ページビューの合計

2013年2月17日日曜日

土佐の赤岡町 ー「あの頃の町」へ迷い込むー



絵金蔵と弁天座

おっこう屋

 私の祖父は土佐人であった。その祖父は臨終の床の苦しい息でポツリと「ああ、赤岡のジャコが食べたい」とつぶやいた。あの頑固で無骨な祖父が「赤岡のジャコ」かあ。人間は死ぬ時には,薄れて行く意識の中で、生涯にあったいろいろな事を回想するのだろう。まるで走馬灯のように。祖父は自分が生まれ育った高知の「赤岡」を思い出したのだ。そういうものなのだ、人間って... まだ18才の少年だった私の心にその末期の言葉がこだまのように響いた。

祖父はいわゆる土佐の「いごっそう」、即ち頑固一徹な明治の男であった。次男坊で、高知商業卒業後、当時の日本一の経済都市、大大阪へ出て住友銀行に職を得た。大阪で一家を成し、私の父が生まれ、上町台地の一角、北山町に家を構えた。やがて脱サラ、起業して、道修町に製薬会社を創業。会社は順調に成長し,祖父は西宮の夙川に邸宅を構えるまでになった。当時の関西の立身出世物語だ。そして戦争。社員の多くを失い,創業パートナーを病気で失い、会社は廃業を余儀なくされた。高知から青雲の志を持って大大阪に出て掴んだ栄光と挫折。波乱の人生だった。

その祖父の「赤岡」である。「ジャコ」である。私は土佐人の血筋は引いているが、高知に住んだ事は無い。この歳になるまで、その謎の地名「赤岡」にも「ジャコ」にも関わりなく、祖父のようなビジネスマン人生を送って来た。今回仕事で高知へ出かけることになった。ふと、あの祖父の臨終の一言「赤岡のジャコ」が心に蘇った。「ところで赤岡ってどこだ?」「なぜジャコなのか?」。今まで疑問を疑問としてけ受け止めていなかったのに、急に「その疑問は解いておかねばならぬ」と思い始めた。人間やはりある歳にならないと心に響かないものがあるものだ。私もそういう歳になったという事か。

赤岡は、高知市の東、高知県香美郡赤岡町のことだった。いまは平成の町村合併で香南市となっているが、それまでは日本一小さな「町」として有名であったらしい。今はひっそりとした町だが、もともと高知城下に伍して栄えた在郷町、商業都市。上方や九州への回船業や製塩業、綿織物業(赤岡縞)が盛んな土地であったそうだ。そして赤岡の名物は「絵金」と「どろめ」だ。また謎の言葉が出て来たな。「絵金」とは、江戸時代末期から明治にかけて活躍した絵師金蔵のこと。芝居絵で名高い赤岡の有名人だ。こういう絵師を抱える事の出来る経済力を持った豪商が多くいた町だったということなのだ。そして「どろめ」とは、まさに「ジャコ」のことである。赤岡港に上がる「ちりめんじゃこ」が昔から名物だったのだ。しかし「絵金」の話は祖父から聞いた事無かったなあ。今みたいに有名になるとは思ってなかったのかもしれない。

ともあれ、これで「赤岡のジャコ」の謎がひとまず解けた。よし,行ってみよう祖父の故郷、赤岡へ。

高知からは、JR土讃線で御免(ごめん)まで、さらにそこから第三セクターの土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線に乗り換え「あかおか」下車。高知駅からは約30分。この「ごめん・なはり」線(なんとも頭を低くした奥ゆかしいの名前が微笑ましいが)は高架鉄道で、太平洋沿岸を安芸、奈半利まで走る景観抜群路線だ。高知の生んだ漫画界の巨匠、やなせたかしのラッピング一両編成車両がユニークだ。海岸側にはオープンデッキが設けられた車両もある。

