気がつくと大阪に転勤になって5年も経っていた。その大阪ともついに別れの時が来た。我がサラリーマン人生最後のお勤めで東京へ。なかなか悠々自適させてもらえない。「会うは別れの始め」。祖母の口癖だった。会った喜びの瞬間に,既に別れの時を考えて悲しんでいる。このみごとな諦観... 祖母は悲観論者かと思っていたが、実は哲学者だったんだ...と今理解した。出会いと別れは繰り返す。輪廻転生である。確かに別れは思ったより早くやって来て、そして悲しい。
初めての大阪勤務。初めての土地での単身赴任。その心細さを、関西の風土、文化、人情が慰めてくれた。いや、そんなネガティブな受け止め方ではなく、もっとポジティブに多いに楽しませてくれ興奮させてくれた。「週末は新幹線新大阪駅から帰京」というのが大阪単身赴任者の定番スケジュールであるが、私の場合、「週末はカメラ担いで奈良へ、京都へ、紀州へ、播州へ」であった。私の住んでいた上本町エリアは奈良へのゲートウエー。しかも住所が、なんと父と祖父母が暮らした町のすぐ隣だった。奇遇だ。キット父と祖父母が呼んだのだろう。父の青春時代に「時空旅」する事もできた。
ああ、これから東京での生活が始まる。どないしょう? 週末行くトコあらへん... 引越まで週末はあと二回しか無い。もう一度行っておきたい所,それは今井町。学生時代に初めて訪れ、その時空を超えた町の佇まいに衝撃を受けた、あの今井町だ。私の大和路散策のスタート地点だ。
この「時空トラベラー」ブログも、旅先カテゴリーとしては「奈良大和路散策」が圧倒的に多い。それだけ奈良大和路が好きであちこち廻らせてもらった。海外生活が長かった私のサラリーマン人生。帰国してからの人生の後半戦で赴任した関西。国内で初めての転勤だった。しかし、それは日本人として日本の文化の豊かさ、美しさ、楽しさを知る「知のラビリンス」への旅立ちだった。
特にイギリスに居た時に感じた、ヨーロッパの田舎の美しさ、豊かさ、馥郁たる文化の香り、人々のライフスタイルの美しさは印象的であった。日本は高度経済成長時期で、当時の日本人は古いものよりも,新しいものをより好むというライフスタイルを形成していた。田舎生活よりも都市生活へ。そしてイギリスを英国病の老大国だと揶揄した。しかし、このイギリスの田舎の豊かさを目にして、本当の豊かさとは?という疑問を感じたものだった。確かにバーミンガム、リバプールやマンチェスターなどの産業革命以降に発展した都市は、往年の輝きを失っていた。しかしケントやサセックス、コッツウオルズなどの田舎へ行くとゆったりしたquality of lifeを楽しむ人々がいる。大国の興亡のプロセス、国のライフサイクルにおいて、イギリスは既に都市の繁栄の時代を終えて地方の繁栄の時代に突入していた。
そして、アメリカ・ニューヨークでの生活。この全てがカネを中心に廻っている資本主義の牙城にあっても、実は古い街角や、アートを楽しむ人々の生活が息づいていた。カネじゃない、ビジネス以外の価値観で人生を楽しむ人々が大勢いた。そして皮肉な事に、そうした人々の関心の一つに日本文化があった。フジヤマ.ゲイシャガールではなくて、リサイクル社会であった江戸時代や、中世さらには古代の日本人のエコな生活スタイルに対するものだ。そこから生まれて来た文化、芸術、哲学に関するものだ。もっとも多くのミッドタウンやダウンタウンのニューヨーカー達の関心は「日本株式会社」から中国やアジア諸国の経済成長に移っているが。
日本にもどると、母国は、こうした時空を超えて生き残る本物の価値、美、ライフスタイルが破壊されてしまったようだった。明治の初期の頃の西欧文明一辺倒主義や、廃仏毀釈の嵐の再来か。しかし、日本も世界第二の経済大国の座を中国に明け渡し,韓国の元大統領にも「もはや頼る必要は無い」とバカにされ、かつて「英国病の老大国」とイギリスに向けて発した傲慢な言葉は、はやくもいま自らに向けられている。その一方で「日本再生」に向けて、アベノミクスに一喜一憂しつつも、そろそろ違う価値観の時代に入りつつあるのでは,と予感し始めている。
