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2015年4月12日日曜日

なぜ古事記・日本書紀には卑弥呼が出てこないのか? ー記紀編纂の時代背景を読み解くー


 日本の古代史、とりわけ古代倭国の成り立ちを文献史学の観点から知ろうとしても、限られた資料しかない。中国の資料としては、最古の地理書、山海経に「倭」が出てくる(日本列島の倭であるか議論あり)、紀元前1世紀の漢書には「百余国」の「倭」が出てくるほか、1世紀頃の倭国の様子を記述した後漢書東夷伝、3世紀の倭国の様子を記述した三国志魏志倭人伝と、その後の5世紀の晋書、宋書などがある。一方、倭国側(日本側)の資料としては、8世紀初期に編纂された古事記、日本書紀くらいしか見当たらない。その元となったと言われる帝記(大王の記録)、旧辞(各氏族豪族の記録)については4〜5世紀の編纂だが、散逸し現存していない。

 ところが厄介なのは、これら数少ない文献資料であるこの中国の史書にある「倭国」の記述と、日本の記紀の記述とのあいだに共通点がなかなか見出せない事である。中国の史書より後に編纂された記紀に(史書を参照したと思われる引用が神功皇后の項に一箇所出てくるが)、本文に中国側の史書に記された内容が全く反映されていない。例えば,記紀には邪馬台国も卑弥呼の存在も出て来ない。奴国や伊都国の存在にも言及していない。奴国王が後漢の光武帝に朝貢して「漢委奴国王」の金印をもらった(江戸時代になって志賀島から発掘され、奇しくも後漢書の記述を証明する物証が出た訳だ。)ことも、倭国王(伊都国王?)帥升が遣使したことも、卑弥呼が魏の明帝に遣使して「親魏倭王」の印綬をもらった事も記述がない。5世紀の「倭の五王」の朝貢・遣使の記録もない。あるいは逸失してしまった帝記、旧辞(記紀の元ネタ)にはそのような記述があったのだろうか?それを記紀編纂時に「誤りを正す」として改ざんしたのだろうか?資料が残っていない今となっては確認しようもないが。

 何故なのか?

 一説に曰く,後漢書や魏志倭人伝に出てくる,奴国、伊都国、邪馬台国などの筑紫の国々(いわばチクシ王権)と、大和地方に興ったヤマト王権とは別の王統であって、その系譜に連続性はないからだとする。したがってヤマト王権、やがては大和朝廷の正史である日本書紀にも、天皇の記である古事記にも、チクシの国々の話は出て来ない。チクシが登場するのはヤマト王権がチクシにその支配権を及ぼした後の話だけだ。と。ちょっと気になる説だが、果たしてそうであろうか。ここではそういう説もある事を紹介するに留めるが、知る限り,ヤマト王権がチクシ王権を打倒したという明示的な記述も考古学的証拠もない。また逆に、チクシ王権が東遷してヤマト王権を樹立したという明確な証拠もない。中国の史書に出てくる「倭国大乱」(2世紀後半)や、日本書紀にある「筑紫磐井の乱」(6世紀前半)、記紀に出てくる「神武東征神話」などの事件・エピソードが何を意味しているのかの検証が必要だろう。

 記紀編纂の時代背景を知るべし。 

 そもそも歴史書というものは必ずしも史実を客観的に記述するものではない。むしろ、「天皇」の記である古事記にしても、「天皇」が支配する国「日本」の正史である日本書紀も、その時代の為政者の統治権威の正当性と、それによる統治の意思を内外に表明するため編纂されたものである。その時点での政治権力者にとっての「正しい歴史認識」の定本として編纂された。日本書紀や古事記を読み解くには、それが編纂された時代背景、政治背景を知らねばならない。時代は、645年の乙巳の変(いわゆる大化の改新)、663年の白村江での敗戦、672年の壬申の乱を経て、天武天皇即位。天武/持統天皇時代へ。「倭国」から「日本」へ、大宝律令の制定、公地公民制、天皇中心の新国家体制の確立、といういわば国の有り様を大きく変えようという、いわば「大宝維新」の時代であった。

(参考:以前書いたブログ:讃良大王(ささらのおおきみ)持統天皇、維新大業の足跡をたどる

 記紀編纂の時代背景としては以下のような事情があった。

 国内的事情:
*氏族・豪族集合体国家(まだ国家の体をなしていなかった)から天皇を中心とした中央集権的な国家体制の確立へ。
*氏族に共立された大王(おおきみ)から神の子孫、天皇(すめらみこと)へ。
*律令制(大宝律令)による律令国家(法治国家)の確立。
*私地私民制から公地公民制へ(氏族豪族の経済・権力基盤を崩し天皇中心へ)。
*八百万の神々(各地の氏族・豪族の神々)から、皇祖神天照大神を最高神とする神々の体系化。

