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2015年11月17日火曜日

有田磁器創業400年の街を徘徊す  〜静かな谷間の町で超絶の美は育った〜



陶祖 李参平記念碑から有田の町を展望

伝統的建造物群保存地域リストより


 有田は来年、磁器創業400年を迎える。朝鮮の役で肥前に連れてこられた朝鮮人陶工李参平を始祖にその歴史が始まった。彼は泉山に良質の陶石(カオリン)を発見し1616年有田に築窯する。その後江戸時代には肥前鍋島藩の育成・保護のもと、窯元が有田皿山・内山に集められ、皿山代官所が設けられた。また赤絵町を中心に鍋島染付が盛んになる。製品は主に伊万里の港から出荷されたので「伊万里焼」の名で流通した。日本国内はもとより、長崎のオランダ東インド会社を介して遠くヨーロッパまで輸出され、これが王侯貴族の垂涎の逸品として広まってゆく。ドレスデンのツヴィンガー宮殿は数多くの伊万里コレクションで有名だ。後に有田を手本にマイセン窯が開かれることになる。現代まで続く酒井田柿右衛門や今泉今右衛門(鍋島藩お抱えの赤絵付師)といった名工が生まれる。こうして伊万里焼は鍋島藩の重要な収入源となる。また、鍋島藩は、市場に流通する磁器を焼く私窯と、藩のために焼く藩窯を分け、後に技術の流出を防ぐために後者を伊万里の大川内山に集めて、藩専用に門外不出磁器を焼かせたことは以前のブログで紹介した通りだ。

 18世紀後半になると、これまで盛んだった磁器輸出の停滞が始まり、国内市場も瀬戸や美濃などの産地の台頭で有田苦難の時代となっていった。また、1828年の有田千軒の大火では壊滅的な被害を受けた。しかし、先人達の努力で、伝統の火を絶やさず、幕末・明治初期には、開国した日本の重要な輸出品としてその製造に力を入れる。ウィーン万博、フィラデルフィア万博への出展で海外市場マーケティングの経験と製品評価を積み、積極的な海外市場開拓が始まった。やがて廃藩置県により鍋島藩の皿山代官所が無くなり、藩の管理から離れる。こうして今度は地元の有力な事業家を中心に輸出陶磁器として、欧州の磁器製造技術や絵付け、デザインを逆輸入しつつ、新たな「有田焼」を生み出してゆく。その工芸品としての「超絶の美」は特にパリ万博で高い評価を確立することとなる。明治期の有田磁器は、江戸期の伊万里磁器(今では「古伊万里」とカテゴライズされている)と異なり、大皿や大壺などの生産が盛んになり、細密な絵付け、装飾的でデザインも凝りに凝った、いわゆる「超絶技巧」を駆使したものが多くなる。いわば西欧市場受けする色付け、デザインとサイズの製品が生み出されていった。

 こうして、鍋島藩お抱えでエクスクルーシヴな「伊万里焼」から、その伝統と歴史に裏打ちされながらも、グローバルな「有田焼」へと変身してゆく。まさにジャポニズム、今でいうクールジャパンここにありという訳だ。職人たちの熱いこだわりと心意気が感じられる。肥前有田内山、この静かな山間の街は世界に輝く至宝の里となった。

(参考)明治の磁器輸出の担い手

 香蘭社(深海墨之助、辻勝蔵、手塚亀之助、八代深川栄左衛門によって1875年設立
     された日本最初期の磁器製造販売会社)
 精磁社(1879年、手塚、辻、深海が香蘭社から分かれて創業。しかし1897年終
     焉。辻勝蔵が1903年に辻精磁社を設立)
 深川製磁(深川栄左衛門の次男深川忠治により1911年設立。) 

(参考)古伊万里伝統的技法の継承(いわゆる有田の「三右衛門」)

 柿右衛門様式:酒井田柿右衛門(私窯、濁手、柿右衛門赤)14代
 鍋島様式:今泉今右衛門(鍋島藩窯、お抱え絵付け師、鍋島染付)14代人間国宝
 源右衛門様式:館林源右衛門(260年前に築窯。衰退。昭和45年に6代源右衛
        門が再興。海外ともコラボしながら新しい「有田焼」を生み出し
        ている)

 こうして創業以来400年もの間、栄枯盛衰はあったものの、連綿と有田磁器を生み出し、育んできた。ビジネスコンティニュイティー、すなわち事業継続の基本となるのは、やはり「伝統と革新」。それはここでも当てはまる不変の法則だった。

 平成3年に有田内山は伝統的建造物群保存地区に指定される。町を歩くと、有田駅から上有田駅付近まで続く細長い通りの両側に家並みが続く。表通りは江戸期の町家と明治期の洋館、大正期の商家と、昭和に入ってからの建物と、各時代の建造物が多様に混ざり合いつつも、美しく調和した町並みを形成している。また表通りから一歩裏に入るとトンバイ塀(窯のレンガの廃材などを利用した塀)の町並みが残されており、工房や工場、窯元が軒を連ねる独特の景観を作り出している。またそこには生産活動に従事する匠やその家族の人々の日々の生活がある。過去を封じ込めた「歴史的景観保存地区」ではない。ここは現代を生きる町なのだ。

 一方、表通りに出て、世界の香蘭社や深川製磁の本店ショールームをめぐるのは楽しい。眼に眩い日本の至宝が現代的なセンスを纏い並んでいる。もちろん古伊万里の陳列館では、その至宝の原器たる磁器名品の数々を楽しむことができる。谷あいの静かな町に400年の伝統と歴史が今も保存され、かつそれが時間とともに熟成されて、新たな美を生み出し続ける。今もアクティブに革新的な製品を世界に発信し続けている町だ。歴史的景観として保存されるだけでなく、今に生きるモノ作りの町、いや超絶技法の町なのだ。

