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2018年5月3日木曜日

武蔵寺の謎(その2) 〜天神縁起絵巻「天拝山の段」〜



天拝山山頂からの展望
左が水城をへて福岡/博多方面、正面やや右が大野城、太宰府、筑紫野
手前の緑の中に武蔵寺がある


 天拝山は太宰府都城の南に位置し武蔵寺の背後に聳える山である。もともとは「天判山」と呼んでいたが、あの菅原道真公が登って天に無実を訴えた故事から「天拝山」と呼ばれるようになった。標高は258メートルとそれほど高さはない丘陵性の山であるがが、低山にしては多様な樹相の中の森林浴が楽しめるのと、頂上からの福岡市内、太宰府、筑紫野の眺望がなんといっても素晴らしい。福岡近郊の週末登山ルートとしては人気がある。登山ルートは3本ある。天拝公園から整備された歩きやすいルートもあって、中高年、家族連れ、地元の高校生や小学生がハイキング気分で頂上まで登って行く。もう一本、武蔵寺/御自作天満宮脇から登るルートがある。「天神様の径」と呼ばれていて、道真公が登った路だと言われている。こちらは険しい山道で、歌碑をかねた合目の道標はあるが、基本的には踏み分け路である。道真公の心情を共有し神霊を感じながら登るには良いルートだ。今回はこちらを辿った。8合目あたりからは急斜面になり頂上目前に難儀するがこれを越えて頂上に達した時の爽快感は何にも代え難い。

 関西にいた時は、河内/大和の国境の二上山や生駒山、奈良若草山、山辺の道の竜王山、高取城の高取山などに登り、大和国中、奈良盆地、河内平野を一望して気分爽快であったことを思い出す。もちろん飛鳥の甘樫丘も大好きな「山」?だ。二上山には2回ほど登ったが、一度は新緑の美しい季節であった。目に鮮やかな青葉と、雄岳山頂から眺めるその溢れる緑の大海にたゆたう当麻寺の姿が心に残っている。歴史の舞台をこうして見渡せる山に登るのは楽しい。今回の天拝山も爽やかな新緑の山歩きであった。筑紫太宰府の周囲にも、天拝山の他にも大野山、基山、宝満山などリフレッシュできる山々がある。太宰府に住んでいた時には毎日こうした山に囲まれた「国のまほろば」を体感したものであった。東京にいると、都会のジャングルを徘徊してばかりでこうした歴史の山歩きができないのがフラストレーションである。


 先述のように天拝山は菅原道真公が太宰府配流中に登り天を遥拝した山として人々の語り継がれてきた。道真公は、901年に藤原時平の讒言により太宰府に左遷され、903年には太宰府でこの世を去っている。そのわずかな期間に武蔵寺に参詣し、100余回、境内の紫藤の滝で禊をし、天拝山に登って天を仰ぎ冤罪が晴れることを祈念し続けた。やがてその願いが通じ、天神から「天満大自在天」の尊号が与えられた。道真公は武蔵寺で自らの姿を刻んだ像を作ったと言われている。道真公の死後、武蔵寺境内に社が建てられこの像を安置した。御自作天満宮である。こうした道真公ゆかりの武蔵寺、天拝山である。

 これらの伝承は「北野天神縁起絵巻」に描かれている。縁起絵巻は神社仏閣の創建の由来を記したもので、数多くの寺社それぞれに縁起絵巻が存在している。特に南北朝時代後期の公家文化が武家文化に入れ替わる時期以降に描かれたものが多いという。すなわち神社、仏閣を庇護する朝廷や公家の力が低下し、寺社が経営に行き詰まりつつあった時期である。こうした古刹、古社がいかに由緒正しきもの、霊験あらたかのものかを絵解きでわかりやすく世間に知らしめ、参詣者や檀家を増やすことが目的であったといわれている。したがってできるだけ話を「盛って」そのご利益(ごりやく)と御神威をアピールしようとしたであろう。後世の創作や粉飾も多かったことだろう。北野天神縁起絵巻は国宝を含め、多くの資料が残っている。やはり南北朝時代に書かれたと言われていて菅原道真公の生涯を知る上では貴重な文献資料である。特に巻の2が、藤原時平の讒言から太宰府への配流、太宰府での謹慎の日々、天拝山での無実の祈り、そして非業の死が描かれている。道真公の死後、みやこでは疫病や落雷による火災などが多発し、道真公の怨霊がなせる技と噂された。やがて、怨念封じを行い、天神、雷神となった道真公を祀る社として北野天満宮が設けられた。