 対外的事情:
*唐・新羅との白村江戦いでの敗戦。その後の国家基盤の建て直しと富国強兵策。いわば安全保障体制整備。
*中国の唐帝国とは一線を画した独立した倭国、いや新しい「日本」を宣言(国家としてのアイデンティティーの表明)。
*天から降臨した神の子孫である「天皇」(天帝)が治める国家、という統治理念宣言。
すなわち、これまでは地上世界を支配する天帝は中華皇帝しかいなかった。蛮夷の国々はその徳を慕って朝貢し、皇帝からその地域の支配圏を認証してもらう(冊封体制)という華夷思想が、この東アジア的宇宙観、世界秩序であった。そこにあらたなもう一つの「日本(ひのもと)の天皇」が支配する宇宙の存在を宣言した。
*換言すれば中華王朝の朝貢・冊封体制からの離脱。


 したがって日本書紀の歴史認識の根幹は、倭・日本の起源は、決して中国皇帝に朝貢し、よって冊封された王たち、すなわち後漢書東夷伝や魏志倭人伝に記述されているような「倭」(自ら名乗ったわけでもない)の奴国王や伊都国王、邪馬台国女王卑弥呼などを祖先とする国ではない。その昔、大陸から渡来した人たちや、彼等の子孫が北部九州や日本列島に定住して水稲農耕をもたらし、形成したムラ、クニが起源となった国ではない。天皇は天から降臨した神の子孫である。太陽神•農耕神アマテラスの子孫である。すなわち自らがその統治の権威と権力を有する存在であって、中国皇帝から柵封された(権威を保証された)「蛮夷の王」ではないぞ、と。「豊葦原瑞穂の国」は、決して中国から伝来した水稲農耕文明が生み出した倭国/日本のことではない。天皇の祖霊神である高天原(天つ国)の神々(天神)が創造した、まさに「葦原中つ国」のことなのだ、と。中国側の視点(華夷思想に基づく蛮夷の国)から記述された史書を引用しなかったのは、このような「歴史観」(あるいは政治思想的主張)が記紀の基本的メッセージとしてあったからではないかと考える。


 倭国/日本の文明はどこから来たのか?

 そのような正史「日本書紀」に書かれた公式ストーリー、政治的主張にもかかわらず、稲作農耕文化が大陸から伝搬してきたこと、鉄資源を大陸に求めるなど、倭国の文明は大陸由来であることは否定しがたい事実である。北部九州を中心に板付遺跡や菜畑遺跡などの初期弥生の農耕集落遺跡が見つかるなどの考古学的発掘がそれを証明している。そもそも「日本書紀」を記述する文字自体が中国からの輸入によるもの。日本書紀は漢文体で、主要な部分は渡来系の史人によって正しい漢文で書かれている。そして、新生「日本」は、世界思想としての仏教を鎮護国家の法とし、中国の律令制を導入し、中国風の都城を建設した。このように大陸文化(さらには人)の流入/受容により倭国が形成されてきた、というのが「正しい歴史認識」であろう。

 しかし、歴史とは先述のように、その時の政治意図に基づいて解釈され利用され創作されるものだ。まして新興「日本」が対外的にその国のアイデンティティーを主張しようという「正史」においておやである。そこで、「大陸伝来」「渡来人」によって水稲農耕文化がもたらされ、原住民であった縄文人と徐々に融合しながら弥生の国々が生まれた、という代わりに、「天から降臨してきた神」によって創造されしものとした。天孫降臨神話の創出である。

 こうした王権が天や神に由来するという国家創造神話は珍しいものではない。朝鮮半島の初期王朝にも穀霊神が天から降りてきてその子孫が王であるという神話がある。後世のヨーロッパにおける王室の権威も、神の子孫だと主張しないまでも、神から与えられた権威/権力という王権神授説から来ている。皇帝、王や天皇という世俗の最高権威は、それを越える天地創造神の存在によってのみ維持されるものなのだ。「神は人を造りたもうた。その神は人が造った。」


 日本版中華思想

 ちなみに、大陸における様々な戦争、政治的闘争、王朝交代の結果,倭国に渡来して来た(亡命して来た、あるいは難民として渡って来た)人々がいる。その他にも大陸と日本列島との間には様々な人の行き来があった。現代のような国境もなければ、国民国家や国民という概念もない時代である。彼等が倭国に様々な技術や文化,ライフスタイルをもたらした。しかし、こうした事実は、記紀においては、彼等は、決して亡命や難民、流民としてやって来たのではなく、天皇の徳を慕って、倭国(日本)へ渡来した「帰化人」であると説明された。これはまさに中国の華夷思想を我が国に持ち込んだものに他ならない。


