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2011年1月29日土曜日

ライカ限定モデルのお宝勝負 M9チタン 対 M7チタン

ライカの好きな稀少限定モデル。M9チタンについて前回報告したが、今回2004年のライカM型50周年記念で限定販売されたM7チタンと比較する機会を得た。どちらも500台限定だ。M7の方はレンズ3本がセットになってリモアのアタッシュケースに入った50台限定モデルも同時にリリースされた。今回、東京と大阪の老舗カメラ屋さんのご協力、コラボにより、比較研究(?)が可能となりましたことを感謝いたします。

 ちなみにM6チタンもあるが、こちらはチタンカラーのコーティングを施した真鍮ボディー。これとマッチするレンズとして発売された35、50、90mmのレンズも鏡胴はチタンコーティング(Titan Finish)。レザーはオーストリッチ風をまとっている。1000台限定だそうで、比較的良く中古市場でお目にかかる。

 M9チタン、M7チタンは両方とも純チタン削り出しボディーで、付属するレンズもチタン製だ。チタンは加工が難しい金属だからさぞ苦労したのだろう。特にM7チタンはオリジナルのM6、7と同じ形状で段差のある表面だからなおさらだ。

 M9チタンとM7チタンを比べてみると、もちろんM9はデジタル、M7はフィルムである事は言うまでもないが、

 1)まずM9チタンのボディーサイズはM7チタンより全てのディメンジョンで一回り大きい。もちろん通常のM9よりもボディーの厚みが増しているのでM9チタンは見た目がいかにもメタボボディーだ。

 2)したがって手にしたときのホールド感が異なる。M7チタンは我々の手が覚えているサイズ。M9チタンはやや手に余る感じだ。とくに日本人にはデカイと感じる。フィンガーループ方式はやはり有効だ。

 3)チタンのカラーはM7の方が濃い。M9チタンは明るいフィニッシュとなっている。M7チタン付属のSummilux 50mm 1.4 ASPHをM9チタンに装着するとレンズ鏡胴が暗く沈んだ感じだ。逆にM7チタンにM9チタン付属のSummilux 35mm 1.4 ASPHを装着すると不思議に良くマッチする。花形フードがアクセントになっている。

 4)付属レンズのレンズキャップの違い。M7チタンの50mmのほうは何のロゴも刻印されていないノッペリした、しかしずっしりと重いねじ込み式のフロントキャップ。金属度120%だがこれチタン製? リアーキャップは通常のプラスチック製。 一方、M9の35mmの方はLeicaロゴ刻印付きの被せキャップ。軽い!チタン製だ。リアーキャップもチタン製!

 総じてM7チタンは浅黒く筋肉質なスリムボディーで、手にしっくりフィットする。レザーがやや滑りやすい感じがするが、全体に重量も適度にあって金属フェチには好ましい。特にレンズがずっしり重い。一方、M9チタンはデザインが一新されたので、ふくよかでリッチな雰囲気。突起部を少なくした為か,ちょっとのっぺりしたルックス。レザーはホールド感が良い。

 「どっちが好きか?」ううん、なかなか難しいが、私にとってはM7チタンの方がライカらしくていい。これまでのライカファンにとってはデジカメM8、9でさえ、その手触りと厚みがもう今までのライカMシリーズとは違う。したがってM9チタンのようにデザインが一新されて,サイズが明らかに一回り大きくなると、もうライカではないような気さえする。ちょうどデザインが一新されたM5が出た時、保守的なユーザから評価されずに、次のM6では先祖返りしてM4と同じサイズと形状に戻した事が思い出される。

 とかくライカユーザは保守的だ。職人的な使い込んだ道具を愛でる。最新の機能やデザインを求めなていない。イノベーションよりは,トラディションを求める。平均的なユーザに売り込んで収益とシェアーを伸ばすモデルが働かない。なかなか商売しにくいだろうライカ社は。だからこそ,こんな限定モデル商法でニッチ市場を狙うのだろう。

 それはそれで狙いは良いが大きな商売にはならない。元々、日本の競争相手がやってるような事業のスケーラビリティーを求めた訳ではないのだろうが、小さくても利益率の高い商品を生み出し続けるのはチャレンジだ。しかも中古市場が賑わう事になり、新品よりも中古、ビンテージものにプレミア価格がついたりしてライカ社に金が還流しない仕組みが出来てしまう。

 ちなみにM9チタンセットのシリアル#1は写真家セバスチャン・サルドガに贈られたとか。もっぱらセレブ中心の市場に対しては週刊誌的な関心でしか接することが出来ない我々は,せめてM9チタンのデザインがM10に繋がるのか楽しみに見続けて行くだけだ。



(ブツ撮りのウデが悪すぎて違いがよくわからない、って? 視神経から伝達された画像情報とテキスト情報とを脳内で補完しながら見て下さい。スミマセン)