 と、ここでいつもの「時空トラベラー」の文献資料の批判的解読という癖が出てくる。道真公に関しては「北野天神縁起絵巻」だけでなく、全国に数え切れないほどの伝承や文書がある。天神様が腰掛けた石だとか、足跡だとか、配流の旅にまつわる「名所」「旧跡」は全国いたるところにある。太宰府天満宮は、道真公の御遺骸を運んでいた牛車の牛が動かなくなってしまったので、そこを墓所とし、その上に安楽寺を創建し、さらに安楽寺天満宮を建てたのが起源と伝わる。それほど人気の天神様なのだし、その御遺徳のなせるわざなのだが、様々な伝承や縁起を突き合わせてみると不可解な面も感じる。例えば、なぜ天皇の忠臣であった菅原道真公が、天智天皇勅願寺である官寺観世音寺ではなく、地元の豪族虎麻呂長者が創建したと伝わる武蔵寺に詣でたのか。そしてそこで禊をして天拝山に登ったと伝わるのはなぜなのか。この場面が「北野天神縁起絵巻」のいわばハイライトシーンになっているわけだ。一方でその観世音寺に関わる道真公の事績は、道真公が自ら詠んだ漢詩「不出門」にある都府樓纔看瓦色(都府楼はわずかに瓦色をみる)観音寺只聴鐘聲(観世音寺はただ鐘声をきく)」のみである。すなわち配所である南の居館(榎社)で蟄居謹慎していて参詣したという記述がない。配所でかの有名な「観世音寺の鐘の音」を聞くのみであったと。ちなみに太宰府政庁へも出仕しなかったと言われている。なのに「北野天神縁起絵巻」では武蔵寺へは頻繁に参詣し天拝山には100回以上も登ったことになっている。太宰府政庁/観世音寺の北の背後にそびえる大野山(大野城のちに四王寺山)は太宰府の守りを固めるため天智天皇により築かれた古代山城である。こちらの方が標高410メートルとより高く天に近いのだが。観世音寺に参詣して大野山に登り天に祈る、というストーリーが生み出されなかったのは何故なのだろう。禊をする「滝」は確かにない。武蔵寺のご本尊は薬師如来で、観世音寺は観音菩薩の寺であることは関係あるのだろうか? いや殷賑な「遠の朝廷(とうのみかど)」太宰府の喧騒を離れた南の鄙の武蔵寺と天拝山。霊力を感じる場所はこちらの方かもしれない。むしろ現世の権威/権力の象徴であり太宰府の重要施設である観世音寺や大野城といった場所では天神様の御神威を描けなかったのかもしれない。


「北野天神縁起絵巻「天拝山の巻」
九州国立博物館蔵

道真公が禊をしたと伝わる「紫藤の滝」
武蔵寺境内にある

御自作天満宮
道真公手彫りの尊像が安置されているという
武蔵寺境内にある

御自作天満宮参道脇に天拝山登山口が

天拝山の登山路
「天神様の路」ルート

低山の割には深山幽谷の趣き

ようやく九合目
左が山頂、右は基山への縦走路

天拝山頂上

北方向、「水城史跡」が見渡せる


宝満山
山岳信仰の霊山
麓の青屋根は九州国立博物館
手前は筑紫野市街

正面やや左奥が太宰府天満宮

道真公はこういう光景を眼下に、天を仰いで無実を訴えたのであろう

大野山(大野城)全景
太宰府都城をほぼ南から北に展望する


大野山(城)山麓の太宰府政庁跡
一丁ことある時には背後の大野城に立て籠もる手はずになっていた

天拝山頂上の「天拝山社」





天拝山中腹にある「荒穂神社」

「シャクナゲ谷」


二日市温泉街にそそり立つ天拝山神社大鳥居
遠くに見えるのが天拝山(御神体山)