 この日も、町にはヨーロッパ諸国からの訪問者が多く見られた。深川製磁の陳列館に横付けされたバスからは、シルバーカップルの一団が降りてきた。長崎に寄港したクルーズ船からのツアー客だそうだ。なかなか魅力的なツアーだ。裏通りにはバックパックの若者達が一軒一軒工房を巡っている。有田駅の観光案内所ではフランス人の家族連れが説明を聞いている。地元のガイドさんや駅員の人たちも、立派に英語やフランス語で応対している。ここは国際都市なのだ。陶磁器の聖地、ジャポニズムのルーツの地らしい交流が楽しい。

 日本のものづくりのあり方が問われている。高度な生産技術で、低コスト化・低価格化を実現した日本のモノ作りの技術は大したものだが、そういう競争優位性はもはや日本だけのものではなくなって久しい。さらにコスト競争による安い大量生産品はますます利益を生み出しにくくなり、逆に競争優位性を失う。また、最新技術はすぐに古くなってしまう。コモディティー化のスピードは早い。むしろ高付加価値、誰にも真似できない技術(テクノロジー)/技(わざ)/芸(アート)の領域に入ってゆく必要がある。こうした感性を刺戟する商材はすなわち誰にでも買えるという分けではない。「手のかかった本物」はそれなりの対価を求める。誰でもできる、誰でも買える、はもはや競争優位にはならない。この人しかできない、この会社しかできない、ここでしかできない「差異化ポイント」が「高付加価値」か「コモディティー」かを分けることになる。しかし、そんなことは言い古されて当たり前のこと、誰もが分かっていること...のはずなのに、ではそれが具体的になんなのかが分かっていない。

 伊万里大川内山を巡った時も感じたが、「有田」「伊万里」を所有するということにはなにか特別な体験がある。人に語りたくなる物語がある。そしてそういうものを生み出してきた町や里を巡ることにもう一つの体験と物語が生まれる。ここ有田内山に来て、静かな谷あいの町を歩き、伝統と歴史と、その世界的な評価に裏打ちされた名品に酔いしれる。そうするうちになにかヒント(すなわち差異化とはなにか?)が見え隠れしているような気がしてくる。技術(テクノロジー)/技(スキル)/工芸(デザイン)/芸(アート)、人々を感動させる要素はどのようなプロセスで生み出されてゆくのか。モノより体験、あるいはモノを通じての自分のストーリーを語る。Tell your story! あるいはモノにそういう新しい世界を体験する。案外、日本再生のヒントは佐賀にあり!かもしれない。



 以下、有田での写真をアップしてみた。上で述べたような体験、物語を写真で表現しようと試みたが、やはりそうした有田の情景・情感を伝える力量の不足を強く感じる。写真の数が多ければ多いほど、言葉数が多ければ多いほど、伝えたいメッセージは曖昧になる。今の自分の限界だから仕方ない。ともあれご覧あれ。

 (1)明治期に創立となった、香蘭社、深川製磁、精磁社を巡る。それは江戸の伝統を今に伝える三右衛門(柿右衛門、今右衛門、源右衛門)の窯、工房を巡る旅に加えられるべきもう一つのハイライトだ。ちょうど佐賀県立九州陶磁文化館では「明治有田 超絶の美 万国博覧会の時代」展を開催中だった。明治期に海外に輸出された有田ブランドはこの三社が競い合って確立されたものであったことがわかる。

香蘭社本店
香蘭社展示館からの眺め


深川製磁本店

深川製磁のロゴマーク富士山


深川製磁本店横には年季の入った工房が

辻精磁社
代々禁裏御用達の辻家が元祖

 (2)表通りを一歩中へ入ると、そこには「トンバイ塀」に囲まれた工房や工場、窯元が軒を連ねる路地が続く。こちらの方が有田の伝統的な街並みなのかもしれない。















(3)再び表通りへ。

有田内山地区の街並み
江戸時代、明治、大正、昭和とそれぞれの時代の建物が混在する
その多様性の調和が町の歴史の熟成を感じさせる


今泉今右衛門
江戸時代の建物がそのまま使われている

陶山神社参道
JR佐世保線が横切る

大鳥居は有田焼

陶祖 李参平を祀る
扁額には有田焼の大皿が

これも有田焼の狛犬
本殿は町を見渡す山の上だ


陶祖 李参平記念碑
ここから有田の街が一望に見渡せる

有田駅近くの川にかかる橋
JR有田駅

 (4)佐賀県立九州陶磁文化館では、前述のように「明治有田 超絶の美 万国博覧会の時代」展開催中であった。ここはこうした企画展のほか、九州全域の陶磁器の歴史、コレクションを総覧する常設展示を行っている。陶磁器の歴史がわかりやすく展示されていて勉強になった。そのほかにも見所満載で陶磁器マニアにとっては見逃せない。中でも古伊万里の「柴田夫妻コレクション」は必見。

佐賀県立九州陶磁文化館から展望する有田の町

少し黄葉が始まった




圧巻!

