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2013年4月29日月曜日

春爛漫の飛鳥を歩く =藤原一門1300年の歴史はここに始まる=

 久しぶりの飛鳥だ。里は桜が終わり,新緑が鮮やかで目に痛いほどだ。いつもの甘樫丘に登り四方をグルリと見渡すと、なんと穏やかでのどかな春爛漫の里である事か。飛鳥の里は平和そのものだ。北に大和三山を望み、南に吉野紀伊山地、東に大和青垣,西に二上山、葛城山、金剛山。万葉集にも歌われた古代のロマンに満ち満ちた「国のまほろば」だ。「うまし國ぞ秋津島大和の國は」である。しかし,一方この穏やかな里は,かつてヤマト王権成立の過程において,血なまぐさい権力闘争の舞台となったところであった。万葉集の世界とちがって、記紀の記述の行間に透けて見えるのは、おどろおどろしき人間バトルの世界。今この眼前に広がるのどかな佇まいからは想像出来ないような凄惨な光景が繰り広げられていた。

 飛鳥は日本の古代統一国家の発祥の地である。5世紀後半から8世紀初期の平城遷都までの「ヤマト王権確立」の闘いのプロセスはここ飛鳥を舞台とした。しかし「ヤマト王権の確立」とは、一人の英雄的大王が国の統治の権威と権力を一手に収め強力な絶対王政を引き、全国土、全人民を統治するという訳ではなかった。倭国の大王、そしてやがては日本の天皇という国家の最高権威は、紆余曲折はあるものの氏族連合の上に成り立って来た。そのあまたの氏族の中のもっとも力を持つ氏族が、大王/天皇の権威を受任し、大王/天皇家と姻戚関係を結ぶ事などにより国家の支配中枢に入り込む。「ヤマト王権の確立」の過程とはそうした氏族間の「権威」獲得のための権力闘争の歴史に他ならない。

 国家の統治には、統治を正当化する「権威」と、統治する力「権力」の二つが必要である。日本の歴史は「権威」である大王/天皇のお墨付きの獲得を巡ってナンバーツーが「権力」を奪い合う歴史であった。その原型がこののどかな飛鳥の里で出来上がった。のちの源平の合戦然り。南北朝の争い然り。明治維新の時の、かつての「賊軍」長州が「錦旗」を掲げ「官軍」として「賊軍」幕府、会津を討伐した史実はそうした「お墨付き」「権威」が「権力」の正統性には欠かせないという事例である。

 天武/持統朝になると新しい国家体制が成立するに至り「ヤマト王権」の確立プロセスは新しい時代を迎える。、天皇を中心とした新しい日本の国家体制を権威付ける国史の編纂がその象徴的な事業である。一つは天皇権威の証明である、いわばイデオロギーの書、古事記と、もう一つは天皇支配の正統性を物語る国の正史、日本書紀。今我々が目にする古代日本史はこの時代、こうした時代背景の中生み出されたものである事を理解しておく必要がある。時代は既に巳支の変を経て強力な蘇我宗家支配体制は崩壊し、白村江の戦いの敗北による軍事氏族の権威が失墜し、壬申の乱後の天武天皇親政の時代へ突入していた。さらに律令制導入による氏族制の解体。皇祖神天照大神を頂点とした氏族ごとの神々の階層化。統治理念としての仏教による鎮護国家思想。公地公民の制という経済改革。

 このように一見天皇による絶対王政の確立が進んだかに見えた時期であった。しかし、巳支の変の功労者、中臣鎌足(のちに天智天皇から藤原の姓を賜る)の子,藤原不比等を筆頭とする藤原氏の時代の始まりでもあった。不比等はこの改革の嵐の中で着実に朝廷との新しい形での関わりを深めて行った。一説には、記紀は不比等により編纂されたとさえ言われている。

 藤原不比等の藤原一族は、天皇の后を送り出し、天皇の外戚となり王権の中枢に入り込んで行く。あれだけ敵対した蘇我氏が導入推進した仏教さえ認めて朝廷における不動の地位を確立して行く。藤原京遷都、平城遷都、平安遷都を企画し実行し、平安時代にわたる藤原摂関家の栄華の時代。やがては武家政権の時代となるが、五摂家として長く朝廷の中枢の地位を占め続ける。さらに明治維新、昭和に至る1300年余の藤原一族の時代はここに始まった。