 このような背景,すなわち中華世界に対抗する「日本版の中華思想」に基づき編纂されたのが記紀である。そういう前提で理解すれば,中国の史書の記述をそのまま引用しない訳が分かるだろう。ゆえに記紀では後漢や魏に朝貢した奴国王も倭王(伊都国王?)帥升も邪馬台国女王卑弥呼も、宋書に記述されている倭の五王も出てこない。記紀編纂にあたり中国の史書を読んだ形跡はあるが、「不都合な真実」を本文には引用はしない。あくまでも中華帝国とは独立した「天皇が支配する」「日本(ひのもと)」であることを強調する意図があったのだろう。


朝貢・冊封体制の変遷

 こうした中国皇帝への朝貢。/柵封による倭国支配の権威付け、という東夷蛮国的秩序は、実は「倭の五王」の時代から徐々に崩れ始めていたようだ。五番目の倭王武は中国皇帝からもらった「安東将軍」という称号を不服とし(高句麗王よりも低い称号だと)、より高い称号(官位・将軍位)を求めたが受け入れられなかった。当時の倭国は、朝鮮半島における権益を主張して、それを中国皇帝に認めさせることに注力していたようだ。それが認められない状況が明らかになるにつれ、朝貢をためらい始めたようだ。すなわち、当時の倭国王には中国を中心とする東アジア的国際秩序に疑問が出てきた。むしろ中華皇帝に対抗して、自らを「治天下大王」と称するようになったり、のちに「天皇」を名乗るようになる。事実、その後、遣隋使派遣まで100年以上に渡って中国皇帝への朝貢使の派遣は途絶える。

 やがて知られているように600年には「遣隋使」が派遣される。小野妹子が携えた推古天皇/聖徳太子から随の皇帝煬帝への親書に「日の出る国の天子日の没する国の天子に申す。恙なきや」とあり、煬帝が「無礼な蛮夷の輩」と怒ったという。これは「日の出る、日の没する」に怒ったのではなく、「天子」がこの世の中にもう一人いる,と言って来た事に怒ったものだ。この世の中に「天帝」は中国皇帝ただ一人、という世界の常識に挑戦したからだ。その後の遣隋使、遣唐使を含め20余回使節が中国との間を往来しているが、いずれも中国皇帝からの「官位」「将軍位」を求めてはいないし、受けてもいない。すなわち遣隋使・遣唐使は「朝貢使・冊封使」ではない。随/唐はこれを朝貢使として扱ったが、倭国側はいわば文化使節(学問僧や留学生)と捉え、もっぱら先進文化の吸収と倭国への持ち帰りを優先した。こうした「日本版中華思想」の創造への系譜が、天武/持統帝の時代の「天皇」宣言、そして日本書紀/古事記における天孫降臨、皇祖神による支配権威の宣言に繋がって行った。


 では記紀は「倭国」いや「日本」発祥の地はどこだと考えているのだろう。

 記紀の建国神話によれば、天孫降臨の地(ニニギ降臨の地)は、「筑紫の日向(ひむか)の高千穂のクシフル岳」である。これは現在の宮崎県日向地方の高千穂(鹿児島説もあるが)だと解釈されている。そしてニニギの子孫である神武天皇は日向の美々津から船出して東征し、年月をかけて近畿大和地方に入り、橿原に即位して朝廷を開いた、というのが日本建国ストーリーだ。すなわちルーツは宮崎だと。弥生時代初期に大陸から水稲農耕文明が伝わり、鉄器が伝わり、様々な文化が伝わり、多くの渡来人が移り住み、弥生のムラ•クニが出現した北部九州ではなく、南方の黒潮海洋民族を起源とする漁労(海彦)、狩猟・採集(山彦)を生産基盤とする縄文文化と生活形態を色濃く残す熊襲・隼人の地、日向がルーツであるという。ここでも筑紫の奴国、伊都国や邪馬台国のあった北部九州が丁寧に除かれている。記紀編纂時点でまだヤマト王権に完全に服属していない熊襲・隼人の地であること、さらにはまだ律令制下の日向国も成立していない時点であることを考えると、なぜこうした建国のストーリーを語ったのか疑問が湧いてくる。