二日市温泉「博多の湯」

二日市温泉「御前の湯」
筑紫野市観光案内図から




アクセス:JR二日市駅から二日市温泉街を抜け徒歩10分で武蔵寺、天拝公園。西鉄二日市駅からはバスで二日市温泉10分、あるいは徒歩20分。






2018年5月1日火曜日

武蔵寺の謎 〜藤原虎麻呂とは何者か?〜

武蔵寺「長者の藤」


 武蔵寺(ぶぞうじ)は筑紫野市二日市温泉の近くにある寺で、飛鳥時代創建と言われる古刹である。現在では行政区域としては筑紫野市に立地し、太宰府市ではないが、もともとは太宰府政庁から朱雀大路を真南に下がった条坊制都城の西郭外に位置する。背後には、かの有名な菅原道眞慟哭の天拝山を控える。

 また武蔵寺は、「長者の藤」と呼ばれる樹齢1300年の藤が有名で、地元の人々に親しまれている。毎年4月下旬から5月初めにかけて1メートルにもなる藤の房が無数に垂れ下がり見事である。ツツジやシャクナゲの名所でもあり太宰府に住んでいた時には良く遊びに行った。毎年4月29日に筑紫野市「藤まつり」が開かれるのだが、今年は29日を待たず、大方花が終わってしまった。今年は桜も藤も全てが足早に見頃を過ぎてしまった。

 由緒によれば武蔵寺は、7世紀頃(伝645年?)藤原虎麻呂(とらまろ)という人物により創建されたという。この年代が本当ならば、じつに「乙巳の変」があった時代の創建ということになる。また中国から帰国した天台宗の開祖最澄の開基ともいわれている。また鎌倉時代になると武蔵国池上の日蓮宗の僧侶がここを訪ね、「武蔵寺」と名付けたという。現在の寺号は椿花山(ちんかざん)武蔵寺。天台宗の寺院である。何故「武蔵(むさし)寺」としたのか。ちなみにこの辺りの地名も「武蔵(むさし)」と呼ばれる。何かこの地に「むさし」由来の伝承があったのだろう。

 藤原虎麻呂とは何者であろうか?彼にまつわる虎麻呂長者伝説が地元では語り継がれている。この虎麻呂が山中で怪火を射落としたところ、矢が大きな椿の樹に突き刺さっていた。これは薬師如来の宿る霊木で、お告げによりこれを切り出して薬師十二神将像を彫って安置した。これが寺の建立の由緒、また寺号椿花山の由来であるという。また虎麻呂は子に恵まれず薬師三尊に祈り続けたところ娘を授かったという。また疫病が流行り、多くの民が苦しみ、虎麻呂の娘も病気になった時、夢枕に立った僧侶のお告げにより、近くの葦原の中に湧き出でる温泉を見つけ、それに浸かったところ快癒したという。これが次田の湯、武蔵の湯、すなわち二日市温泉の由来であるという。地元では虎麻呂は大事な長者様で武蔵寺近くの天拝公園には銅像が建っている。

 このような伝承は、室町時代後期から江戸時代初期の「武蔵寺縁起絵巻」のほか、江戸時代の黒田藩の貝原益軒が編纂した「筑前国続風土記」に記されている。また「今昔物語」「梁塵秘抄」にもその名が登場する筑紫の古刹であるが、創建の歴史を語る文献資料は少なく謎が多い。そもそもこの藤原虎麻呂とは一体いかなる人物であったのか。藤原鎌足の孫だとか、壬申の乱で活躍し天武天皇から筑紫の国主を賜ったとか伝わっているが、そうした記録は残っていないし、創建の年代とも合わない。一方で平安時代の人物らしい描写があったりする。実在の人物であったのだろうか。なぜそのような人物が飛鳥古京から筑紫太宰府に来たのか。少なくとも藤原氏一族の中に虎麻呂の記録は見つからない。

