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2013年4月29日月曜日

春爛漫の飛鳥を歩く =藤原一門1300年の歴史はここに始まる=

 久しぶりの飛鳥だ。里は桜が終わり,新緑が鮮やかで目に痛いほどだ。いつもの甘樫丘に登り四方をグルリと見渡すと、なんと穏やかでのどかな春爛漫の里である事か。飛鳥の里は平和そのものだ。北に大和三山を望み、南に吉野紀伊山地、東に大和青垣,西に二上山、葛城山、金剛山。万葉集にも歌われた古代のロマンに満ち満ちた「国のまほろば」だ。「うまし國ぞ秋津島大和の國は」である。しかし,一方この穏やかな里は,かつてヤマト王権成立の過程において,血なまぐさい権力闘争の舞台となったところであった。万葉集の世界とちがって、記紀の記述の行間に透けて見えるのは、おどろおどろしき人間バトルの世界。今この眼前に広がるのどかな佇まいからは想像出来ないような凄惨な光景が繰り広げられていた。

 飛鳥は日本の古代統一国家の発祥の地である。5世紀後半から8世紀初期の平城遷都までの「ヤマト王権確立」の闘いのプロセスはここ飛鳥を舞台とした。しかし「ヤマト王権の確立」とは、一人の英雄的大王が国の統治の権威と権力を一手に収め強力な絶対王政を引き、全国土、全人民を統治するという訳ではなかった。倭国の大王、そしてやがては日本の天皇という国家の最高権威は、紆余曲折はあるものの氏族連合の上に成り立って来た。そのあまたの氏族の中のもっとも力を持つ氏族が、大王/天皇の権威を受任し、大王/天皇家と姻戚関係を結ぶ事などにより国家の支配中枢に入り込む。「ヤマト王権の確立」の過程とはそうした氏族間の「権威」獲得のための権力闘争の歴史に他ならない。

 国家の統治には、統治を正当化する「権威」と、統治する力「権力」の二つが必要である。日本の歴史は「権威」である大王/天皇のお墨付きの獲得を巡ってナンバーツーが「権力」を奪い合う歴史であった。その原型がこののどかな飛鳥の里で出来上がった。のちの源平の合戦然り。南北朝の争い然り。明治維新の時の、かつての「賊軍」長州が「錦旗」を掲げ「官軍」として「賊軍」幕府、会津を討伐した史実はそうした「お墨付き」「権威」が「権力」の正統性には欠かせないという事例である。

 天武/持統朝になると新しい国家体制が成立するに至り「ヤマト王権」の確立プロセスは新しい時代を迎える。、天皇を中心とした新しい日本の国家体制を権威付ける国史の編纂がその象徴的な事業である。一つは天皇権威の証明である、いわばイデオロギーの書、古事記と、もう一つは天皇支配の正統性を物語る国の正史、日本書紀。今我々が目にする古代日本史はこの時代、こうした時代背景の中生み出されたものである事を理解しておく必要がある。時代は既に巳支の変を経て強力な蘇我宗家支配体制は崩壊し、白村江の戦いの敗北による軍事氏族の権威が失墜し、壬申の乱後の天武天皇親政の時代へ突入していた。さらに律令制導入による氏族制の解体。皇祖神天照大神を頂点とした氏族ごとの神々の階層化。統治理念としての仏教による鎮護国家思想。公地公民の制という経済改革。

 このように一見天皇による絶対王政の確立が進んだかに見えた時期であった。しかし、巳支の変の功労者、中臣鎌足(のちに天智天皇から藤原の姓を賜る)の子,藤原不比等を筆頭とする藤原氏の時代の始まりでもあった。不比等はこの改革の嵐の中で着実に朝廷との新しい形での関わりを深めて行った。一説には、記紀は不比等により編纂されたとさえ言われている。

 藤原不比等の藤原一族は、天皇の后を送り出し、天皇の外戚となり王権の中枢に入り込んで行く。あれだけ敵対した蘇我氏が導入推進した仏教さえ認めて朝廷における不動の地位を確立して行く。藤原京遷都、平城遷都、平安遷都を企画し実行し、平安時代にわたる藤原摂関家の栄華の時代。やがては武家政権の時代となるが、五摂家として長く朝廷の中枢の地位を占め続ける。さらに明治維新、昭和に至る1300年余の藤原一族の時代はここに始まった。

 そう思いを巡らせつつ甘樫丘から展望すると、鎌足が生まれ育った小原の里は飛鳥坐神社の西の山麓に見える。その中臣鎌足が蘇我入鹿誅殺を中大兄皇子と語らった多武峰の談合山(かたらいやま)は、まさにそのクーデターの現場である飛鳥板蓋宮跡地の背後にそびえ立っている。蘇我氏が建立した扶桑第一の仏教寺院飛鳥寺(法興寺)の境内跡は眼下に広がっている。この寺の平城京移転(奈良元興寺)を、なぜか認めたのも藤原氏である。厩戸皇子(のちに聖徳太子と諡を与えられた)が生まれた橘宮(のちの橘寺)や斉明天皇追善の川原寺も見える。そして厩戸皇子の斑鳩宮、法隆寺のある斑鳩の里も遠望出来る、その子、山背大兄皇子一族が蘇我入鹿に攻められ自決した地でもある。大和三山に囲まれた藤原京。平城遷都した、奈良の都も北に遠望出来る。氏族間闘争の最終覇者、日本の支配的ナンバーツー、藤原一門のルーツはここにあった。

