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2020年5月26日火曜日

初期ヤマト王権はどこから来たのか?(第四弾) 〜日本書紀は何を語っているのか?〜


河内と大和の間にそびえる生駒山
カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)は生駒山麓の河内の草香江から大和に攻め入ろうとしたが、ニギハヤヒ(饒速日)の支配下にあった土豪ナガスネヒコ(長髄彦)の抵抗を受け敗退する。
ちなみに現在の東大阪のあたり(画面左)は当時は「河内湾」ないしは「河内湖」という汽水湖であった。
(伊丹空港への着陸ルート直下に見える)

金の鵄に導かれてナガスネヒコを破り、カムヤマトイワレヒコは大和に入った




古事記と日本書紀の違いは?

日本に残る最古の文字で表された歴史資料と言われる古事記と日本書紀は、両方ともほぼ同時期、8世紀初期に成立した。古事記、日本書紀ともに681年に天武天皇の命により編纂開始。古事記は途中の中断を経て711年元明天皇に献上された。日本書記は720年に元正天皇に献上された。両方を合わせて記紀と呼ばれることが多いが、その成立の経緯、編纂の意図、また内容には違いがある。また、日本書紀は平安時代以降も朝廷で基礎的な教科書として定期的に読み習わされ、天皇始め宮廷官人の基礎的な素養として身につけておくべき必須科目となった。紫式部の「源氏物語」に関する一条天皇の「作者は日本書紀の知識がある」とのコメントにその一端が垣間見え、紫式部は「日本紀の女御」と呼称された。一方の古事記は、その後あまり日の目を見ることは少なく、ようやく江戸時代になって本居宣長が「古事記伝」で紹介してから急速に注目を浴びることになる。以降。古事記は国学の基礎史料で、儒教や仏教などの外来宗教や思想を排した日本古来の「やまとごころ」の定本あるいは神道の聖典とみなされ、やがては幕末維新の「尊皇攘夷思想」「王政復古」「皇国史観」へとつながっていった。この記紀の日本史における扱いの違いの背景、理由ははっきりしていないが、日本書紀(日本紀)は藤原不比等が編纂の中心にいたとされ(中臣鎌足の功績など藤原氏の朝廷における事績が述べられている)、長らく藤原氏中心の摂関政治における「定本」の位置にあった。それに対し古事記はいわば日本書紀の副読本のような扱いで、やがて忘れられてしまったのかもしれない。このように古事記は江戸時代の国学思想勃興期に宣長によって再発見され、やがて神道、皇国史観のバイブルのような役割を持たされることになった。そうした成立経緯と、その後の位置付け、そうした時代背景を考慮しながら読んでゆく必要がある。

古事記

(目的)
国内向けに天皇支配の正当性を主として氏族、豪族向けに述べた天皇の私史。
(使用言語)
漢字を用いた和語で書かれた。
(内容)
神話部分が大きなウェートを占める。天皇祭祀の由来の解説と氏族の系譜との関わりが詳細に語られている。特に出雲神話に多くの紙幅を費やしている。
中国を意識しない(朝鮮半島は天皇の支配下にあるという認識のみ)内容。
(構成)
天地開闢〜33代推古天皇まで全3巻
(編者)
稗田阿礼の誦習、太安万侶の筆記、

日本書紀:
(目的)
中国王朝を強く意識した対外向けの「日本」の正史。いわば公式文書。
(使用言語)
漢文で書かれた。編年体で記述され中国の歴史書の形を踏襲している。
(内容)
祭祀の起源を語る神話部分は少なく、神代紀においては高天原の世界が語られず、また出雲神話の言及もないなど古事記とは大きく異なる。神武天皇の東征伝承から人代紀が始まる点は古事記と同じ。また「一書に曰く」として別伝承を補足的に紹介している構成がユニークで中国の史書にもその例がない。なぜこのような補足記事を入れたのかわかっていないが、中国、朝鮮の史料を参照し引用したり、氏族、豪族の伝承に配意した可能性がある。
(構成)
天地開闢〜41代持統天皇まで全30巻系図一巻。
(編者)
川島皇子ほか六人の皇親、中臣連ら六人の官人が命ぜられて編纂開始、天武天皇の皇子、舎人親王に引き継がれて完成。しかし、書紀には序文がないため正確には記述に携わった人物や編者が誰なのかはっきりしていない。また巻によって漢文の表記が統一されていないなど、複数の書き手で分担して執筆した可能性が高い。最近の研究では和風漢文(倭人が書いた)で記述された部分(神代など)があり、正しい漢文(漢人などが書いた)で記述されているところ(歴代天皇の事績)とその差異が明確に読み取れることから、主に渡来人が執筆に関わり、その後に倭人が神代部分を中心に加筆、修正したと考えられている。
日本書紀編纂には藤原不比等(大宝律令制定に関わった)の関与が大きいと考えられている。したがって、有力氏族や廷臣に関する記述の中でも中臣鎌足の功績を大きく描いて見せたと考えられている。


「神武東征」をどう描いてるか?

関心事の「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」に関わるエピソードとしての「神武東征」伝承は日本書紀ではどのように記述されているのか。筑紫の日向の高千穂に降臨したニニギの子孫、カムヤマトイワレヒコ(神武)が筑紫を発って大和に入り、橿原宮で初代天皇(神武天皇)に即位したとする点は古事記と共通する。また大和に入る時のナガスネヒコ(長髄彦)、ニギハヤヒ(饒速日)との戦いの伝承についてもほぼ同様である。カムヤマトイワレヒコが大和に入ろうとした時に、すでに大和には、もう一人の天孫族、ニギハヤヒ:饒速日(物部氏の祖神)が、地元の土豪ナガスネヒコ(登美の長髄彦)の妹を娶り一族を従えて支配していたという。カムヤマトイワレヒコは最初、登美の草香江(現在の東大阪の生駒山麓草香江)からの大和入りを試みたが、これに抵抗するナガスネヒコ(長髄彦)との戦いに苦戦。ついにカムヤマトイワレヒコは草香江の戦いに負け、兄の五瀬命を失う。太陽に向かって東に攻めたのが良くなかったとして、迂回して熊野に周り、苦心しながらそこから吉野、宇陀を経由して地元の勢力(土蜘やヱウカシ、オトウカシ)を退治し、国栖や八咫の烏や金鵄の助けで、ついにはナガスネヒコを破り大和入りしたという話だ。

