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2016年5月26日木曜日

Leica Vario Elmarit SL Zoom 24-90mm f.2.8-4 ASPHという怪物 まさかの「故障者リスト」入り!



 時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : Leica Vario Elmarit SL Zoom 24-90mm f.2.8-4 ASPHとい...: レンズを着けるとボディーが小さく見える  ライカSLがリリースされてから3ヶ月が経過した。予約入荷待ち状態が解消されようやく市場にブツが流通し始めたようだ。もちろん話題の中心はこのコンクリートブロックのようなミラーレスのSLボディーなのだが、私にとってはレンズが注目だ...

と、大いなる期待を担って我が撮影機材戦列に加わったのだが、このライカ入魂のズーム、Vario ElmaritSL24-90 ASPH、購入からわずか半年でまさかの「故障者リスト」入り。高い投資となった。鳴り物入りで大リーグに移籍したBoston Red SoxのM坂みたいなもんだ。

 それは伊豆下田の黒船祭のパレード撮影中に起こった。突然ズームリングが35mmと50mmの間でロックされ、動かなくなってしまった。時々動き90mmまで回るが、なにかゴリゴリとした違和感を感じ、また動かなくなってしまう。やむなく撮影中止。持ってきたサブカメラ(ちなみにライカではない)でなんとか仕事をこなした。信じられない!これまでメインとして使い続けていたNikonSLRでは全く経験なし。他社のどんなエントリーレベルのズームでも、これまで経験のない故障だ。

 東京へ戻り、銀座のライカジャパンに持ち込む。サービス担当者もびっくりしていた。しかし、このSLの場合、日本での修理はできないのでドイツ送りだと。しかも3ヶ月はかかるとのこと!信じられない事態!仮にドイツに送るにしてもなんで3ヶ月もかかるのか。日独間はオーバーナイトパックで一晩で届くはずだ。これじゃ仕事にならん。代替機の用意もない。Nikonならここで、ちょっとお待ちください、と言って点検。簡単な修理ならその場でやってくれる。その場で直らないとしても一週間ほどで完了連絡が来る。

 毎度のことで、文句を書き出したらキリがなくて、そんなこと書き連ねていることで自己嫌悪感に苛まれる。だったらライカ止めたらどうだ、といつも思う。これまでもLeica M8, 9, Type240のソフトウェアーバグ(SDカードが読めない、画像番号が勝手にリセットされ、SDカードのフォーマットをやり直さねばならない!再生画像がモザイクになる等々)や、電源回路の不具合(スイッチオフにならない等)には悩まされてきたし、或る日突然M9のCCDセンサーが壊れてしまったこともある。これもドイツ送り。Type240も初期ロット製品にアイレットが抜ける恐れありとして、リコールがかかりこれもドイツ送り。大抵のことでは驚かなくなった。しかし、ようやく完成度の高いSLに出会い喜んでいたら、ズームレンズのリングが回らない、という機械的な故障。しかもその修理が日本国内で出来ないなんて。ドイツ製品の堅牢さ、信頼感が、こんな形で崩れ去るとは... とにかくライカ製品は「故障者リスト」入りしている時間が長すぎて仕事していない。これじゃあ高い契約金でリクルートしてきたのにコストパフォーマンスの悪さは言うまでもないだろう。

 やはり写真を生業とするプロはdependable and durable Nikonをメインにすべきだと反省する。こうしていつも比較するのは気の毒かもしれないが、Nikon はかなり過酷な使用にも耐える堅牢さを備えている。以前、山でレンズを岩にぶつけてズームリングが外れてしまった時(この時はお粗末な作りだと嘆いたものだが)も、ズームそのものはきちんと動いて仕事してくれた。事後に銀座のNikonサービスで点検してもらったが、光軸のズレやピントは全く問題なしだった。撮影の現場でカメラが機能しなくなって、撮影を中止せざるを得なくなったことは一度もない。どんな状況でもキチンとプロの要求に応える。これが仕事カメラだ。ライカもNやCのプロラインアップ、サービスサポートに対抗するなら是非頑張って欲しい。

 Leica SLは最新のファームウェアーアップで使い勝手は改善した(露出補正がダイレクトにできるようになったことや、ピント確認がジョイスティック一押しでできるようななったこと等)が、今回のことで、アフターケアーを含め仕事カメラとしては信頼感に課題を残すことを証明してしまった。少なくともリスキーな機材という印象を植え付けてしまった。やはり趣味カメラなのだろう。趣味でも、撮影途中で度々中断されると、それだけで撮影意欲を大きく削がれてしまう。それでもライカに拘るのはライカ病患者だからだ。少なくとも、新製品の初期ロットにはバグや不具合が取れないまま出荷された個体があることを知っている必要がある。

 さて3ヶ月後、夏の盛りを過ぎて秋風が吹き始める頃、ドイツから戻ってくるであろう君を待つとしよう。しかし、君の先発投手ポジションがそれまで空いているかは保証の限りではないが。この世界もスピードが命、競争が厳しいのだから。