2011年1月22日土曜日

奈良に春を告げる若草山山焼き ー 平城宮跡から ー

 奈良に春を告げる...とは言っても、ここんところの寒さで,とてもそんな感じではないが、今日は恒例の若草山の山焼き。午後6時に花火が打ち上げられ、全山が明るく照らされる。午後6時15分、花火が終わると,山の麓で待機していた地元消防団員が一斉に枯れ草に点火。火は瞬く間に山肌を駆け上り、若草山は炎に包まれる。

 初めての山焼き観覧は平城京趾の寒風吹きすさぶノッパラから。西大寺駅から延々と歩き、撮影ポイントを探す。早くも5時頃には三脚で陣取りするカメラマンのオヤジさん達の姿がそこかしこに... 皆元気だ。なぜかこんなに広い所なのに,三脚がカタマッて林立している。

 こちとらも撮影ポイントを決めて三脚にカメラセットして待機。やっと午後6時。辺りはいい感じに暗くなって来た。観光ポスターにあるような、若草山全山真っ赤な炎。その上に花火2〜3発...なんて光景を想像していると拍子抜けするかもしれない。あれは多重露光という写真合成テクニックを使う有り得ない光景なのだ。脳内で重なるイメージの世界だ。今回はオーソドックスに一枚一枚攻めてみる。

 寒い中、長い時間待った甲斐があった。荘厳で美しい炎の響宴。奈良の街を明るく照らし出す。平城京趾からはちょうど真東に奈良の市街と若草山、三笠山の全景を見渡すことが出来る。コレだけ遮るもののない平べったい野っパラはそうない。結構良いポイントだ。

 この他の山焼き絶景ポイントは薬師寺東塔,西塔が美しくシルエットになって映える、西ノ京大池辺り。こちらは昼から場所取り競争だとか。次回がんばろう。

 終盤にかけての残り火が山稜をシルエットに写し出して美しい。約一時間程のショーを満喫した。
 さて,帰るか、と機材をかたずけて、ふと見回すと、すでに辺りは漆黒の闇。どうやってここまで来たのか道も見えない。野っパラには街路灯もまばらにしかない。遠くのライトアップされている大極殿を目印に暗闇をセッセと歩いて、なんとか西大寺駅へ向う道に出ることが出来た。

 しかし、暗闇の平城京は何か物の怪でも出そうな雰囲気である。異様に光輝く大極殿はまるで怨霊達のたまり場のように妖艶に漆黒の闇に浮き上がっていた。



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2011年1月21日金曜日

ライカM9とSDカード ー好き嫌いのはっきりしたお嬢さんとの付き合い方ー

 前からそうかとは思っていたが、M9にとってSDカードの適合性、という問題は,思った以上に厳密である事を知った。まず持って安定したオペレーションにはライカなりの「お作法」を守る事をお勧めする。

 Panasonic製の16GのSDHC(Class10)をカメラ本体で初期化して使用していたが、数枚撮れたあと、撮影中に電源オンしても反応(起動)しないケースが発生。「ケース」と言うのは、時々は反応し,時々は反応しない事があるということだ。いざ、という瞬間に、イヤイヤをする彼女には参ってしまう。

 こういうのが一番困る。不適合なら不適合で最初から起動しなければ使わないからだ。一旦装着して,撮影を始めて、途中で起動しなくなる。こうなると何度スイッチオンを繰り返してもダメ。しばらくしてスイッチオンすると起動する。いわゆる「時時断」というヤツだ。時には「カードがロックされてます」というメッセージが出る事も。「カードが入ってません」なあんて言われた事も。

 ライカ社推奨のSanDisk Extreme 8G (Class10)に入れ替えて使用すると問題は発生しなくなった。
 これほどにカメラ側にSDカードの好き嫌いがはっきりあるとは思わなかった。まして、以前報告したように他のカメラ(たとえM8であっても、例え推奨カードであっても)で使用したカードを途中から挿入して使用するといろいろトラブルの元となる。

 そこで、幾多の失敗からの教訓:

 教訓1:絶対に推奨SDを使用する。
 教訓2:使用前に必ずカメラ本体でカード初期化する(新品カードでも必ずこのカメラ用に手なずけておくこと)
 教訓3:一連の撮影が終了したら、撮影可能枚数が残っていても、初期化してファイルナンバーを0クリアーしておく(カードの空きメモリーがあってもカメラ側のファイル番号が一杯になると全く撮影出来なくなる)
 教訓4:何が起こるか分からないので、こまめにPCやHDDに撮影画像を移しておく。
 教訓5:イライラしない。

 このカメラは、「どんなボーイフレンドとでも器用に付き合えるお嬢さん」ではない事を知るべし。SDカードの相性だけではない。使い手を選ぶ。使い手に自分の性格と扱い方をマスターする事を求める。「デジタルライカのお作法」をマスターすれば良い写真が撮れますよ。素敵な彼女だよ、気難しいけどね。

R0011191_8
(お気に入りのお相手はコレ。SanDisk Extreme 8G (Class10)。「気に入らないカレとはうまくいかないの...」だって)

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(ベストパートナーと出会えば、ホレこんなにきれいな写真が撮れるでしょ? 私って素敵でしょ? ちがう?)