ただ古事記と少し内容が異なっている。古事記では、ニニギの筑紫の日向への降臨を知ったニギハヤヒはそれを追って地上に降臨してきたと説明している。ただし筑紫ではなく河内に天磐舟(あめのいわふね)に乗り十種の神器を携えて降臨し、カムヤマトイワレヒコより先に大和入りして待っていたとする。そして進軍してきたカムヤマトイワレヒコ(神武)を出迎え、彼を正当な天神の子孫として崇めて服属したとする。いわば従属関係にあることを語っている。一方、日本書紀ではニギハヤヒはニニギの降臨とは全く無関係に河内に降臨したとする。ニニギを追って来たのではなく、河内、大和に先住している天神の子であるとしている。ナガスネヒコがカムヤマトイワレヒコに「自分が仕えている天神の子ニギハヤヒの他に天神の子がいるのか?」と問い、カムヤマトイワレヒコは「天神の子は多くいる」と答えている。すなわち天孫降臨はニニギだけではない、有力な豪族の祖神も天から降臨した神の子孫であるという認識が述べられている。ただそのなかで最も正当な天神の子がカムヤマトイワレヒコであり、それをニギハヤヒも認め服属した。いわば先住者であるが並存関係にあったものが服属したとする。また、日本書紀ではカムヤマトイワレヒコに抵抗したナガスネヒコは、その支配者であるはずの天神の子ニギハヤヒによって殺されたとされている。こうして服属の証としたのだろう。

このように古事記では物部氏の祖神であるニギハヤヒは、神武天皇の祖神であるニニギを追って(あたかも随伴するように)河内に降臨し、大和に先回りしてカムヤマトイワレヒコ(神武)を迎えたかのような筋立てになっているが、日本書紀では降臨の後先を語っていない。その理由は先述のような各有力豪族の、自らも天孫族の子孫であるという伝承、多神教的神話(八百万の神々)の存在を認める立場をとったからだろう。しかしそれにしても、古事記では出雲のオオクニヌシ(大国主)の「国譲り」で「芦原中つ国」はアマテラス(天照)の「天津国」の支配するところとなり、筑紫にニニギが降臨して、その子孫カムヤマトイワレヒコ(神武)が東征して大和に入り日本を治めたとされ(日本書紀にはこの「出雲神話」のストーリーが出てこない)、その際有力豪族の祖神(大伴氏など)はニニギに随伴して高天原から筑紫に降臨してきたとされているのに、物部氏の祖神、ニギハヤヒだけはニニギとは別に河内に降臨したとされている。しかもカムヤマトイワレヒコ(神武天皇)に先立って大和を支配していたとされている。なぜそういったエピソードが必要であったのか。おそらく地元(河内、大和)にニギハヤヒ降臨神話が根強く残って語りつがれていたため無視できなかったのだろう。すなわち物部氏の河内、大和における先住豪族としての存在を否定するにはあまりにも誰にとっても既知の伝承でありすぎた。したがって後から入ってきたカムヤマトイワレヒコが「正当な地上支配者」であることをニギハヤヒが認め(服属し)、先住の物部氏(ニギハヤヒの子孫)を王権(天皇家)を支える有力豪族として記紀に記述することにした。これこそ「ニギハヤヒ(物部氏)による「国譲り」であったのかもしれない。古事記においても日本書紀においても、天皇の祖神(皇祖神)アマテラスを頂点とした各地の豪族、氏族の祖神の序列化とその記述には並々ならぬ苦労があったであろう様子がよくわかる一文である。


ヤマト王権成立の何を語っているのか?

これらの記紀双方の記述(神武天皇の大和入り)の背景にある事情を整理すると、なんらかの史実が浮き出てこないか、そこには初期ヤマト王権成立時の、大和盆地を巡る地域情勢が透けて見えるのではないだろうか。ニニギが「良き地」として降臨してきた筑紫をなぜその子孫は捨てなければならなかったのか。そして大陸の文明から遠く離れ、山に囲まれた「辺境の地」大和盆地をなぜ王権の地「美しき地」としたのか。この間の事情は古事記にも日本書紀にも語られておらず、東征、大和入りが安定した国を治めるための予定の行動であったかのようなストーリーになっている。おそらく記紀の編者としては中国王朝の朝貢/冊封体制に入っていた筑紫倭国(邪馬台国や、奴国、伊都国のような)とは異なる大和倭国、「天皇が支配する日本」への移行を演出して見せたのではないか。あるいは実際に筑紫の一勢力が「倭国大乱」の後に、筑紫倭国連合(邪馬台国連合)を抜けて東へ移っていった出来事の投影であったのかもしれない。しかし、大和入りの模様は比較的詳細に描かれている。大和には(出雲や吉備のようなまとまった有力勢力/国はないにしても)いくつかの先住の土着勢力がいた。その多くは土蜘(つちぐも)と呼ばれる山の民や土豪や、ヱウカシ、オトウカシなどという首領で、外来勢力から自分たちのテリトリーを守ろうと抵抗した。また、地元の神が熊に化身して「皇軍」を眠らせたりというエピソードに投影されるような数々の抵抗勢力の存在があった。その一方で「八咫の烏」や、吉野の国栖部族や、「金鵄」が「皇軍」の進軍を助けたりという、在地の同調勢力の存在を伺わせるエピソードも盛り込まれている。中でも最も強力な抵抗勢力は、先述のトミノナガスネヒコ(登美の長髄彦)である。しかも、彼は単なる土豪ではなく初期ヤマト王権成立以前に河内から大和へ移動してきた天孫族ニギハヤヒ(饒速日)と姻戚関係を結んで、その支配下にいるという。その子孫が物部氏であるとすることから、彼らがすでにある程度大和を実効支配していたのであろう。そこへ筑紫から入ってきた勢力が支配権を争った。このように大和がいまだ支配勢力が固まらない「無主の地」であったとはいえ、王権確立までには多くの地元抵抗勢力との戦いや服属、同盟の物語があったことを窺わせる。こうして大和、河内の地域勢力を固めた後、初期ヤマト王権はここを中心として「四道将軍」や「ヤマトタケル」などの「征討」伝承に象徴される全国統一事業へと進めていくこととなる。日本書紀にはそのような建国・国土統一ストーリーが描かれている。

これらのエピソードは太古の昔(西暦換算で紀元前660年頃)の伝説の天皇神武、すなわちカムヤマトイワレヒコの英雄伝として記述されているが、実際には3世紀後半の「初期ヤマト王権」成立の過程を描いたものであったと考えられる。すなわち初期ヤマト王権(三輪王朝)を開いたミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)の物語であり、彼こそ歴史上の初代天皇(初期ヤマト王権の大王)である。彼は筑紫から大和に入り、三輪纏向の地に宮を開くまでの苦難の王権成立過程を経験した。これを後世(記紀編纂時に)、先述のような王権の東征物語として潤色し、王権(のちに天皇)の権威を神格化するために、ミマキイリヒコイニエ(崇神)の10代前の神話の世界につながる伝説の(架空の)天皇、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)を創造し、その「神武東征伝承」に投影させた。そして先住勢力のニギハヤヒの服属をその「神武東征伝承」に盛り込み、その末裔である物部氏をヤマト王権を支える有力豪族として正史に記録した。ミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)のヤマト王権とと物部氏の間に同盟関係が成立したのであろう。またその一方で、記紀編纂の直前に起きた、記憶に新しい大海人皇子(天武天皇)の王権奪取闘争「壬申の乱」(674年)における大和入りのストーリーを重ね合わせることで、「伝説の神武東征」物語の「リアリティー」演出にも大きく貢献したことだろう。すなわち、神武天皇と崇神天皇と天武天皇の姿を重ね合わせた。日本書紀はこうした皇統の悠久の歴史と天神につながる神聖性を外に向かって語るために、「歴史上の初代天皇」崇神のはるか前に「伝統上の初代天皇」神武を置いた。