 藤原氏(旧姓中臣氏)は、もともとは東国の鹿島神社、香取神社に使える神官、神祇職の家系であると言われているが、その起源の詳細は不明である。奈良時代に入って藤原氏が創建した春日大社はこの鹿島、香取、そして河内の枚岡神社から三神を勧請し祀っている。6世紀の仏教伝来時には、物部守屋とともに中臣鎌子は廃仏派であり、崇仏派の蘇我氏と争って破れている。中臣氏は物部氏や大伴氏のような大豪族ではなくて中級の氏族であった事で、蘇我馬子による物部氏討伐にもかかわらず一族が生き残ることになったのかもしれない。

 蘇我氏は、古来からの神々に対して、外来宗教たる仏教を導入し、倭国を国際的にも開かれた国家にしたが、一方で崇峻天皇殺害や、蘇我一族の内紛とも言うべき山背大兄皇子一族の殺害などを引き起こし、皇位継承者を決める等、権力を欲しいままにした。そうした蘇我氏に対する反発は、もともと神祇職の家系であり廃仏派であった中臣氏先祖伝来のものなのであろう。仏教を厚く敬う蘇我氏系の用明天皇、推古天皇、聖徳太子一族に対する反感もあったかもしれない。しかし、やがては聖徳太子の活躍等により仏教は着実に倭国に定着して行き、藤原氏の仏教に対する姿勢も,時代の流れの中で受容せざるを得ないものになって行った。藤原氏はむしろ仏教の保護者として姿を押し出してくる。その後の仏教政策、すなわち法隆寺の再建、興福寺の建立、蘇我氏の法興寺(飛鳥寺)の平城京移転は、その現れである。こうした変遷が、梅原猛の「隠された十字架」法隆寺論の背景にある藤原一門の立ち位置なのだが、その話はまた別途に。




(甘樫丘はかつては蘇我氏の居館と砦が置かれたところだと言われている。ここからは飛鳥、大和が一望に出来る。正面の明日香村の屋並みに向こうには飛鳥坐神社の杜が、さらにそのむこうの山麓は藤原鎌足の生誕地である小原の里。右手には蘇我氏建立の飛鳥寺(法興寺)が、さらに右手には飛鳥板蓋宮跡がある)




(畝傍,耳成、香具山の大和三山の全景。この三山に囲まれた地域に藤原京が造営された。しかし、たちまち710年にはさらに北の平城京へ遷都、794年、さらに北進して平安京へ遷都する、という歴史を辿る。左手奥に二上山、遥か遠方には生駒山が見える)




(蘇我入鹿殺害の現場となった飛鳥板蓋宮跡。その背後には中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏の打倒を密談したという多武峰、談合山(かたらいやま、あるいはお破裂山)がそびえている。多武峰には鎌足を祀る談山神社があり、今も飛鳥を見下ろしている)

スライドショーはこちら→


(撮影機材:LeicaM240, Fujifilm X-Pro1, + Summilux 50mm f/1.4, Tri-Elmar 16-18-21mm f/4, Apo Summicron 75mm f/2)

2013年4月24日水曜日

葛井寺に藤を愛でる ー若き遣唐留学生の魂よ永遠なれー

 藤で有名な葛井寺(藤井寺:ふじいでら)は阿倍野橋から近鉄南大阪線の急行で約20分の藤井寺駅から徒歩5分のところにある。藤井寺駅から古市駅までの沿線(現在の行政区域では藤井寺市、羽曳野市)には、堺市の百舌鳥古墳群に連らなる巨大古墳群、応神天皇陵、仲哀天皇陵、ヤマトタケル陵などの大型古墳があつまる古市古墳群が広がっている。奈良盆地三輪山山麓の三輪王朝に替わる河内王朝縁の土地であると言われる。一方、百済の渡来系氏族が開いた土地であるとも言われており、葛井寺も渡来系氏族葛井氏(ふじいし)の氏寺とも言われている。この寺の南西隣にはやはり渡来系氏族の氏神をまつるとされる辛国神社(からくにじんじゃ)があり、さらに仲哀天皇陵の南には聖徳太子ゆかりの「中の太子」と呼ばれた野中寺(やちゅうじ)が存在する。

 この辺りは5世紀の倭の五王が活躍した時代以来の軍事氏族であった物部氏の基盤でもある。物部氏は、6世紀に入って仏教伝来に伴う,崇仏派(蘇我氏、聖徳太子)、廃仏派(物部氏、中臣氏)の争いの中で蘇我氏に取って代わられ、滅びて行ったが、河内に優勢な基盤を有する古代の大豪族であった。その東には太子町「近つ飛鳥」がある。こちらは蘇我氏の縁の地と言われ、蘇我系の大王墓、用明天皇、敏達天皇、推古天皇、さらには孝徳天皇の陵墓が並び、聖徳太子の墓と叡福寺(「上ノ太子」)もあり「王陵の谷」と呼ばれている。


