構な高台に建っている

本堂(曼荼羅堂)から東方向を望む。
遠く飛鳥、藤原京を望むことが出来る。
右手が金堂、左手が講堂
金堂
現在はこちら側が参拝のための入口だが、実は金堂裏手にあたる。
ご本尊弥勒仏、四天王の後ろから入って参拝する形になっている。



講堂に建つ中将姫像

境内を駆ける現代の中将姫達

かつてはこちらが金堂正面であった。
金堂としては小振りだが,創建当時の原型をとどめているといわれている。

當麻寺参道
真東に一直線に伸びている


當麻の里

豊穣の時を迎えた當麻の里

現存する日本最古の東西三重塔

二上山から見る當麻寺

5月に催される當麻おねり

二上山残影。
心象風景描写はなかな入江泰吉先生のようにはいかない。
今回も結局どれも説明的な写真ばかりだ...

絶品!









2014年9月18日木曜日

思わず「大阪ラプソディー♪」 〜水都の夜景散策(堂島/中之島編)〜


 大阪は水の都。最近は「水都大阪」がキャッチフレーズになっている。太閤さんが拓いた商都大坂は、淀川を北辺に、東西横堀川と長堀川に囲まれた船場、長堀川と道頓堀川に囲まれた島之内、西横堀川の西に開かれた西船場。淀川の北に天満。こうした川と運河に彩られたナニワ大坂が、現在の大阪の原型である。

 淀川は元々はナニワの町に流入していたが、度重なる洪水に見舞われたため、戦前に市街地を北へ迂回して放流するルート(新淀川)を開削。現在は淀川の支流となった大川が中之島を挟んで堂島川、土佐堀川と分かれ、さらに合流して安治川となって大阪湾へと流れ込んでいる。この京都と瀬戸内海を繋ぐ川を利用した水運が大阪の街を殷賑なる商都にしたといっても過言ではない。堂島は天下の台所、大坂の中心であった。米の先物取り引き発祥の地。米会所が設けられ、その周辺の堂島、中之島には各藩が米を市場で現金化するため蔵屋敷、大名屋敷、御用商人が軒を連ねていた。

 現在は天満橋から中之島への川沿いの夜景が素晴しくキレイだ。橋やレトロビルがライトアップされ、散策用のプロムナードも整備され、おもわず「大阪ラプソディー」(歌詞では恋の道は御堂筋だが...それはどうでもよい)を口ずさんでしまう。この歌は、かつて東京とニューヨークを行き来していた時に、ANA便の機内音楽チャンネルで、なぜか何度も聴き、耳にこびりついてしまった歌だ。海外にいると,妙に歌謡曲が好きになる。ふだんは「歌謡曲人間」ではない私だが... 都はるみの「涙の連絡船」など、暗い機内で聴いていておもわず涙している自分がいた。「大阪ラプソディー」は,その後に大阪に住むようになって,突如、脳内に蘇り、「ビーック、ビック、ビック、ビックカメラ!」的な勢いで頭に響き渡り始めた。ちなみに,最初の頃は口ずさんでいると,いつの間にか途中からメロディーが「東京ラプソディー」に変わってしまったりした。なぜだろう?まあいい。

 中之島の夜景はまるでパリのシテ島のそれだ。いやニューヨークのマンハッタン島か。少し言い過ぎかな? ああ大大阪の夢よもう一度!



江戸時代元禄年間の大坂堂島界隈

淀川と東西南北に開削された掘に囲まれた街だ

夕闇迫る天神橋

土佐堀川、八軒屋浜から天満橋を望む
大阪のシテ島、中の島公園の噴水
天満橋と夕日に映えるOsaka Business Park(OBP)

中之島公会堂


OBPからの大川の夕景
天満橋、天神橋が美しい



昼間の堂島川
右手に市役所、日銀大阪支店、正面は大江橋
夜の堂島川

2014年9月15日月曜日

時空トラベル出発駅のある街「ウエロク」再訪


上本町六丁目、すなわち「上六=ウエロク」。大阪人は地名を略すのが得意だ。天神橋筋六丁目は「天六=テンロク」、梅田新道は「ウメシン」、谷町九丁目は「谷九=タニキュウ」、松屋町筋は「マッチャマチ」、道頓堀は「トンボリ」、そして日本橋一丁目は「日本一=ニッポンイチ!」てな具合に...