ちなみに神武以降、崇神までのいわゆる「欠史八代」の天皇は実在しないとされ、日本書紀においても事績が記録されていない。皇統の神秘性と悠久の歴史を誇り「万世一系」の天皇を伝説化するために神武から崇神までを埋めるために創作されたと考えられている。しかし、これらの八代の天皇は大和盆地西側の葛城あたりに存在の形跡があるとする研究者もある。ミマキイリヒコイニエ(崇神)の「三輪王朝」創設の前に「葛城王朝」があったとする説だ。古事記には武内宿禰の子孫、葛城襲津彦がこの辺りの有力豪族で、4〜5世紀初頭に「河内王朝」の歴代天皇の后を出して姻戚関係を持っていたとある。日本書紀にも記述があり、また雄略天皇が葛城の一言主神にひれ伏したとする伝承が記載されている。この葛城氏の祖先が「葛城王朝」の主で「欠史八代」の天皇だとする。しかし、この説は少数説で、その存在は証明されていない。この一帯に「欠史八代」の天皇の宮跡の比定地の石碑や「陵墓」とされる古墳がある。もちろんこれらは後世(江戸時代、明治以降)に山陵/陵墓比定などの事業に合わせて建てられたり治定されたものである。ただ物部氏が河内から大和に進出する時、さらにミマキイリヒコイニエ(崇神)が大和盆地に入り三輪山山麓に王権を開く時にも、大和盆地の西の葛城山麓に勢力を張っていた土豪、豪族がいて、王権の成立になんらかの関係があった可能性があるのかもしれない。今後の私の研究課題である。


日本書紀は歴史書か?

このように日本書紀は、古事記のような天皇支配/祭祀の神格化/優位性を、諸豪族に対して語る神話部分の記述に注力するよりは、対外的、特に当時の超大国中国の唐王朝を激しく意識した新生「日本」成立経緯と、天皇制(もう一つの皇帝)の神話に遡る悠久の歴史を宣言したものである。したがって歴史書としての形式は中国の史書の様式をよく学び、踏襲して「近代国家」として恥ずかしくないように漢文で(今で言えば国際公用語英語で)記述された格式高い「正史」である。しかし、歴史を研究し、学ぶものとしては、やはり徹底的な文献批判は不可欠で、間違っても記述されていることが全て史実であるように読むことはできない。古事記が国内向けの(豪族に対する)天皇の政治的宣言文書であり歴史書としての性格に疑義があるとされるが、その一方で日本書紀は国の正史であり、史実を記述した歴史書であると単純に見做すこともできない。やはり当時の東アジア情勢を反映した対外的な政治宣言の文書、国家アイデンティティーの表明の文書であるという理解で読み解いてゆくべきであろう。そういう視点から「初期ヤマト王権」はどこから来たのか?という問いに関していうと、古事記とは異なる日本書紀ならではの独自の歴史観が語られているかと言えば、必ずしもそうではない。むしろ神代紀における高天原神話や出雲神話に言及していないなど、初期ヤマト王権と国内の豪族との確執や祭祀に序列化などの国内事情は簡略化されている。一方で人代紀で蘇我宗家の滅亡、藤原鎌足の王権への貢献が喧伝されているなど、編纂に深く関わったとされる藤原不比等のいわば「藤原史観」が表明されている。天皇の起源(ヤマト王権の起源)についてより掘り下げて述べるべきは古事記の方であるので、それを補う記述を日本書紀に求めるのは少々無理かもしれない。一方で、日本書紀は古事記と同様、中国の歴代史書に記述されているような、中国王朝に朝貢し、冊封を受けてきた、かつての筑紫の奴国、伊都国、邪馬台国のような倭国、あるいは大和の「倭の五王」の時代の倭国のような国の姿を記述していない。ここでも太陽神の子孫である「天皇」が太古の昔に建国(中華世界とは全く独自に)した「日本」、そういういわば「小中華世界」観を描き出している。そして新国家「日本」は中国の朝貢冊封国家「倭」ではない、というメッセージが強く主張されている。そういう意味では日本書紀は歴史書ではあるが、「天皇」の「日本」の「紀」として編纂された対外的な政治的宣言書としての性格がより色濃く現れていると言える。しかも、その編纂の中心にいたのは藤原不比等であり、その父である鎌足の事績を強調するなど、政権内部における藤原氏の意思表明も多分に強調されている。


エピローグ

これまで、中国の史書の解読、考古学的研究成果、古事記、日本書紀の文献批判により「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」「どのように成立したのか?」を「妄想」してみたが、やはり未だ明快な答えは見つからない。限られた文献資料と「点」としての考古学的成果だけではカバーできない広大な歴史的空白をどのように埋めるか。さらに、なぜ大和の地が王権の地として選ばれたのか。カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)は、あるいはミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)はなぜ筑紫を出て大和に都したのか。我々は後世の歴史を知っているから大和が王権の地であることを所与のものとしてその理由を問わないが、考えてみると不思議だ。記紀においても、東に素晴らしいところがあるから「来るべくして来た」と言わんばかりの記述しかしていない。その文脈の中からこうした「遷移」背景(国際情勢、国内騒乱、気候変動、資源、農業生産活動、物流など)を読み解くことは難しい。古事記も日本書紀も国家成立と天皇制の起源語っているのだが、それを人間の理性の及ばない神話に求めている点で、歴史書として評価することはできない。別のソースを当たることでよりより「客観的」「俯瞰的」な目線で考察する必要があるだろう。こうしてヤマト王権の姿はいまだ、時空の遥か彼方に霞んだままである。限られた「証拠」だけでは科学的な合理性を持って答えを見つけ出せない以上、妄想力を駆使してその姿を追うしか無いだろう。新型コロナウィルス感染防止対策に伴う外出自粛「すごもり」を奇貨とした妄想旅は、緊急事態宣言解除を機に一応区切りとする。これからさらに新しい妄想旅、いや時空旅に繰り出していきたいと考えるところである。


寛文9年版
日本書紀




2020年5月16日土曜日

東京における「社会的距離:Social Distance」 はどのくらいなのか?