 一方で、蘇我馬子の孫、蘇我日向(ひむか)臣無邪士(むさし)という人物が初代の筑紫太宰帥として赴任してきた。孝徳帝の時代で、孝徳天皇の病気平癒を祈願し太宰府に般若寺を建立(654年)したとある。のちに廃寺となり現在は鎌倉時代の石造の七重の塔が残るのみである。実はこの蘇我日向臣無邪士(むさし)が武蔵寺の創建者ではないかとも言われている。すなわち、伝説の長者、藤原虎麻呂とは蘇我日向のことだというのである。

 この蘇我日向は実在の人物で、よく知られた中央政界における政変ののちに、筑紫に赴任してきた。日本書紀の記述にある中大兄皇子。中臣鎌足等による645年の「乙巳の変」である。これにより馬子の子、蝦夷、その孫、入鹿が死に蘇我宗家は滅亡したが、蝦夷の兄弟、蘇我倉麻呂の子である蘇我日向と蘇我倉山田石川麻呂は中大兄皇子と中臣鎌足についてクーデタに加担した。石川麻呂は新政権(孝徳帝)で右大臣にまで昇進するが、日向はこの異母兄弟、石川麻呂を「謀反の疑いあり」として討つという行動に出た。のちにこれは無実であることが判明する(と書紀に記述されている)。これは、新政権後も大きな勢力を保有していた蘇我氏への中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったと言われている。蘇我日向は利用されたようだ。この結果、中大兄皇子により蘇我日向は筑紫太宰帥として筑紫に赴任させられる。これが記録にある最初の太宰帥である。

 この人事、蘇我日向は筑紫に左遷されてきたのか、栄転してきたのか説が分かれる。太宰府というと左遷のイメージが強いが、必ずしもそうとは言えない。特にこの時期は大陸情勢が緊迫し、筑紫の外交防衛面での重要性が高まっていた時期である。中大兄皇子、のちの天智天皇は筑紫経営を重視していた。太宰府のトップ「帥(そち)」はかなり位の高いポジションで、のちの平安時代には皇族のみが付くことができ、現地に赴任しないよう任官であった。実際には「権帥(ごんのそち)」すなわち次官が現地に赴任した。有名な菅原道眞は太宰権帥であった。道眞の左遷で、すっかり太宰府は左遷の地として有名になってしまったが。ちなみに平清盛は太宰大弐(権の帥に代わる次官)を朝廷に要求し、以降代々平家一門が太宰大弐として筑紫太宰府に赴任し、博多津における貿易利権を独占した。

 しかし、この時の蘇我日向は栄転という形をとった左遷の可能性もある。中大兄皇子と中臣鎌足による、乙巳の変の功労者、石川麻呂謀殺の陰謀を封印するための人事というわけだ。赴任後の日向が太宰府でどのような権勢を振るい、生活をしたか記録は残っていない。結構優雅な生活を送っていたのではないかと思う。孝徳帝や天智帝の意を受けて西国経営に手腕を発揮し、般若寺や武蔵寺などの寺院を建立し、後の「遠の朝廷」の基礎を作ったのかもしれない。日向はその後どのような人生を送ったのか。これも記録がなく謎が多い。一説に中央へ戻されたが、壬申の乱では近江朝についたため、天武天皇の時代にまで生き延びたものの、落魄の人生を送ったとか(物部日向と同一視する説)。ともあれここ筑紫太宰府では、日向の事跡が伝説化され、藤原氏由来の「虎麻呂長者」として語り継がれたのかもしれない。正史に時々登場するが歴史の主役ではなく脇役として名を残す謎の人物の一人だ。