2011年1月17日月曜日

穴虫? 二上山残照を追って

 正月明けから全国的に冬の嵐で,各地が豪雪に見舞われる中,大阪は寒いが比較的穏やかな日々である。日曜日の今日はそれでも雪/曇りという天気予報であったのに、朝起きてみると晴天ではないか。こうなると家にジッとして入られない。今日はきっと二上山残照が拝めるかもしれない。行ってみよう。やおらカメラ機材一式バッグに詰め込んで家を飛び出した。

 いつもの上六から近鉄大阪線で二上駅まで行き、そこから南へ向って近鉄南大阪線二上山駅方向を目指して歩けば、二上山が正面に見える。もちろん桜井から三輪山目指して行き、三輪神社か桧原神社から二上山を遠望する手もある。また飛鳥甘樫丘か、さらには談山神社方面へ登る峠道からの二上山もいいが、これは次回の楽しみにとっておこう。今回は間近に二上山を見上げよう。

 さて、二上駅を降りて二上山方面へ歩き始める。いつものように車が走る道を避け、脇道に入る。だいたい歴史散策は一本脇道へ入るのが鉄則だ。車の通れない狭い道こそが古くからの道であったのだから。しかし驚いた。この辺りはあまり有名を歴史スポットではないのに、まるで時間が止まったように古い家並が残っている。ここは奈良県香芝市穴虫。珍しい名前だが、大和から大阪へ抜ける竹内街道の脇街道として二上山の北の麓をたどる穴虫峠というのがある。その大和側の集落が穴虫だ。

 集落に入ってさらにおどろくのは、その充実した古民家の集積度だ。いや,古民家というより、船板塀に囲まれた堂々としたお屋敷街である。しかも入母屋造り、切り妻造り、大和棟と様々な様式が混在する。ここはどういう町なのか?

 ここ穴虫は、今井町や大宇陀のような商業地や街道沿いの宿場町、富田林のような寺内町、稗田、番条のような環濠集落でもない。豪農の邸宅地という風情でもない。二上駅から二上山駅までの南北わずか2キロメートルほどの間に異空間が静にたたずんでいる。立派な家ばかりだ。ここは先程も述べたように、古代より大和国中から河内、摂津へ向う峠道の傍らにある集落で、やはりなにがしかのヒト、モノ、カネが集まる場所だったのかもしれない。

 背後にそびえる二上山は古代、石器の材料となったサヌカイトの産地であった,ドンヅル坊というサヌカイトの露出した岩肌の奇観も穴虫峠の近くで見ることが出来る。また、金剛砂が川から採れる為、研磨材や研磨機を扱う企業が今でもある。

 ともあれ武家屋敷と見まごうばかりの門構えの家、巨大な庭木がそびえる家、本瓦葺きの蔵屋敷など、その土地の富を誇示するような建物がこれだけの狭い地域に密集している事に改めて驚かされる。多くは江戸期以降に起源を発する建物だろう。うらやましいような豪邸ばかりだが現在住んでいる方々のご苦労もあるのだろう。

 だらだら坂を上り、この不思議な穴虫の集落を抜け、近鉄二上山駅脇の踏切を渡ると、目の前にいよいよ二上山がそびえる。しかし、この位置からだと、あの雄岳、雌岳あい並ぶあのフタコブラクダ型二上山は望めない。そうこうしているうちに日は傾き、あとわずかな時間で山の向うへ隠れてしまう。ため池に映る美しい入り日の残照をカメラに収めつつ,慌ただしく東へ移動する。冬の日は秋よりもつるべ落とし。當麻の里まで行けばあのツインピークスの二上山の姿が拝める。冬枯れの田園の鉤の手道をひたすら當麻に向って走る。途中すれ違う犬の散歩中の人が,何事かと振り返るが気にしない。

 二上ふるさと公園にたどり着いた時には陽は二上山の雌岳の遥か左(東方向)に今まさに沈まんとしている。あわててシャッターを切った。なかなか雄岳と雌岳の間に夕陽が輝く光景を拝む事は出来ない。入江泰吉の「二上山残照」に憧れるが、あのような瞬間を収めるには飛鳥の山肌や三輪山の麓から望む方がやはり良いのだろう。近づきすぎたんだろう。季節に寄って太陽の傾きも変わるし。

 澄み切った空気の冬、夕陽は赤く山肌を染める事なく、青空と白い雲の間からキラキラと輝きを保ったまま山稜にその姿を隠していった。二上山に日が落ちてもしばらくは緩やかな傾斜地である當麻の里からは真っ正面(真東)に三輪山と箸墓を望むことが出来る。山の隙間から西日がまだ三輪山を煌煌と照らしている。三輪山と二上山はほぼ正確に東西軸上にある。一昨年11月に纒向遺跡で宮殿趾と目される遺構が発掘されて、卑弥呼の宮殿ではないか,と話題を呼んだが,この建物配置はまさに三輪山を東に背負い、西に二上山を望む東西軸の配置であった。