 ちなみにライカジャパンのスタッフは、性能やサービスに敏感でディマンディングな日本の顧客と、ドイツ流の合理主義(よく言えば職人気質)との間で、板挟みに合い苦労しているのだろう。妙に自信たっぷりなLica社のProduct Out姿勢が、User Orientedを求める日本の顧客(神様)に受け入れられるのか。サービススタッフもおそらくは日本の他社メーカー出身の転職組みが多いのだろうから、こんな基本的な不具合や、サービス対応プロトコルの融通のなさには、フラストレーションを感じているのだろう。顧客から面と向かって文句言われるのは彼らだから。ライカだから許せ、とはいかない。

 かつてアメリカの会社を買収し、米国で事業展開に苦労した経験に照らすと、日本流の顧客志向、サービス品質管理を徹底させるのがいかに高いハードルであるかを身にしみているつもりだ。日系企業顧客から求められるSLA(Service Level Agreement)は米国のスタンダードなSLAよりはるかに厳しい要求条件を満たさなければならない。現地スタッフはこれじゃコスト的にやってられない、と最初は嘆いていたが、それが信頼関係維持(複数年度契約へつながる)のためのコストであること、さらにその信頼感で顧客を増やすことにより一顧客あたりコストが下がることをやがてわかるようになった。ドイツ本社の経営思想、サービス方針に従うことを期待されている日本法人では立場が逆かもしれない。しかし、日本流、米国流、ドイツ流という世界に冠たる三つの経営流儀のハイブリッドを目指して、ギャップを乗り越え新しい「グローバルスタンダード」を作り出して行く時代なのだから、日本の顧客の要求をしっかりドイツ本国に伝えてほしい。ライカ本社の社長はソニーの役員出身者だと聞く。素晴らしい描写性能の(とても高価な)ズームレンズを所有していながら使えない悔しさを知って欲しいものだ。

(2016年7月16日 記述)
 本日ライカショップ銀座より修理完了、ドイツから戻ってきたとの電話連絡あり。当初8月24日の引渡し予定と説明されていたが、想定より1ヶ月ほど早かった。修理票には特に動作不良の原因の説明は記されていない。ズーム機構の修理/調整をした、との短い説明のみ。銀座店のサービススタッフに聞いてもわからないという。なんかプロフェッショナルじゃないな。「また何かありましたらいつでもご連絡ください」と丁寧なスタッフ。「二度とこんなことがありませんように」と心の中で念じつつショップを出る。早速銀座で試写してみたが、特に不具合は無くなっていた。当然だろうが... しかしあの不具合の原因がわからないとなんとなく心もとない。

2016年5月22日日曜日

伊豆下田 ペリーロードはアジサイの季節

保育園の子供達が歩くペリーロードはアジサイの季節を迎える


 伊豆下田では恒例の黒船祭が開催された。今年は第77回、例年より少し遅い20〜22日の開催となった。国際色豊かなパレード、コンサート、踊りや、祭で町中が賑わっている。公式パレードはペリー提督上陸ポイントを出発するが、この静かで情緒あふれるペリーロードを迂回して、賑わう商店街の方向へと進んで行く。したがって祭りの最中もこの辺りは比較的落ち着いた雰囲気を保っている。ペリーロードの背後にある下田公園の山はアジサイが満開になると見事だが、これはもう少し先の6月に入ってから。しかし、色付き始めたまだ若い楚々としたアジサイはこの古い街並みに似合う。もっとも下田が下田らしい季節だと思う。

 このペリーロード、もちろん昔からそう呼ばれていたわけではない。1854年ペリー提督率いる米国海軍東インド艦隊が下田條約を締結するために寄港。上陸地点の下田湾頭(現在はペリーポイントとして記念碑が建つ)から、調印式の行われた了仙寺まで隊列を組んで行進した800メートルほどの道で、ペリー提督にちなんでそのように呼ばれている訳だ。当時のIllustrated London Newsや、ペリーの「日本遠征記」に挿入されているハイネの画を見ると、いまの了仙寺やペリーロード界隈の町の佇まいがほとんど違っていないのに驚く。時空の扉に閉じ込められた地区だ。明治になってこの川沿いの街は花街として栄えた。今でも残る江戸末期から大正期に建てられた伊豆石や海鼠塀の遊郭、置屋、商家、蔵などの建物が、今はカフェやギャラリー、レストランなどになっている。川にかかる石橋、川沿いのガス灯、柳、アジサイと共に独特の情緒ある町並みを形成している。下田の観光スポットではあるが、小さな通りなのであまり観光地ズレせずに済んでいるのが不思議なくらいだ。多層な歴史を積み重ねたこうした地区を残してゆかねばと思う。

ペリー提督に同行した画家ハイネの描いた了仙寺界隈
今のペリーロードあたりの風景

以前のブログ:
最初の開港場 伊豆下田 〜ペリー提督が歩いた街





大正期に建てられた古民家はカフェになっている。
風通しのためちょうど窓を開け放った時、花瓶の花が輝いた








下田公園から市街地を下田富士を望む。
本格的アジサイの季節はこれから



2016年5月18日水曜日

六義園散策 〜江戸の大名庭園を巡る〜




六義園
ツツジの頃が美しい


 駒込の六義園は小石川後楽園とともに、東京を代表する大名庭園である。我が家が、かつて小石川植物園の近くにあった時には、両親や子供を連れて遊びに来たものだ。その小石川植物園も、現在は東京大学の付属植物園になっているが、元は徳川将軍家の白山御殿、後に小石川御薬園、養生所(赤ひげで有名な)であった。もちろんご近所の東京大学本郷キャンパスはもと加賀藩邸跡。この辺りは江戸の大名文化の名残があちこちに見て取れる。

