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2023年5月18日木曜日

大船の観音様を参拝 〜あのとき寝台特急「あさかぜ」の車窓からの拝んだ観音様に会いにゆく〜


大船駅からの展望


子供の頃福岡に住んでいた私は、夏休みや正月休みになると、東京の祖父母や従兄弟のところへ遊びに行ったものだ。博多から東京まで、夜行寝台特急「あさかぜ」、そうブルートレインで17時間の長旅であった。今の東京/ニューヨーク間の航空直行便が13時間であることを考えると、隔世の感があるが。鉄路による列島横断の遙かなる旅路であった。夕方、午後4:30分に博多駅を発車した「あさかぜ」は、深夜、未明に大阪、名古屋を通過、静岡あたりで夜が明ける。そして、車内では寝台が片付けられ、午前9:00ころ大船を通過。このとき左手の車窓から大船の観音様が見える。車内にチャイムが鳴り「おはようございます。長旅お疲れさまです。あと一時間ほどで終着駅東京です」と車内アナウンスがある。夜行寝台の、眠れたような眠れなかったような目をこすりながら車窓を眺める私に、観音様が「おはよう!さあ、これから東京だよ!」と知らせてくれて、遥けき所までやってきたのだ!と急にドキドキしたのを覚えている。そう大船の観音様は、私にとって非日常世界の入り口に立つ「導き観音」であったのだ。

あれから私は東京に住むようになり、新幹線が博多まで開通し5時間強で行き来でき、飛行機では1時間半でひとっ飛びする時代になり、帰省する時も大船の観音様を福岡/東京との行き来で車窓から拝むことは無くなってしまった。大船には家内の両親が住んだので時々顔を見に行き、駅前の中華と寿司屋でよくごちそうになった。介護が必要になってからは家内が週イチででかけた。また伊豆の隠れ家に行き来することも多くなって、大船は日常生活における馴染みの駅となった。そして東海道線や横須賀線から観音様を拝むたびに、60年前のあの夜行寝台特急「あさかぜ」を思い出したものだった。ブルートレインで東京に連れて行ってくれた父も亡くなり、その父との思い出の詰まったブルートレインも廃止されてしまった。きっと観音様はブルートレインのラストランをも見守ってくれたのだろう。そして大船の義母が亡くなり、義父が亡くなった時も、線路の向こう側で観音様が見守ってくれていた。

そういう思い出の大船の観音様に、今回初めてお参りに行った。いつもそのお姿を車中から見上げ、こんなに身近におわしますのに、なぜか一度も参拝したことがない。子供の頃の「あさかぜ」の思い出も鮮明なのに。気がつくと「あれから60年!」というわけだ。大船駅の西口からすぐに参道がある。急な坂を登ると山門があり、そこから長い階段を登ると、青空に輝く真白き、気高き観音様は小高い丘の上に鎮座まします。上半身だけのお姿である。まるでこの小高い丘の緑を全身にまとって地中から生えてきたようにも見える。胎内には木造の観音様や千佛供養が拝める。観音様は子育てや家内安全、世界の平和を見守ってくださる。これまでのご無沙汰を詫び、ここまでやってこれたことに感謝し、これからもと、しっかりとお参りさせていただいた。ここからは、あの大船駅と東海道線、横須賀線の列車が見下ろせる。もうブルートレインは走っていないのだが。はじめて観音様の目線で下界を見た。


ところでこの大船の観音様、どういう経緯でここ鎌倉市岡本の地に鎮座ましましているのか。ここの案内書を見て初めて知った。そうだったのか、と。

以下「大船観音寺の歩み」から一部を引用

「昭和2年2月、金子堅太郎氏、頭山満氏、清浦奎吾氏、浜地天松氏、花田半助氏らが集まって「観音思想の普及を図り、以って世相浄化の一助となさん」という趣意書を作成(中略)、昭和4年4月14日、観音像建立のための工事が着手されました。しかし、世界恐慌という世相の中で寄付金が思うように集まらず、昭和9年には工事が中断され、観音像は未完のまま23年間放置されることとなりました。...(戦後になって)昭和29年11月2日、財団法人「大船観音協会」が五島慶太氏らを発起人として発足し、(中略)東京藝術大学教授で彫刻家の山本豊市氏の設計、指導のもとに修仏工事が進められ、昭和32年5月18日には起工式が、昭和35年4月28日に落慶式が行われました(以下略)」。現在は観音像の母体は「大船観音協会」から、曹洞宗「大船観音寺」となっている。