 ここから観る三輪山は甘南備型で美しく神々しい。さらに目を右手に転ずると、畝傍山や耳成山、飛鳥古京の地、東山中の山々を一望にすることが出来る。逆に飛鳥、三輪、纒向の古代ヤマト王権の地からは西方にこの二上山を望み、一日の終わりに太陽がこの山に沈んで行く神々しい光景を眺めた。さらに仏教伝来以降は、この二上山の向うに夕陽に輝く仏のおわします西方浄土を夢見た。大津皇子が無念の死を遂げて、大和盆地の西の二上山雄岳に葬られたのも偶然ではなかったのだろう。

 静かに暮れ行く當麻の里。この豊かで平和な田園地帯を少し急ぎながら歩く。うっすらと雪化粧した山肌を背景に當麻寺の東塔、西塔を抱く當麻の里を愛でながら,大和国中の眺望が広がる里を歩く。日が落ちた一本道を當麻寺駅に向って歩く。凍える手をこすりながら。夕暮れ時はいつも寂しくて心細い。でも今日は楽しかった。




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2011年1月12日水曜日

法隆寺 斑鳩町西里 匠たちの故郷は今

 世界遺産法隆寺の西大門を出ると、幅3m程の道が一本西に向う。その両側に広がる落ち着いた町並み。一歩足を踏み入れただけでなにか違う雰囲気が漂う静かな町並み。大和路で見かける白壁、大和棟の立派な構えの豪農の住宅が立ち並ぶのでもない。虫籠窓に煙出にウダツが上がる商家の家並でもない。武家屋敷でもない。土壁に囲まれた邸宅が並ぶなにか質実剛健でかつ洗練されたな雰囲気の町。

 ここは斑鳩町西里。現在の住居表示では法隆寺西町。かつて法隆寺の建立、作事に携わった匠達の故郷である。
法隆寺の東には東里という集落があり、こちらも法隆寺を支える人々の住む町であったと言う。

 西里は一町四方(300m四方)程の地区で、この町の西口に掲げられてい案内板によれば、近畿一円の大工支配となった中井大和守正清の出身地で、その父、孫太夫正吉は法隆寺大工の棟梁で、京都の方広寺大仏殿建立、大坂城築城にも携わるなど、大掛かりな普請を手がける専門集団であったようだ。正清は関ヶ原の合戦以降、徳川家康に取り立てられて伏見城の築城、江戸城本丸や天守や法隆寺の大修理、江戸の町割りに携わった。畿内,近江六カ国の大工棟梁を支配するに至る。しかし、大坂夏の陣では豊臣方に西里の中井館が攻められ、その戦乱の中で町は焼かれて衰退した。

 こうした歴史を持つ西里地区はかつて程の輝きは失われたようだが、法隆寺の作事を請け負う匠の伝統は絶える事なく今に引き継がれている。ここは法隆寺の昭和の大修理を手がけた宮大工の棟梁故西岡常吉氏の出身地でもある。また、そのご子息故常一氏は薬師寺金堂の再建の棟梁である。いわば伝説の父子はここ西里を一族の故地としている。

 そもそも法隆寺は50〜80年毎に修理、補修を行ってきている。さらに過去4回の大規模な解体修理が行われている。昭和の大修理の以前は500年前だという。そうでなくてはこのような木造建築がこのような姿で現代の世まで古の姿をとどめることはない。しかし、その営みは想像を絶する長期にわたる技術承継のプロジェクトである。

 一言で匠の技の継承というが、1400年の時空を超えて現代までそのオリジナルな姿を維持出来る「技」を継承するという事は奇跡に近いだろう。何十年あるいは何百年に一度であるから、次の修理の時には手がけた元の棟梁や大工はもちろんいない。元の設計図面や前の修復の記録も必ずしも残ってはいない。古材の活用、オリジナルと同じ材料の調達にも挑まねばならない。建築工法も大きく時代とともに変わるのだから、昔の技の継承はほとんど無に近い所からはじめなければならない。そう思うとため息が出てしまう。

 この西里集落を西へ抜けると、藤ノ木古墳が目に飛び込んでくる。六世紀後半の円墳で、未盗掘古墳である。状態の良い家型石棺と二体の人骨、3セットのきらびやかな馬具、土師器、埴輪、数々の装飾品が保存状態もよく出土したことで有名。崇峻天皇の陵墓ではとの見解もある。古墳時代末期で、しかも仏教伝来の時期でもあり、次第に古墳は築造されなくなってゆくが、ここの出土品は古墳時代最後の輝きであるのかもしれない。

 現在はきれいに整備され。史跡公園となっている。遠くに葛城山を望み斑鳩の里散策途中に人休むするのにちょうど良いベンチも備わっている。あんまりきれいな芝生の小山なので子供達が駆け上って遊べそうだ。かつては草蒸し、鬱蒼とした木立に囲まれた古墳だったそうだ。その方がロマンを感じるけどなあ。