 六義園は、元禄年間、第五代将軍綱吉の側用人柳沢吉保が造営した柳沢家下屋敷である。彼は綱吉の信任厚い時代の寵児であり、幕府内で絶大な権勢を振るった。あの浅野内匠頭刃傷事件・赤穂義士事件の時に、無慈悲な裁定をした悪役として名前が出てくるが、時のいわば政権トップであった。この事件の裁定は、幕府側から見れば難しい判断であったであろう。吉保は英明で、教養もあり、とくに漢詩、和歌の素養があった。「六義」の名称も漢詩、和歌からきている。1695年(元禄8年)綱吉から拝領された2.7万坪という広大なこの土地に、自ら設計し7年かけて回遊式築山泉水庭園を築いた。その後は幕末まで柳沢家が所有。江戸の大火や地震にも耐え、ほぼ原形のまま存続した。明治になって荒廃した六義園を岩崎弥太郎が購入。庭園を整備し現在のようにレンガ壁で囲んだ。以後、関東大震災にも東京大空襲にも被害を受けることなく現在に至っている。1938年(昭和13年)東京市に寄贈された。このように創生より300年余りに渡り、ほぼ原型が維持され、今、往時の姿を目の当たりにすることができる訳だ。

 この他にも岩崎家が所有し東京市・東京都に寄贈された庭園がある。清澄庭園(元禄年間は紀伊国屋文左衛門邸宅、その後下総関宿藩下屋敷)がそうだ。また上野の岩崎家邸宅も2001年に東京都へ移管された。高輪の三菱開東閣は今も非公開だ。明治の頃に荒廃した大名屋敷や庭園を買い取り、後世に残したのはこうした新興財閥であった。そのほかにも、都内には、先述の小石川後楽園(水戸徳川家)、浜離宮庭園(甲府藩下屋敷、将軍家浜御殿)、芝離宮庭園(老中大久保家、紀伊徳川家など)、などの江戸の名残を示す大名庭園が多い。江戸時代、江戸御府内の50%はこうした大名屋敷と大名庭園で占められていたという。このことが、後に明治の近代化に向けて、官庁や大学、政財界有力者の屋敷、外国人向け宿泊施設(ホテル)、企業用の敷地の確保を可能とし、首都としての基盤整備、発展を可能ならしめた。さらに一部は、上述のように公園としても整備・公開され、東京都心に貴重な緑地と文化財とリフレッシュ空間を提供することとなった。このように幕藩体制下の江戸の「大名屋敷」というリザーブされたスペースが、近代日本の首都、さらにはボーダレス化する経済活動の拠点としてのインフラとなったわけだ。明治新政府の中で、新首都候補論争があった。京都に留まる案、大阪に移す案... しかしきっと、京都や大阪では、近代化日本の首都としての発展に備えたスペースの確保は無理だっただろう。東京奠都を進言した大久保利通の先見の明に感謝すべきか。



















2016年5月17日火曜日

旧古河庭園にバラを愛でる



 五月の薫風、爽やかな晴天のもと、旧古河庭園にバラを愛でる。休日にもかかわらず幸い思ったほどの人出もなく、比較的ゆっくりと庭園散策を楽しむことができた。東京にはこうした庭園が多い。江戸時代から続く大名庭園だけでなく、明治以降、維新の元勲、旧大名家、財界の長老、文化人などの邸宅が都民の公園として開放されている。さすが近代日本の首都、東京だ。

 その一つ、ここ旧古河庭園は、明治の元勲、陸奥宗光の邸宅があったところである。その後陸奥の息子が古河家の養子に入ってことから、古河家の邸宅になった。1917年(大正6年)に古河虎之助が洋館と庭園を築造し、現在の姿となった。武蔵野台地の傾斜を利用して、最頂部の本館から、イタリア式/フランス式の美しいバラ園を斜面に配し、底部に日本庭園を展開するという変化に富んだ景観を生み出す構造となっている。日本庭園は、山県有朋の無鄰庵や南禅寺別荘群の庭園などを手がけた京都の名作庭師、小川治兵衛(植治)の作。建物/洋式庭園はジョサイア/コンドルの最晩年の設計で、本館はレンガ造りの躯体に黒い新小松石を貼ったルネッサンス洋式の建物だ。なんと豪勢な東西の巨匠のコラボではないか。今となってはこのような文化財として残るような邸宅、庭園を作る有力者もいなくなった。終戦後はGHQの接収されたが、返還され国有財産となった。東京都に貸し出され、都民公園として整備された。