 武蔵寺は筑紫最古の古刹であると言われている。ということは天智天皇が母の斉明天皇の追善のため発願し創建した観世音寺よりも古いということになる。観世音寺は斉明天皇崩御の661年に着工したが、完成は746年だと言われている。そもそも太宰府はいつ頃成立したのか(いつ頃消滅したのか)、はっきりした記録がない。日本書紀によれば斉明天皇が百済救援のために軍を率い筑紫に進駐した時には、朝倉橘広庭宮(今の朝倉市)が行在所になり、そこで崩御した。中大兄皇子は現在の福岡市の高宮に前線司令官として駐在したようだ。このころにはまだ太宰府は設けられていなかったのであろうか。百済救済のために出兵した「白村江の戦い」に敗れ撤退ののち、唐/新羅連合軍の列島侵攻を警戒し、博多湾岸にあったと思われる屯倉(ヤマト王権出先拠点。福岡市三宅地区あたりか)を、内陸の現在の太宰府の位置まで後退させ、大野城、基肄城、水城を築いたのが663年。これが太宰府の始まりとも考えられる。しかし、蘇我日向の筑紫赴任は645年の乙巳の変、649年の石川麻呂讒言の後、654年頃ではなかったか。そうだとすると筑紫太宰の成立はもっと早く、武蔵寺もその頃には現在の地に創建され薬師如来を祀っていたのであろう。

 この蘇我日向臣無邪士(むさし)が藤原虎麿のモデルであり、地元では武蔵(むさし)の「虎麻呂長者」に仕立て上げられて行ったのだとすれば、武蔵寺はヤマト中央政界の激変、白村江敗戦後の混乱、草創期の筑紫太宰府を見てきた歴史的な古刹ということになる。面白い。だが、蘇我日向、藤原虎麻呂という謎の多い人物の創建によると言われるだけあって、武蔵寺もいまだ謎多き寺だと言えよう。

武蔵寺山門
(筑紫野市HPより)

武蔵寺本堂と藤

参道
緑濃い境内だ












紫藤の滝
菅原道眞がここで禊をして天拝山に登ったと伝わる


御自作天満宮
新緑が美しい

石楠花谷
しいの花

天拝公園の藤原虎麻呂の像
なぜか平安時代の装束だ

武蔵寺縁起





2018年4月22日日曜日

悪夢

悪夢!

 時々恐ろしい夢を見る。うなされて目が覚める。汗びっしょりになって目が覚めて、ああ夢だったんだ、と我にかえりまた寝る...

 「高校の物理の卒業試験が赤点になってしまった。卒業できない」
 「困った。どうしたらいいんだ。大学入試も合格して進学し、卒業もし、就職も決まって、この間定年も迎えたのに! もう一度人生やり直しか?」

 非論理的なストーリーが夢の常である。あまり同じような夢を見ないものなのだが、こんな夢も見た。

 「数学の授業中、内職で日本史の勉強ばかりしてたので、数学の試験が不安だ。一夜漬けできるのか?無理に決まっている!卒業できるのか?できないに決まってる!」

 この歳になってもこんな悪夢にうなされるなどよほど理数系科目で苦労した経験がトラウマになっているようだ。確かに理科系というよりは文科系人間であったのは事実。一たす一が二になるという自然科学的合理性に違和感を感じていたからだ、などとカッコイイこというつもりはない。必ず答は一つしかないということに疑問を感じる、などと不確実性の時代を生きる今風の考えの持ち主であったわけでもない。別に論理的思考法が苦手だった気もしない。ようは数字に興味を抱かず面白さを感じなかっただけなのだ。今でもツレアイのように数独にハマって、次々上級問題へステップアップしてゆく快感を理解できないのだ。それでも結局、受験勉強の末に苦手な数学を克服し、余裕で合格点を取れるようになったのだが。にもかかわらず今でもあんな夢を見る。仲間には「歴史が覚えられない!」と泣いていた理数系人間もいた。彼らは今頃「日本史で赤点」という悪夢にうなされているのだろうか。