「往年の名優」時代の舞台がくるりと廻って、イギリスのような「老大国」、いや、「初老大国」「小金持老人国」になりつつ在るこの時期、そろそろ次の価値観を探し始めている。そして関西へ来て、「おお、なんだこんな所に本物の美がまだ生きているじゃないか。歴史に裏打ちされた美的センス,生活スタイルが生きているじゃないか」と気付いた。これまで捨ててしまって顧みなかったもの、気づきもしなかった価値に、ふと目を留める心の余裕が生まれ始めたのかもしれない。
そもそも東京のようなグローバルな大都市は、ある意味世界中どこへ行っても同じ顔を持っていている。各国に一つや二つあるこんな国境を越えて繋がっている都市は、むしろその国を代表する町ではなくなっているのかもしれない。ニューヨーク、ロンドン、香港、シンガポール、上海。もちろんそれぞれに特色を持つが、すでに世界都市として自立してしまっている。北京や上海や広州のような都市に農民工が集まってワイワイやっている姿は、産業革命時代のロンドン、パクスアメリカーナ時代のニューヨーク、バブルエコノミー時代の東京の姿だ。経済発展途上の都市の光景だ。進化の過程でいずれはその時期が過ぎ去る。新しいThe Theory of Evolutionだ。
そして皮肉な事だが、あの凄まじい高度経済成長期の人口の都市への集中化、経済成長の恩恵に取り残された田舎や地方都市にこそ、「再発見」するような価値観や、景観、生活のスタイルが生き残っている。関西にはそうした日本の伝統が息づく町や村がそこかしこにある。大阪の街中にも古い町家が残り、街角にお地蔵さんが祀られている。ある意味偉大な日本の「田舎」だ。何も京都ばかりが日本の文化を体現している町ではない。外国からの観光客や,東京人(その定義は皮肉たっぷりだが)は、「そうだ。京都。行こう」とばかりに集まって、いかにも、という「京都どすえ〜」ショップや「これがはんなりどすえ〜」食事処を廻って喜んで帰って行く。
同じ関西に在る古都でも、奈良はもうチョット通(つう)の行く所だ。飛鳥はさらにアドバンストコース。今井町はニッチコース。奈良は外国人観光客でも、アメリカ人や韓国人や中国人よりも、フランス人、イタリア人観光客が多いと言う。確かにどうも同じガイドブックを手にしている。そして個人旅行を楽しむ旅行者をあちこちで見かける。室生寺、長谷寺でも、バックパッカーの欧州からの若者が十一面観音に手を合わせている姿を見る。五條新町のフレンチレストランは超一だ。
さすがに今井町にはまだ外国からの観光客の姿は少ない。しかし、ここは新たな「日本ふれあい旅」の聖地になるだろう。スポイルされていない伝統的な町並み、何代も続く名家の当主の話は興味が尽きない。土地の古老の伝統的な生活スタイル。農村とは異なる日本人の都市生活の原型がここにある。そうした人の暮らしが魅力的だ。ステロタイプの観光施設が上手に街中から消去されている所がいい。この辺がならまちと違う所か?
今井町の地元NPOの方に伺うと、最近は他の地方の町の例の漏れず、若者がドンドン町を出て行ってしまい(大抵は道が狭くて車が家に停めれない、などという理由だという。地方の若者にとって車は大事なエンタメなのだから)、住人の高齢化が進み,空家が増えていると言う。「ここは近鉄の八木駅からも近くて便利ですねんけど...」と。しかし、これからは高齢化時代。日本は世界最速のの高齢化先進国だ。そのポジションを成長に生かさない手は無いだろう。これはチャンスだ!