 東京には明治から戦前にかけて、立派なお屋敷街があった。立派な塀に囲まれ、鬱蒼とした樹木に覆われた閑静な邸宅が、東京という街の時代の繁栄を象徴していた。しかし、一億総中流、いや最近は中流と下流に二分化して、資産家が少なくなり、さらに資産家もお屋敷を維持できなくなった時代だ。今では東京へ出てきて出世して、大会社の社長になったと言っても、サラリーマン社長の場合は富豪と言えるほどの資産を持っているわけではなく、子々孫々に財産を残せる人はそれほどいない。仮に不動産を残しても、低成長時代、ゆとり世代の息子や娘は、それほどの所得を得ていないので相続税を払うことすらできない。我が家の周辺の住宅地も、かつてのお屋敷が、代替わりで空き家となり、やがて相続税対策で売却され、立派な洋館や日本家屋が惜しげもなく取り壊されて更地になっている。その後には、大きな敷地だとマンションが、ちょっと狭い敷地だと、一階はほぼ駐車スペースというプレハブ住宅が10軒くらいギチギチに建つ。いずれにせよチマチマしたマイホームを建てるのが精一杯という時代は、良い時代なのかどうなんだろう。100年後のこの街の景観を想像することができない。建物や住宅という「不動産」はもはや「不動産」ではなく、単なる「耐久消費財」になってしまい、建てては壊すを繰り返さないと経済が回らないようになってしまった。経済合理性と効率が優先する社会にあっては、住宅メーカーにしてみれば100年も保たれては困るのだろう。京都の南禅寺界隈の別荘群にしても、これらを文化財として維持、保存して行くにはそれなりの費用がかかる。文化財としての価値をよく理解し、このような永続的な負担に耐えうる「資産家」は海外に求めなければならなくなってきているのかもしれない。

 せっかくコンドル設計のルネッサンス様式の邸宅や、見事に手入れされたバラが咲き誇る庭園を散策してきたのに、そんなことばかり考えてしまうのはサラリーマンの性なのだろう。もとよりマンション住まいの自分自身がこのような豪邸に住めるとは思わないが、かといって豪邸を所有する人々を僻んで、それが取り壊されてチープな景観の街になっていくのを喜ぶ気にもなれない。「文化財守れる人が文化人」。守る気はあるが金がない。情けない。しかし、豊かさとは、懐の金の多寡で決まるものではなく、心の余裕で決まるものらしい。隣人愛や知性や豊かな教養があれば、自ずと人には品格が備わる。それが心の余裕につながってゆくものだ。街の豊かな風格もいかにお金をかけたかではなく、いかに品格の歴史が蓄積されたかで決まるのだと思う。そのような人々が心豊かに住まう街、それが英国の田舎で学んだライフスタイルなのだが... 往年の経済大国「英国」に、かつての経済大国「日本」が学ぶべきはこういうコトだと思う。





























2016年5月9日月曜日

結局「邪馬台国」はどこにあったのか? 〜倭国「天下統一」事業の実相〜(続編)

伊都国平原遺跡
王墓




時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 結局「邪馬台国」はどこにあったのか? 〜倭国「天下統一」事業の実相〜: 広大な筑紫平野と筑後川、有明海の恵み ここが邪馬台国のホームグラウンド、チクシ倭国連合の中心であった。 プロローグ:  邪馬台国論争、すなわち「邪馬台国はどこにあったのか?」という論争。それは近畿にあったのか、あるいは北部九州にあったのか。他にも様々な場所が候補地...


 前回のブログで、邪馬台国は北部九州にあった。倭国の乱で敗者となり、チクシ連合王国(邪馬台国連合)から離脱した勢力(主に奴国)が東遷し、様々な地域勢力と合従連衡し奈良盆地に打ち立てたのが「ヤマト王権」である、と考察した。したがって北部九州の邪馬台国(卑弥呼・トヨ)と近畿に発生したヤマト王権とは王統・系譜が繋がっていないことになる。そもそも3世紀の日本列島には各地(主として西日本)に出雲や吉備、但馬、越のような地域王権・地域連合があり、チクシ連合(邪馬台国連合)も、ヤマト連合もその一つであった。そのような一種の「群雄割拠状態」から抜け出したヤマト連合が第一ステージの列島規模での「天下統一」を果たした(これが初期ヤマト王権)、と考察した。このように考えると「点と線」がつながる。すなわち中国側の史書に記述された限られた情報、しかもその時々の中華王朝の核心的課題である中原における覇権と政治情勢・地政学的視点。「遠交近攻」という外交戦略にもとずく東夷としての倭国の記述と、日本側の記紀(7世紀後半から8世紀前半に編纂された)の、まさに「大宝維新」の歴史的意義(律令国家整備、天皇制の宣言、公地公民制等、そして「日本」国号宣言)を内外に高らかに指し示す政治的文書としての記述との、齟齬、矛盾、空白を埋めることができる。

しかしこれはまだ仮説に過ぎない。この仮説が証明されるためには、さらに以下のような関連する疑問に答えなければならない。


①「初期ヤマト王権」はどのように畿内に成立したのか?どのように統治の権威・権力を手にし倭国統一(チクシを含む)ができたのか?纒向遺跡は農村集落ではなく「都市」的な性格を持っているという(倭国各地の土器が出土)が、大陸・半島との交流の証拠(親魏倭王印、後漢鏡・魏鏡など)は出てきているか?(3世紀末から「空白の4世紀」の実相)

②そのヤマト王権はなぜ奈良盆地に興ったのか?土着の弥生的なムラ・国の発展型(例えば唐古鍵遺跡?しかし古墳時代には消滅している)なのか?あるいは「無主の地」(あるいはそれに近い)に移り住んだ勢力が「都市」を建設したのか?筑紫、出雲や吉備との関係は?