品川駅の平日
(去年の6月)


新型コロナウィルス感染の緊急事態宣言が、東京/首都圏の神奈川/千葉/埼玉三県、大阪府/京都府/兵庫県、北海道の8都道府県を除いて解除された。しかしこれからまたいつ2次感染爆発が起き、緊急事態宣言、外出自粛要請、休業要請があってもおかしくないだろう。日本は「都市封鎖:Lockdown」ではなく、「自粛」「要請」で乗り切ろうとしているが、この手法が成功するか否か、国民も世界も注目している。しかし、東京の過密状況を毎日肌身で体感していると、東京の感染者数、死者数が全国でもダントツである事は不思議ではない気がする。このままの過密状態で、人との「社会的距離:Social Distanceを取る」、「三密(密閉、密集、密接)を避ける」とか、そうした行動変容による「新らしい日常生活:New Normal」に移行といっても、本当に可能なのかと思ってしまう。少なくも欧米スタンダード(グローバルスタンダード?)の社会的距離:Social Distanceとはだいぶ違う尺度を適用しないと実際にはやっていけないような気がする。

1964年の東京オリンピックの前だったと思う、私の小学校の頃、よく地理の授業で世界の「人口密度」というのを習った。一平方キロ当たり、人口が何人か、というやつだ。当時は「道路の舗装率」の世界比較というのもあった記憶がある。どちらもなにか国の豊かさ、貧しさを比較する指標のように見えて仕方なかったことを覚えている。人口密度では東京はいつも世界ランキングの上位を占めていた。大体中国やインドなどアジアの国々の人口密度が高く、欧米の国々のそれが低い、と対比的に記憶していた。そこにすし詰めの満員電車と狭い部屋に大家族、というイメージが重なり、日本の貧しさはなかなか解消しないとの印象を植え付けられたものだ。「道路の舗装率」の方は、オリンピックが終わりその後の高度経済成長の中で、たちまち100%になり、そんな統計数値があったことさえ忘れてしまったが、人口密度の方は、むしろ高度経済成長に伴う人口の都市集中、なかんずく東京一極集中でますます公害問題や、交通渋滞や、住宅不足が問題となったのは記憶に新しい。そしてバブル崩壊、低成長時代を迎えたこの30年で何か変わったのだろうか?

現在はどうなのか?
まず日本国内のランキングで見ると(2010年人口統計)
第一位)東京都 6,015人
第二位)大阪府 4,669人
第三位)神奈川県 3,745人
以下、埼玉県、愛知県、千葉県、福岡県、兵庫県と続く
最下位」北海道 70人

まあ予想の範囲内だ。人口の都市集中、ことに東京一極集中は今も基本的には変わっていない。

ランキングではないが世界の人口密度比較を見てみると(都市圏別2010年)
東京/横浜は4,700人
大阪/神戸/京都が5,700人
ニューヨークは1,700人
ロンドンは5,600人
北京は4,700人
上海は5,500人

人口密度が高いのは
バングラデシュのダッカが41,000人でトップ
インドのムンバイが26,900人、デリーが12,600人
インドネシアのジャカルタが10,200人
フィリピンのマニラが13,800人
メキシコのメキシコシティーが8,600人
ブラジルのサンパウロが6,900 人
などとなっている。

東京は世界の主要大都市並みということになる。ニューヨークが意外に低いことに驚く。おそらくロングアイランドの広大は地域が入っているからだろう。アジアの人口爆発による都市の過密化に拍車がかかっている様子がわかるが、基本的なデモグラフィーはあまり変わっていない印象だ。

それにしても東京が日本における一極集中、超過密都市である事はこうした人口密度の数字を見るまでもなく、ここに暮らすものとしては日々実感できる。日本全体が少子高齢化による人口減少期で、低成長時代に入って久しいとはいえ東京の朝夕の通勤ラッシュは相変わらずだし、渋谷、新宿、銀座などの繁華街に限らず、最寄りのターミナル駅周辺や地元の商店街に行っても、常に人で混雑している。また深夜まで繁華街は人で溢れており「眠らない街」である。すなわち場所、時間を問わず人が溢れている都市である。住宅環境も、高度経済成長期の郊外への広がりが収束し、郊外の大団地が高齢化、空家化し、あの憧れの私鉄沿線の戸建住宅街も高齢化、無人化に伴って、都心回帰ともいえる高層マンションの林立が顕著である。その一方で低層狭小戸建住宅がぎっしり密集しているところもある。私のかつての転勤経験に照らしても、東京は圧倒的にニューヨークやロンドンに比べ「人が多い感」は高い。ニューヨークもロンドンも場所によっては閑散としているところがあるし、街中でも時間によっては人気(ひとけ)がなくなる。いろんな場面で人と人の距離感を保てるし、またそうすることがマナーにもなっている。マンハッタンのミッドタウンで通りを歩いていて人とぶつかることも少ないし、東京のようにぶつかっても「すみません」とも言わない無礼者はいない。大阪だって、かつては繁栄の「大大阪」を謳歌して東京を凌ぐ人口過密であった時代があり、そのせいか今でも混雑したゴチャゴチャした街、という印象があるが、意外にも環状線に乗っても、私鉄に乗っても明らかに東京よりは空いている。梅田(混んでいるというよりは動線が混乱している)を除くと、ミナミも賑やかだが街中にも余裕がある。確かに人と人との距離は近い感じがするが、それは東京と違って知らない者同士のコミュニケーションが成り立っていることを意味しており、それが大阪の魅力にさえなっている。

こうした東京(首都圏)で、3.11の時は電車が止まり「帰宅難民」が路上にあふれた事は記憶に新しい。この私も帰宅を諦め会議室で一晩過ごした。分刻み秒刻みで動いている東京の交通システムは、ちょっとしたことでたちまち機能不全に陥る。すると駅から人が溢れ出す。動いてないと死んでしまう回遊マグロのようなものだ。このトラウマのせいか、今回のコロナ騒ぎで「外出自粛」と言っても、渋谷、新宿、銀座が100%無人になる事はなく、パリのシャンゼリゼやニューヨークのタイムススクエアーのようにホームレスを含めて「人っ子ひとりいない」ことにはならない。減少率が60%とか70%とか言って、それで町は「人っ子ひとりいない!」かのような報道がされる状況であり、私的には結構人が出てるじゃないか!と感じてしまう。そもそも外出自粛と言いながら交通機関はほぼ定時運行(世界に冠たる時間に正確な頻発サービス)。ガラ空きでも走らせているのだから乗る人は乗る。どだい出るなと言っても無理で、堰を閉めてもどうしても溢れ出るものは溢れ出る。動いていないと死んでしまう街なのだ。都市封鎖:Lockdownと自粛要請の違いだけではない。そもそも人が多いのである。

「家に居ろ(Stay Home!)」といっても、狭い3DKの集合住宅や庭もない狭小戸建てプレハブ住宅などの「ウサギ小屋」に何ヶ月もじっとしてられない。学校も閉鎖されていて子供たちも所在なげにぶらぶらしている。ニューヨークの学校のようなオンライン授業が毎日あって自宅にいても勉強で忙しいわけでもない。そもそも「元気な子供達」が部屋でじっとしてるわけもない。通りや街角公園でたむろし騒ぎ回っている。面倒みる親もたまらない。この東京の住宅事情をみれば、「社会的距離:Social Dstance」をとれ、「三密を避ける」など無理であることがわかる。隣の家との隙間もない密集住宅街で、社会的距離:Social Distanceなどという欧米的な尺度は当てはまらないことはすぐわかる。だからなのかオンラインで自宅で仕事するテレワーク:Teleworkも、以前から語られていた割には気がつくと全然定着していない。狭い家にいるよりも混んだ電車に乗ってでも会社へ行くことが息抜きになっているからだ。飲食店だってそうだ。そもそも狭い店内で、テーブル数を減らさなけりゃ(収益を減らすことを意味する)テーブル間の距離を開けるなんて無理だ。まして「袖触れ合うも多生の縁」の居酒屋やラーメン屋では、親密さが売り物というその業態そのものが否定されることになる。