赤岡に着く。下車した人は私を含めて3人だけ。無人の高架駅だ。絵金さんの作品を収めた「絵金蔵」がほとんど唯一無二の観光スポットだから、まずはそこを目指してみよう。そこまで行けば町の案内があるだろう。少し歩くと、あったあった絵金蔵はコッチという看板が。しかしよく見るとその上に「現在臨時休館中」のはり紙。「なんじゃそりゃ?」ここまで来て絵金蔵が閉まってるんじゃあ他に行くとこないじゃないか... じゃあ、最近「弁天座」という歌舞伎小屋が再建されたと言う話を聞いていたのでそこへ行こう。なんだ、絵金蔵の隣だ。絵金蔵は2月イッパイ全面改装中とか。なかなか立派な美術館だ。隣の弁天座も、愛媛県内子町の内子座ほど大きくはないし、オリジナル建造物の再建でもないが、赤岡の意地を見せるような立派な芝居小屋だ。そこに絵金の芝居絵が2枚かかっている。

さて、町を歩く。小さな町だが、ここにはかなりの古民家、古い商家が並んでいる。土佐独自の水切り瓦の豪壮な屋敷や蔵が眼につく。かつて栄えた商業都市の残照を見る思いがする。また港の近くには本瓦葺きの純和風建築がずらりと並んでいる。漁業で結構豊かな家が多いのだろう。しかし、残念ながら多くの古い建物は老朽化がひどく,ほとんど廃屋になっていたり、改造されたり、あるいは完全に建替えられていたり。町の歴史的な景観が保全されているとは言いがたい状況だ。残念だ。重要伝統的建造物群保存地域に指定もされていないので、保存修景のお金も出ないのだろう。

横町という古い商店街に「おっこう屋」という雑貨屋さん(骨董屋と自称していないが)がある。建物は,江戸時代の脇本陣であったもの。店内は、文字通り「足の踏み場も無い」ほど、様々な雑貨(骨董?)が並んでいる。外からこわごわ覗いていると、ここのオカアさんが、「コーヒー入れるき、なかに入りや」。コテコテの高知弁だ。祖父や祖母の関西弁風高知弁を聞いていた私にとって、これはこれは、なんとnative Kochi-benに感動!

「おっこう屋」とは「奥光屋」だそうだ。奥深い所にある光を,という意味を込めたと。ここは一種の町の社交場になっているようだ。町おこし活動の拠点でもあるそうだ。ここに山のように散らかっている(失礼)無数の品々は、どれも町の古い蔵や町家から出てきたものだそうだ。皿、壷、着物、家具、グラス、ランプ、掛け軸、置物、柱時計、電話機、蓄音機、クラシックカメラ等等等等等等..... 見れば見るほどお宝満載の不思議なラビリンス。ウラには庭があり、そこにも「お宝」が散乱している。かつて脇本陣であった事を示す立派な蔵もある。オカアさん、「怖くて開けてない」と。

昨今,次々と町の古民家が取り壊され、蔵が消え、若者が居なくなり、町に残る年寄りも古い家を維持すことが出来なくなる。こうして、家に伝わるお宝をここに持ち寄って売ってもらうことになるのだと。また、売上の一部は、町の古い建物の維持保存の資金になっているそうだ。重伝建地区の指定もされてないので、行政からの補助金も出ない。住民のある種の「景観保存」自衛策なのだ。しかし、入ってくるほどには出て行かない(売れない)そうだ。そうだろう、この「在庫」の山は.....

オカアさんにコーヒー入れてもらいながら赤岡の話を聞いた。私の祖父がここの出身で、臨終の時「赤岡のジャコが食べたい」と言い残した話をすると感動してくれた。「ジイちゃん、ええオトコやっつろうね」「赤岡は、今はこれバアのチンマイ町になっちゅうけんど、スゴイ町やきにね」「赤岡は情念の町ぜよ」「その頃(祖父の少年時代)はもっと賑わッチュウロウね」。話が止まらない。祖父が当時どの辺に住んでいたか,今となってはもちろん知る術も無いが、オカアさん、「いっつも皆で集まって昔の事聞きユウキ、知っチュウもんがおるかもしれんロウ。聞いちょいちゃらあ」と言ってくれた。このオカアさん、ホント「ハチキン」(土佐のしっかりした女性のこと)や!