③後漢の光武帝に金印をもらった「委奴国王」はどこへ行ったのか?(金印を埋めてどこへ行った?なぜ志賀島で見つかったのか)その墓はどこにあるのか?志賀島を本願地とする古代海人族安曇族との関係は?なぜ彼らは全国へ散っていったのか?

④光武帝から50年後に後漢の安帝に遣使した「倭面土国王帥升等」とは誰か?伊都国王?彼はどうなったのか?その墓はどこにあるのか?

⑤「倭国大乱」の原因は?その範囲は?敗者は誰?(奴国、伊都国?)敗者はどうなった?

⑥弥生的な稲作農耕集落(祭祀でまとまる)から戦闘的な武力集団(武力でまとまる)への移行過程の実態は?

⑦卑弥呼の二面性(「祭祀を行う呪術師」という「未開」の側面。「海外情勢に明るく外交手腕に長けた指導者」という「開明的」側面)をどう解釈するか?

⑧倭国における中華帝国への朝貢・冊封体制受容の変遷。ヤマトの外交戦略ともう一つの天帝・日本型華夷思想はどのように始まったのか。

⑨邪馬台国が北部九州にあったとすればその遺構(卑弥呼の居館、墓)はどこにあるのか?筑紫平野にまだ見つかっていない。八女丘陵や女山(ぞやま)山麓の遺構調査、初期古墳の調査はどこまで進んでいるか。

⑩朝鮮半島南部伽耶の鉄資源を巡る倭国内勢力(チクシ、出雲、ヤマトなど)と朝鮮半島内勢力(三国)の攻防、合従連衡の構図と実態は?


後漢書東夷伝・魏志倭人伝における倭に関する記事を時系列で振り返ってみよう:

57年:委奴国王の後漢(光武帝23〜57年)への遣使・朝貢・冊封(「漢委奴国王」の金印授受。のちにその金印が志賀島で発掘され史実であることを証明)

107年:倭面土国王 帥升等の後漢への遣使(安帝106年〜125年。面土国とは?伊都国?冊封されたか不明)

146〜189年?:倭国大乱:戦乱・王不在が7〜80年続いたとされる(後漢の混乱期、桓帝・霊帝のころ。委奴国王の遣使から100年余り、倭面土国王の遣使から40年余り後)。王の不在は110年ころからか。107年の倭面土国王の後漢への遣使直後からと考えられる(倭面土国王はどうなった)。

190年?:邪馬台国女王卑弥呼共立・大乱の収束。

238年:卑弥呼の魏への遣使(帯方郡を通じて。「親魏倭王」)

247年:狗奴国との戦争、魏の張政派遣、げき文で告諭。

249年:狗奴国との戦争中に卑弥呼死去。再び戦乱に。宗女壹輿が女王に。戦乱収まる

266年?:壹與が魏・晋へ遣使:

この後150年にわたって中国の史書に倭国に記述がなくなる。413年の晋書の「倭の五王」の記述まで。


中国漢王朝の興亡を振り返ってみよう:

前漢:紀元前206〜紀元8年

王莽の新:15年間

後漢(光武帝による再興):23年〜220年
しかし、光武帝没後は国情安定せず。
安帝(106〜125年)

黄巾の乱:184年

その後、魏・呉・蜀の三国時代へ(後漢は名目上は220年まで続く)

魏から晋へ。


当時の東アジア情勢の変化、すなわち中華秩序と倭国の変遷:

光武帝の時代はこぞって周辺国が後漢に朝貢(匈奴、大月氏国、高句麗、倭国など)、しかし、光武帝が没すると冊封体制に組み込まれていた高句麗は離反。漢の半島植民地、帯方郡、楽浪郡も公孫氏一族の支配に。北方の匈奴や西域の大月氏国などの離反。その時倭国は?光武帝に冊封された奴国王はどうなった?倭面土国王帥升等は後漢の安帝に冊封されたのか?倭国内で統治権威を維持できたのか?おそらく混乱が起きたのだろう。

史書によると、倭国における指導権は、委奴国王→倭面土国王帥升等→倭国大乱・王無し→卑弥呼へと移っていったことになる。これは後漢王朝の衰亡の動きに連動している。

強大な漢帝国の滅亡、混乱により、華夷思想に基ずく朝貢・冊封体制が不安定になった可能性がある。それが周辺国や倭国の統治権威、秩序に大きな影響を与えただろう。その後の倭国の権力闘争、支配構造に大きな変化を与えた。

特に朝貢・冊封により倭国の支配権威を担保してきたチクシ倭国連合(初期の奴国王、中期の倭面土国王、後期の卑弥呼・邪馬台国連合)には大きなインパクト(倭国統治の権威喪失)。