充実した旅の心地よい疲れを癒してくれる一幅の画




2015年11月9日月曜日

我が国最古の王墓 吉武高木遺跡 〜魏志倭人伝以前の倭の王国「早良国」探訪〜


飯盛山の山麓に広がる「吉武高木遺跡」
発掘後は埋め戻され「やよいの風」史跡公園として整備が進められている。

神奈備型の飯盛山
我が国最古の王国「早良国」のランドマークだ

 朝鮮半島、大陸への玄関口である博多湾に面した地域は早くから稲作文化が我が国に入ってきた(狩猟採集文化である縄文時代から、稲作農耕文化である弥生時代への転換というパラダイムシフトが起こった)先進地域であった。その博多湾の西側の室見川に沿って、早良(さわら)平野がある。それほど広い平野ではなく、通常福岡平野の一部と認識されている。ここに古代「早良国」の王墓と思しき遺跡(吉武高木遺跡)が発見された。いまは大福岡市の早良区・西区になっているが、昭和までは早良郡であった(ちなみに周辺が糸島郡、那珂郡、筑紫郡であった)。古代においては油山で隔てられた隣の奴国(那珂川沿いの福岡平野)と境を接し、西は飯盛山、叶岳、高祖(たかす)山などの日向(ひなた)山系を介して伊都国(糸島平野)と、南は背振(せふり)山系を介して吉野ヶ里遺跡のある佐賀平野だ。


「吉武高木遺跡」の位置と
博多湾周辺の弥生遺跡
(神泉社刊 シリーズ「遺跡を学ぶ」024から引用)

 1984年の発掘調査で、ここ吉武高木・大石地区において甕棺墓、木棺墓が大量に見つかった。いわば甕棺ロードともいうべき墓群からは多くの銅剣や銅戈が副葬品として出土している。中でもその中核墓ともいうべき3号墓には「銅鏡、勾玉、銅剣」の三点セットが副葬されていた。この他を圧する威信財の出土は「王」の存在を想起させる。そして、のちの天皇家の「三種の神器」の原型とも考えられる三点セットに世間は色めき立った。またすぐ近くからは大型の高床式と思しき建物跡(高床ではないとする説もある。用途は未だ不明だが居館跡ないしは祭殿跡ではないかとも言われている)も発見されている。弥生中期の始め(紀元前2世紀頃)の遺跡と考えられ、紀元前1世紀の奴国王墓と考えられる須玖岡本遺跡や伊都国王墓と考えられる三雲南小路遺跡よりもさらに古い。こうしたことからいわば「我が国最古の王墓」の発見と騒がれた。


副葬されていた「三種の神器」
(福岡市文化財HPより)

 ここは我が国最古の王国「早良国」の跡ではないかと考えられている。王国といっても、明確に統治の権威と権力を有する「王」がいて「国」の体をどの程度までなしていたのかは不明だが、少なくとも水稲農耕社会の初源的な形の集落、ムラ、都邑、クニ、国が形成され始めた時期であっただろう。その首長(おさ)はなんらかの民を統治する権威を有し、その墓には他より厚く埋葬され、その権威を示す威信財が副葬されたのであろうと考えられる。前述の奴国王墓や伊都国王墓には前漢皇帝から与えられた銅鏡など漢物が副葬されている。この吉武高木遺跡の中核墓に副葬されていた「三種の神器」がどこから与えられた(由来した)「威信財」なのかがこれからの研究課題のように思われる。なかでも多紐細文鏡(たちゅうさいもんきょう)は、後世でてくる前漢鏡や後漢鏡と異なり、さらに時代が古い。首から紐でぶら下げて光にかざす目的に作られようで、シャーマンが呪術に用いたものらしい。朝鮮半島に同様のものが見つかっていて、朝鮮半島由来のものであろうと推測されている。また、出土した勾玉は糸魚川産の翡翠である。当時チクシとコシに交流があった証だろう。そうした「三種の神器」の出自を知ることで埋葬されている「王」とはどのような存在であったのか徐々に解明されてゆくことだろう。

 一方、「倭国の王」は中華思想(華夷思想)、すなわち中華皇帝の徳を慕って蛮夷の王たちが朝貢し、皇帝が朝貢してきた王たちにその地域の支配の権威を与える、という冊封体制ができてから出現するものであり、それ以前には「王」は存在しない、とする考えもある。確かに「倭人世界」を構成する国々が、競って中国皇帝(漢、魏、晋など)に朝貢し、「王」として冊封されるのは紀元前1世紀以降、奴国や邪馬台国の時代になってからのことだ。しかし、それ以前に倭のクニグニの首長が、統治の権威をさらに上位の権威から認証される形式はなかったのだろうか。仮に「王」の権威を象徴するものでないとすると、副葬されていた三点セットはどういう意味を持つのだろう。

 3世紀以降に著された中国の史書、すなわちよく知られている後漢書東夷伝や魏志倭人伝に記述のある、末盧国、伊都国や奴国、その他の「分かれて百余国をなす」とされる倭国の中にこの早良国は出てこない。おそらくその記述の300年以上前に博多湾岸に存在した国・クニなのだろう。その後なんらかの事情があって、倭人伝が記述される頃までには隣の奴国に吸収され消滅したものと思われる。また漢の皇帝から金印をもらった奴国王も、魏志倭人伝の時代(3世紀)になると邪馬台国・伊都国(卑弥呼の代官一大卒が駐在する)に従属するクニになっていた可能性がある。実は一時邪馬台国ではないかと騒がれた吉野ヶ里も倭人伝の百余国に属するのか、どのクニに比定されるのか未だ定まっていない。史書に記述のない弥生のクニの一つであったのだろうか(のちの三根郡、三根国に比定する説もあるが)。紀元前2世紀から1世紀は中国では秦が滅び漢の時代に移ってゆく時代である。当時の「倭国」には史書に記述のない多くのクニグニが存在し、合従連衡を繰り返していたのであろう。いわば原始的な弥生の「王国」(ムラオサのいるクニ)が存在し互いに争う混沌とした時代を形成していたのかもしれない。こうした弥生のクニグニの実態は、文献資料がない以上、考古学的な研究成果から徐々に解明されてゆくのだろう。