今井町に住みたい。ここの町並みを守りたい。ここの生活スタイルを世界に発信したい。インターネット時代なら出来る。バーチャルな世界でのふれあいだけでなく,リアルの世界にも引き込めるだろう。この時代、なにも東京に居なくてもクリエーティブな活動が出来る。情報発信が出来る。どこに居ても世界と繋がっている。今井町が世界へのゲートウエーになる。
という夢を語り始めると、なんだか自己暗示にかかり現実味すら帯びてくる。おお!ますます関西離れ難し。
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2013年6月8日土曜日
2013年5月26日日曜日
三輪山 ー神奈備の麓に日本(ヤマト)は生まれたー
大和にはランドマークとなる山がいくつか在る。飛鳥をシンボライズする畝傍山、耳成山、香具山の大和三山。仏教伝来以降、陽が沈む西方浄土憧れのシンボルとされた二上山。そして仏教伝来以前の自然崇拝という原始神道のシンボル、三輪山である。三輪山は467mの秀麗な三角錐の山で、神奈備の山自体がご神体である。麓にある大神神社(三輪明神)にはご祭神を祀る本殿がなくて、拝殿のみの社殿である。山は禁足地、山中には神の降り立つ依り代、磐座があるという。一木一草に神宿る、千古斧をいれぬ神聖な山、三輪山は太古よりその人間の手が入らない山容が、今でも他の山とは異なる独特のオーラを放ち続けている。
古事記によると出雲の大国主神が、国の統治をまかせていた弟の少名彦神が常世に旅立ってしまったので悩んでいると、神が現れ「自分を大和の三輪山に祀れば国は安泰」と告げたという。そして大国主神によって祀られたその神が大物主神である、と。一方、日本書紀では大国主神が自分自身の和魂を祀ったのが大物主神(すなわち同一神)だとする。いずれにせよ、この大和の三輪山に鎮座した神、大物主神と出雲の大国主神との関係が極めて深い事を示すエピソードである。しかし、この事はいったい何を意味しているのか。
7世紀後半、記紀が編纂される天武/持統帝以降、東国の伊勢に天照大神を祀る社、伊勢神宮が設けられ、神の中の神、すなわち皇祖神として位置づけられるようになる。記紀は、その天照大神の末裔による日本国統治の正統性がモチーフとなっている。しかし、天照大神の子孫であるとする両帝のヤマト王権確立に先立つ倭国には様々な神がいた。その中でも出雲の大国主神は記紀においても主役級の重要な神であった。神話の世界では出雲が「アマテラスへの国譲り」で大和とアライアンスを組んだ事で倭世界が統合に向ったのだという。前述のように大神神社の御祭神は大国主が祀った大物主であるが、このお社は天照大神が伊勢神宮へ勧請される前の元伊勢に一つにもなっている。ということは天照大神を最高位の皇祖神にしたのは大国主/大物主ということになるのだろうか。
ちなみにもう一つの重要な国のひとつである筑紫の宗像三女神は、大陸との航海を司る宗像一族の神で、天照大神の娘達だと言う。筑紫が時をへて大和の支配下に組み入れられて,大陸との交流(「神功皇后の「三韓征伐」伝承に代表される朝鮮半島への進出や白村江の戦いなど)で重要な役割を果たした。筑紫の磐井の「反乱」では宗像氏は磐井に加担せず大和側に立っている。この宗像三女神は筑紫を代表する神だった。しかし出雲の大国主とは異なった形でヤマト王権と寄り添うことになった。
記紀に記述されたこうした各地の神々の話は、どうやらヤマト王権黎明期、3世紀の卑弥呼の邪馬台国、三輪王朝誕生から、空白の4世紀をへて、河内王権が倭国を統一してゆく5世紀の間、多分、三輪山山麓を拠点とした崇神大王に始まる三輪王朝創世期のエピソードを、神代の時代の話に投影したのだろう。三輪山の神の鎮座や、出雲の「國譲り」神話は、出雲が大和に進出した事を暗示しているのか、あるいは出雲が大和の勢力下に入った事を示すものなのか。最近、岩波新書から出版された村井康彦氏の「出雲と大和―古代国家の原像をたずねて」によれば、出雲勢力の大和進出により成立したのが邪馬台国であり、それが衰退消滅し、新たなヤマト王権が生まれたとする論考を展開している。神武東征伝承は、あらたな勢力のヤマト侵攻を後世に脚色したものだという。すなわち邪馬台国とヤマト王権に連続性はないとする。興味深い。