なんと発起人は、金子堅太郎、頭山満、浜田天松という旧筑前藩士で、修猷館、玄洋社出身者であった。金子堅太郎は枢密顧問官、大日本帝国憲法起草者の一人で、日露戦争の時にアメリカのルーズベルト大統領(ハーバード留学時代の学友)に働きかけ、日露戦後和平調停に奔走した人物である。頭山満は政界、思想界に隠然たる勢力を誇った玄洋社の頭目であり、戦後はGHQにより極右組織として解散させられた。浜田天松(八郎)も修猷館出身の弁護士で、「金剛経」「観音思想」の熱烈な信奉者であった。彼が取得したこの岡本の地に金剛経の寺を開きそこにこの観音像創建を企画した。清浦奎吾は肥後藩士の子孫で、豊後日田の咸宜園(広瀬淡窓主宰)の出身である。枢密院議長、総理大臣経験者である。いずれも明治維新に乗り遅れた西南雄藩出身の尊王の志士たちで、薩長藩閥政府の専横の前に切歯扼腕した人たちである。しかし、反藩閥政治の動きは自由民権運動などの動きにも連動していったが、いっぽうで国権主義的あるいは国粋的な運動にもつながっていった。昭和初期にあって、日本の西欧的な物質主義による道徳、精神の退廃を憂えてこの観音像を建立し「世相浄化の一助としようとした」という趣意書がこの時代のある種の空気を物語っている。しかし、この後日本は後戻りのできない戦争の時代へと突入してゆく。この観音像創建中断から23年後の戦後になって、ようやく落慶法要となったわけだが、この白衣の観音像は世界の恒久平和を願うシンボルとして再建されることとなった。境内には原爆慰霊碑が設けられている。時代のうつろいを感じさせる。

博多から東京へ向かう車中で拝んだ観音様は、こうした筑前藩、肥後藩出身者が発起人となって創建されたわけだ。その観音像に出会ったことは、どこか彼らと同様、福岡から東京へ出てきた私にとって、単なる偶然ではないような感覚がしてなんとも不思議だ。やはりこの観音様は私の「導き観音」であったのか。





小高い丘から観音様が生えてきたように見える

長い階段を登ると...

観音様がほっこり顔を出す

観音様からの展望
湘南モノレイル

鎌倉方面から大船駅に入線する横須賀線

JR大船駅西口
東海道線と横須賀線が見える


胎内



無病息災 家内安全 子孫繁栄 世界平和を祈る




(撮影機材:Nikon Z9 + Nikkor Z 24-120/4)

参考:

寝台特急「あさかぜ」1956年(昭和31年)〜2005年(平成17年)

博多・東京間 所要時間17時間10分

東京駅18:30発、博多駅11:40着

博多駅16:50発、東京駅10:00着

一日2本に増便

20系客車、個室寝台 A寝台、B寝台

九州からの東京行ブルートレイン

    「あさかぜ」博多発着

    「さちかぜ」博多発着の臨時特急 やがて「さくら」に

    「さくら」長崎発着

    「みずほ」熊本発着

    「はやぶさ」西鹿児島発着

    「富士」大分発着


懐かしの寝台特急「あさかぜ」写真集(Wikipediaより)

東京駅
20型車両

博多駅
九州内交流電化区間の赤機関車
関門トンネル内はステンレス製機関車に付け替えられた

本州内の直流電化区間の機関車

ヘッドマーク


以下は、最後のブルートレイン「富士」乗車の記録(2008年)

ブルートレイン「富士」大分行 東京駅10番線にて(2008年)




A寝台個室車両



A寝台個室通路 有楽町駅通過中

門司に到着(2008年)
これが私にとっての最後のブルートレイン乗車となった

日豊線と鹿児島線の列車分割作業