 さてこの早良平野の吉武高木遺跡の現場に立ってみると、まず驚かされるのが、その「弥生的」ロケーションセッティングだ。わずかに高低差のある微高地に遺跡は存在しており、周囲を見渡すことができる。すなわち西の背後にそびえる秀麗な三角錐の飯盛山。そして東側には豊かな水量を誇る室見川が流れる。この佇まいには何かを感じずにはおれない。特に飯盛山はヤマトの三輪山や伊都国の高祖山、奴国の油山のような神奈備型の山容だ。すなわち山自体がご神体であったであろう。飯盛山には現在飯盛神社(下社、中社、上社)がある。社伝にはこれは平安時代初期に創建された、とあるが、元は飯盛山自体がご神体であったにちがいない。ご神体山と微高地と川。これぞ弥生の国(クニ)の原風景だ。いやさらに遡れば、縄文的なアニミズムの香りを残している。

 また遺跡発掘現場に立って東、すなわち奴国の方向を振り向くと、そこには私の子供の頃から見慣れた油山が聳えている。博多湾、志賀島から福岡市街を展望すると、この油山が、思いの外秀麗で、どっしりと存在感を持った神奈備山であることを知る。さらには福岡タワーなどの高層建築が並び発展著しい福岡市街地が広がっている。西には飯盛山、その脇には叶岳などの日向(ひなた)山系が。この日向峠を越えると高祖山を見ながら糸島平野、すなわち伊都国へと抜ける。また南に目を転ずると脊振の峰々が壁のように連なっている。この険しい山に分け入り、三瀬峠を越えると佐賀平野の吉野ヶ里遺跡にたどり着く。北は博多湾に浮かぶ能古島がすぐ目の前に見え、その向こうは玄界灘を経て大陸へとつながる大海が広がっている。しかし、早良平野はそれほどの規模を持つ平野ではなく、周辺に西新町遺跡や野方遺跡など、奴国の衛星都市的な集落遺跡が発見されていることから、隣の「大国」奴国に併呑されるのは時間の問題だったのかもしれない。

 この辺りは現在は福岡市の西のベッドタウンで、数々の高層マンションが立ち並び、都市高速道路や市営地下鉄が走っているが、昔は田んぼと畑しかないのどかな田舎であった。その急速な都市化に伴う開発要請が、地下に眠る弥生の痕跡を時空を超えた現代に晒すきっかけになっている。まだまだ知られざる弥生の世界が埋もれているに違いない。私の子供の頃には早良郡が存在したが、いまは福岡市に合併され、早良区にその名を残している。そう「早良(さわら)」という名前そのものが古代から連綿と続いている。隣の糸島郡だってそうだ。伊都国と志摩国。なかなか古代の情景を可視的に再現することは困難でも、その地名の記憶が、その存在を確かに感じることができる地域だ。

 現在、遺跡発掘現場は埋め戻されているが「やよいの風」史跡公園として整備工事が進んでおり、2016年の完成を目指している。飯盛山を始め、周囲を神々しい山々に囲まれた古代のまほろばを感じるロケーションだ。「やよいの風」とはよく命名したものだ。自治体もようやくこうした遺跡の価値を認識し始めたのだろう。歓迎すべきことだ。

 福岡はこうした古代の史跡の宝庫である。我が国発祥の地である。しかしそれが意外に認識されていない。それは都市化が著しく、それとわかる(可視化できる)ランドマークが整備されてこなかったことによると思う。またそうしたストーリーを紡ぎ出してプロデュースする努力を怠ってきた。いつまでも辛子明太子と博多ラーメンの街でもないだろう。我が国最初期の稲作集落跡である板付遺跡。須玖岡本遺跡や比恵遺跡など、古代奴国王都、王墓、鉄器製造の初期遺跡などの重要な史跡が集まっている。まさに我が国発祥の地といっても過言でないのに、そうしたことを考古学ファンなど、一部の知る人しか知らない。あの「金印」以外、福岡市民の何人がそれを知っているのだろう。そういう福岡人の私も、福岡に住んでいるときはあまりよくわかっていなかった。福岡市博物館、埋蔵文化財センターなどと連携した周遊コースなどを整備して欲しいものだ。古代倭国ツアーができる。

 1日歩き回って立ち止まる。早良平野の「やよいの風」を感じて辺りを見渡すと誰もいない。ふと子供の頃通っていた小学校の校歌を口ずさんでいる自分に気がついた。「背振の峰を仰ぎ見る 明るい窓のあけくれに 文化の香り身に受けて...」。そういえば福岡市の学校の校歌には背振の峰を歌ったものが多い。

筑前國郡絵図早良郡
江戸時代のもの
(福岡県立図書館蔵)
ほぼ古代早良国の範囲であった
東が那珂郡(古代奴国)
西が怡土郡(古代伊都国)
南が肥前国吉野ヶ里

博多湾からの現在の福岡市展望
正面の山が油山、その左(東)が奴国、その右(西)が早良国
背後にそびえる山並みが脊振の峰々

奴国の背後にそびえる油山は海から見ると堂々とした山容だ

飯盛山
太古には山自体がご神体であったのだろう
飯盛神社参道からの眺め

飯盛山中腹の飯盛神社中宮鳥居

飯盛山からの展望
シーサイドももち、福岡タワー、福岡ドームが見える
かつて古代那の津のあったあたりだ

飯盛山山腹に飯盛神社中宮の大鳥居が見える

まさにご神体山という佇まい

北、すなわち博多湾方向には能古島が見える
「吉武高木遺跡」発掘現場から飯盛山を望む
日向峠を越えると伊都国
「吉武高木遺跡」から東に油山を望む
この先が奴国
「吉武高木遺跡」から南には背振山系を望む
山の向こうには吉野ヶ里遺跡
史跡公園化が進められている
那の津の夕景