それでも日本の感染率が低く、死亡率が極めて低いのはどうしてなのか?感染者数が少ないのはPCR検査数が他国に比べて圧倒的に少ないからで、実数はもっと多いだろうが、死者数が少ないのは何故なのか。ある人は「日本人の清潔好きのなせる技」と言い、また「自粛要請を守る民度の高さ」と言い、「高度な医療体制のなせる技」と言う。しかし世界のメディアはこの「日本の奇跡」は本当なのか? 懐疑的に断ずる論調もない代わりに、称賛する論調もない。日本で起こっていることをどう評価すれば良いのか考えあぐねているように見える。少なくとも台湾やドイツ、ニュージーランドのような成功例として取り上げるには躊躇があるようだ。政治リーダーの市民の評価についても、クオモニューヨーク州知事や蔡英文台湾総統、メルケルドイツ首相(台湾を除けば多くの感染者を出し、死者を出しているにも関わらず)は高い評価を得ている。一方、日本(感染者数、死者数共に低いにもかかわらず)は、吉村大阪府知事と小池東京都知事の評価が高いものの、安倍さんの評価はいまいちだ。日頃の言動から来る信頼感が祟っているのだろう。国民はよく見ている。もっともアメリカのように非常時にヒーローを求めたがる国民性による評価もあるのだろうが。

東京に住んでる住民の立場から言わせてもらうと、「三密を避けろ」はかなり非現実的な要請だ。なぜなら常に「三密」の中で暮らしているからだ。社会的距離を取れ:Social Distancingも有名無実。列を作って2mも間を空けているとすぐに割り込まれる(というか並んでいると認識されない)。広大なお屋敷に住んでいるわけでもないので密閉空間は避けられない。ラーメン屋に行って個室があるか確認するわけにも行くまい。仕事をしている以上公共輸送機関で通勤せざるを得ない。医療も平時には機能しているが非常時にはほんの少数の重篤患者発生で崩壊しそうになる。もともと狭くて小さな病院内での院内感染が多発する。自主休業要請を守らないパチンコ屋は朝からギャンブル依存症の症状緩和の場になっている。メディアが取り上げる渋谷、新宿、銀座は人出が減ったが、戸越銀座商店街や近所のスーパーは子連れ家族でごった返している。メディアが取り上げない世界では全く異なる光景が現出しているのだ。「民度」という尺度は絶対的なものではない。さらに常々問題となっている官僚の縦割り行政と事なかれ主義の仕事ぶりはこうした非常時には機能しないばかりか、意思決定の遅延、行動の遅延を引き起こしている。中央政府トップと自治体、そして医療や検査の現場の意識のズレも甚だしい。ここはもっと「三密」でやってほしいところだが。国民の自粛に期待するだけではなくこここそ政治のリーダーシップが求められるところだ。

コロナ以後の「新しい平常状態:New Normal」が唱えられ始めている。ワクチンや治療薬が開発されてもコロナが完全に消滅する事はない可能性があるし、近い将来に新たな感染症がまたぞろ猛威を振るう可能性も高い。そういう「感染症ウィルス」と共生する社会の到来に向けて、東京は何よりも一極集中を見直すのが先決だ。社会的距離:Social Distanceを確保し、「三密」を避けるためには、論理的には限られたスペースから一定の人口を減らして密度を減少させるしかないだろう。繁華街や満員電車だけでなく、首都東京の住宅街を歩いてみたらわかる。こんな密集、密着している密閉空間をどうにかしなくてはと考えるはずだ。地震や火事など大規模災害時には消防車も救急車も入れない狭くて曲がりくねった道。東京都が緊急時には「人命に危険が及ぶ可能性の高い地域」と指定している地域でも、それでもなお一軒の住宅跡地にさらに4〜5軒の狭小住宅を密集して建てるということが繰り返されている。これでも人と人との感染が爆発しないのはコミュニティーや隣人同士の行き来がなくて「隣は何をする人ぞ」状態という冷たい人間関係のせいかと皮肉を言いたくなる。スペースを開けるということは関東大震災の時も、3.11の時にも言われた。すべて「喉元過ぎれば熱さ忘れる」。そうやってなんとなく「持続可能な社会」を形成してきたのが島国日本なのだろう。何かあるたびに議論された首都機能移転も、本社機能移転、大学移転も進まない。ネットショッピングは始まっているが、オンラインによるテレワークも進まない。遠隔医療も常に「実証実験中」だし、ディスタンスラーニングも進まない。別に「パソコンが家庭に普及していないから」でも「インターネット環境がない」からでもない。そんな言い訳は世界に誇るICT大国には通用しないのではないのか。やはり「何か」にこだわる価値観。それに基づく仕事スタイル、学習スタイル、生活スタイルが、これらを阻んでいるのだろう。その「何か」の象徴が「東京」なのかもしれない。それを考え、行動を起こす時期が来た。と今はパニックの真っ只中だからそう言っているが、やっぱりやがて忘れるのだ。



住宅地密集化の実例

ここは都内某区の住宅街。江戸時代にはこのあたりは朱引外で、明治維新以降、戦前、戦後を通じて、高級住宅街とは言わないまでも、都心に勤める会社の幹部社員、高級官僚や軍人、大学教授や文人墨客のが好んで邸宅を構えた地区であった。現在も、広大な邸宅(大きな会社の所有になっているが)や、有名人の住処や官舎、社宅が残る閑静な住宅街である。しかし、最近、街の様相が大きく変わり始めている。こうした邸宅は主人を失うと、相続税対策なのであろう、売却されて、次々と瀟洒な住宅(純和風や擬洋風の古民家)が取り壊され、緑生茂る庭が破壊されてゆき、その跡地には複数の狭小プレハブ住宅が所狭しと建てられる。このパターンの「再開発」が急速に進んでいる。極端な場合、ある著名人の旧邸宅跡が10軒のプレハブ狭小住宅で隙間なく埋め尽くされてしまったところも出てきている。マンション化されるところもあるが、第一種低層住宅地域なので高層化できない。で不動産ディベロッパーとしては、土地を細かく分割して一戸あたり売却単価と利益率の高い「戸建」にして売り払う。こうすれば買い手から見ると土地全部は買えないものの、分割すれば土地購入単価が下がり購入しやすくなる。その上に「日本の建築技術の粋」である擬似三階建てプレハブ狭小住宅を建てれば立派なマイホームになる。こうして市場経済的合理性が働く売買が成立するというわけだ。もっともこうした個人の資産としての「不動産」価値が将来にわたって維持できるのかは疑問だ。少なくとも上物の償却期間は短く(不動産というより「耐久消費財」)何年か経つと資産価値はなくなるだろう。後は残された狭い土地だけだが、初期投資を回収できるだけの価格でこれからも売れる保証はない。地域住環境の悪化という悪循環が起きれば尚更だ。したがって中長期的に見ると資本主義的合理性(投資に対するリターンの最適化)が買主に働くかは疑問と言えよう。いずれにせよ昔ながらの(車の所有を想定していない時代の)狭い道路と、一定の広さの庭を有し、外塀に囲まれたセキュリティーのしっかりした邸宅が立ち並ぶ住宅街は、道は狭いままで塀もなく、庭もなく、隣地との境もほとんどない、例外なく一階が車庫スペースとなっているような擬似三階建狭小住宅で埋め尽くされる密集住宅地域に変貌を遂げる。必然的に人口密度は急速に上がっている。社会的距離:Social Distanceを取ることなんぞそもそも難しい街にどんどん変貌している。


かつて春になると白木蓮と桜が美しい庭があった

冬は雪景色...