 葛井寺は、この季節、藤が一斉に咲き始める。今年の開花は例年よりかなり早く、その報を聞きつけた善男善女(基本的に中高年のオトーさん、オカーさん達)が押し掛け、我が世の春を楽しんでいる。訪問当日はまだ満開には少し早すぎたが、3月の急速な温暖化により,桜を始め、全ての開花が早かった。藤は5月の花であるが、4月の連休前にはもう咲き始めている。藤と言えば春日大社の藤が有名であり、藤原氏のシンボルとも言うべき花であるが、藤井寺の藤棚も素晴らしい。高貴な佇まいを備えている。

 ここ藤井寺には近年になって一人のヒーローが現れた。2004年に中国の西安市、すなわち唐代の都長安跡で、「井真成」なる日本からの遣唐使の一員(留学生)の墓誌が発見されて話題になった。墓誌には734年に若くして(36才)遠く異国の地で亡くなった事が記されている。当時長安に在留していた各国の留学生の数はあまたあれど、その死にあたり墓誌を贈られた者は少ない。またその才能を悼んで時の玄宗皇帝から「尚衣奉御」という官位まで遺贈された事が記されている。この「井真成」(いのまなり。せいしんせい等の読み方もいろいろな説がある)とは、日本名は、「井上」であるとか「葛井」であるとか論争があるが、どうもここ河内の藤井寺辺りの出身者であるようだ。地元では思わぬ「郷土の英雄」の発見に沸き、今でも街角のあちこちに「井真成君」の幟旗が立ち並んでいる。キャラクターまであって盛り上がっているわけだが...

 遣唐使は正使1名、副使1〜2名であり、100名ほどの随行員(留学僧、留学生など)が含まれているが、日本側の記録に随員の名前等は必ずしも残っていない。20年に一度くらいの頻度での遣使で、しかも、当時の航海能力では全ての船が無事に彼の地に到達したり、あるいは帰国出来た事は稀であった。したがって残る記録も少なく遣唐使の実情についてはいまだに不明な点が多い。

 井真成は、おそらく他界した年齢から推測すると、717年の遣唐使留学生の一人であったのだろう。そうだとすると渡唐当時は19才ということになる。阿倍仲麻呂や吉備真備と同時期の派遣と見られる。阿倍仲麻呂のように貴族の出身で唐において重用され高い官職に就き、現地で没した人物と異なり、また、吉備真備のように留学生として渡唐し無事帰国した後に、朝廷に重用されて右大臣にまで出世した人物とも異なり、この墓誌が発見されるまで、誰もその存在すら知らない無名の人物であった。日本国家建設の黎明期における海外留学生には、幕末明治期を含め、歴史に名を残す事も無く埋もれてしまった幾多の若者がいたに違いない。そういう歴史の表舞台には出て来ない「若者の夢」を、この西安の井真成の墓碑銘の発見で垣間みることが出来たわけだ。

 しかし、望郷の思いは阿倍仲麻呂にも劣らなかったであろう、その心に秘めた大志も決して劣らなかっただろう。あるいは帰国していれば吉備真備のように出世して歴史に名を残していたかもしれない。中国の人々に惜しまれ墓誌まで作ってもらった若き留学生の道半ばでの異国での死に思いを馳せる。墓誌には辞世として「遺体はこの地に残れども、わが魂ははるか故郷に帰る事を望む」と記されている。その心情を察すると涙を禁じ得ない。
今を盛りに咲き誇る藤の花よ、願わくばこの若者の魂を慰めたまえ。




(葛井寺の藤)

 スライドショーはこちらから→



(撮影機材:Leica M240+Summilux 50mm f/1.4 ASPH., Fujifilm X-Pro1+Apo Summicron 75mm f/2 ASPH.+Tri-Elmar 16,18, 21mm f/4 ASPH.)

2013年4月11日木曜日

都市のランドマークとしての駅舎建築(Tokyo Central Station & Grand Central Terminal 100 Years Anniversary)

 戦争中の爆撃で破壊され、建て直しか、復元か、戦後ながらく懸案だった名建築東京駅赤煉瓦駅舎の復元が遂に完成し、東京の新たな観光名所になっている事は周知の通りだ。歴史的な建築物が建ち並ぶ丸の内地区は丸ビル、新丸ビルのリニューアルに続いて、東京駅が復元され、ついこの間は駅前の東京中央郵便局跡にJP Towerも完成し、ショッピングモールKitte、オフィスビルとしてオープン。このように東京駅丸の内口の再開発が進み、従来あまり観光客や買い物客が集まる場所ではなかった東京駅周辺がにわかに「賑わいの場」として脚光を浴びている。