 考えてみるとあのころの国立大学受験は大変だった。ただですら団塊世代のしんがり、毎年入学試験は史上最高の狭き門。なにせ9科目も受けなきゃいかん。文系受験では、現代国語、古文、漢文、英語(リーダー、グラマー)、日本史/世界史/地理/倫理社会/政治経済の中から二科目選択、数学I, IIB、物理/化学/生物/地学の中から一科目選択。よく勉強した。それがこれまでの人生で役に立ったと思う。知識詰め込みというが、若い頃に知識ベースを構築しておかないと、後のロジカルな思考力も、批判精神も、クリエーティブな創造力も、豊かな感性も育たない。学生時代に無理やり覚えた知識が、社会に出て獲得した経験、知見と連鎖して新たな知識体系、思考様式を発展形成する基礎となる。あんなに苦手であった数学や物理も受験勉強で苦労した分だけ、このデジタル全盛、技術イノベーション時代をICT企業人として生き延びることができた。受験勉強という試練を通じて、自己管理とストレスコントロールも出来るのだという自信もついた。人生においてはそんなものまだまだ甘い試練であったこと、ストレスだらけの社会を自ら生き抜くための初歩訓練であったことも後でわかった。なにしろ入学試験なんて「答」がある問題を解けばいいのだから。知識偏重教育の是正、とか「ゆとり教育」とかいって多くの無知を生み出した日本の教育の迷走を考えると次世代の日本は本当に大丈夫かと心配になる。「知」は力なり。それが「答」のない時代を生き抜くための基礎体力になるのだから。

 昨夜は、先ほどの「悪夢」が本当の「悪夢」になるという「悪夢」を見た。やはり日本はもう一回やり直さねばならない。


2018年4月15日日曜日

Leica CL4ヶ月の使用感 そしてまたまたお小言 〜ドイツの技術力と日本のサービス力〜


Leica CL + M/T Adapter + Summilux-M 50.1.4

純正サムレストは分厚くて、装着すると親指が左ホイールに届かない。
少し削ってやると使い良くなった。
最初からこうしたユーザフレンドリーなデザインになっているといいのだが...


 もうライカは買わない、と決意していたのだが、結局Leica CLを入手する羽目になった。CLにはあまり期待していない、と以前のブログ(2017年12月「LeicaCLデビュー」)で述べたが、Mレンズ資産を有効に使うボディーとして、またSLのサブとして悪くないんじゃないかと再考し始めたわけだ。実際使い始めてみるとなかなか良い「お道具」に仕上がっているではないか。何よりもコンパクト。その割にはずっしりとした質量。デザインはやはりヤボ臭いが、使い始めるとそんなことどうでも良くなる。見やすいEVFファインダー。軽快なシャッター音。どれも感性に訴えかける重要な要素だ。特にファインダーの良さは、ある面ではSL以上かもしれない。写欲を刺激する。またフォーカスアシスト機能が使いやすいので、MやRレンズアダプター経由でのMF使用にストレスがないのが嬉しい。これまでのライカデジタル機は、残念ながら故障、プログラムバグが多くて、ユーザをがっかりさせることがあった。しかし、このCLは、ようやくデジタルカメラとしての安定感、実用機として完成度が高まったと感じる。今のところ気になる故障もバグもない。日常の中で軽快に使用していて手放せない相棒になりつつある。なにより貴重なライカレンズ資産(M、R、T)を手軽に利用できるボディーであるコトが嬉しい。ユーザインターフェースにいろいろ意見はあるが、慣れればそれはそれだ。ようやく実用的なライカデジカメが出てきた。

 と言っていたら、またしてもその満足感に水を差すようなトラブル発生(うんざり。もうこの種の話をしたくないのだが、ライカファンとしてあえて物申す)。昨年の12月にCLを入手し、これにVario Elmar-T 18-56 ASPHを装着して撮影を開始。しばらくは問題なかったのだが、やがてスイッチオンにすると、画面がぼやけてシャッターボタン押しても反応しない。スイッチオフにしても画面が消えない。バッテリーを抜いてリセット。しばらくは復活するが、やがて繰り返しているうちに、「Lens Communication Error」のメッセージ表示が。こうしたことが時々発生するいわゆる「時々断」状態がしばらく続いた。そのうち、スイッチオンにしても全く反応しなくなりご臨終。SLに装着しても同じ状況である。

 早速ライカショップ銀座のサービスに持ち込みチェックしてもらうと、レンズ側のROMが壊れているとのこと。ちなみにカメラCLボディー側には全く問題がない。ROMと電子基盤交換のためドイツ送りで修理に3ヶ月との診断。そもそも「ROMが壊れる」ってどういうことなのか?なぜそんなことが起きるのか? パソコンのメモリーチップで雷害などによる瞬間の過電流などで破壊されることはないとは言えないだろうが、デジタルカメラの微弱電流でそんなことが起きるのか?ともあれ修理を依頼することにした。SLレンズのズーム故障に続き、CL新規導入した途端、Tレンズがまたしても3ヶ月故障者リスト入りで、先発登板不可。なんてこった!まあしばらくはMレンズ中心で撮影することにしよう。