 さらに記紀神話は次のようにも語る。イザナギが黄泉の国から戻り、穢れを落とすために禊をした。その時多くの神々が生まれた。そしてアマテラス・ツキヨミ。スサノオの三貴子が生まれた。同時に綿津見三神、住吉三神も生まれた。それが「筑紫の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)のアワギガハラ」だという。したがってこれも宮崎県日向地方がその地である、と読ませている。ちなみに綿津見三神、住吉三神とも筑紫の那の津を拠点とした安曇族、住吉族の祖霊神である。

 しかし、この神話の編に出てくる「筑紫の日向(ひむか)」がどこなのか?これはやはり北部九州(筑紫)のどこかだと考えるのが合理的だろうと思う。以前のブログで述べたように(筑紫の日向(ひむか)は何処?)、「日向(ひむか、ひなた)」という地名は、太陽に向かう方向を示していて、列島内のいたるところに同様の地名がある。また「高千穂」も必ずしも地名ではなく「気高く神々しい山」を指していて、これも神奈備型の山はいたるところにある。「橘」も地名ではなく海に飛び出した鼻/岬であるとすれば、これまたいたるところに見出される。問題は「阿波岐原」と「クシフル岳」だが、ここがどこかはわからない。いろんな説があるが特定は難しい。しかし、ここで言えるのは必ずしも宮崎県や鹿児島県ではなく、大陸に近い北部九州の福岡県や佐賀県といった地域のどこかではないかということだ。おそらく記紀の編者は、三貴子誕生の地、天孫降臨の地を設定するにあたり、倭国の本来の発祥の地を認識していたと思う。それは列島内で最初に稲作文化が入ってきた場所、すなわち北部九州である、と。しかし、それでは「天孫降臨」族が建国したクニにならない。大陸から渡海してきた異邦人が建国したクニになってしまう。したがって「筑紫」(元々は九州全体を指していたが、記紀編纂時期には北部九州と認識され始めた)ではあるが日向(太陽に向かう地)の高千穂(天つ神が降臨するような気高い山)という、抽象的な地名にした。地名に隠された本当の故地をあえて謎解き風に記述したのかもしれない。

 記紀には「出雲神話」「日向神話」はあるが「筑紫神話」がない。すなわち筑紫(大陸への窓口、北部九州)がヤマト王権、皇統の発祥の地・我が国のルーツであるという認識は示されていない。筑紫の国々の歴史は抹殺されてしまっている。あえて大陸からの人や文化の移入や、わが国における弥生的な稲作農耕文明の発祥の地という歴史的記憶を想起させる北部九州筑紫ではなく、遠い内陸の南九州の、むしろ縄文的な文化を色濃く残す「日に向うどこか」の「気高い山」が「天孫降臨」の地であるとして神秘性を演出して見せた。こうして中華王朝/文明からは独立した国家「日本」、もともと日本列島に「自生」した「豊葦原瑞穂の国」を描き出して見せたのかもしれない。


追記エピソード:

 記紀によれば、神功皇后は三韓征伐したという。その夫、仲哀天皇は「海の向こうの新羅を攻めよ」という神からのお告げがあった時、「そんな国は見えない」とその存在を疑ったために神罰で死んでしまった、と。この記述によればその頃の(どの頃なのか特定できていない?)天皇は新羅の存在を知らなかった事になっている。その存在を神のお告げで知り、さっそく遠征して服属させたとする。このような、いわば「日本版華夷思想」が描かれている。まして中国の皇帝に朝貢したなんてめっそうもないこと。という歴史認識(一説に曰く。女王が魏に遣使したことを記している。ここが唯一日本書紀が中国の史書の記述に言及している部分)が読み取れる。

 ちなみに神功皇后の子、応神天皇は三韓征伐から戻って、筑紫の宇美(魏志倭人伝に出てくる「不弥国」といわれている)で生まれたとされている。北部九州縁の天皇だ。筑紫がルーツの住吉系の神社のご祭神は先の住吉三神のほか、神功皇后、応神天皇が祀られる事が多い。北部九州には神功皇后/応神天皇をご祭神とする神社が多いのはこのためだ。この「三韓征伐」という勇ましい事績が、歴史上のどの時代の誰の事跡に関連しているのか不明である。一説に、672年の斉明天皇・中大兄皇子の白村江出兵の話が過去に投影されているのでは?と言われている。こちらは新羅を服属させるどころか、唐・新羅連合軍に敗北して逃げ帰っているわけである。また卑弥呼は神功皇后であるとする説を唱える人もいる。しかし、では卑弥呼が朝鮮半島に出兵して新羅を服属させたと言うのだろうか。あるいは神功皇后は魏の明帝に朝貢して「親魏倭王」の印綬を受けたというのだろうか。どちらもかなり無理があるように考えるが。





日本初の正史である「日本書紀」

天皇の記としての「古事記」

いわゆる「魏志倭人伝」