チクシの母なる川
豊穣の筑後平野を育む筑後川
 邪馬台国はこの地にあったという九州説が説得力を持つ風景だ




 アクセス:
 市営地下鉄七隈線次郎丸駅下車。徒歩50分。バス乗り換えなら(四箇田団地行き。本数は割に多い)田村町バス停下車徒歩15〜20分。あるいは天神、博多駅から西鉄路線バス四箇田団地行き直通を利用する手も。遺跡への表示が少なく、はっきり言って非常にわかりにくい。今後ハイカーやバイカーにも親切な表示の整備を期待したい。バス停から飯盛山を目印に室見川を渡る。広い田畑の中をひたすら歩く覚悟が必要。しかし、それが爽快なのであるが。




2015年11月5日木曜日

新益京(あらましのみやこ)はコスモス真っ盛り


北に耳成山を背景とした新益京の藤原宮大極殿跡
今は見渡す限りのコスモス畑に


 藤原京という名は正式の名称ではない。日本書紀には新益京(あらましのみやこ)と記述されている。同じく日本書紀にその宮殿を藤原宮と記していることから、後世、藤原京と呼びならわされるようになったという。

 690年持統天皇の詔により造営が始まり694年、飛鳥浄御原宮から遷都。我が国最初の条坊制を伴う唐風都城である。平城京や平安京と異なり、宮殿が都城の中心に位置する。また中国のそれと異なり、都城の周りには堀や城壁のような都市防護施設はなく、中心を走る朱雀大路も狭かったと言われる。当初は大和三山の内側にまとまった都城であると考えられていたが、後世の発掘調査で、この三山を都城の中に包摂する広大なもので、のちの造営された平城京や平安京よりも広かったことがわかっている。すなわち古代最大の京であった。

 一説に、我が国初の条坊制を伴う都城建設は太宰府が最初であるとする見解がある。663年の白村江の戦いに敗れた天智天皇が博多湾岸にあった屯倉(粕屋の屯倉)を現在の太宰府の位置に遷し、唐・新羅連合軍の倭国侵攻を想定して強固な防御都市(北に大野城、南に基肄城、博多湾側には水城を築き、その間に官衙を中心に都城)を設けた。しかし、条坊制が取り入れられた時期がいつなのかは明確になっていない。太宰府の起源についてはまだ解明されていない点が多く、太宰府が最初の条坊制都城であるという説は現在では異説となっている(九州王朝の存在の根拠にする説もある)。

 この時代は天武・持統天皇の律令国家体制の整備、天皇中心の中央集権的支配体制の確立を目指し、倭国から日本へ転換時期で、対外的にも倭国が(日本が)東アジアの大国であることを誇示しようとした時期。そのためには大王が即位するたびに飛鳥で転々と宮殿移すのではなく、唐風の壮大な都城を築く必要があった。いわば新生日本国のシンボル的首都建設事業であった。またいわゆる白鳳文化が花開いたのもこの京でのこと。薬師寺や大官大寺の諸仏がその代表である。

 藤原京は持統・文武・元明三代の京であった。しかし元明天皇は藤原京からの遷都の詔を発し、710年に平城京への遷都が実行された。たった16年で廃都となった都城というわけだ。なぜ?大極殿の火災や大官大寺の消失があったとも言われているが、大極殿の方は発掘の結果火災の痕跡は見つかっていない。一説に水利問題があったとか。特に下水処理問題。南の庶民の住居地区から、北の官衙、貴族の住居地区へと下水が流れる地形であった。このため汚物が宮殿地域に流れ込んでいたという。飛鳥川の下流に宮殿と官衙が設けられたという構造的問題だ。今風に考えるとなんともずさんな都市計画であるということになるが、当時は「国家の威厳」を対外的に知らせることの方が喫緊の課題であったのだろう。「国家の威信」とつくと、いつの時代においても何か大事なことが看過されて、のちに壮大な無駄使いのシンボルになる、というのは洋の東西、古今を問わず起こりうる理なのだろうか。

 おかげさまで、今は広大な史跡に、春は菜の花、夏は睡蓮、ホテイアオイ、キバナコスモス、秋はコスモスが美しく咲き誇る非日常な別世界が現出している。当時まさかそんな美しい史跡公園になることを見越した新都造営計画であったわけではあるまいが...

計画はこのようなものであったろう。
しかしたった16年で廃都となった。
人々が定住する間も無く放棄されてしまったわけだ。
藤原宮朱雀門跡


東には香具山


西には畝傍山


非日常的な景観が広がる


現在も発掘作業が続く
(大極殿跡)
(大極殿跡の基壇に立つ石碑)











2015年11月3日火曜日

Leica SL発表! 〜一眼レフへのリベンジ開始?〜

 



 ついにというか、ようやくというか、ライカが「プロ仕様のミラーレス」(ちょっと形容矛盾っぽいが)SL (Type 601)を発表。11月中旬以降発売だそうだ。その出で立ちはどう見てもデジイチ(デジタル一眼レフ)だが、ライカ社はあくまでも「ミラーレス」だと強調している。一眼レフではないぞ。ミラーがいらない「軽量な」プロカメラだぞと。よほどニコンやキャノンに一眼レフ機で敗れた過去が悔しくて、ようやく時代が巡ってきた、と小躍りしながら「ミラーレス!」と叫んでいるようだ。