しかし、空き家になって取り壊しが始まる。
桜も白木蓮の樹も切り倒されてしまった。
あっという間にすっかり更地になってしまった
不動産デベロッパーが土地分譲をはじめた
スペースがあるうちに奥の家も建て替え
一軒分の土地が四軒に分割されて分譲されることになった。
すぐに売れたと見えてたちまち建て始める

それぞれの敷地にそれぞれ違う業者が別々に施工。
こんな狭い土地に器用なものだ!

そして完成。
見事に一軒の邸宅跡に四軒の家が建った
これが東京の住宅街の社会的距離:Social Distance





2020年4月10日金曜日

古書を巡る旅(1) 〜漱石「漾虚集」「こころ」そしてTHE CHISWICK SHAKESPEAREとの出会い〜

ロンドン郊外のクラッパムにある夏目漱石旧居に掲げられたBlue Plaque


古書をめぐる徘徊では、ときに思いがけない出逢いに驚かされることがある。それは時空を超えて起きるのでますますワクワクする。手に入れてから家に帰って、あれこれと調べるうちに思いがけない「物語」がその古書に潜んでいることを発見するのが楽しい。

新橋駅前で開かれる恒例の古書市は楽しみの一つである。ある時ふと立ち寄ったテントで、夏目漱石の「こころ」の大正9年第3版(大正3年の初版)、岩波書店から出版されたものを見つけた。かなり古ぼけていて、背表紙も一部が破れている。今で言う文庫本サイズで、それにしては装丁がなかなか魅力的で思わず手にとってみた。布製の表紙に荀子の言葉を引用したデザイン、見開きに題字、朱印、検印も独自にデザインされたものである。奥付きには象形模様が施されたれたなんとも素敵な本である。今では文庫本というとハードカバーもなく活字だけの簡素な「普及版」というイメージだが、こんなに凝った意匠の文庫版は初めてだ。しかも大正時代の本だ。序を読むとこの装丁は漱石自ら手がけたと書かれている。これにも驚かされた。あの漱石は文豪であるだけでなくクラフトデザイナーでもあったのか、と。この本自体が文学だけではない一個の芸術作品を目指したものであると言えるような出来栄えである。即行ゲットした。なんと千円で...


夏目漱石「こころ」大正9年第3版 岩波書店


また別の時に、同じ新橋駅前の古書市でやはり漱石の短編集「漾虚集」(ようきょしゅう)を見つけた。いまでは「漾虚集」という名称で出版されている作品は見当たらないので、一瞬、漱石の未発見の作品集かと思ったが、中身を見ると馴染みの短編が収録されている。ジャンク箱に入っていて探し出した時は驚いた。復刻版は戦後にも出版されてたらしいがオリジナル版は珍しい。この短編集は漱石の初期の出版で、ロンドン留学から帰国後の英国土産としての「倫敦塔」「カーライル博物館」など現在お馴染みの作品が収録されている。明治39年初版で、のちに版を重ねて大正7年大倉書店印刷で第4版として発行されたものが手元にあるものだ。こちらも文庫本サイズで表紙デザイン、装丁に凝り、題字や挿画が丁寧に施された魅力的な書籍である。こちらは装丁家にデザインを依頼したようで、序で謝辞を述べている。それにしても漱石は書籍の装丁には並々ならぬ関心を持っていたようだ。これはなんと五百円でゲットした。

江戸時代には挿画が豊富な読み本は多かったようだが、表紙や題字、各章のレタリングや書籍自体の装丁、意匠にこだわる動きはまだ珍しかったのではないかと思う。明治以降は書籍の装丁にも変化が現れたのだが、デザインにこれほど凝ることがあったのか。イギリス帰りの漱石はこうした本という「作品」のデザインに大いにこだわっていたようだ。


夏目漱石「漾虚集」大正7年第4版 大倉書店


しかし、話はここで終わらない。その後不思議な接点を英国に発見することになる。

神保町に北沢書店という洋書の古書専門店がある。このオンラインショップでTHE CHISWICK SHAKESPEAREを見つけた。1900〜92年ロンドンのChiswick Press発行の、いわば文庫本版シェークスピア全集である。全巻で39巻あったようだがその一部が出ていた。ウィリアム・モリス(William Morris)のアーツ・アンド・クラフツ(Arts and Crafts)運動の影響を受け、たいへん美しく魅力的な装丁の本である。英国のデザインの先駆者の一人であるバイアム・ショー(Byam Shaw)が装丁を手がけた。表紙は布製で金箔押し(Gilt)のモリス調の植物模様が施され、中にはリトグラフによるイラストが数多く挿入されている。題字から「終わり」まで凝ったデザインの版画プリントが散りばめられている。シェークスピアの文学的な作品としての魅力ももちろんであるが、本そのものがビジュアルアート作品としての魅力にあふれたものである。古書としても人気のあるシリーズで、ロンドンのCharing Cross RoadやTottenham Court Roard, Cecil Courtあたりの古書店で時々見かける。一冊£35〜70程で取引されているようだ。全巻揃い踏みだととんでもない値がつくのだろう。これを東京の神保町で見つけるとは。不思議な縁を感じる。北沢書店もこれに目をつけるとはさすが大したものだ。このうちボチボチ買い揃えて6冊ばかり入手した。


THE CHISWICK SHAKESPEARE Chiswick Press, 1900


しばらくこれらの古書コレクションは我が家の書棚に並んでいたが、ある日ふと考えた。まてよ、漱石が文部省の在外研究員としてロンドンに留学していたのは1900年10月から1902年12月。The Cheswick Shakespeareシリーズがロンドンで刊行されたのは1900−91年。そう!まさに漱石のロンドン滞在中ということになる。しかも漱石は英文学を研究するために渡英し、ロンドン大学(University College)のシェークスピア研究者であるクレイグ(Creig)先生による個人指導を受けていた。漱石の日記によると。まだこの頃はノイローゼにはなっておらず、足繁く、先述のCharing Cross Roadあたりの書店街、古書街をめぐって本を買い集めてた時期であった。まさに出版されたばかりのTHE CHISWICK SHAKESPEAREの美しい装丁の文庫本全集にも書店で出会っていたに違いない。クレイグ先生の勧めもあってシェークスピア関連の著作を多く購入していたようだから、その中にはこのChiswick Pressのシリーズがあったかもしれない。そう思って、先述の「こころ」、「漾虚集」の装丁を眺めていると、そのこだわり意匠のルーツはロンドンで出会ったTHE CHISWICK SHAKESPEAREシリーズにあるのではないかと妄想し始めた。しかも、漱石はシェークスピアだけではなくウィリアム・モリスの信奉者であり彼の詩集を愛したことでも知られる。そうなるとますますこの「ひらめき」の接点を探ってみたくなった。