 再開発には破壊が伴う事が多いのだが、近代建築物を歴史的な遺産として保存/修復しようという動きが高まっている事は良い事だ。しかし,その手法には様々なバリエーションがある。駅前のランドマークであった丸ビルや新丸ビルは、旧ビルの面影を多少デザインに残してはいるが、完全立て替えで近代建築保存の手法はとられていない。JP Towerは、完全立て替えの予定で工事が進められていたところ、ご存知の通り某担当大臣の一声で、かろうじてファサードに外壁の一部が薄皮仮面のように残された。中身は全く残ってない最近流行の「なんちゃって保存」ビルだ。そういえばつい最近リニューアルオープンし、こけら落とし公演が始まっている銀座の歌舞伎座も、てっぺんにglass and steel高層ビルが生えた。それらに比べると東京駅舎はほぼ完全オリジナル復元ビル。これには感動。出来上がってみると、周りの高層ビル群の中に埋もれて、高さでは目立たず、たしかに内部は今の駅舎やビルの基準からみると狭く,スペース効率が悪いが、この土地一升金一升の丸の内に、経済効率一本やりでないある種の贅沢な余裕を感じる。それが新たな経済効果も生み出しているのだから、「経済合理性」の考え方も変えなくてはいけない。

 東京駅は、官営鉄道の起点であったであった新橋駅と、民営鉄道の起点であった上野駅とを結ぶ線の建設に伴って、その間に東京中央停車場(Tokyo Central Station)として1912年着工、1914年に完成したのが始まり。したがって新橋や上野のようなterminal(終着駅)ではなく、station(停車場)である。東京帝国大学の辰野金吾博士の設計になる赤煉瓦造り3階建ての建物は、にぎやかな八重洲、京橋側ではなく、何も無い原っぱであった丸の内側、すなわち皇居の真っ正面に中央玄関を設けた。国の威信をかけた帝都東京のシンボルとして建設されたものだ。戦時中の米軍による爆撃で、駅舎が破壊され、戦後はとりあえず3階建てを2階建てに補修して再スタートを切ったが、その後の経済成長のなかで、常に取り壊し再開発議論の対象となった。しかし、市民の熱心の保存復元運動の結果,駅開業100年目の2012年に元の美しい姿を取り戻すことが出来たわけだ。何でもすぐに壊してしまうこの時代に喜ばしい限りだ。現在東京駅自体は、プラットホーム数日本一で、JRの在来線が地上5面10線、地下4面8線、新幹線が地上5面10線。また東京メトロが地下1面2線、というビジーな駅となっている。また日本の鉄道の起点になる0キロポストがあり、東京駅を起点とした「上り」「下り」路線表示が使われるなど、文字通りの日本のCentral Stationだ。

 一方、ニューヨークのシンボルであるグランドセントラル駅(Grand Central Terminal)は御影石造りの壮麗な駅舎である。1871年に最初の駅が建設され、1913年に完全改装。今の駅舎の原型が出来上がった。今年で100周年を迎える。この駅も1966年には取り壊し再開発の計画が持ち上がったが、ニューヨーク市民、ジャックリーヌ・オナシスなどの反対運動で保存が決まり、1998年にリニューアルオープンにこぎつけている。2014年には,同じく100周年を迎える東京駅と姉妹駅になるそうだ。

 こちらは地下駅で地上にはホームも線路も無い。駅舎はマンハッタンの中心を南北に貫く大通り、Park Avenueの真上に通りをブロックするように立っている。ホームと線路はこのPark Avenueの真下に2層になっており、29面、46線を有するという巨大なターミナル駅だ。そもそもPark Avenue自体が鉄道の線路上にフタをして出来た大通りだそうだから、道路下を掘って地下駅を作った訳ではない。逆なのだ。通りを歩くと分かるが、歩道の側溝の金網の下に線路が見えている!さらに我々日本人の感覚では信じられない事だが、Park Avenue沿いの高層ビル群のすぐ真下が空洞になっていて、線路やホームや待避線が地下を縦横に走っているのだ。しかも、かつては機関車で牽引する列車だったことから,地下に広大な方向転換して入線するためのループ線まで残っている。この御影石造りの堂々たるグランドセントラル駅舎自体もこの空洞の上部に鎮座ましましている。岩盤の上に街を築いたマンハッタンとはいえ、この都市の構造は我々には信じられない。今は、主にWestchesterやConnecticut方面に向かう近郊通勤電車の始発駅だ。私もNY時代に毎日利用した。当時はNYには日本人駐在員が大勢いて、みな郊外に住み、夜になると帰宅する日本人サラリーマンで溢れる電車だった。いわゆる「Orient Express」だ。日本が元気な時代であった。ちなみに車両は川崎重工製。ワシントンやボストンなどの大都市間を結ぶ長距離列車やアムトラック(Amtrak)はペンステーション(Penn Station)が拠点となっている。アメリカが誇る高速鉄道アセラ・エキスプレス(Acela Express)もペンステーションが始発だ。

 このように,両駅はその生い立ちも役割も少しずつ異なるが,東京とニューヨークを代表するのランドマークである点は共通だ。そして、いずれもその駅舎は地域の再開発のために一度は取り壊しの対象となり、いずれも市民の運動で破壊を免れたという歴史を有する。鉄道という19〜20世紀の公共輸送手段は、航空機や自動車の発達に伴い、その交通体系におけるドミナントな地位を失ってしまった。特にアメリカでは、その開拓フロンティアを支えて来た鉄道はその役割を終えた感すらある。それでも、単に輸送手段としてだけではなく、こうした歴史的な駅舎や、人が集まる場所としての魅力、情報が集まる場所、金が集まる場所としての仕掛け造りが、再び駅を蘇らせ、賑わいの場になり、都市の顔としての役割を復活させている。そうしたなか、観光やエキナカビジネスや、さらには乗車券の代わりのカードを利用した決済ビジネスを生み、レガシーな鉄道と駅舎+IT+リアルという、新しいエコシステムを生み出している。そうした「時代の変遷」という視点からも東京駅とグランドセントラル駅とがともに開業100周年を迎え、来年姉妹駅になるコトは嬉しい事だ。21世紀の新しい鉄道の時代に向けて出発の時を迎えている。