 そもそもエルンスト・ライツ社が1954年に発表したの新製品Leica M3の精密なレンジファインダー(距離計連動光学ファインダー)に日本勢は驚愕し、とくにニコンはとてもこれには追いつけないとして、一眼レフ開発に転向したのは有名な話だ。その技術パラダイムシフトがその後のプロ用機材を一変させ、ニコンの一眼レフが市場を席巻し、一眼レフに追いつき追い越せなかった名門ライツ社の凋落の始まりとなった。それだけに一眼レフへの恨みは深い。関ヶ原の戦いで徳川に敗れた毛利、島津と同じ心境だろう。長い雌伏の時代を経てついに歴史的なリベンジの時がやってきた。

 しかし、ミラーレス市場は激戦区。しかも決してライカ社の開発した技術ではないし、むしろ、デジタルカメラ時代に入って一眼レフに代わる(あるいは補完する)カメラとして日本勢各社が競って開発したものだ。SONYなどがハイエンド機を次々と投入するなど先行プレーヤーがしのぎをけずっているので、後発で参入する以上、「ライカならでは」がないと勝てないだろう。その「ライカならでは」がこれまでのようにMシリーズなら独自色が出せるのだろうが。でないとかつてのライカ一眼レフカメラ(Rマウント)の「Leicaflex SL」シリーズと同じ運命をたどることになる。まさか、値段だけが「ライカならでは」じゃあないといいけど。

 ウェブサイトで見る限り「でかい」「重たい」ミラーレスのような。どう見てもニコンD810やキャノン5DIIIクラスの大きさだ。SONYα7シリーズとは比べ物にならない。レンズも新Tマウントズーム(STマウントと呼んでいる)が3本出る。これもとてもでかくて大変そう。中判Sシリーズよりは「小さい」そうな。既存のM/R/T/Sマウントレンズ群もアダプター経由で使えるらしいが、手振れ補正はSTマウントレンズのみとか。ミラーレスというと日本人の感覚では、小型軽量なカメラというイメージだが、ライカ社はそうは考えないようだ。プロ用機材として開発し、なんでもできるデジタル時代のフラッグシップにしようと考えているようだ。SONYもミラーレスを本格的な信頼できる機材へとブラッシュアップしようとしていて、ライカ社もそのコンセプトを追従しているように思える。しかし、違いは、SONYはあくまでも小型軽量を変えない(軽小短薄はSONYのお家芸、いや信仰だ)。

 一方、M Type240は今後どうなる?ライカの看板カメラだから製造をやめないだろうが、デジタルカメラ全盛となり、このままではそろそろレンジファインダー機の限界も見えてきているし、一挙にメインストリームを新シリーズSLへシフトするのだろうか?個人的にはMのハイブリッドビューファインダー(Fujifilm X-Proのような)付きのMaestro III搭載当たりが出ると面白いのだが。光学OVFにデジタルEVFを組み込んだハイブリッドビューファインダーなどは、本来ならばライカ社が開発してしかるべきだったのではないかと思うが、実際には富士フィルムに先を越されてしまった。Mのレンズ資産こそクラウンジュエルなのだから、それを生かしてこそライカだと思うと残念だ。

 ライカ教の御神体はあくまでレジェンダリーMだが、SLは新たな実用デジタルカメラとしてもう一本の柱を立てようというのだろう。そして新しいズーム、AFレンズシリーズをラインアップしようという考えなのだろう。これまで2006年のM8に始まり、かなりデジタル化技術のキャッチアップで苦労してきたライカ社だが、パナソニックとの協業の成果もこれあり、ようやくLeicaQでかなりデジタルカメラとしての完成度が上がった。だから期待してる。ただ、普通じゃ嫌ですよ、ライカなんですから。新たなレジェンドを作り出してもらいたいものだ。

 (追記)
 エントリーレベルミラーレスと位置付けられているLeicaTのファームウェアーがver.1.410にアップグレードされた。これまでTはそのポルシェデザインチームとのコラボレーションによる斬新なデザインと、タッチスクリーンを生かした革新的なユーザインターフェースを導入するなど、新しい軽量ミラーレスシリーズの登場でファンを大いに興奮させた。しかし実機を手にしてフィールドへ出てみると、起動の遅さ、AFの遅さ、せっかくのユーザインターフェースもレスポンスが悪く、サクサク感がない、など、全般にパワー不足のスローなカメラだったということでがっかりしたファンが多い。これならもっと価格が安くて高性能な日本製の方が良かった、と。「ポルシェのボディーにポロのエンジン」状態であった。

 今回のファームウェアーでは以下の点が改善されたという。
1)起動時間の大幅向上(ついでにM Type 240の起動時間も改善してほしい!)
2)AF速度の大幅アップ(2倍?)。
3)タッチスクリーン操作のレスポンス向上(3倍?)。
4)新SLレンズ対応
5)その他のバグ修正。

 なるほど、評判の悪かった点に手が加えられ確かにレスポンスは改善された。一見別物になった感もする。これなら使える。しかし、嫌味な言い方で申し訳ないがこれで「普通になった」に過ぎない。SLがこのTマウントを採用することとなった(新たにLマウントと称す。これまでのTはTLマウントと称するそうだ)のに合わせてアップグレードしたのだろうか?しかしなぜ最初からこれくらいの性能を保証できなかったのか疑問は残る。そうすれば中古ショップに在庫の山はできなかったのではないか。ライカといえどファンの目は厳しい。特にエントリークラスならなおさらだ。







(掲載の写真はライカ社ウェブサイトから引用)




 (その後)
 11月6日、日本でもローンチイベントが行われた。これには行けなかったが、11日から各ライカショップで実機展示が始まったので触りに行ってきた。その感想。