 横穴式の石室内は厳重に封印されたドアの見学窓から覗くことが出来る。これがおもしろい。中は当然真っ暗だが、人が窓に顔を近づけるとセンサーが働き、石室の照明が点灯し家型石棺が観れるようになっている。古墳とセンサーという組み合わせ。被葬者も想定外の仕掛けだろう。

 異なる時代の遺跡、建造物、町が共存する斑鳩の里。厩戸皇子が権謀術数の渦巻く飛鳥を避けて居宅を構え,後に法隆寺を建立したたこの里に、それを支えた人々の生活があった。大陸の渡来人から技術を学び,継承して日本独特のものへ昇華させてゆく。日本人が好きな「モノ造り」の原点がここにあった。古代の東大阪、蒲田だ。

 そして現在までその香りを残す町がある事に時空の重みを感ずることが出来た。






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2011年1月9日日曜日

三度目の奇跡? ー明治維新、戦後復興の次は?ー

 このごろ日本は「三度目の奇跡」を起こさねば、という議論が盛んだ。評論家や日経新聞あたりがわいわい言ってるのが引き金になっているようだ。「明治維新」と「戦後の復興」につぐ「三度目の奇跡」という訳だ。
 欧米列強に対抗して,アジアのなかでいち早く近代化を成し遂げ、アジア初の国民国家を樹立し、さらに、戦争で壊滅的破壊を経験したにもかかわらず、世界第2位の経済大国に成長した日本。この時レファレンスモデルは「欧米」諸国である。アジアの国なのに欧米のように近代化した「例外としての日本」という訳だ。これが「奇跡」と呼ぶ所以である。

 そこで今、なぜ「三度目の奇跡」が必要という議論になっているか。それは「少子高齢化」「経済の低成長」「国家財政の大赤字」という三つ子の不安材料を抱え、国家の衰退に直面しているからだ。遅れているはずのアジアの国々、すなわち韓国や台湾や中国に追い上げられ、追いこされる事態に直面しているからだ。さらにはインドやASEAN諸国も急速に経済成長して来ている。

 とりわけ中国の経済、政治、外交、軍事面で急速な成長が大きなな脅威と感じ始めている。このように常に外部に「脅威」があり、それが臨界点に達した時に「奇跡」を起こして来た、という日本の歴史から来くる期待がある。やや「神風」みたいな「奇跡」を待望する空気もあるようだ。

 これからはアメリカじゃない。中国だ、とか、いやアメリカと中国の板挟みだとか、歴史上想定出来なかった事態に「第三の奇跡」を求める志向となっているのだろう。確かに,この日本を取り巻く事態は明治維新/戦後復興のときと違って、追いかけるモデルがない事態になっているのは事実だ。

 もっとも日本は歴史上、既に「三度」の奇跡を経験している。上述の二つの「奇跡」以前に1450年ほど時間を戻してほしい。このときの脅威は隣国である中国、当時の大唐帝国だ。そして一度目の日本の「奇跡」は645年に始まる「大化の改新」だ。これは我々が歴史で習った中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我入鹿を誅殺し,時の権力者蘇我氏を滅ぼした,いわば宮廷クーデタそのものを言うのではない。

 最近の歴史認識では、「大化の改新」は、この宮廷クーデター(巳支の変)に始まる天皇中心の政治体制,すなわち律令体制、公地公民制、班田収受法等による経済改革などの一連の改革を言うとされている。この改革には実は「大化の改新の詔」から30年以上の時間を要し、壬申の乱以降の天武天皇、その妃の持統天皇の時代になってようやく大王の「倭国」(いわば連合王国)から天皇中心の国家「日本」(中央集権国家)が実現している。
 
 しかし、何故このような「改革」、いや「革命」が必要だったのか。この動きを強いたのは,当時の「倭国」を取り巻く東アジア情勢に他ならない。すなわち朝鮮半島白村江での唐/新羅連合軍との戦いでの倭国/百済の決定的敗北、大陸からの撤退である。これは単に朝鮮半島での「倭国」の権益を失う、という事態に留まらず,引き続き唐が日本本土に侵攻してくる、というホラーストーリーを想定させるに十分な事態であった。

 この事態に対応する為に、天智天皇以来、急速に強力な国家体制を整備する必要に迫られた。すなわち富国強兵(防衛線の建設と徴兵制)、殖産興業(公地公民制、土地人民の国有化、生産性向上)、政治の近代化(天皇中心の律令体制)、官僚制の確立(ヤクサノ姓)、あげくには近江京への遷都を進めざるを得なかった。これが第一回目の「奇跡」である。

 ちなみに、ここまで聞いて、この時のこの事態と改革のプロセスは実に明治維新に似ていると思われるだろう。その通り,明治維新が「王政復古」と呼ばれる理由は、この天皇中心の国家体制の創建をモデルとし、この時代の国家体制を戻そう(少なくとも武家の棟梁将軍中心から天皇中心への政権交代、すなわちアンシャンレジュームという意味において)とした事による。明治期に如何に天皇制が日本の国家の基礎であるかを認識させる営みが数々行われたのはこの為である。この話はまた別途。