以前、あの赤瀬川原平や藤森照信、南伸坊等の「路上観察学会」の面々が赤岡にやって来て、「赤岡不思議幻灯会」なるまち歩き会を催したそうだ。このオカアさんは、その時の記録をまとめた「犬も歩けば赤岡町」(赤岡探偵手帳)という本の発行人になっている。私も歩いてみてわかったが、確かに赤瀬川先生の好きそうな町だ,赤岡は。町には不思議な「トマソン」が至る所に。ちなみにこの本、古い銭湯の建物を移築保存するための資金集めだったそうだ。無事お金が集まって「風呂屋が残った」。めでたしめでたし。

今の赤岡は、7月の「絵金祭り」とともに4月の「どろめ祭り」が有名だ。「どろめ」は先ほどの説明通り「ジャコ」のことだが、どろめ祭りは、一升瓶で酒の飲み比べをするいかにも高知らしい祭りだそうだ。昔はどろめ(ジャコ)で一升酒飲んだのだろう。ちなみに祖父は「下戸」だった。お猪口一杯でとスグ真っ赤になって「火事場の金時」になっていた。さぞや若い頃は酒で苦労しただろう。父も私もその下戸の血を引いているのでよくわかる。高知出身だ、九州出身だというだけで、何の根拠も無く「酒は強い」と決めつけられる理不尽さ... でも、どろめ(ジャコ)の方は、大好きだったに違いない。赤岡漁港近くにどろめの老舗三浦屋が天日干しの工場と直営店舗を開いている。「ははあん、ここのがうまいんだ,キッと」。急に祖父が懐かしくなって涙が出そうになった。

結局、祖父の少年時代の暮らしの痕跡を見つける事は出来なかったが、祖父の「あの頃」の町を訪ねることが出来た。祖父を育んだ「赤岡」。ジャコが名物である事も現認出来た。ハチキンのおカアサンにも会えた。native Kochi-benを聞く事も出来た。滅び行く栄光の赤岡をなんとかしなくては,とがんばってる人々の活動にも触れた。建物や町並みが壊されて行く中で、赤岡の遺産が集積された骨董屋さんががんばっている。祖父の故郷を「どげんかせんといかん」。また来よう、我が家のルーツを感じる旅に。私が今ここに居るのも、祖父がこの町で育ったからだ。


(追記)

今回、行きは大阪から飛行機で高知へひとっ飛び。帰りは土讃線経由で岡山から新幹線で帰った。四国はこんな狭い島なのに、山山山..... 瀬戸内沿岸から太平洋沿岸の高知に出るにはこの山隗の波を越えねばならぬ。鉄道も道路も大変な難工事だったことだろう。今は本四架橋で瀬戸内海をひとまたぎで岡山へ。日本の土木技術のすごさを見せつけられる。そういえば,祖父母も父も,大阪から高知への里帰りの行き来は船だったと言っていた。陸路よりも便利で速かったんだろう。土讃線が出来たのはかなり新しい事のようだ。

機上から見ると、所々山肌や谷間にへばりつくように集落が見える。人の営みの執念に凄みを感じる。四国山脈を飛び越えると、すぐに目の前には無限に広がる太平洋。幾重にも重なりあう山並と広大な太平洋に挟まれた狭い帯状の平地に人が住む高知。ボンバルディアは剣山を越えられるのか,というような低空飛行でようやく高知空港に降りる。そして、帰りは地べたの土讃線で。三次元で四国を体感する。トンネルと鉄橋の連続。しかし上空から見る以上に沿線には集落や道路が続き、人跡未踏という感じでない事を改めて現認。大歩危小歩危は秘境の空気に満ちているが、山の中にある阿波池田駅の構内の広さには人々の開拓の歴史を感じる。高知はやっぱりすごい所だ。人はハングリーにならざるを得ない。自ずと外向きにならざるを得ない。坂本龍馬のような人物が出ても何ら不思議ではない土地だという事を改めて感じた。



(高知独特の水切り瓦のある蔵。台風などの風雨から建物を守る高知ならではの工夫。赤瀬川原平がこれを見て「トマソン」と間違えたそうだ。さもありなん話だ。)




(新装なった弁天座。なかなか赤岡の気合いがこもった芝居小屋だ。この向かいが絵金蔵。こちらは改装のため臨時閉館中。残念。)




(横町の雑貨店、おっこう屋さん。店内は赤岡のお宝満載。その奥深さはまさに迷宮。ハチキンのオカアさんが居る店。)




(土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線あかおか駅。高架のプラットホームからは美しい瓦屋根の家並が見渡せる)




(ボンバルディアで四国山脈をひとっ飛び。幾重にも重なる山並みの向こうに高知が)




スライドショーはここから ⇒



山中にも集落が...