 皇居から続く広い行幸通りも整備し直されて、東京駅赤煉瓦駅舎を正面から見る絶好の場所となった。



 新装なったJP Tower(旧東京中央郵便局)の6階展望デッキからは、赤煉瓦駅舎を見下ろすことが出来る。



 南北のドームの下は、駅の改札エリア。



 ドーム天井はオリジナルのデザインで復元された。仮復元時代のパンテオンもよかったが。



 Grand Central Terminal正面。Park Avenueの南側から姿。右の橋桁はPark Avenueを通る車両が駅舎ビルを左右に通り抜けるためのもの。



 駅ビル正面のマーキュリーの像。後ろはMetlifeビル。昔のPanAmビルだ。



 1950年代後半、私の父が撮影した当時のGrand Central Terminal。今と違って黒っぽく煤けた感じだ。。



 内部は神殿のように広く厳か。星条旗が常に掲げられている。




 コンコース。中央は駅の観光案内所。待ち合わせの目印にする人が多い。




2013年4月5日金曜日

Leica M (Type240)の使用感など ーライカのジレンマー

 2013年初旬発売とアナウンスされていたLeica M(Type240)は、やっと3月20日に発売開始となった。初期販売は数量が限られていたようだ。去年10月のフォトキナ発表時にマップカメラで予約していた私はラッキーにも発売日に手に入った。待ちに待っただけに嬉しい!うわさによると10台しか入荷しなかったとか。今後、予備バッテリーは5月、ハンドグリップは6月、Rレンズ用アダプターは7月とアクセサリー類が順次発売となる予定だとか。なんでさみだれ式に出てくるんだろう?

 今回も、M購入に当たっての最大のハードルはもちろんその価格。ライカ製品の場合、その価格ゆえにいつも資金調達と機材の入れ替えに頭を痛めることになる。結局、いろいろ問題続出で私にとって相性の悪かったM9と、フィルム時代に別れを告げるために愛用のM7を下取りに出して、出費の極小化を図ってゲット。今度こそと期待している。


1.  M9との比較を念頭に、思いつくままのファーストインプレッション:

1)ボディーサイズはM9とほとんど変わらないが、重さが100gくらい増えた。しかし親指レストがあるのでホールドはよい。貼り革も好きな感触だ。掌(たなごころ)での転がし感は上々。

2)液晶画面の大型化に伴い、背面レイアウトが変更に。設定メニューは豊富になり、分かりやすい分類で好ましい。操作はライカ独特だが慣れれば違和感なし。

3)防水防滴シールドを実感する場面にはまだ遭遇していないが、シャッターの静音化に貢献している事は実感する。

4)2400万画素フルサイズCMOSセンサーはISO感度幅,ダイナミックレンジともに改善し、画質はあきらかに良くなった。ローパスフィルターレスは継承。M9の1800万画素CCDセンサーに比べて色味が変わった、という人もいるが私にはこちらの方が好きだ。少し暖色系か。少しアンダー目?

5)ISO感度は200-3200から100-6400に拡張可能。シャッター速度下限とISO感度上限を設定してのISO感度オートが出来るようになった。高感度ノイズも不快なほどではなく、フィルムの粒状感に近い感じがする。

6)マルチ測光と中央部重点測光、スポット測光を選べる。また従来のようにシャッター幕の白い部分の反射で測光する(クラシック)と、シャッターを上げて測光する(アドバンスト)が選べる。

7)M8以来の問題であったホワイトバランスはWBオートでも色が暴れる事が少なくなり落ち着いたようだ(M8、9のそれはライカの「個性」や「特色」ではなく、「欠陥」ではないかと感じている。少なくとも私とは相性が合わなかった)。

8)画像エンジンがS2と同じLeica Maestroになって画像読み込み速度が速くなった。全体としてレスポンスが大きく改善した(M9が遅すぎだった)。連写は2コマ/秒から3コマ/秒になったが7枚が限界。あまり使わないが。

9)しかし電源オンからカメラ起動するまでやたらに時間がかかるのはなぜ?(計ったら6秒もかかった)。常時電源を入れておかねばシャッターチャンスを逃してしまう。

10)3型92万ドット液晶モニターははるかに高精細で見やすくなった(M9のオマケのような2.5型23万ドットのモニターが貧弱すぎたとも言える)。カバーガラスはコーニングのゴリラガラス(いかにも強うそう!)で強化。ライブビューを取り入れた以上当然の措置だが。

11)Leicaにとって画期となるライブビューの仕組みは、シャッター幕を上げて直接センサーにあてて観る、Nikonなどの一眼レフのライブビューと同じ仕掛け。ライブビューに切り替えるとシャッターが上がる音がする。

12)ライブビュー時の拡大表示(フォーカスズーム)は五倍、十倍と選べる。ピントリング回すと自動で拡大表示出来る設定(オート)があるのは素晴らしい。光学ファインダの欠点を補い、細かいピントを確認出来るようになった事は大進歩だ。これからはRレンズのうちの望遠系、マクロ系のレンズの活躍が期待出来る他、新Mレンズの登場が予感される。もちろん超広角系レンズも外付けファインダー不要となり、使い勝手がよくなる。

13)しかしピント合わせのフォーカスピーキングが機能しているのか?合焦部分に赤いフリンジが見えるとしているが、かすかに見え隠れする程度? 絞りによるのか、レンズによるのか、とにかく分かりにくい。ライカショップ銀座のサービスに電話で聞いたが、「はっきり見えるハズ」の一点張り。私の眼がおかしいのか?