しかし,記紀の記述にある神話ストーリー以前から、三輪山の崇拝には、八百万の神々、一木一草に神が宿る,自然崇拝、アニミズムを基本とした原始神道の姿がそこにあった。おそらくは弥生、縄文の時代にさかのぼるであろう。奈良盆地を取り巻く大和青垣の中にあって、神奈備型の独立した山容は、そのことを納得させるに充分な神々しさを持っている。三輪山の背後、東から太陽が昇り、三輪山を赤く染めながら西に沈む。その時の空の色、雲間から地上に差し込む光芒を観ているとそこに人知の及ばぬ力の存在を確かに感じることが出来る。神とはこのような光景のなかから生まれて来るものなのだろう。まさに、権力者達によって(記紀により)ヤマト政権のレジティマシーを権威付けるシンボルとして崇められてもおかしく無い存在感を持っている。「神は人間を造り、その神は人間が造った」と。そして、この三輪山の麓に「日本」という国家が始まった。ヤマト(日本、倭、大和)の名は、三輪山の麓(山の麓、すなわちヤマト)に生まれた。
(三輪山。この山自体がご神体。一の鳥居の奥、山の麓に大神神社の拝殿があり、ここから神奈備山を遥拝する)
(一の鳥居は昭和59年の創建になる新しいものだが、三輪の地に異彩を放っている。)
(三輪山は禁足地であるが、許可を得て定められた登山道を登ることが出来る。ただし、一木一草、小石一つ持ち出す事が禁じられ、山中で写真撮る事も禁止されている。)
(飛鳥の甘樫丘から望む三輪山。どの方角から眺めても美しい形をしている。)
(三輪山の日の出。出典:近畿日本鉄道ウエッブサイト)
古事記によると出雲の大国主神が、国の統治をまかせていた弟の少名彦神が常世に旅立ってしまったので悩んでいると、神が現れ「自分を大和の三輪山に祀れば国は安泰」と告げたという。そして大国主神によって祀られたその神が大物主神である、と。一方、日本書紀では大国主神が自分自身の和魂を祀ったのが大物主神(すなわち同一神)だとする。いずれにせよ、この大和の三輪山に鎮座した神、大物主神と出雲の大国主神との関係が極めて深い事を示すエピソードである。しかし、この事はいったい何を意味しているのか。
7世紀後半、記紀が編纂される天武/持統帝以降、東国の伊勢に天照大神を祀る社、伊勢神宮が設けられ、神の中の神、すなわち皇祖神として位置づけられるようになる。記紀は、その天照大神の末裔による日本国統治の正統性がモチーフとなっている。しかし、天照大神の子孫であるとする両帝のヤマト王権確立に先立つ倭国には様々な神がいた。その中でも出雲の大国主神は記紀においても主役級の重要な神であった。神話の世界では出雲が「アマテラスへの国譲り」で大和とアライアンスを組んだ事で倭世界が統合に向ったのだという。前述のように大神神社の御祭神は大国主が祀った大物主であるが、このお社は天照大神が伊勢神宮へ勧請される前の元伊勢に一つにもなっている。ということは天照大神を最高位の皇祖神にしたのは大国主/大物主ということになるのだろうか。
ちなみにもう一つの重要な国のひとつである筑紫の宗像三女神は、大陸との航海を司る宗像一族の神で、天照大神の娘達だと言う。筑紫が時をへて大和の支配下に組み入れられて,大陸との交流(「神功皇后の「三韓征伐」伝承に代表される朝鮮半島への進出や白村江の戦いなど)で重要な役割を果たした。筑紫の磐井の「反乱」では宗像氏は磐井に加担せず大和側に立っている。この宗像三女神は筑紫を代表する神だった。しかし出雲の大国主とは異なった形でヤマト王権と寄り添うことになった。