あかおか駅




小学校校庭の「考える人」
普通は「二宮金次郎」かと思うが...


すぐ背後は四国山地







伊能忠敬緯度観測記念碑

「ぜよ」ぜよ





絵金


水切り瓦




脇本陣跡「おっこう屋」さん

脇本陣「長木屋」跡




「おっこう屋」のハチキン母さん
恥ずかしがって出てこない

「おっこう屋」迷宮ダンジョン探検をお楽しみあれ!







おっこう屋の土蔵
ここにもお宝が満載だとか!






横町の屋並み




じゃこの天日干し

巨大な防潮堤

赤岡港






土佐電鉄ごめん駅






赤岡村初代村長旧宅

小松家は寺尾酒造から暖簾分けされたとある
























アクセス:土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線あかおか駅下車。徒歩5分程で絵金蔵。高知からはJR土讃線で御免乗り換えで。高知から直通列車もある。所用時間約20分。

2013年2月13日水曜日

筑紫古代史の謎宮を歩く ー 香椎宮探訪 ー

 香椎宮は社伝では仲哀天皇9年(200年)、熊襲征伐の途中橿日宮(かしひのみや)で仲哀天皇が急逝したため、神功皇后がその地に祠を建て天皇の神霊を祀ったのが起源とされる。さらに後に養老7年(723年)、神功皇后自身の神託により朝廷が社殿の造営を始め、神亀元年(724年)に竣工したと伝える。この2つの廟をもって香椎廟とする。万葉集には神亀5年(728年)、大伴旅人らが香椎廟を拝んだ後に詠んだ歌が収録されており、少なくとも香椎廟はそれ以前から存在していたとみられる。香椎廟は、天皇の「廟」であり、他の神社とは異なる扱いを受けていた。延喜式神名帳には記載がない。ただし、『続日本紀』などの文献には香椎廟・香椎宮・樫日宮・樫日廟などと見える。古くから朝廷の崇敬厚く、伊勢神宮、宇佐神宮に次ぐ扱いを受けている。

記紀によれば、仲哀天皇は神功皇后とともに九州熊襲征伐に出向き、橿日宮に行宮を置いた。そのとき神功皇后が神懸かりとなり「西の海の向こうに宝の国(新羅)があるので、そちらへ行け」との神のご宣託を伝えた。しかし仲哀天皇は、それをいぶかしがり「西にそのような国は見えない」として疑ったため、神の怒りに触れ急死したとされている。神功皇后はその亡骸を棺に入れ、椎の木にかけ葬った。するとその椎の木から香しい香りが四方に漂ったので「香椎」と呼ばれる事となった。それが現在古宮として残る香椎廟であるとされている。

その後、神功皇后は夫の仲哀天皇にかわり、男装して、お腹の子供(後の応神天皇)の出産を遅らせるべく、石を腹に巻き、軍勢を率いた朝鮮半島へ出陣したとされている。これが神功皇后の「三韓征伐」の伝承である。無事、戦わずして新羅を服属させ、百済,高句麗も朝貢を約束させ、九州に帰還した。その際、三宝を地中に埋めて国家の安泰を祈り、そこに杉の小枝を置いたのが、今の香椎宮のご神木、綾杉の大木であると。ちなみに神功皇后が(のちの応神天皇を)出産した地が宇美八幡宮であるとされ、また赤子のオシメを換えた地が志免であるとされている。さらには、香椎にほど近い名島海岸には、神功皇后が「三韓征伐」から帰還した時の軍船の帆柱が化石になって残る「帆柱石」がある。戦前はこれが結構人気の博多名所の一つであった。もちろんこれは古生代の自然の珪化木の化石だ。これはこれで地質学的には珍しい標本だが...