 まず、ミラーレスのイメージで不用意に手に取ると手首を捻挫(!?)する。やはりでかくて重い。しかしボディーは思いの外薄く、グリップは思いの外厚いのでホールドは良い感じだ。手にした質感は非常に良い。アルミ削り出しボディーはソリッドで信頼感が伝わってくる。やはり何と言ってもレンズ(24-90mm標準ズーム)が大きくて重い。MやRレンズ装着すると軽快で取り回しが良いのだが。ニコンの標準ズームより一回り大きく長い。望遠端が90mmまで伸びたのは嬉しいが、その分大きくなったのだろう(f.2.8通しにしていたらさらにでかくなっただろう)。しかし、ボディーに装着したバランスは悪くない。実は本格的に撮影する気ならそれなりの重さとバランスと質感が必要だと、普段から自分自身言っていたことを思い起こした。「ミラーレス」という言葉に惑わされてはならない。感覚的にはプロ仕様の「デジイチ」(ライカは絶対に一眼レフではないと言い張るし、確かにミラーレスなのだが)カメラであると捉えるべき作りになっている。以下に幾つか気づいた点を書き出してみた。

1)EVFファインダーは明るくて視野率も高くて見やすい。これが売りのようだ。
2)ボタン操作はこれまでのニコンやキャノンのそれとはかなり異なり、慣れが必要。よく使うISO,WB,ドライブモード、露出補正はボタン割付しておく必要がある。
3)相変わらず露出補正(私のこだわり)のプライオリティーが低く、メニューから呼び出しておいてボタン割付できるが、いざ使う段になると「ボタン長押し」しないと機能しない。これまでどおりマニュアル撮影優先思想なのだろう。AEになっても妙なところにライカはこだわる癖がある(Mも後になってファームウェアーで改善された)。
4)MレンズやRレンズ使用(アダプター経由で)は快適に行える。むしろこの方がバランスが良い感じだ。ただし手振れ防止は機能しない。
5)MFアシスト機能について、ピント部拡大は左下のボタンを押すとできるが、このボタン位置は如何なものか。左手でレンズ鏡胴部でフォーカシングしながら、左手で同時にボディー背面のボタンを押すのは至難の技。そもそもMのようにフォーカシングとともにオートでズームップするようにしてほしい。今後のファームウェアーで改善されることを期待する。
6)DNGで撮影した画像を液晶画面で再生し、拡大表示すると解像度がえらく悪いのはなぜ?JPGの場合は問題無いが。
7)SDカードスロットは二つ。一方はUHS-II対応。二枚目をバックアアップ用に指定することができるが、RAWとJPGに振り分けることはできないという。ショップの人に聞くとは「ニコンにはそんな機能があるんですか?」とビックリしていてビックリ!

全体的に連写はじめ、レスポンスが向上した。これならストレスなく使えそうだ。価格以外は... 機能もライカらしくなくテンコ盛りだ。AF合焦速度は早くなったが、条件によっては考え込むことがある... あと問題は写りだ。いよいよライカも新しいパラダイムを開いたようだ。おおいに期待したい。

その後:
早くもファムウェアーアップデート(ver.1~ver.1.2)
一番の操作性向上は、上記5)でコメントしたMF時のピント部拡大。ジョイスティックプッシュで拡大できるようになった。

先日ライカジャパンに、前述の使用上の改善要望(露出補正操作の簡易化、DNG再生時の拡大解像度の問題、SDカードスロットをDNG/JPGに分けること)をメールした。
その回答は、概ねポジティブなもの。同様のコメントが他ユーザからも寄せられているようだ。ドイツの開発部門へフィードバックするとのことであった。

その後第二弾:
2016年4月15日、ファームウェアーアップデート(ver.2)
ついに露出補正をダイレクトにダイアルでできるようになった。そして、DNGで撮った画像の拡大表示の解像度が改善された。他にも、AF速度の改善、ほかの修正が行われた。しかし、せっかく2つあるSDカードスロットの利用改善(DNGとJPGを分けて記録する)は入ってない。



2015年11月2日月曜日

平安京ここに始まる 〜東山将軍塚からの眺め〜

東山山頂の「将軍塚」からは京都市内を一望できる。
正面の緑地は京都御苑(御所)。
平安京の大極殿はこの画面の左奥に位置していたが現存しない


 平城京、長岡京からの遷都を考えていた桓武天皇は、側近の和気清麻呂の案内で山背国葛野(かどの)の地、東山の山頂に登り立った。山に囲まれ、豊かな川の流れに恵まれ、風水にかなった地形をみて、ここをあらたな都に決めたという。そして新都鎮護の祈りを込めて、将軍の像を造らせ、それに甲冑をまとわせて埋めたのが将軍塚だといわれている。793年のことだ。そしてわずか1年後の794年には平安遷都がなる。以来、この地は明治の東京奠都までの1000年の都となる。

 今でもここは京都を一望に見渡せる絶好のビューポイントだ。特に清澄な秋の空の下、とても視界が効いてよく見渡すことができる。ここには青蓮院の離れ青龍殿があり、大日如来を祀る大日堂があった。木造のテラスが去年新設され、新たな京都の観光名所として脚光をあびることとなった。ここには青不動(国宝)が安置されている。

 たしかにこうして見渡すと京都は四神相応にかなっている。日本における風水、四神相応は中国における地形の比定とは異なっているそうだが、北に玄武、南に朱雀、東に青龍、西に白虎であることは同様で、平安京について、東青龍を鴨川に、西白虎を山陰道、南朱雀を巨椋池(今は干拓で消滅してしまったが)、北玄武を船岡山にあてる。もっとも比定地には諸説あるようだ。