14)ライブビューモードにすると、一枚撮影するたびに読み込みに時間がかかり、スナップ連写できない。シャッターにもややタイムラグがあるようだ。光学ファインダーでピントを合わせて撮影した方がサクサク行く。やはりライブビューは光学ファインダーの補完的扱い?

15)ファインダーのブライトフレームはLeica M9 Titaniumと同じLED方式になった(したがって採光窓が無い)。フレームは白と赤が選べるが見え方はどちらも良好。

16)ビデオ機能は、私は使わないのでホントは要らない。したがって少なくとも誤って押してしまう事が無い位置にボタンが配置されているコトはうれしい。

17)外付けEVFが使える。しかし、プラスチック製のオリンパス/Leica X2兼用のEVFは、Mには似合わないし邪魔になるので好きではない。使うとしても価格が半分以下のオリンパス製で充分。

18)M9のバグの多さには閉口したが、Mはどうか? 今のところ遭遇してないが...  特に私の購入したM9の初期ロットはバグや不具合が多くてファームウエアーアップデートで改良されたものもあるが、何度かサービスに出した。ライカ銀座店の対応はよかったが、価格が価格だけにかなりがっかりした。

19)リチウムイオンバッテリーは、ライブビュー等に対応するためかなり大型になったが、性能は改善されたようだ。少なくとも充電速度は速くなった。

20)SDカードの相性問題は解消されたのだろうか? 一応全てのSDに対応、と取り説には書いてある。SunDiskのExtreme Pro 32GB(SDHC UHS-1)を使っているが今のところ問題は起きていない。M9では、書き込み速度の遅い、容量の少ないローエンドのSDカードしか推奨リストになかった。

21)シャッター音が静かになった。AEロック、シャッターレリースとツーストロークでシャッターが落ちるので軽いタッチになった。これはいい。ライカらしいフィーリングだ。だからかM9にあったディレードモードは無くなった。シャッターはM用に全く新たな設計となったそうだ。

22)露出補正は前ボタン押しながら親指でダイアルを回して行う。前ボタンがフォーカスアシストと兼用になっていて、しかも押しにくいのでまだ慣れない。M9のようなシャッターボタン半押しで直接リングで補正とはいかない。

23)取り説が極めてアナログな文章で書かれており(かつ日本語版はドイツ語から翻訳してあるので)かったるくて分かりにくい。日本向けの欧米の製品によくあることだし、別にビックリはしないが。


2. デジタルカメラ「Leica M」はどこへ向うのか:

 私の印象では「デジタルカメラ」としての総合点は、40点からようやく70点になったと感じる。赤点は脱した。M8、9がとりあえずM6、7のフィルムの代わりにCCDセンサーを詰め込んだという感じで、デジタルカメラとしては非常に原始的で未完成、操作性、パフォーマンスに疑問があったのが、やっと普通になったという感じだ。しかし、依然デジタルカメラとしてはハイエンドとまでは言えず、価格が価格だけになんかスッキリしないクラムジーさが残る。Mレンズ群の感性を刺激する圧倒的な画質、諧調の豊かさ、作りの良さというプレミア性能がファンを魅了して来ているだけに、レンズ資産とデジタル化されたボディーのマッチングに苦労するライカの姿がそこにある。ライカジレンマだ。

 しかし,今回のリニューアルは、ライカとしてはかなりのレベルまで進化した。ライカもここまで来たら,今後は光学レンジファインダーカメラの特性(限界)から来る以下のようなカラを打ち破る時期に来ているのかもしれない。今後どのように挑戦するんだろうか?
・単焦点レンズ中心(広角レンズよりのラインアップ)でズームレンズなし。
・望遠に弱い(135mmがレンジファインダーの限界)。
・最短撮影距離70cm。マクロに弱い。
ついでに、
・AF対応なし。
・ボディー側手振れ補正機能なし。
・X100やX Pro-1のようなハイブリッドファインダーなし。
  ・ダストリダクション対策なし。
デジタル化はボディー設計のみならず、今後のレンズ設計にも大きな変革をもたらすはずだから、当然ライカ社は新レンズの開発を視野に入れているだろうと思う。確かに古いRレンズの優秀なマクロレンズや望遠系をアダプターを介して活用出来る事は嬉しいが、新しいMレンズのシリーズを期待する。

 デジタルカメラシステムとしての総合的な機能向上という点では、やはりニコン、キャノン、富士フィルムやソニーの背中はまだ遠い気がする。特にその価格に対するパフォーマンスには複雑な気持ちで接しなくてはならない。
 例:
 Sony RX1の35mm固定焦点レンズ付き:25万円
 Nikon D800Eボディーのみ:30万円
 Fujifilm X Pro-1ボディーのみ:12万円
 Leica Mボディーのみ:75万円
この価格差をどう見るか?もっともこのような比較をすること自体がナンセンスだという気持ちもどこかにあるが...