筑紫にはこのような神功皇后ゆかりの地があちこちにある。むしろ畿内よりも筑紫の方が多いような感さえする。地元には親しまれる古代史の英雄ではあるが、しかし、この伝承には様々な歴史上の謎が含まれている。

まず、仲哀天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)は、欠史八代の天皇同様、実在性が疑われている天皇の一人とされている。そもそも実在性が疑問視されている日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の子だとされている事。しかも誕生年は西暦換算では、日本武尊が能褒野で死に、白鳥として天に昇って行ってから36年後の生まれである事などから、後世に創作されたのではないかと言われている。また、日本の正史である日本書紀で、天皇が神罰で急死したというエピソードにはどのような意味が含まれているのだろう。

また神功皇后(オキナガタラシヒメノミコト)はただ一人皇后として記紀にその事績が記され、歴代天皇と同等に扱われた女性であるが、やはり其の実在が確認しにくい。在位は西暦に換算すると201ー269年とされ、ちょうど魏志倭人伝に記述のある倭国邪馬台国の時代を相当するため、卑弥呼ではないか、いや、その後の台与である、とか諸説があるが、いずれも根拠に乏しい。むしろ記紀編纂時(8世紀前半)に、後世の斉明天皇の九州行幸と筑紫朝倉宮での崩御、息子の天智天皇の白村江の戦いや、持統天皇をモデルに、時代をさかのぼって朝鮮半島への出兵エピソードを創出したものだ、という見解もある。また、そもそも畿内ヤマトからやって来たのではなく、ヤマトに対抗する筑紫倭国の大王であったのだ、という説も。邪馬台国九州説に繋がる論考だ。

しかも、この記紀の「三韓征伐」伝承によれば、それまで九州の西の海中に朝鮮半島が存在している事を当時の倭国の支配者である大王(天皇)が知らなかったことになる。神のご宣託により初めて知った国だと。しかもその存在を疑ったと。2世紀から3世紀初頭といえば、中国の歴史書(魏志倭人伝、後漢書東夷伝)と照らし合わせると、「倭国大乱」、邪馬台国女王卑弥呼、其の後継の台与の時代に相当することになる。西暦239年には卑弥呼が帯方郡を通じて魏に使者を送り、「親魏倭王」の称号を受けている。さらに遡れば西暦57年には筑紫の奴国王(あるいは委奴国王)が漢の武帝から「漢委奴国王」の印綬を受けており、以前から倭国が朝鮮半島や中国と朝貢関係、交流を持っていた事実が示されている。さらに、この時代にはまだ三韓(新羅、百済、高句麗)は成立していない。このように記紀のこのくだりは後世の創作だとしても、当時の倭国の東アジア情勢認識とも一致しない。どのような意図のもとに記述された伝承なのか謎だ。

当時の倭国(日本)と中国、朝鮮半島との交流については、中国の前述の歴史史料で確認するしか方法が無い。日本で記紀が編纂される8世紀以前に、残念ながら日本には文字で表された記録は残っていないからだ。

中国の史書による倭国に関する記述を要約すると、

1世紀半ば:後漢書東夷伝によれば、倭の奴国王が光武帝に使者を送り「漢委奴国王」称号を受ける。
2世紀初から半ば:倭国王師升後漢に遣使。また倭国大乱ののち、卑弥呼擁立して倭国安定。
3世紀半ば:魏志倭人伝によれば、卑弥呼が魏に使者を送り「親魏倭王」称号を受ける。卑弥呼の死後、また乱れたが卑弥呼の養女台与を立て再び安定。魏のあとの晋に遣使。
4世紀:倭国に関する記述がふっつりと消え、空白の4世紀に。ただ、朝鮮半島で見つかった好太王碑文によれば、倭国軍が百済、新羅と戦って勝利した,と言う記述が。
5世紀:宋書によれば、倭の五王が遣使。倭王武(記紀にいう雄略天皇ではないかと言われる)の「ソデイ甲冑を貫き山河を跋渉して寧所にいとまあらず...」。朝鮮半島における倭国の権益を認めるよう要望し安東将軍や鎮東大将軍の称号を得た。

1〜3世紀の混乱した情勢の中で生まれた、祭政一致(ヒメ/ヒコ)制による邪馬台国を盟主とするクニの連合国家「倭」が、4世紀には朝鮮半島に進出し、5世紀には歴代男王による倭国の武力統一、さらに倭国外の朝鮮半島における権益を中国王朝に認めさせようとする武断的な国家「倭」に変貌する。この間一体どのような変化が倭国に起こったのだろうか。政祭一致の邪馬台国のよる倭国連合は、いつしかヤマト王権による統一倭国へと変遷して行ったのであろうか。チクシ倭国がヤマト倭国と統合された,と推論する説もある。