ちなみに漱石はロンドンで何回か下宿を替わっている。そのうちロンドン南西郊外のクラッパム(Clapham)に下宿していた頃の住宅に、イギリスの歴史上の著名人の旧宅に掲げられるブループラーク(Blue Plaque)が、日本人で唯一掲示されている。近くに「漱石記念館」開館したが、残念ながら資金難から閉館してしまった。あの時行っておくべきであったと後悔している。今は個人の方が自費で離れた場所に再建したと聞く。新たに開館した記念館には漱石関連の書籍が多く収蔵されているそうだ。そこにこのChiswick Press版のShakespeare全集が並んでいるのではないかと期待しつつ、いつの日にか訪ねてみたい。「文化財 守れる人が 文化人」奈良の今井町に掲げられていた標語を思い出す。

話を「漾虚集」とThe Chiswick Shakespeareに戻す。岩波文庫やネットなどで色々調べてみたが、シェークスピアや漱石の研究者、文学者の著作の中で漱石がChiswick Shakespeare全集に言及したり、これを引用したような形跡はどうも見当たらない。もちろん素人なので全ての評論や文献をあたってきたわけではないので、どこかにそうしたつながりを示唆する記述があるのかもしれない。漱石の持ち帰った蔵書の中にそれがあるのかも興味深い。

そう思っていると最近、ネット検索で英国在住の日本人のアンティークショップのサイトにこの関係を想起させる記述がみつかった。イギリスのレディング(Reading)にある「英国アンティーク英吉利物(いぎりすもん)屋」というアンティックショップの店主のブログだ。この店主は1900年版のChiswick Shakespeareの装丁を見て、それが漱石に与えた影響を直感的に感じている。そして「漾虚集」のなかに採録されている「倫敦塔」の戦後版岩波文庫の解説のなかで江藤淳氏が記述した部分を引用し、漱石が本の装丁に凝っていた様を指摘している。下記に再引用させていただく。

「この本の版元に二つの書店が名を連ねているのは、ちょっとおかしな感じがするが、それは『漾虚集』が着色版の扉や挿絵入りのなかなか凝った本だったからだろうと考えられる。つまり、大倉書店が本文を、服部書店がイラストを担当するいうかたちで、この本ができ上がったものと推定されるからである。漱石はその出来栄えに大層満足であった。 
「漾虚集」をこういう凝った本にしようとしたのは漱石自身の意図で、彼はこの本をその頃英国でウィリアム・モリスらによってさかんに試みられていたような、文学と視覚芸術の交流の場にしたいと考えていたのである。(下線は筆者) そういう由来を振り返ってみると、この文庫版が漱石の本文だけで、扉も挿絵も付いていないのは少々残念のような気がしないでもない。」(以上、江藤淳氏の解説から引用) 

そこで店主は「漾虚集」初版本がどのような装丁であったのか、国会図書館のデジタルアーカイブスの画像とChiswick Shakespeareのそれとの比較をしている。その結果、漱石が試みたデザインは、おそらくこのChiswick Press版からきているのであろうと推理している。たしかに見比べるとそうとしか思えない。たいへん面白い論考だ。まさに私の「ひらめき」を見事に解説してくれていることに感謝したい。不覚にも私は江藤淳による岩波文庫の説明文には気がついていなかった。

ところで私が新橋の古書市で入手した「漾虚集」は大正7年版(1918年)で、上述の明治39年(1906年)の初版本よりはかなり後年のものである。国会図書館のデジタルアーカイブスで見る限り、初版本の装丁は確かにChiswick Shakespeareのそれに大きな影響を受けたであろうことが見て取れる。しかし大正9年版は、初版本とはとはかなり異なっていて、装丁がより簡素になっている。とは言っても、形押し模様の入ったハードカバーと、美しくデザインされた版画による題字。それぞれの短編作品のタイトルにも挿画と装飾文字が使用されて、Chiswick版のバイアム・ショー(Byam Shaw)の影響が表れている。さらに先述の、大正3年(1914年)に岩波書店から刊行された漱石集の「こころ」の装丁(漱石自身がデザインを手がけたという)はまさにこのモリスそしてショーの影響によるものであろう。おそらくは1902年に英国留学から帰ったばかりの漱石は、モリスの詩集だけではなく、「生活と芸術を一致させる」というアーツ・アンド・クラフツの考えに共感し、このChiswick Shakespeare全集の意匠に大きな影響を受けて、それを自分の著作集に取り入れようとしたのであろう。それが1906年の「漾虚集」の初版本であった。しかし、「漾虚集」は版を重ねるごとに出版社側の事情(デザイン担当したの服部書店が抜けた?)もあり、徐々に簡素なデザインになっていったようだ。それに漱石自身は飽き足らず(序で装丁作家に謝意を表してはいるが)、「こころ」に見られる岩波版文庫著作集では自ら装丁デザインを手がけたのであろう。表紙はモリス調の植物模様ではなくて、荀子の引用や古代漢字をデザインした模様をあしらっており、日本的、東洋的なテイストである。しかし本を文学表現の印刷媒体に止めるのではなく、ビジュアル的に魅力を持つ「作品」に仕上げることに配意している点はアーツ・アンド・クラフツ運動の精神の現れであろう。序文で自分の出来栄えに満足した様子が語られているのがご愛嬌だ。

漱石は英国留学で何を得てきたのか。何を日本にもたらしたのか。様々な評論がなされているが、この書籍の装丁を大事にする。すなわち江藤淳のいう「本を文学と視覚芸術の交流の場にしたい」という考え方はあらためて見直されるべきと考える。とりわけ現在のデジタルトランスフォーメーションの波が文学作品の書籍にも及び、Kindleのような電子書籍が出現する時代にあって、文字情報だけを伝えれば良いというトレンドに抵抗するような反応が出始めている。すなわち「本そのものが総合芸術作品である」という考え方、書籍への回帰ムーブメントである。そんな時代だからこそなおさら、その源流にあたる考え方を漱石が持ち帰ったことは大きな功績であり、それを振り返る必要があると考える。ヴィクトリア朝末期、産業革命末期のイギリスに起こったウィリアム.モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動が与えた影響は大きかった。漱石はまさにその時ロンドンにいてその時代の空気を吸っていた。しかし、そのモリスの芸術やデザインの根底には日本の浮世絵や琳派の影響が現れていること、そしてそのモリスは漱石や芥川龍之介、宮沢賢治、そして柳宗悦の民芸運動に大きな影響を与えたことを考えると、なかなか意味深長である。時代や国を超えて、文化は相互に交流し接点を増やし進化してゆく。