 それでもライカのデジタルカメラとしての完成度が大きく前進した事はうれしい。そのボディーで優れたライカMレンズ群とさらに7月のアダプター発売以降はRレンズ群が堪能出来ると言う事は素晴らしい。しかし,その分ライカらしさ(どのような?センチメンタルな?)が失われ、普通のカメラ(コモディティー化?)になったのかもしれない。それが古くからのライカファンにとっては不評なのだろう。でも、そもそもデジタル化した時点でライカはそのアナログ時代の独自世界から大きく一歩踏み出してしまったのだから,後へは戻れない。前進あるのみだ。

 ライカはもともと使い手におもねる事の無いシンプルなカメラ、使い手に慣れる事を求めるカメラだが、デジタルカメラ化する以上、「ライカはライカであるが故に尊い」「ライカブランドだから許される」という神話はもはや受け入れられないだろう。でないと「裸の王様」になってしまう。特に価格に見合ったデジタルカメラになる事が期待される。ライカはどこへ向うのか?ライカMの立ち位置がこれからの課題だろう。


3. 私が期待する今後のライカMの方向:

 まずデジタルカメラとしての機能、パフォーマンスをさらにブラッシュアップし、イノベーティブな機能を積極的に開発導入する。その競争に勝てる事がまず基本だろう。その上でヴィンテージ「ライカブランド」を彷彿とさせる、より感性を刺激する付加価値(職人技、金属度/剛性感、画造りの良さ、プレミアサービス等)で差異化する。

 さらに、道具としてのカメラのブラッシュアップが、光学的、機械的な工夫でパフォーマンスを上げるアナログカメラ的な設計手法に寄らず、いわば「ソフトウエアーディファインドカメラ」というデジタル化手法に依存することが避けられないならば、それに合わせたカメラコンセプトのパラダイムシフト、さらにはカメラ事業モデル変換が不可避だろう。

 今後カメラは、デジタル技術のさらなる進展により、益々商品ライフサイクルが短くなり、コモディティー化も進む。しかし,一方でそこに新たな付加価値を加える余地も広がっている。モバイル、WiFi、高速ブロードバンド回線を通じてネットにつながるデバイスとして、撮影後の処理、楽しみ(レタッチ、整理、SNSでの共有、スライドショー、アーカイブ等々)にユニークさを実現したり、こうしたフォトグラファーにとって表現方法の多様化が、プリントやフォトブックの制作、ギャラリーやワークショップといったリアルな活動と連動していったり、「モノとしてのカメラ」から「コトとしてのフォトグラフィー」の楽しみを提案してくれる事を期待したい。「よい道具を持って所作を楽しむ」、それがライカのブランド価値だ!それがユーザーにとっての付加価値であり、ライカ社の事業としての成長の道だと思う。

 すでに日本のいくつかのカメラメーカー、フィルムメーカーはそうしたパラダイムシフト、ビジネスモデルイノベーションを果たしつつあるので、ライカはそれを越える新しいパラダイムを提案してもらいたい。そうしたいわば「ライカエコシステム」を創造してくれるとファンとしては幸せなのだが。




(正面で目立つデザインの変更は、ファインダー内のブライトフレームがLED照明になったため、採光窓がなくなった事。そしてブライトフレーム切り替えレバーもなくなった。真ん中の赤いライカロゴは大きくなり、より目立つようになった。Mロゴの下のボタンは,フォーカスアシスト/露出補正用。)




(背面で目立つのは,なんと言っても大型化された液晶モニター。ほとんどボディーからはみ出している。ボタン類のレイアウトや機能割当が変わったが、操作性は悪くない。右上の親指レストは小さいが、ボディーのホールド性を充分高めている。左の一番上のLVボタンがライブビューボタン。)

 以下の作例は全てSummicron 50mm f.2で撮影。DNGで撮り、補正を加えずに現像でJPG化した。M9では「撮影後は付属のLightroomで調整してください」だったが、Mは撮って出しで、充分ライカらしい画がそのまま楽しめる。













2013年4月1日月曜日

今様「醍醐の花見」 ー 究極の関西桜花の旅 ー

 今年の桜は、開花が例年になく早い。寒くて長かった冬。3月に入って急に暖かくなり、たちまち開花宣言。4月に入る前に満開が続出だ。福岡や高知に始まり、首都圏は先週の3月22、23日が満開に。サクラ咲くのニュースに煽られて、週末、東京は慌ただしい花見ラッシュだったようだ。4月に入った今日にはもう散り始めている。恒例のお花見セールなどのイベントは、早すぎる満開に置いてきぼりに。