中国の史書は、当時の倭国の動向を知るよすがになるが、なかなか日本側の記録との一致が見られない。すなわち日本書紀や古事記の記述との事績、時間双方の乖離がある。そもそも記紀には邪馬台国も卑弥呼も出て来ない。一方、中国の史書には神功皇后による「三韓征伐」エピソードに相当する記述が見当たらない。前述の史書のどの事象を示唆しているのか不明である。例えば、神功皇后が3世紀の在位とすると卑弥呼が朝鮮出兵したことになるのだろうか。あるいは、神功皇后が魏に朝貢し「親魏倭王」の称号を貰ったことになるのだろうか。どちらも考えにくいだろう。倭国が朝鮮半島伽耶国に権益を持ったり、百済と同盟関係を結んだり、唐/新羅連合軍との白村江での戦いに敗れたりするのは5〜7世紀の事だ。神功皇后は実在したのだろうか。

既知の通り、日本書紀は8世紀に編纂された日本の正史であり、天武天皇、持統天皇が壬申の乱後の倭国,日本における天皇支配の正統性を記したもの。主に当時の超大国である唐と対等の外交交渉を行うために整備した国史である。したがって、当時の国の正史とはそのようなものであるが、時の支配権力、統治権威の正統性を示す事が主たる目的であり、客観的な史実を公正に記述するものではない。その点では中国の史書も同様であるが。

中国の史書で仲哀天皇や神功皇后についての記述が見えるのは時代をずっと下って10世紀(日本の平安時代)の唐時代の新唐書になってからだ。これはおそらく日本側の正史である日本書紀を参照したのであろう。いずれにしても神功皇后、仲哀天皇とはいかなる人物だったのか。実在性は如何。 だとすると、香椎宮古宮に祀られているのは誰なのか? 河内王権の始祖ともいわれる応神天皇はどのような血統から生み出されたのか... 新たな謎がわいてくる。もっとも神功皇后は神の子を宿した聖母(しょうも)であるとも伝えられており、応神、仁徳天皇の聖君子を演出するストーリなのかもしれない。

素晴らしい香椎造の本殿、古宮、ご神木の綾杉を参拝して、帰途につく。来る時はJR香椎駅から香椎線で宇美行き(宇美八幡のある)に乗り換え、一駅目の香椎宮前で下車。帰りは並木の美しい表参道を通り、JR香椎駅、西鉄香椎駅方向へ歩いた。この両駅間の道は、そう、松本清張のミステリー小説の傑作「点と線」の舞台となったところだ。人気の無い真っ暗闇の道を香椎海岸へ歩く男女二人。「寂しい道ね」という女の声を聞いた通りがかりの人の証言が謎解きのヒントになる,あの場面だ。今はJRも西鉄も高架駅となり、あたりはにぎやかな商店街となっていて、「点と線」の面影はない。今ここに朴訥な九州男児、福岡東署の鳥飼重太郎刑事が居れば、ポツリと神功皇后の「点と線」の謎も解いてくれたかもしれない。




(香椎宮の綾杉。神功皇后が「三韓征伐」からもどり、国家安泰を祈って三宝を埋め、その上に杉の小枝を置いたものが綾杉になったと伝承されている)




(香椎造の本殿。香椎宮だけの独自の建築様式。江戸時代に筑前藩主黒田氏によって再建された建物)



(仲哀天皇が祀られている古宮には棺掛けの椎木がご神木として鎮座ましましている。この椎木が香しい香りを発した事から「香椎」の名が出たと言われる)




(香椎宮の表参道。鬱蒼とした並木に覆われた参道は、昔は香椎浜に続いていた。今は浜は埋め立てられ面影が無い)




(松本清張ミステリーの傑作「点と線」の重要な舞台となった国鉄香椎駅と西鉄香椎駅をむすぶ道。当時は人気の無い真っ暗な道であったが、今は両駅とも高架となり賑やかな商店街になっている)

スライドショーはこちらから ⇒



































(撮影機材:Fujifilm X- E1, Fujinon Zoom 18-50mm)

アクセス:JR鹿児島本線香椎駅、西鉄貝塚線香椎駅ないしは香椎宮前駅から徒歩10〜15分。JR香椎線香椎宮前駅から徒歩5分。


大きな地図で見る