写真解説


1)夏目漱石著「こころ」(大正3年初版、大正9年第3版 東京神田神保町 岩波書店)





表紙を含む装丁デザインは漱石自身の手になるもの

荀子の言葉を掲載した題字
布製のカバーに古代中華文字のデザイン
奥付

題字と朱印

巻末のデザインにも凝った漱石



2)夏目漱石著 「漾虚集」(明治39年初版、大正7年第4版 東京日本橋 大倉書店 秀英舎印刷)


初版本に比べるとやや簡素なデザインとなった第4版
型押しによる模様が見えるハードカバー版


奥付きのデザインも素敵だ
題字は凝ったシールで

「倫敦塔」

「カーライル博物館」


3)The Chiswick Shakespeare (1900-91, Chiswick Press,  Chancery Lane, London)


Byam Shawデザインの表紙
William Morris調の金地型押しのイラストが美しい



版画プリントが随所に用いられ視覚的にも楽しめる




挿画も豊富だ

「おわり」のシールにもこだわる



全巻で39冊あったようだ



4)今回取り上げた三冊の比較



ほぼ同じ文庫本サイズ
コンパクトで携帯にも便利
どれもこだわりの装丁

ロンドンのセシルコートの古書店街
東京の神田神保町のようなところ
古地図も豊富でその場で額装までしてくれる。
週末の散策にうってつけ
Cecil Court, London






2020年3月29日日曜日

外出自粛の東京にて 〜満開の桜 お花見自粛 春の雪〜

満開の桜、春の雪、花見の自粛、
マスクと傘の通行人が足早に通り過ぎるだけ。
いつもと異なる大井水神公園のプロムナード

東京は暖冬のせいで三月下旬には桜が満開を迎えた。しかし、今年は花見どころではない事態になっている。年明けに中国武漢で発生した新型コロナウィルス感染が世界的に拡大し、東京もここ数日で感染者が急増。都知事はついにこの週末の外出自粛を要請した。二月下旬からは学校も休校。大規模イベントの自粛にともない大相撲大阪場所が無観客試合となるなど前代未聞の事態となっている。この週末は都心もがら空きの状態だ。中国武漢に発し、中国全土、韓国、イラン、イタリアを始めとするスペイン、フランス、ドイツ、イギリスなどの欧州諸国、さらにはアメリカへ飛び火してこの三ヶ月で世界中に急速に感染拡大している。いわゆるパンデミックだ。日本も例外ではないが、これに比べると、日本は今のところ感染者数、死亡者数ともに抑えられ、感染爆発(オーバーシュート:overshoot)は起きていない。日本はクルーズ船感染から、感染クラスターを一つ一つ潰してゆく手法でコントロールし、爆発的感染を抑えてきたが、感染拡大が第二フェーズ(中国以外の海外からの感染流入)に移行してきたため、ここ数日で東京や大阪などの大都市部で感染経路が追えない(クラスターが特定できない)感染が急増しており、いつ感染爆発に移行してもおかしくない事態になっている。とにかく中国武漢やイタリア、スペインなどのような医療崩壊に至ると急激に死者が増加することになる。アメリカがニューヨークを中心にこのフェーズに入っている。日本ではこれを絶対に避けるためには「3密:密接、密着、密閉」を避けるべく外出を「自粛」するように要請されているわけだ。米国ニューヨークのようにたった三週間で感染者が爆発的に増加し、死者が急増している状況が、次に東京で起きないという奇跡のような保証はない。日本の感染症専門家は優秀で、日本モデルを実行し、第一フェーズは成功しているが、第二フェーズでのクラスターコントロールが出来ない感染爆発の可能性を警告している。油断はできない。ここ数日のうちに「外出禁止」による都市封鎖(ロックダウン:lockdown)に移らざるを得ないだろう。

2020年の7月に開催するはずであった東京オリンピック/パラリンピックは来年に延期された。今やオリパラどころではなく延期は仕方がないが、果たしてこのパンデミックが来年までに収束しているのであろうか。中国やイタリア、フランス、ドイツ、イギリス、アメリカなどで、ニューヨークなどの大都市が軒並み都市封鎖(ロックダウン)した中、日本は東京も大阪も、まるで何事もないかのように満員電車で通勤し、若者で賑わう渋谷の飲み屋の密閉空間には連日連夜酔客が押しかけている。学校は休校となり、相撲や野球などの大規模イベントは無観客試合や中止、延期したものの、まだまだ危機意識が低い。ともかくこの週末は「外出自粛」要請で銀座も新宿も渋谷も人出は激減(といってもニューヨークのブロードウェイやパリのシャンゼリゼに比べるとまだ人が多い)。折からの花見シーズンではあるが、今年は人が集まる花見自粛。上野公園も、千鳥ヶ淵も、飛鳥山も、お花見の名所から人は締め出され、桜散策は諦めざるをえない。例年なら出かけたいい京都、奈良大和路の桜も今年は諦めよう。残念だが致し方ない。パンデミックという歴史に記憶される年になったのだから。しかも四月を目前に思わぬ春の雪に見舞われた東京。「外出せず自宅に居ろ!」という神のメッセージだろう。

だが「自宅謹慎」中とはいえ時空フォトグラファー魂がうずく。満開の桜。思いがけない春の雪。そして人気(ひとけ)のない桜の名所。またとない歴史的光景を切り取るチャンスではないか!ということで、雪が降りしきる中、カメラ担いでご近所ブラパチハンティングに出かけた(遠路はるばる桜の名所を巡らないことで「自粛」の意思を示したつもりだが...)。これはこれでまた違う趣の桜見物ができた。雪に凍える満開の桜もまた悪くはない。その満開の桜の下、花見提灯もなくブルーシートで場所取りする花見客もいない公園。歩く人もまばら。たまに通りかかる人もマスクと傘で身を覆いながら、これだけの見事な桜と空からハラハラと落ちてくる白い雪を見るでもなく足早に通り過ぎる。これもまた異様な光景である。こうした非日常的「景色」を後世の「時空トラベラー」のために残しておくのも悪くない。春の雪は儚い。やがて早くもみぞれに変わり、とうとう雨になった。午後には雨も上がり明るくなってきた。かといって花見に繰り出す人で賑わうこともない。今年の春はこうして終わってゆく。さて自宅の「巣篭もり」に戻ろう。株は暴落し、グローバルなサプライチェーンは分断されて製造業は生産停止を余儀なくされ、総じて経済は停滞し、失業者が増え、経済パンデミックがこれに続くのだが、しばらくは大人しくするしかなさそうだ。しかも長期戦だ。感染しないように、感染させないように。そして心のバランスを壊さないように。



この週末は外出自粛要請で町は閑散としてる





オリンピックを目前に設置されたのだが...
例年なら花見宴会のグループで混雑する公園もひっそり
お花見提灯も自粛

JRは通常通り動いてる


去年の光景
去年の桜祭り



春の雪
屋根にはうっすらと積雪