 話を戻す。日本という国は,その地政学的な位置から,常に近隣の大国の文化的、経済的便益を享受しつつも、その脅威に対抗してゆかざるを得ない宿命であった。もっとも隣の朝鮮半島ほどではないにしても。最初は,大唐帝国であり、次は大航海時代を経て東洋に進出して来た西欧列強諸国。そして帝国主義戦争で勝利したアメリカである。

 もちろん長い歴史の中で,周辺諸国に日本は忘れられた時期があったり、一時的に侵攻されたり(元寇)、自ら西欧諸国の進出の脅威を「鎖国」という形で防御したりした時代もあるが、ユーラシア大陸の東辺部にある島国として常に大陸の影響を肌身に感じつつ国家経営して来た。

 こうした点ではユーラシア大陸の西の端の島国であるイギリス(正確にはイングランド、スコットランド、アイルランド、ウエールズ等の国々と言うべきだが)と同じである事が面白い。イギリスの場合は,実際に大陸からの侵攻を受けている。ゲルマン人やバイキングによる侵攻、ローマ帝国の属領化、フランスのノルマンコンケスト。スペインによる圧迫、海上封鎖等。そうした厳しい「国際環境」が遂にはイギリスに絶対王政を確立させ、七つの海に進出させるエネルギーとなるのだが,その話もまた別途。

 このようにマクロ的に歴史を振り返ってみても日本を取り巻く環境は激的に変化したと言わざるを得ない。世界が狭かった時代には隣の大陸の大国、文明を気にしてれば良かった。そのうちユーラシア大陸の反対側からやって来た近代文明と緊張関係が生まれ、さらには広大な太平洋に阻まれているが故に、「隣」とは意識しなかった新大陸からやって来た文明と戦うはめに。そしてふと気付くと今度は旧文明となり脅威でなくなっていたはずであった隣の中国が再び歴史の表舞台に躍り出て脅威に。日本は東西両面の強大国の狭間に存在する国家になってしまった。

 それだけではない。「World is flat.」世界は歴史上経験した事がない新たなフェーズに移りつつある。 経済のボーダレス化が国家の有り様を変えつつある。近代の象徴である国民国家を枠を超えるグローバルなステージにどのような立ち位置を確立するのか、これは日本だけではなく、それぞれの国家が直面する挑戦的な課題である。

 こうしたなか、日本は、アメリカにつくか、中国につくか,なんていう亡国的な二者択一でもなく、両大国の橋渡しをするクニになる、なんて誰も期待してない役割を勝手に自任するのでもなく、永世中立国になる、なんて第2の「鎖国」を夢想するのでもなく、国境のないグローバルな世界の中で独自の役割を果たす国になることを目指さねばならなくなる。その時、その中心は多分日本という「国家」ではなく、国家の枠組みを越えて世界で活動する日本人という「人」となるのかもしれない。またそのような人材を多く輩出する「国家」日本になる。それこそが「第四の奇跡」だ。

 

2011年1月5日水曜日

ライカM9チタン初見参 !

 昨年の12月には発売,とされていた、全世界500台限定のライカM9チタン。年末の29日に、いつもライカシステムではお世話になっている、日本橋のF越写真機店のSさんから「はいりますよ」「見ますか?」と連絡あり。

 おっ、約束通り12月中に入荷ですか、かろうじて... 昨年9月のフォトキナの華々しいデビューいらい、音沙汰がなかったので、また出荷が延期になりました、なんてアナウンスがあるのかと思っていたが。聞けば、年内に入荷出来たのは日本では10台未満だとか。なかなかもったいつけるなあライカは。

 さて、現物を早速拝見。でっかい箱に二重に梱包されている。オープニングセレモニーだ。まずはあのホルスターが黒い袋に入ってお目見え。その下から出て来た玉手箱のような黒い立派なハコ。これを左右に引っ張ってスライドさせて開ける。立派な装丁の「取り説」と「うんちく本」等が同梱。さらにその下に赤絨毯ならぬ赤いスエードの内装に囲まれてボディー、35mmレンズ、フードが鎮座ましましている。なかなか脱がすのに苦労するがワクワクする正月の姫始めのようだ(あくまでも喩えです)

 フィンガーループとショルダーストラップもボディーレザーと同系統の革製のものが付いて来た。例のホルスタータイプのケースもなかなかの出来映えだ。が,ちと恥ずかしくてこれ肩にかけて撮影には出ないだろうな。何だろう?と衆目を集める事間違いない。目立ちたい人にはおススメですが。

 さて肝心のボディー。ひんやりとしたチタンの感触がたまらない。かつてのM6チタンのような真鍮板にチタンコーティングしたもの(Titan finish)とは異なり、無垢のチタン削り出し。M7チタンも無垢だそうだが、M9の方がふんだんにチタン使ってそうだ。現にボディーサイズはわずかに従来のM9よりは大きい。しかし,重量は軽い。また指紋がつかないような特殊コーティング処理がなされている。