「空白の4世紀」には、チクシ倭国からヤマト倭国への勢力バランスの転換が起こった時期であろう。中華王朝への朝貢・冊封による統治権威、「祭祀」「呪術」でまとまっていた弥生農耕集落的、邪馬台国的秩序が影を潜め、倭国の武断的性格が表れはじめている。4世紀後期には朝鮮三国の騒乱に伴い百済に要請されて朝鮮への出兵まで行った(好太王碑文)。前回も述べたように、当時の列島は地域王権や地域国連合があちこちに存在していて、一種の「群雄割拠」状態にあっただろう。邪馬台国連合(チクシ倭国)もヤマト連合もそれらの地域王権の一つだった。それが中国王朝(朝貢冊封体制)の不安定化、朝鮮半島情勢緊張による軍事進出、倭国内の経済力の分散化(地域王権の伸張)などにより、列島の中心が徐々に北部九州から近畿奈良盆地へと移っていったのであろう。

チクシ倭国とヤマト連倭国には次のような性格の変移が見られる。

邪馬台国連合(チクシ倭国連合):
弥生的な農耕村落(高地性集落・環濠集落)を中心とした国。祭祀を執り行う巫女(呪術師)が首長たちに共立され統治権威。統治は男王が行うとい媛彦制・祭政二元政治。政治的には中華王朝への朝貢/冊封体制に入ることで統治権威の源泉とする。大陸に近い地理的優位性を持った地域。

初期ヤマト王権(ヤマト倭国連合):
農耕集落(環濠集落)から離れた人工的な「王都」を有する国。武力を保有する男王が統治権威であり統治権力も保有。首長(王)のなかから王のなかの王、すなわち大王(おおきみ)が生まれていった。中華王朝への朝貢/冊封体制が徐々に崩壊。倭国内の地域王権のなかで優越的地位を確立していった?列島内の経済・流通の拠点たる地理的優勢を持った地域。農耕だけではなく武力としての鉄製武器の重要性が増し、鉄資源の確保が喫緊の課題に。

ほぼ国内をまとめた(?)初期ヤマト王権は(おそらく鉄資源を有する伽耶地域の支配を巡って)朝鮮半島への進出を始め(高句麗の好太王碑文391年以降のストーリーを記す)、5世紀初頭413年になって中華皇帝への遣使を再開した(倭国内の統治の権威を保証してもらうというよりは、朝鮮半島における支配権・権益を認めさせるために)(倭の五王の朝貢:晋書/宋書)。列島内の統一(まだ完成はしてなかったにしろ)とは別に、朝鮮半島における権益(特に鉄資源)確保が倭国の「核心的利益」になっていたようだ。例えば高句麗王よりも高い軍号・爵号を求めた(「安東将軍」ではなく「安東将軍」)。しかし、要求が十分に認められなかったことから、再び遣使を止める。

このころ朝鮮半島では高句麗、新羅、百済が中華王朝の混乱、隋の統一、唐の成立などの情勢変化により相互に合従連衡の駆け引きを繰り返していた。鉄産地である伽耶・任那をめぐる攻防。新羅による伽耶・任那併合。高句麗の新羅圧迫。一方、朝鮮半島三国はそれぞれに倭国との連携を模索。新羅と対立していた百済は倭国との同盟関係を。新羅も高句麗との争いが始まると倭国との連携を模索。

5世紀の倭国は獲加多支鹵大王(雄略大王・倭王武)の地方支配を示す考古学的資料が発見された、埼玉稲荷山古墳出土の金石文鉄剣。熊本江田船山古墳出土の鉄剣金石文などの記述から、ヤマト王権の地方支配を示す(地域の王がヤマト王権よりいわば冊封され(?)官位を受ける)。倭の五王(武)に関する記述(ソデイ甲冑を貫き山河を跋渉して寧所にいとまあらず)の裏付け。倭国内におけるヤマト王権の支配的優位性、地域王権、地域首長との日本型「冊封体制」の始まり?「治天下大王」という言葉を使い始めた。すなわち「天下統一」を果たした大王(おおきみ)であり、「天下」すなわち宇宙に、中国皇帝の他にもう一人の天帝が存在していることを主張し始める。やがてヤマト型の前方後円墳の全国への広がりが、ヤマト王権の全国支配をシンボライズする。

このように華夷思想、朝貢・冊封体制により成り立っていた東アジア的世界秩序に対し、ヤマト王権の倭国支配体制の進展に伴い、中華王朝、朝鮮半島諸国との関係は倭国独自のものに変化して行くことになる。すなわち、中華帝国への朝貢冊封体制とういう世界秩序が重視される時代にあって(地理的にも)優位に立っていた北部九州のチクシ倭国から、倭国列島内の地理的中心としての位置を占めるヤマト倭国が(中華王朝の権威から距離を置いた)「天下統一」の主導勢力となっていった。そうした政治的権威権力の源泉としての経済下部構造は、列島における稲作生産手段の専有(土地、人民、鉄資源。やがては公地公民制へ)と生産力の増大、それによる生産物の流通の支配であった。特に生産力増強に必要な鉄資源(これはのちに武力の資源としても重要に)の確保に当たってもなんらかの形でチクシを凌駕することになった



ところで話題を中国との交流の話にシフトしてみよう。

600年遣隋使派遣。しかし国家体制も整備できていない蛮夷の輩「倭」とみなされ失敗。「八くさの姓」や「十七条憲法」などの官僚制、法治国家体制整備を行い(聖徳太子によってなされたと日本書紀では記述)、再度遣隋使小野妹子派遣。「日の出ずる国の天子...」という国書。煬帝は「無礼」と怒るが隋の使者裴世清が倭国に。以降、隋滅亡(619年?)後、遣唐使へ(倭国側では朝貢使節というよりは留学生や学問僧等による文化使節と考えた。唐側では朝貢使として遇したが、管爵は授けなかった?)。

