そういう意味では、なるべく写真に現代の造作物や人が入ってはいけない。それらを避けるように撮り、できるだけ時空を超えたその時代の空気を切り取ろうとするが、現代の社会においてそれは、ほとんど困難な作業となる。入江泰吉先生もそれを心がけて何十年も大和路を取り続けることになったと述べておられる。昭和20年代くらいまでは大和路にもまだ古代の景観の面影があった。確かにあの頃の先生の白黒写真には古代の空気と情感が溢れている。今は豊かな田園風景が広がるパースペクティヴの中に「古代都市の滅びの佇まい」という飛鳥の心象風景を見てとることができた。宅地化されて規格住宅が立ち並んだのではそうした心象風景は蘇ってこない。現代の大和路は景観保護と、歴史遺産保護のために開発が規制されたが、それでも甘樫丘から見渡す飛鳥はすぐそこまで宅地開発の波が押し寄せ、今にもその津波にのまれる寸前に、ようやく止まっているという感じだ。まして、そのような景観の破壊はこの東京のような都市部においておやだ。
話を今日の本題に移そう。今回は東海道五十三次第1番目の宿場町、品川宿散策である。江戸四宿の一つで、お江戸日本橋から京三条大橋までの東海道という日本の最も重要な幹線道路の最初の宿場町だ。街は目黒川を挟んで北品川、南品川に分かれ、1600軒、7000人が居住する殷賑な街であった。街道の宿場町というだけでなく、江戸時代を通じて江戸近郊の遊興の地(ここは江戸御府内ではない)として人気があり、近くには花見の名所御殿山もあった。人が集まれば遊廓も賑わい、遊廓があれば人も集まる... 品川は吉原に並ぶ幕府公認の遊廓があり、それは戦後まで続いたという。今は、品川駅の南側、八つ山橋から、北品川、新馬場、青物横丁、立会川さらには鈴ヶ森と昔の道幅で旧東海道が連なっている。しかしかつて多くの人々が往来し、殷賑を極めた品川宿の面影はなく、本陣、脇本陣もその痕跡(広場になり碑が立っているが)を止めていない。幕末には勤皇の志士等が集った土蔵相模がつい最近まで残っていたが、なぜか取り壊されてしまった。今や品川宿は極めて今時の地域の商店街といった風情になっている。
ここには滅びの美しさや、詫び寂びはない。歴史の風情を感じる景観は少なくなってしまった。建物はすっかり今時のものに建て替わってしまい、狭い間口の土地の区画だけが残った。古い町家を探すのも困難だ。つい200年ほどの時間を遡り夢想することも難しいほどに変貌してしまった。ここでは現代的なものを排した写真はもはや撮ることはできない。かつて訪ねた東海道五十三次の48番目の宿、鈴鹿の関宿(以前のブログ、鈴鹿の関宿をご覧あれ)は、往時のままの家並みと町割が残っていたが、首都東京の品川にそれを期待するのは無理だろう。やはり都市化するということは、景観を一変させるということだ。飛鳥は危ういところで大阪のベッドタウン化という都市化をストップして歴史的景観がなんとか残った。鈴鹿の関宿は、幸か不幸か都市化の波に取り残されたために貴重な歴史景観が残った。
しかし、こうした古い建物や景観を博物館的に残すだけでは、未来に引き継ぐ歴史遺産にはならない。そこに生活があり、人がいなければ街として未来に残ってゆくことは難しい。鈴鹿の関宿も家並みは古いが、今を生きる生活の場として人々の暮らしが続いているからこそ街並みが維持されているのだ。ここ品川も、江戸の香りはおろか、昭和の香りも徐々に失せつつあるんじゃないかと心配になる。東京に多くなっているシャッター通り商店街化という衰退だ。地元の人々や商店街の組合や行政が、品川宿の歴史と伝統を生かした町興しに頑張っている。今月、空き店舗を利用して若者たちが「旅」をテーマとしたKAIDO Book Cafeを開店した。日経新聞にも取り上げられちょっとした話題になっている。小さな一歩かもしれないが、新しい宿場町文化と賑わいの復興を歓迎したい。
歌川広重 東海道五十三次品川宿 |
歌川広重 品川宿海上図 |
現在の品川宿 道幅は江戸時代のままだそうだが、街並みに往時の面影を見いだすのは難しい。 |
しかし、今でもそばや江戸前の魚介を食わせる店は多い |
慶応元年創業の「はきもの」丸屋 品川宿の面影を残す数少ない店の一つ |
看板建築 関東大震災後にできた類焼防止の建築様式 こうした昭和の家並みもわずかしか残っていない。 |
江戸時代の宿場町の面影を残す品川寺 街道の山手側にずらりと寺町が形成されていて現在も残っている。 |
今月、品川宿の空き店舗に若者たちが「旅」をテーマとしたKAIDO Book Cafeをオープンした。 新しい宿場町文化と賑わいの復興を歓迎したい。 |