 京都は日本の首都としては地の利を得たロケーションと言える。東西南北に延びる街道、淀川を経て瀬戸内に延びる水運、琵琶湖の水運など都が置かれる位置としては最適だった。このころはいまだ現在の東北地方は蝦夷の地とされ、朝廷の支配が安定している領域は今よりも日本列島のずっと西に偏っていたのでまさに日本の中心であった。西南の雄藩中心の明治新政府が、徳川幕藩体制の拠点であった江戸の制圧、それを最後まで支えた東北諸藩地域の統治、さらには北海道の開拓などで、都を京都から江戸、すなわち東の京都、東京に移したことで日本の中心がより東寄りになったのは比較的新しいことである。

 京都盆地は、以前の都があった奈良盆地とはどのように異なるのか。奈良盆地は西は河内、難波をへて瀬戸内海に開けて良いが、東へは山に阻まれて都合が悪い。ヤマト王権、さらには朝廷が東国への支配を強め、物流、情報流を活発にするにはやはり遷都が必要であった。飛鳥、奈良からさらに京都へと北に向かって都を移していった。この南北一直線上の遷都にも合理的意味があるのだろう。その地の利ゆえに京都はその後1000年もの間日本の首都として続いたわけだ。

 一方、奈良や飛鳥がシルクロードの東端として、積極的に都の国際化を図り、渡来人コミュニティーが出来ていた国際都市であったのと異なり、京都は国内の物流・情報流の中心としての性格がより濃くなった。すなわち飛鳥倭国時代は蘇我氏のような渡来人コミュニティーを権力基盤とした有力豪族が大王家と姻戚関係を結びつつ、大陸との文化・経済交流を国の安全保障と国富発展の基礎としてきた。しかし白村江の敗戦以降は国内統治体制整備と防衛に邁進し、都には比較的安定した国内の政治経済の中心としての役割が求められるようになる。それでも藤原京、平城京は対外関係を意識した壮大な中国風都城の建設を企図したものであったが、平安京は、菅原道眞の建議で遣唐使が廃止され、国風文化が盛んになる平安時代の象徴的な都であった。ある意味で日本がよりドメスティックで内向きになり平和な時代(平安時代)が続いた。のちの鎖国体制の江戸時代はその再来なのであろう。勿論唐物に対する憧れはあったにしろ、国際関係は、もっぱら都から遠い筑紫の太宰府、鴻臚館を中心とし、むしろ都には外国船を近づけない方策が取られた。これを破ろうとしたのは武家の棟梁平清盛で、瀬戸内海を国際航路として整備し、都に近い福原に国際貿易港を作り、さらには遷都すら企画した。しかし、こうしたグローバル派は歴史上は少数派である。平安遷都は国内と国際を分離する、二元論で生きてゆく時代の始まりであった。

 しかし、そのような遷都の歴史的合理性・意味づけが論じられるのはのちの時代のことである。実はそもそも平安遷都の理由は諸説ありはっきりしない。魑魅魍魎の跋扈する奈良を嫌がり、王位継承争いで非業の死を遂げた早良親王の怨霊から逃避、平城京の貴族政治勢力からの逃避、などなど。必ずしも日本という国家の行く末を展望した政治経済合理性に基づく遷都決定ではなかったのかもしれない。もっともこのころの陰陽道的世界観から見れば「怨霊封じ」は立派な合理的理由だったに違いない。一方で平城京が奈良仏教の拠点となり、仏教勢力が力を持ち始め、孝謙天皇の治世で起こった道鏡事件や、仏教勢力の政治への介入に嫌気がさしたためともいう。桓武天皇の信任厚かった和気清麻呂の遷都進言が大きかった。和気清麻呂といえば宇佐八幡宮のご神託で、道鏡を排して皇統を守った忠臣として語られる。またこの地は渡来系氏族である秦氏の本貫地で、その財力を頼ったとも言われている。太秦の広隆寺はもともとこの地に勢力を持っていた秦氏の氏寺。

 そのため奈良にあった寺の平安京移転を固く禁じた。聖武天皇創建の鎮護国家の寺、東大寺も、西大寺も、藤原京から移転してきた天武・持統天皇の薬師寺、鑑真和上の唐招提寺も移転していない。そして藤原氏の氏寺、興福寺も移転せず。こうして仏教勢力や有力貴族である藤原氏を避けて遷都されたはずなのだが、結果は衆知の通り、平安京は藤原摂関政治の都となり、比叡山や浄土宗、阿弥陀信仰など、新しい仏教勢力の拠点となってゆく(京都にはお寺さんがぎょうさんに居てはりますよね)。皮肉なものだ。さらに平安末期にはその藤原摂関政治や、後白河上皇の院政を脅かす政治勢力、南都北嶺すなわち奈良の興福寺、比叡山延暦寺の僧兵たちが春日大社や日枝神社の神輿を担ぎ出して跳梁跋扈する都となる。やがて朝廷や公家の番兵であった武士が勢力を握り、平氏や源氏の武家政権が誕生する。さらにその後の武家勢力の争いの場として応仁の乱、それに端を発する戦国の世に突入し都が荒廃してゆく。都が活気を取り戻すのは、皮肉にも武家政権の織豊政権から徳川政権になってからである。統治権力の都としてではなく、統治権威のおわします都としてであるが。



将軍塚

鴨川と下鴨神社
手前は京都大学

平安神宮の大鳥居



金戒光明寺

真如堂

青龍殿とガラスの茶室

南禅寺

青龍殿に新設されたウッドテラス



ここからの眺めは絶品
東寺五重塔、京都駅、京都タワー

夕日が二人を照らす

(撮影機材:SONYα7II+Vario Sonnar 24-240mm)