その地名アブリビエーションのチャンピオン?「ウエロク」再訪。キタ、ミナミ、アベノに次ぐターミナル駅のある町。祖父母が暮らし、父が生まれ育った町。私の5年に渡る大阪単身赴任生活を支えてくれた町。そしてヤマト世界への時空旅の入口がある町。そう、「日常」から「非日常」へワープする町。私にとっては、運命的で特別な町だ。

以前モノしたブログを思い出し,以下に再掲(青字部分をクリックしてください)。

「時空トラベラー」 The Time Traveler's Photo Essay : 時空トラベル出発駅 近鉄上本町駅: 私の時空旅行は、ここから始まる。 今は、正しくは近鉄大阪上本町駅という。 平城京も飛鳥も大宇陀も室生寺も長谷寺も山辺の道も吉野も... ヤマトへの旅はいつもここから始まる。 私の知っている上本町駅(「うえろく」でわかった時代が懐かしい)は奈良や伊勢志摩行きの始発駅だっ...


日常の中の「非日常」それがウエロク!


地下迷宮に存在する「非日常」という名の「日常」

難波の新歌舞伎座が遷り、今やオッちゃん、オバちゃんの「非日常体験」の聖地に...




2014年9月2日火曜日

お堀端に帝都東京の面影を残す 〜明治生命館〜

 子供の頃、夏休みに母の実家のある東京へ遊びに行くだびに、心に残った景色があった。皇居お堀端の景観である。日比谷通りと晴海通りの交差点(日比谷交差点)から、重厚な近代建築ビルが並ぶ日比谷堀、馬場先堀を眺める。第一生命ビル、帝国劇場、東京会館、明治生命館... 水面に影を映す高さのそろった美しい堂々たる街並。田舎からやって来た少年は、これぞ首都東京だと眼を見張ったものだった。

 なかでもひときわ美しい古典主義様式のビル、これが明治生命館である。大阪にも素晴らしいビルが沢山あった。かつて大阪が日本の経済・産業の中心であった大大阪の時代の、中之島の住友銀行本館ビルやダイビル、御堂筋の日本生命ビルも堂々とした大建築。しかし、皇居馬場先堀端に屹立するフルブロックのビルは、その前面のコリント式列柱が、皇居の松の緑、日比谷通りの柳と銀杏の並木と相まって、ひときわ威風堂々たる風格を誇る。戦前は、まさに帝都東京を代表する建物であった事であった。

 明治生命館は、昭和9年(1934年)3月に竣工。設計は建築家で東京美術学校教授の岡田信一郎。しかし岡田は竣工を見ずに急逝し、実弟の岡田捷五郎に引き継がれた(意匠)。また構造設計はあの、東京タワーや通天閣で有名な塔博士、内藤多仲。当時の第一級の建築家の作品だ。あの頃のビルディング(ビルヂング)には、現代の合理主義一辺倒で無駄のない簡素さとは異なり、ある意味では実用性よりも古典的な装飾性を取り入れた非合理主義が表現されている。建物に対する価値観の違いだろうか。

 終戦後は第一生命ビルとともに占領軍に接収され、GHQの諮問機関である、米英中ソ4カ国の対日理事会が置かれた。今も残る二階の重厚な会議室では164回に及ぶ対日理事会が行われ、昭和27年のサンフランシスコ講和条約締結、すなわち日本の独立回復まで使用された。歴史の生き証人である。ちなみにビルの返還は昭和31年(1956年)になってからだ。

 平成9年(1997年)重要文化財指定がなされている。明治生命館も辺りの近代建築ビルの例に違わず、オフィスとしては手狭になったため、平成13年(2001年)リニューアル工事に着手。30階の高層棟を継ぎ足す改修工事は平成16年(2004年)完成した。しかし、重要文化財指定であるため、第一生命ビルのように外観以外、内部が大きく変更されてしまったケースと異なり、内装も見事に創建当時のデザインがそのまま生かされ、往時の姿が保存されている。また、内部は一般公開されており、対日理事会が開催されていた会議室などが見学できる。モダニズム建築も良いが、かつて日本にはこのような壮麗な古典主義建築があったのだ、とついノスタルジックな感傷に浸ってしまう。


 都市には、その街の歴史の長さと厚みを象徴する建築物が存在し続けていることが大事だと思う。日本の場合、木造建築が多かったので、大方が火事や、地震などの自然災害、戦乱で跡形も無くなってしまうことが多かった。そうでなくても「古い」イコール「汚い」、という感覚で、随時建て替える文化だったようだ。建物が不動産ではなく、消費材として扱われてきた文化なのか。明治の近代化以降、せっかく石やレンガの文化の建築物が入って来たにもかかわらず、古くなったら、汚い、狭いと言って壊して建て替えるDNAは、容易には消えなかったのだろう。お堀端や丸の内の古い写真を見ると、まさに一丁ロンドンよろしく、ここには典雅な赤煉瓦や石造りの近代建築の街並がかつてはあったのだと知る。それは震災や戦災はともかく、世の中が平和で豊かになった経済発展期に、土地バブルの狂乱でで破壊されてしまったのであると知る。