 3月に入ってライカショップ銀座サービスから電話が入った。ようやく修理完了かと思いきや、「ドイツから修理に入っていいか?と聞いてきましたが進めていいですか?」と!なんだと? 修理依頼からすでに3ヶ月経過しているのにこれから!!??それじゃあいままで何やってたんだ。問いただすと、保証書コピーをメールにPDF添付して送ってあったのだが、それが「届いてなかったので」との返事。送ったんだから調べろ、とやりとりが繰り返される。 それならそれで、なぜまだ「届いてませんが」と連絡してこないのだ。3か月もほったらかしにして。しかも送付先として教えられていたメールアドレスは間違いで、「そちらに送られても読めません」と木で鼻をくくったような、私の責任じゃありません的な返事。このメールアドレスを教えたのはあなたですぜ! 何をか言わんやだ。即再送したら、「届きましたが保証期限が切れましたので有料修理になります!」。思わず「ワレは客をおちょくっとるのか!」つい下品な言葉が飛び出しそうになった。さすがに温厚な私もキレてしまった。客を怒らせる典型的な応対パターンだ。

 さらに話はここで終わらなかった。結局、4月に入って修理完了の連絡。結局4ヶ月もかかった。修理完了報告書にはROMと電子基盤交換、とだけ書いてある。SLレンズ不具合のときもそうだったが、ナニが原因で不具合が発生したのかは日本側のサービススタッフにも伝えられていないという。ともあれ早速持ち帰って、CLに装着。スイッチオン。画面が現れて、撮影が可能となっていた。やれやれ直ったかと思いきや、またしても先述の症状が出現しご臨終に。なんだゼンゼン直ってないじゃないか!

 もちろんライカ銀座サービスに直行(本件だけで何回ここへ通うことか!)。対応に出たサービススタッフはさすがに平謝りであった。しかし、ROM, 電子基盤交換しても同様な不具合が発生するということは、原因は別のところにあるに違いない。ROM/基盤を破壊してしまう原因を追いかけなければ、永遠に部品交換は続く。素人でも判断できることだ。サービススタッフも同意見。「取り合えずもう一度預からせていただきたい。ドイツ送りだとまた3ヶ月がかかりますが」と。もうこの時すでに呆れてしまっていた私は「まあ気長に原因追求してください」と依頼。

 結局は、日本側ライカジャパンの判断で、ドイツに修理依頼するのではなく、新品と交換することで決着となった。カスタマーフロントとしては正しい判断だ。顧客が抱える問題の解決を優先する姿勢と、ドイツの修理部門に対する不信感の表れといえるだろう。このままドイツ送りになっても、根本原因が解明されない限り同じ事象がリピートされるだけであることは誰の目にも明らかである。まあ、この後ゆっくりドイツで分解でもして不具合発生原因の徹底究明と、今後の製品開発へのフィードバックデータの取得をやってもらいたいものだ。

 今回の件でも、以前のブログ(2016年5月SL Zoom「故障者リスト入り」へ)にも書いたが、ドイツの「技術力、品質」に懐疑的にならざるを得ない。本件ではドイツ側の技術者は、根本の原因究明ができず(あるいは究明努力もせず?)、単純に壊れた部品を交換するだけでコトを済まそうとしたことが問題だ。案の定同じ事象が再発し、コストと時間を浪費し、あわせて顧客の信頼失った。すべてとは思わないが、ライカ本社の技術、品質管理はこの件を見る限りどうなっているのだろう。TQCの考え方が欠如している。サービスフロントへの原因分析結果のフィードバックもないようだ。次の製品開発へのフィードバックもできないというコトだ。だからKAIZENにつながらない。それに対し、日本側の対応は、先述のまるで量販店のアルバイト店員のような無責任でお粗末な応対は別だが(きちんと教育しておいてほしい)、こうした顧客クレームにきちんと対応し、顧客の立場にたって問題解決するサービスサイドの姿勢はさすがだと思う。多分、ドイツ本社との意識ギャップ、サービス品質にうるさい日本の顧客とのギャップにかなり苦労させられていることだろう。日本側のカスタマーフロントにおける努力は是としつつも、ライカ社全体のサービス品質、顧客満足度という点では、まだまだ日本のプロ機材提供各社の足元にも及ばない。ライカ社マネジメントはそこを理解しているのだろうか。NやCや Sに比べれば小規模とはいえライカ社はもっとエレクトロニクスとソフトウェアー分野の技術者を増強すべきだろう。カメラは50年前とは違い、あなた方が嫌っていた電気とプログラムで動く道具になったのだから。ましてカメラは単なるブランドをひけらかす商材ではない。