700年頃には天武・持統帝による「大宝維新」。ついに天皇制宣言(中華皇帝に対抗するもう一人の天帝を宣言)。律令国家体制整備、皇祖神を頂点とする(各地豪族の)神々の体系化、公地公民制による豪族支配基盤の破壊、朝廷官僚化へ(明治維新時の版籍奉還、大名の華族化はこのコピー)。日本建国宣言(再び遣唐使中止)。その記録としての日本書紀、古事記編纂。
奈良時代8世紀に遣唐使再開も、平安時代9世紀には唐の衰亡を見て、菅原道真の建議により遣唐使廃止。

倭国、日本の外交は、統治権威の担保(文化的、技術的、戦力的優位性の担保)を目的とした中国皇帝への朝貢。冊封を巡って揺れ動いた歴史。また鉄資源の確保のために常に朝鮮半島における支配権・権益を巡り朝鮮三国との争い・同盟。その上位者である中国王朝へのアプローチ。そして徐々にその中国皇帝への朝貢・冊封体制から離脱していった歴史。そして「治天下大王」「天皇」というもう一つの中華世界を打ち出す。先端文化や最新の技術・知見の吸収には努めたが、統治権威の承認は求めなくなっていった。







別掲:

明治維新(王政復古)と辛亥革命(共和制移行。清朝の最期):
日本は明治維新で、欧米流の近代化の一方、「王政復古」(restoration)すなわち古代の天皇中心の国家体制(国体)を復活させた。
一方で、華夷思想による朝貢・冊封体制を3000年にわたって維持してきた中国は、辛亥革命により「天帝による支配」が終わりを告げ共和制に移行した。清朝愛新覚羅溥儀が最後の皇帝(The Last Empelor)となった。

皮肉にも明治期に小宇宙大日本帝國「天皇制復活」vs.大宇宙中華帝國「皇帝制廃止(共和制移行)」、という形で逆転することとなる

2016年5月7日土曜日

新緑の北鎌倉を歩く

 新緑の季節、「そうだ鎌倉 行こう」。しかし連休中の鎌倉なんて一番人出でごった返すので、できれば避けたいところだ。いつも「鎌倉イコール混雑」という先入観が頭をよぎる。しかし、奈良や京都へ出かけるならともかく、首都圏でやはりこの季節、新緑の美しさと歴史の風情を味わおうとするとここしかない。何しろ一時間ほどの満員電車を我慢すれば到着するのだから。今回は北鎌倉の円覚寺、東慶寺、浄智寺、明月院を巡り圧倒的な新緑の海にどっぷり浸ってきた。

 鎌倉は「古都」であると言われるが果たしてそうなのか?確かに歴史の香りを纏った町である。ベッドタウン化して街の様相も首都圏郊外の典型的なそれになってはいるが、やはり山々の谷あいに佇む古刹は美しい。だがまさか鎌倉を「神奈川の小京都」なあんて呼ぶ人はいないだろうが、でも皆なんとなく「古都」だと思っている。鎌倉が日本の「みやこ」であった事はない。何がこの狭隘な山と谷に囲まれた相模湾に面した土地を、日本の歴史の一時期、表舞台に引っ張り出したのか?

 鎌倉が輝いた時代は意外に短い。400年続いた平安時代の藤原氏一族を中心とした貴族による摂関政治から武家政治へ、と大きな時代のパラダイムシフトがあった。もともと朝廷や貴族の藩屏(警護団)であった武士が政権を乗っ取ることになる。武家の棟梁、平清盛が初めて、京の都で武家政権(いわば軍事政権)を始め、その平氏を滅ぼしたもう一方の武家の棟梁、源頼朝が1192年に、都から遠く離れた東国、鎌倉に幕府を開いた。1333年の新田義貞の鎌倉攻めで幕府が滅びるまでの140年ほどの歴史である。源頼朝直系の将軍位の歴史はもっと短い。1192年に朝廷から征夷大将軍に任じられた頼朝から数えて、その子頼家が二代。三代が実朝。頼家は修禅寺に幽閉ののち殺され、実朝は暗殺され(あの鶴岡八幡宮の階段のところで)、源氏直系の征夷大将軍の血統はたった3代、27年で途絶える。その後のここ鎌倉における武家政権の歴史のほとんどは地元の武士団、頼朝の妻、北条政子の実家、北条氏得宗家の歴史だ。

 北条氏の素性はよくわかっていない。桓武平氏の直系だと自称していたが、もとは伊豆田方郡あたりの小豪族であったようだ。考えてみると頼朝は平治の乱で敗れた源義朝の嫡男。ミヤコから血筋の良い源氏の御曹司が流刑者として伊豆にやってきた。それを預かったのは平氏の血統を謳う北条氏。なんの因果か男女の仲。北条時政の娘政子が頼朝と結婚して、坂東武者一家の運命が変わった。事態は反転し、朝廷の平家討伐の院宣で挙兵した頼朝は平家を滅亡させ、流刑者は征夷大将軍に。北条時政は想定外の出来事に戸惑ったことだろう。しかし時政は、こうなったら実権を我が手に、との野望を抱き始め、源氏嫡流将軍を3代で葬り去る。そして北条政子が尼将軍として幕府の実権を振るうことになる。その後は北条氏が鎌倉幕府の執権、得宗家として鎌倉時代の主役となるというわけだ。天さかる鄙の坂東武者にとっては千載一遇の好機、というか、降りかかった災難というか、天下に押し出され権力闘争の渦に巻き込まれてゆく。そして最後は北条氏滅亡となる。なんというドラマチックな一族だ。