 関西はそれに比べると開花が遅れ(といっても例年よりは一週間は早いが)この週末30、31日に盛りを迎えた。まだ梅が咲いている時期の桜満開で、両方を一時に楽しめると言う贅沢な今年の春だ。この土、日は、京都の醍醐寺、円山公園、高台寺と廻り、さらに毎年訪れる大和路の大野寺の枝垂桜、花の寺長谷寺、そして大阪の桜宮、大川端の桜並木、造幣局と、関西の桜の名所を集中的に廻るという忙しさであった。桜を満喫したが,あんまり桜漬けで少々毒気に当てられた感じもする。過ぎたるはは及ばざるがごとし、か。

 大和の大野寺の枝垂桜はまだ満開とはいかないが、それでも滝のような流麗さににはいつも感動させられる。近鉄室生口大野駅前の桜並木はようやく開花したばかりだった。長谷寺は全山程よく開花。ここは桜だけでなく、ハクモクレンやサンシュユも大木に花をいっぱいに咲かせ、「花の御寺」の彩りを華やかにしている。舞台から見渡す初瀬の里はまさに春爛漫。一方、大阪大川端の桜もなかなか壮観。あちこちにブルーシートが敷かれ、花見の宴会で盛り上がっていて、これはこれで都会の季節感を感じる。

 さて醍醐寺の桜は初めてであった。やはり太閤さんの「醍醐の花見」で名高い寺だけに、壮観の一言。特に枝垂桜の古木の枝振り、スケールの大きさと数の多さにに圧倒された。ここの桜の種類は100種あるそうだが、比較的開花が早い枝垂桜の種類も豊富で色とりどりの「花の噴水」を楽しむことが出来る。この歴史に名高い「醍醐の花見」は、太閤さんが、慶長3年3月、1598年に我が子秀頼、北政所、淀殿など側室達,それに従う侍女達総勢1300名を呼んで、日頃の労をねぎらった「ご苦労さん会」エンターテインメント。女性は出入り自由。男子は招待客のみという花見だったようだ。いろいろな意味でお世話になっている女性陣への大サービス。史上最大の「女子会」ってわけだ。太閤さんはフェミニストだったにちがいない。いや、ただのスケベー親爺? しかし天下人ともなればスケベー親爺のスケールも「ただの」とは違う。この日のために近畿一円から桜の木を集めて植えさせたんだから。女性に限らず人たらしの術も充分に心得ていた秀吉ならではだ。しかし、この花見イベントの5ヶ月後には他界し、2年後の1600年には関ヶ原の戦いで徳川家康の天下となる。豊臣秀吉最後の大打ち上げ花火だった。

 現代の醍醐の花見は誰でも参加自由。京都の桜名所の一つになっている。皆でこの世の春を楽しもう。しかし、国宝の三宝院は庭園を含め全て写真撮影禁止。霊宝院館内からの枝垂桜の写真撮影も禁止。花見なのに境内での飲食も禁止。ベンチでおかし食べてたら注意されてる親子連れ。かわいそうに、別にお酒飲んで騒いでる訳でもないのに。チョット無粋じゃないか。まあ、こんなにいっぱいの花見客に世界遺産で国宝の寺の中で自由にさせたら収拾がつかないのかもしれないが、せっかくの花見なのだからこの日だけは無礼講に...「太閤ハンに免じてよろしおす」てワケにいかないものか。

 このように花見で浮かれたイメージが先に立つが、醍醐寺そのものは真言宗醍醐寺派の由緒ある寺院。御本尊は薬師如来。真言宗の神聖な道場なのだ。平安初期816年、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝の創建になるが、後世には応仁の乱や、幾多の戦乱で荒れ果て創建当時の建物は五重塔しか残らない状況にまでなっていた。豊臣秀吉の庇護のもとに再建され、秀吉自身も三宝院や金堂を寄進している。、我々が廻ったのは三宝院や霊宝院、金堂、五重塔がある下醍醐。さらに険しい山を越えると奥の院、薬師堂、清滝宮拝殿、開山堂などが建ち並ぶ上醍醐がある。かつては険しい修行の場であったところだ。花見目当ての俗世の垢にまみれた私にとって、今日は下醍醐で充分。神聖で荘厳な上醍醐は、またそのうちにお参りさせていただきます。

 醍醐寺の桜を堪能した後に、祇園から円山公園、高台寺の枝垂桜を見て回ったが、あまりにも醍醐寺の桜のインパクトが強くて、なんだかイマイチ感動しにくかった。残念な事である。巡る順番を考えるべきであったかもしれない。総じて京都の桜の季節は華やか。大勢の人がわれもわれもと京都に押し掛ける訳がわかる。一方、大和路の桜は、吉野や長谷寺のように平安貴族の憧れとなるような豪華さを持つところもあるが、元来静かで,気高く、自然とともにある。里を埋め尽くす桜、山肌に咲く山桜などまさに大和路の春の風景だ。もちろんどちらも良い。今年は満喫した。



 今年は梅と桜が同時に楽しめる。なんと贅沢な...


 


 霊宝館の枝垂桜。見事な枝振りで広がりが大きく写真に入り切らない。




       西門(仁王門)からの眺め。花の季節の賑わい。




       桜に浮かれる世俗をよそに、修行に励む若き僧達。ここは真言宗醍醐寺派の総本山だ。


スライドショーはここから⇨

(撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor 24-120mm)