 相次ぐ不具合でさすがに堪忍袋の緒も切れて、もうデジタルライカ機材を手放すつもりでいたが、思い留まるコトにした。今回もライカ本社は日本側スタッフのカスタマーファーストの対応で顧客を失わずに済んだことを感謝すべきだ。文句言いながら付き合っている我慢強いファンにも感謝して欲しいものだ。「ライカファン」が本当の「ライカユーザ」に定着するためには、敷居の高いライカショップばかり増やすのではなく、日本で修理が完結できるよう信頼できるサービス部隊を充実強化して欲しい。

Leica CL + M/T Adapter + Summilux 50/1.4

Leica CL + M/T Adapter + Summilux 50/1.4

Leica CL + Vario Elmar-T 18-56 ASPH

Leica CL + Vario Elmar-T 18-56 ASPH

Leica CL + Vario Elmar-T 18-56 ASPH






2018年4月10日火曜日

日比谷公園は春爛漫!






 今年は桜の季節が3月中に終わってしまった。ぱあっと咲いてぱあっと散ってしまった。桜が終わると色とりどりの花々が咲き始め、新緑が目に鮮やかな季節になる。その訪れが今年は早い。東京は連日暖かい、というか暑い日が続き、日比谷公園はもう既に春爛漫。恒例のチューリップのほか、ハナミズキも満開。シャガも咲き誇っている。なんとフジも咲き始めている。今年のチューリップは赤と白が中心だ。去年の方が色とりどりでカラフル(フォトジェニック)だった気がする。ともあれ春と秋はここ日比谷公園は都会の楽天地だ。

 ちなみに去年も全く同じタイミングで日比谷公園についてブログを書いた。去年のブログはこちら→ しかも写真まで一緒。二度同じテーマで書くのは能がないが、1年たってもあまり進歩がないので仕方ない。

 いやむしろ最近は退化が始まっている。過去のブログを読み返してみると、我ながら、色々調べ、稚拙ながらも思索を巡らせて書いていることに感心する。あちこち足を使って現場に出かける行動力もあった。しかし、年代が新しくなるに従い、内容が薄っぺらくなって、同じことを繰り返している。特に古代史ネタが激減していて、本も読んでないし、現地にも行ってない。ただ「花が綺麗だ!」というブログしか書いてない。しかも近所の公園の花ばかり。なんとジジくさい。東京という密集都市の集合住宅の一室に引きこもっていて、カメラ担いで「山河を跋渉して寧所にいとまあらず」をやってない。なぜか時間はできたはずなのに行動範囲が極端に狭くなっている。ヤマトやチクシははるけき彼方になってしまった。中途半端に仕事が継続していることが主原因だろう。家族は「やることがあっていいじゃない!」と言う。そうなのだろうか? それだけではない。いろんなしがらみが、よろける足元や薄くなった後ろ髪に絡みついていて自分の自由なんぞはない。どこぞの金貸しのTVコマーシャルのように「解放された感がありますね!」(冗談じゃないぞ。借金のかたに自宅まで取られて、なに喜んでんだ!)なんて能天気なコメントどおりにならない。このままこの体も朽ち果てて脳みそも腐ってゆくのだろうか。恐ろしいことだ。




































(撮影機材:Leica CL + Summilux-M 50/1.4 ASPH,  Leica Q + Summilux 28/1.7 ASPH)