 頼朝は鎌倉の地に幕府を開いたが、ここはそもそも源氏ゆかりの地ではない。いわば女房の実家ゆかりの地に幕府を開いたみたいなものだ。例えて言うと、本社から左遷され、そこで出会って結婚した嫁の故郷で、実家の義父の力を借りて起業し、元の会社をmanagement buy-outしたようなものだ。その本人があっけなく世を去り、二代目、三代目が凡庸であったため、嫁の実家の番頭が社長代理をズット勤めた、と。

 同じ武家政権でも西日本に広大な経済基盤を有し、海外との交易をも牛耳っていた平氏の世界観と比べ、あまりにもローカルな地元の武士団のロジックが横行しているように見える。日本の歴史の流れの中で、初めてミヤコから遠い辺境の地、坂東(関東)に時代のハイライトが当たった。極めて国内志向の強い政権闘争/統治理念で、清盛に代表される日本のグローバル戦略が大きく後退した時代だ。一例を挙げると、北条時宗の「元寇」への対応にしても、清盛がもし生きていたらフビライの使者を切り捨てたりはせず、高麗や元との交易を始めていたかもしれない。だとすると日本のその後の歴史は大きく変わっていただろう。鎌倉時代とは、支配層が貴族から武士に移っていった時代であるとともに、近畿のミヤコに対して関東がもう一つの中心となった(日本独特の二元統治体制)時代の始まりである。しかしその嚆矢となった画期的な「鎌倉幕府」という試みはあっけなく終わった。再び関東が脚光をあびるのは徳川家康が江戸に幕府を開く270年ほど後の事だ。

 海べりの狭い土地、三方を山に囲まれ、狭い切り通しを介して外界と繋がる土地。防衛を基本とし、国内の物流や情報流のハブにも、海外との通交拠点にもなれない鎌倉。ミヤコの源平藤橘のような血筋ではなく、坂東武者達のローカルなロジックで政治闘争が繰り広げられた時代であった。もとより日本のミヤコ(首都)にはなれなかった。そんな鎌倉も、武家文化の誕生・揺籃の地として臨済禅など鎌倉五山や日蓮宗のような新興仏教を生み出し、運慶・快慶などの仏師が全国で活躍する時代の画期をもたらした土地であった。武家文化が日本文化の底流をなす大きな流れとなるには、その後の歴史を待たねばならなかったが、1867年の徳川将軍の大政奉還・王政復古までのおよそ700年に渡る武家政権の最初の「ミヤコ」であった。

 今や鎌倉は、週末ごとに人がわんさと押しかける(安近短型)混雑観光地の代表格だ。3000万人という人口を抱える首都圏にあって、関西のように、古の文化の香りに飢えた人々を十分に収容するスペースもコンテンツも足りない。例えば江ノ電や横須賀線や道路を見るがいい。何時も人で溢れかえっている。もともと、先述のように、この街は大量のモノやヒトの流れを受け入れるようには作られていないのだから。鎌倉文化を代表する禅宗寺院も日蓮宗寺院も、京や奈良の大寺院に比べると、山と谷に囲まれた狭隘な土地というそれなりに制約されたスペースに展開せざるを得なかった(もっとも、鎌倉の外では、源平の戦乱で荒廃した南都東大寺を再建し、博多に我が国初の禅寺、聖福寺の創建を許可し、京都に臨済禅の建仁寺を創建した。)。鎌倉の街のランドマーク、鶴岡八幡宮。その海につながる参道が街のメインストリートという風情が鎌倉らしいが、これはミヤコの佇まいというよりは門前町のそれだ。やはりミヤコとして発展するだけのスペース用意されていなかった。現に江戸時代には、江戸から足を伸ばせる寺社仏閣巡りの遊興の地。明治以降は、帝都東京で活躍する政財界人、文人墨客の別荘地としてもてはやされた。現在の週末ごとに発生する混雑は、この首都圏という後背地を控える観光地、鎌倉の宿命なのだ。もともとは鎌倉という街はこじんまりした佇まいを密やかに楽しむ場所なのだが、皮肉にも明治以降、ミヤコが近畿から関東、東京に移り、日本の近代化、戦後の経済成長に伴う東京一極集中が起こった。そういう「東京」の発展が鎌倉の静寂を許さなかった。

 ただ今回は、連休中にもかかわらず、思ったより人出が少なくゆっくりと散策できた。これはラッキーとしか言いようがない。それにしても新緑の鎌倉は美しい。


明月院

円覚寺
山藤が美しい

沙羅双樹

円覚寺から東慶寺を望む


菖蒲はこれから











浄智寺










円覚寺庭園


浄智寺
鎌倉を上空から見る