 ライカの赤いエンブレムが目を引く。レザーも未来的でいい。中身はこれまでのM9と同じなのだからあんまり感動する部分はないのがもったいないくらい外装は素晴らしい。久しぶりに興奮するカメラボディーに出会えた感じだ。ボディーの面取りやレザー部分が手を加えられて近未来的なルックスになった。アクセサリーシューはチタンでカバーされ、シャッターボタンはレリーズ用のネジを塞いで指触りがよい。正面から見たら、採光窓がなくなり代わってその位置にLeicaのアクリルネームプレートが鎮座している。手作業で墨入れしたものとか。全体にバランスのとれた精悍なルックスとなった。

 デザインを言うなら、以前から気になっているアクセサリーシューのオフセット位置を、この際レンズ中心線上に持って来れなかったのだろうか?そして正面のライカエンブレム左上のほくろのような丸い採光窓(何用だったっけ?デジタルになって唐突に付けられた)、これもデザインバランスを壊してると思うんだけど。

 ストラップ類は一新され、右肩にあるアナに、フィンガーループ(大小3種)、ショルダーストラップのコネクターを差し込むことが出来る。この為には裏蓋を開けて、専用のフックを引っ張ると、アナのカバーが外れる仕掛けになっている。この辺が「ライカのお作法」を踏襲している。しかし、ちょっと頼りなげなアナのロック。本当にこの高価なカメラが外れて落ちたりしないのだろうね。
 ただフィンガーグリップはホールドが良い。新しいカメラの保持スタイルを提案している。

 同じくチタン素材の鏡胴の35mmズミルクスと、同じ素材で出来た花形フード。これを装着した姿は最高。フードはねじ込み式。レンズ先端のリングを外してからフードをねじ込む。フードの切りカキ位置がちょうどになるようにねじ込みが一定位置でロックされるようになっている。ドイツらしからぬ芸の細かさだ。

 全体に愛でて楽しむのにいいが、それだけではなく、手になじむ形状と,適度な重さ、チタンの手触りはこのカメラを持ち歩く事を楽しくするに十分な逸品にしている。お散歩ブラパチカメラにはもってこいだ。もっともベンツSクラスに乗ってコンビニへ弁当買いに、みたいな空気だが...

 唯一、機能面で通常のM9と異なるのは、ファインダー。フレームが赤いLEDで表示される点だ。これはなかなかいい。レンズ装着と電源スイッチオンで自動設定されるので、フレームセレクターレバーが正面になくなった。何よりも見やすい。これまでのM3以来の伝統のフレームは正面の白いアクリルの明かり取りから入る光で白く輝かせる「光学式フレーム」であった。これが光線との向きで見にくいのが問題視されて来たが,解決した訳だ。

 ライカは感触を楽しむ趣味カメラなのだから,このM9チタンの出来は素晴らしく、趣味人をなかなか虜にさせてくれる。これまでのライカお得意の限定版商法ではあるが、この一品はかなり限定版として本格的に差異化を計っている。これからのライカレンジファインダーデジタルを暗示するスタイルだろう。

 しかし、惜しむらくは、その手の届かない価格にふさわしいもっとデジタルカメラとしての機能のブラッシュアップ、強化充実を計って欲しいものだ。もっともコレを撮影現場でガンガン使う人はどれくらいいるのか。したがってこの際これ以上言うまい。まあ一言居士を黙らせるオーラを持っているよ、このM9チタンの工芸品としての造り込みへのこだわりは。

2011年1月3日月曜日

気まぐれライカM9に手を焼く

 正月もあっという間に終わって、三日には羽田から伊丹まで飛び,西部戦線に復帰。

 東京の正月は晴れ。日本全国が風雪による厳しい寒波で翻弄される中、関東平野はカラっ風のいい天気。Uターンラッシュに混雑する羽田到着ロビーを横目に,逆Uターンでゆったりと大阪へ。

 羽田は新滑走路を離陸。やがて左手に東京スカイツリーと東京ゲートブリッジがちょうど見えたので愛用のM9でパシャリ。両方が見渡せる絶好のアングルだ。東京ゲートブリッジもまだ建設中で繋がっていない。よく見ると双子の怪獣が向き合っているようだ。新しい東京のランドマークが間もなく誕生する。

 離陸後一時間もしないうちに、はや伊丹着陸態勢。大阪は近い。高速陸蒸気でも二時間半なのだから。機内サービスのお茶飲んでる暇もない。しかし、雲間から見える奈良の東山中、紀伊山系は白銀の世界。飛鳥の里も冬景色だ。日本も狭いようで広い。様々な季節が同居している。

 奈良盆地から生駒山を超えると河内平野。八尾飛行場が見える。やがて大阪城を左下に見て機は市街地広がる大阪の街のど真ん中にドンドン降りてゆく。ビルや高速道路をかすめながら着陸。 と、平穏な飛行であったが、この間,我が愛用のライカM9はご機嫌斜め。突然「フォルダー番号をリセットしろ」「SDカードがフル」とのメッセージがでて、シャッターが下りなくなってしまった。正月早々...
 SDカードの容量はまだ70%程空いているのに。MENUからフォルダー番号リセットボタンを選んで押しても何の変化もなし。今カードの初期化すると全部消えてしまう。どうしたらいいんだ!?