 古いからといってすぐに壊して新しいものを求める。そういう時代もあったね,とならないものか。いざとなったら,いつでも更地に戻せる薄っぺらいプレハブ工法の建物と、商業主義的なネオンサイン(デジタルサイネージもだ)と看板だらけの街は品格が無い。もちろん都市は今を生きているのだからそういう地区があってよいのだが、歴史を感じさせる地区だってあっても良い。パリやロンドン、バルセロナ、ローマなどの欧州の街の旧市街は、その都市を威厳と品格が漂う街にしている。欧州に比べれば歴史が新しく経済合理性、マネー優先に見えるニューヨークでさえ、その歴史を物語る建物や景観が残されている。土地一升金一升の東京では、つい古いものを壊して、猫のひたい程の土地に、新しく空に向って高い建物を建てがちだ。古い建物を保存しろ、という言われるから、「外観だけは残しましたよ」みたいな「看板建築」型高層ビルが流行するのもどうなんだ。一つ一つの建物は建築家が自慢する見事なデザインと構造設計技術の粋を集めた建物だし、クラシックな外観を皮一枚のこした「看板建築」ビルも、それだけ取り出せばよくデザインされている。しかし、それらが連なった街並はバラバラで、その街の悠久の時の流れのなかで熟成された佇まい、そこから来る風格を感じさせないことがままある。悲しい。

 一方、街並の美観を守るための高さ規制もどんどん緩んでゆく。お堀端の景観論争は昭和41年の東京海上ビルの建て替えを機に起こった。現在は何事も無かったかのように建っている故前川國男設計の「高層ビル」も、当時はお堀端の景観を壊す、皇居を上から覗く恐れがある、などとカシマしい論争となったが、とうとうこれをきっかけにお堀端の高層ビル解禁となった。それまではビルの高さ31mと定められ、そろっていて美しかった街並も、最近ではすっかり高層化が進み、セットバック方式がとられているものの、グラス&スチール高層棟の高さも、ファサードも不揃いなビルが林立する街に変わりつつある。東京会館ビル、東京商工会議所ビルも建て替えとなるそうで、低層部は31mは守られるが、高層部どのようになるのか... 東京の顔である皇居周辺の美観地区としての景観保存という観点からは、時代の流れとはいえ残念だ。

 ビルの高さがそろった街は美しい。パリ中心部がそうである。ワシントンDCもそうだ。街中から見上げる空が広い。幕末にベアトが愛宕山から撮ったの江戸の街も整然とした武家屋敷の黒瓦の家並が壮観だ。ちなみに我が故郷、福岡もビルの高さがそろっている。福岡は空港が町中にある(というか、もともとは郊外だったんだが、市街地が広がってしまった)ため、ビル建設に高さ制限があり、都心で高層ビルが建てられないためだ。福岡市民の中には、これを悔しがっている人がいるようだが、乱雑に高層ビルなど建たない方が美しい街並を誇ることが出来る。むしろこうした都市景観は、今となっては希少だ。福岡の空も広い!

 幼い眼に焼き付いた、美しい東京のお堀端は、これからどこへ行ってしまうのだろう。明治生命館が残ったのがせめてもの救いだ。銀座などはドンドン再開発が進んで、街の景観が変わりつつある。老舗の街,銀座は、ショッピングモールと外国人観光客向けDuty Free Shopsの街に変わって行くのか。

 日本という国の成長が緩やかになり、成熟した大人の国になるのは良いことだ。かつての「老大国」イギリスのように、厳しい再生の時代を経ねばならないだろうが、成熟に向かって美しく老いることを学ばねばならぬ。そのとき、はたして「老大国」日本に残せる遺産レガシーはあるのか。イギリスは1760年に始まったと言われる産業革命以来250年以上の繁栄の時代を謳歌してきた。近代化の歴史の厚みがある。日本は明治維新から数えても140年だ。GDP 世界第二位という戦後の高度成長期はたかだか30年ほどだ。近代国家としての繁栄の時代が短く、蓄積したレガシーが少ない分だけ、建築物や都市景観を含む「近代化遺産」を大切に後世に引き継ぐ必要がある。

かつての高さ31m規制は、低層部にその面影を留めている。
中央が明治生命館ビル。セットバックを大きく取っているので,高層棟が目立たない。

コリント様式の列柱が辺りを圧倒するファサード

占領下で連合国対日理事会が開かれた会議室

天井の明り採り窓


一階の営業室の見事な天井と列柱



会議室から続くコリドー
二階コリドーから営業室を見下ろす

こうした街区景観はもう生まれないだろう