 そう思いを巡らせつつ甘樫丘から展望すると、鎌足が生まれ育った小原の里は飛鳥坐神社の西の山麓に見える。その中臣鎌足が蘇我入鹿誅殺を中大兄皇子と語らった多武峰の談合山(かたらいやま)は、まさにそのクーデターの現場である飛鳥板蓋宮跡地の背後にそびえ立っている。蘇我氏が建立した扶桑第一の仏教寺院飛鳥寺(法興寺)の境内跡は眼下に広がっている。この寺の平城京移転(奈良元興寺)を、なぜか認めたのも藤原氏である。厩戸皇子(のちに聖徳太子と諡を与えられた)が生まれた橘宮(のちの橘寺)や斉明天皇追善の川原寺も見える。そして厩戸皇子の斑鳩宮、法隆寺のある斑鳩の里も遠望出来る、その子、山背大兄皇子一族が蘇我入鹿に攻められ自決した地でもある。大和三山に囲まれた藤原京。平城遷都した、奈良の都も北に遠望出来る。氏族間闘争の最終覇者、日本の支配的ナンバーツー、藤原一門のルーツはここにあった。

 藤原氏(旧姓中臣氏)は、もともとは東国の鹿島神社、香取神社に使える神官、神祇職の家系であると言われているが、その起源の詳細は不明である。奈良時代に入って藤原氏が創建した春日大社はこの鹿島、香取、そして河内の枚岡神社から三神を勧請し祀っている。6世紀の仏教伝来時には、物部守屋とともに中臣鎌子は廃仏派であり、崇仏派の蘇我氏と争って破れている。中臣氏は物部氏や大伴氏のような大豪族ではなくて中級の氏族であった事で、蘇我馬子による物部氏討伐にもかかわらず一族が生き残ることになったのかもしれない。

 蘇我氏は、古来からの神々に対して、外来宗教たる仏教を導入し、倭国を国際的にも開かれた国家にしたが、一方で崇峻天皇殺害や、蘇我一族の内紛とも言うべき山背大兄皇子一族の殺害などを引き起こし、皇位継承者を決める等、権力を欲しいままにした。そうした蘇我氏に対する反発は、もともと神祇職の家系であり廃仏派であった中臣氏先祖伝来のものなのであろう。仏教を厚く敬う蘇我氏系の用明天皇、推古天皇、聖徳太子一族に対する反感もあったかもしれない。しかし、やがては聖徳太子の活躍等により仏教は着実に倭国に定着して行き、藤原氏の仏教に対する姿勢も,時代の流れの中で受容せざるを得ないものになって行った。藤原氏はむしろ仏教の保護者として姿を押し出してくる。その後の仏教政策、すなわち法隆寺の再建、興福寺の建立、蘇我氏の法興寺(飛鳥寺)の平城京移転は、その現れである。こうした変遷が、梅原猛の「隠された十字架」法隆寺論の背景にある藤原一門の立ち位置なのだが、その話はまた別途に。




(甘樫丘はかつては蘇我氏の居館と砦が置かれたところだと言われている。ここからは飛鳥、大和が一望に出来る。正面の明日香村の屋並みに向こうには飛鳥坐神社の杜が、さらにそのむこうの山麓は藤原鎌足の生誕地である小原の里。右手には蘇我氏建立の飛鳥寺(法興寺)が、さらに右手には飛鳥板蓋宮跡がある)




(畝傍,耳成、香具山の大和三山の全景。この三山に囲まれた地域に藤原京が造営された。しかし、たちまち710年にはさらに北の平城京へ遷都、794年、さらに北進して平安京へ遷都する、という歴史を辿る。左手奥に二上山、遥か遠方には生駒山が見える)




(蘇我入鹿殺害の現場となった飛鳥板蓋宮跡。その背後には中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏の打倒を密談したという多武峰、談合山(かたらいやま、あるいはお破裂山)がそびえている。多武峰には鎌足を祀る談山神社があり、今も飛鳥を見下ろしている)

スライドショーはこちら→


(撮影機材:LeicaM240, Fujifilm X-Pro1, + Summilux 50mm f/1.4, Tri-Elmar 16-18-21mm f/4, Apo Summicron 75mm f/2)

2013年4月24日水曜日

葛井寺に藤を愛でる ー若き遣唐留学生の魂よ永遠なれー

 


藤で有名な葛井寺(藤井寺:ふじいでら)は阿倍野橋から近鉄南大阪線の急行で約20分の藤井寺駅から徒歩5分のところにある。藤井寺駅から古市駅までの沿線(現在の行政区域では藤井寺市、羽曳野市)には、堺市の百舌鳥古墳群に連らなる巨大古墳群、応神天皇陵、仲哀天皇陵、ヤマトタケル陵などの大型古墳があつまる古市古墳群が広がっている。奈良盆地三輪山山麓の三輪王朝に替わる河内王朝縁の土地であると言われる。一方、百済の渡来系氏族が開いた土地であるとも言われており、葛井寺も渡来系氏族葛井氏(ふじいし)の氏寺とも言われている。この寺の南西隣にはやはり渡来系氏族の氏神をまつるとされる辛国神社(からくにじんじゃ)があり、さらに仲哀天皇陵の南には聖徳太子ゆかりの「中の太子」と呼ばれた野中寺(やちゅうじ)が存在する。