 パニック状態でそれ以上の撮影続行は不可能となる。したがって東京スカイツリーまでは撮れたが、白銀の東山中、大阪城は、くやしいが見過ごすよりなかった。動かない金属の塊(文鎮と化した)ライカを握りしめ「この役立たずメ」と、よほど床に投げつけてやろうかと思った。

 なんか「いざ本番」「決定的瞬間」という時になって,突然写せなくなる事が多いような気がする。以前にも「カードが認識出来ません」とか「カードがロックされてます」とか、たわけたメッセージが出て撮影を中断しなくてはならない事があった。「これだ」と思ってスイッチオンしてシャッター押すと,反応しなくてチャンスを逃した、なあんて事も。

 家に帰ってマニュアルを読む。この説明文の日本語がまた何言ってるのかよくわからない。ドイツ語の直訳? 訳したヤツは内容を理解して書いたとはとても思えない。一瞬オレの日本語読解力がなくなったのか、と考え込んでしまった。
 気を取り直して何度か読み直すと,要するにどうもフォルダー番号がL99999999になるとそれ以上記録しないようだ!(SDカードに容量があっても!)。 その場合、マニュアルで番号をリセットする事が必要らしい。しかもリセットするにはSDカードを初期化する必要がある、と書いてある。しかも初期化は「上書き」を選ばねば完全な初期化は出来ず、フォルダーに大量のデータが残るようだ。そして「上書き」には数十分かかる、とある。したがってバッテリーはフルに充電しておくように、とご丁寧に注意書きが...

 バカヤロウ! 冗談じゃないよ。撮影現場でそんなことが出来るか! 少なくともニコンやキャノンでそんな経験は一度もない。M8でもそんなリセットのモードはなかったのに。故障でないとしても、使い手が想定出来ない事象が発生するということは、道具として完成されてない事の証明だろう。
 
 仕方ないから,これまでM9用に使用している(ライカ社ご指定の)SDカード3枚の中身を全てハードディスクに落としてから、一時間程かけてセッセと「上書き」で初期化。バッテリー2個があがり!充電中。で、ようやく撮影可能になった。でもこれで大丈夫なんだろうな?不安だ。

 もうあんまりライカの悪口いいたくないのだが、こう度々だと「怒ってしまう」というより「笑ってしまう」(イヤ、とほほほほ、と「泣いてしまう」)。いくらライカはマニア向けの趣味カメラとは言っても、こんな作業を「ライカのお作法」として楽しむ程、私もお人好しのアホではない。少なくともプロ用機材としては信頼感0。やっぱりライカはシンプルで堅牢な銀塩機械式カメラしか信頼出来ないのか。

 大阪だけに、締めは「そんなアホな」「ええ加減にしろ」「もうええわ」「ありがとうございましたあ〜〜〜」かあ。


L9999990_3

(東京の新しいランドマークとなる、東京スカイツリーと東京ゲートブリッジ)

2011年1月1日土曜日

2011年の新年を迎えて

2011年が明けた。東京は晴天で穏やかな新年となったが、日本は寒波に覆われ厳しい寒さと積雪の正月となった。

 紅白歌合戦見て、ゆく年来る年みて、何となく正月に突入。新年を目出度がってばかり入られない。一晩寝て正月が来たからといって,情けない今の日本の現状が変わる訳ではない。日本はこれからはモデルのない変革を果たさねばならぬ時代へ突入する。

 少子高齢化、経済成長の低迷、国の借金の増大という3重苦を抱えて、明治維新や戦後の復興につぐ3度目の奇跡を起こさねばならない。いや、白村江戦敗戦後の復興改新を含めれば4度目だ。しかしこの変革には先行事例はない。大唐帝国や西欧列強や米国といったモデルはない。独自にあらたな国家ビジョンを作り出さねばならない。前代未聞のチャレンジであるが、これを乗り越えなければ「衰退」の二文字が現実のものとなる。

 今こそ「イノベーション」という言葉の意味を真剣に考えなくてはならない。これを「技術革新」と翻訳する時代は終わった。全ての価値創造モデルイノベーションだ。それには独創的な価値創造を可能とする「人」を育てる必要がある。あたらしいヒーロー、そう「英雄像」が必要だ。「モノ造り」よりも「人創り」が優先だ。時間がかかるが100年の国家戦略とビジョンがいる。

 初夢はどんな夢になるのだろう。



 
Photo
(2011年元旦の初日の出。ちょっと寝坊して太陽が高く揚がってしまった。東京の正月はスッコーンと良い天気)