この辺りは5世紀の倭の五王が活躍した時代以来の軍事氏族であった物部氏の基盤でもある。物部氏は、6世紀に入って仏教伝来に伴う,崇仏派(蘇我氏、聖徳太子)、廃仏派(物部氏、中臣氏)の争いの中で蘇我氏に取って代わられ、滅びて行ったが、河内に優勢な基盤を有する古代の大豪族であった。その東には太子町「近つ飛鳥」がある。こちらは蘇我氏の縁の地と言われ、蘇我系の大王墓、用明天皇、敏達天皇、推古天皇、さらには孝徳天皇の陵墓が並び、聖徳太子の墓と叡福寺(「上ノ太子」)もあり「王陵の谷」と呼ばれている。


葛井寺は、この季節、藤が一斉に咲き始める。今年の開花は例年よりかなり早く、その報を聞きつけた善男善女(基本的に中高年のオトーさん、オカーさん達)が押し掛け、我が世の春を楽しんでいる。訪問当日はまだ満開には少し早すぎたが、3月の急速な温暖化により,桜を始め、全ての開花が早かった。藤は5月の花であるが、4月の連休前にはもう咲き始めている。藤と言えば春日大社の藤が有名であり、藤原氏のシンボルとも言うべき花であるが、藤井寺の藤棚も素晴らしい。高貴な佇まいを備えている。

ここ藤井寺には近年になって一人のヒーローが現れた。2004年に中国の西安市、すなわち唐代の都長安跡で、「井真成」なる日本からの遣唐使の一員(留学生)の墓誌が発見されて話題になった。墓誌には734年に若くして(36才)遠く異国の地で亡くなった事が記されている。当時長安に在留していた各国の留学生の数はあまたあれど、その死にあたり墓誌を贈られた者は少ない。またその才能を悼んで時の玄宗皇帝から「尚衣奉御」という官位まで遺贈された事が記されている。この「井真成」(いのまなり。せいしんせい等の読み方もいろいろな説がある)とは、日本名は、「井上」であるとか「葛井」であるとか論争があるが、どうもここ河内の藤井寺辺りの出身者であるようだ。地元では思わぬ「郷土の英雄」の発見に沸き、今でも街角のあちこちに「井真成君」の幟旗が立ち並んでいる。キャラクターまであって盛り上がっているわけだが...

遣唐使は正使1名、副使1〜2名であり、100名ほどの随行員(留学僧、留学生など)が含まれているが、日本側の記録に随員の名前等は必ずしも残っていない。20年に一度くらいの頻度での遣使で、しかも、当時の航海能力では全ての船が無事に彼の地に到達したり、あるいは帰国出来た事は稀であった。したがって残る記録も少なく遣唐使の実情についてはいまだに不明な点が多い。

井真成は、おそらく他界した年齢から推測すると、717年の遣唐使留学生の一人であったのだろう。そうだとすると渡唐当時は19才ということになる。阿倍仲麻呂や吉備真備と同時期の派遣と見られる。阿倍仲麻呂のように貴族の出身で唐において重用され高い官職に就き、現地で没した人物と異なり、また、吉備真備のように留学生として渡唐し無事帰国した後に、朝廷に重用されて右大臣にまで出世した人物とも異なり、この墓誌が発見されるまで、誰もその存在すら知らない無名の人物であった。日本国家建設の黎明期における海外留学生には、幕末明治期を含め、歴史に名を残す事も無く埋もれてしまった幾多の若者がいたに違いない。そういう歴史の表舞台には出て来ない「若者の夢」を、この西安の井真成の墓碑銘の発見で垣間みることが出来たわけだ。

しかし、望郷の思いは阿倍仲麻呂にも劣らなかったであろう、その心に秘めた大志も決して劣らなかっただろう。あるいは帰国していれば吉備真備のように出世して歴史に名を残していたかもしれない。中国の人々に惜しまれ墓誌まで作ってもらった若き留学生の道半ばでの異国での死に思いを馳せる。墓誌には辞世として「遺体はこの地に残れども、わが魂ははるか故郷に帰る事を望む」と記されている。その心情を察すると涙を禁じ得ない。
今を盛りに咲き誇る藤の花よ、願わくばこの若者の魂を慰めたまえ。




(葛井寺の藤)
































































(撮影機材:Leica M240+Summilux 50mm f/1.4 ASPH., Fujifilm X-Pro1+Apo Summicron 75mm f/2 ASPH.+Tri-Elmar 16,18, 21mm f/4 ASPH.)