記紀に記述されたこうした各地の神々の話は、どうやらヤマト王権黎明期、3世紀の卑弥呼の邪馬台国、三輪王朝誕生から、空白の4世紀をへて、河内王権が倭国を統一してゆく5世紀の間、多分、三輪山山麓を拠点とした崇神大王に始まる三輪王朝創世期のエピソードを、神代の時代の話に投影したのだろう。三輪山の神の鎮座や、出雲の「國譲り」神話は、出雲が大和に進出した事を暗示しているのか、あるいは出雲が大和の勢力下に入った事を示すものなのか。最近、岩波新書から出版された村井康彦氏の「出雲と大和―古代国家の原像をたずねて」によれば、出雲勢力の大和進出により成立したのが邪馬台国であり、それが衰退消滅し、新たなヤマト王権が生まれたとする論考を展開している。神武東征伝承は、あらたな勢力のヤマト侵攻を後世に脚色したものだという。すなわち邪馬台国とヤマト王権に連続性はないとする。興味深い。
しかし,記紀の記述にある神話ストーリー以前から、三輪山の崇拝には、八百万の神々、一木一草に神が宿る,自然崇拝、アニミズムを基本とした原始神道の姿がそこにあった。おそらくは弥生、縄文の時代にさかのぼるであろう。奈良盆地を取り巻く大和青垣の中にあって、神奈備型の独立した山容は、そのことを納得させるに充分な神々しさを持っている。三輪山の背後、東から太陽が昇り、三輪山を赤く染めながら西に沈む。その時の空の色、雲間から地上に差し込む光芒を観ているとそこに人知の及ばぬ力の存在を確かに感じることが出来る。神とはこのような光景のなかから生まれて来るものなのだろう。まさに、権力者達によって(記紀により)ヤマト政権のレジティマシーを権威付けるシンボルとして崇められてもおかしく無い存在感を持っている。「神は人間を造り、その神は人間が造った」と。そして、この三輪山の麓に「日本」という国家が始まった。ヤマト(日本、倭、大和)の名は、三輪山の麓(山の麓、すなわちヤマト)に生まれた。
(三輪山。この山自体がご神体。一の鳥居の奥、山の麓に大神神社の拝殿があり、ここから神奈備山を遥拝する)
(一の鳥居は昭和59年の創建になる新しいものだが、三輪の地に異彩を放っている。)
(三輪山は禁足地であるが、許可を得て定められた登山道を登ることが出来る。ただし、一木一草、小石一つ持ち出す事が禁じられ、山中で写真撮る事も禁止されている。)
(飛鳥の甘樫丘から望む三輪山。どの方角から眺めても美しい形をしている。)
(三輪山の日の出。出典:近畿日本鉄道ウエッブサイト)
2013年5月20日月曜日
ならまち御霊神社 ー「祟り」と「崇め」の関係性ー
久しぶりに奈良の「ならまち」を散策する。五月晴れの週末には大勢の観光客が出て賑わっている。ここは古くは飛鳥から平城遷都で遷って来た飛鳥寺(元興寺)の境内であったところ。中世以降、元興寺衰退にともない境内には人家が移入するようになり、今では古い町家が集積し良く保存されている奈良の景観地区になっている。そうした由緒から、町歩きだけではなく、特に歴史好きの女性(歴女)の仏像巡り、パワースポット巡りのツアーが人気だそうで、元興寺極楽坊の智光曼荼羅や、庚申堂参拝、十輪院の説法拝聴など、参拝客が増えているのだそうだ。そのなかでも、旧元興寺南大門付近に鎮座する御霊神社(ごりょうじんじゃ)は、縁結びの神、恋の成就神として若い女性の人気スポットになっている。
この日も若い女性の一団がキャーピーキャーピー言いながら、御霊神社でおみくじ引いたり、お守り買ったり、にぎやかであった。たしかに彼女達の最大の関心事である「恋」をかなえてくれるというのであるから人気スポットになるのも不思議ではない。また「昔キャピキャピギャル」=「今大阪のオバちゃん」ご一行様も「ここが「オレイ」神社ヤデ!」と押し掛ける。「あれから40年」。いったい何を祈るのか。しかし、以下のような御霊(「ゴリョウ」ですからね)神社の創建の由来を知ると不思議に思うだろう。なぜ「縁結びの神様」になって行ったのか。
この御霊神社のご神体は早良親王、井上皇后、他戸親王、藤原広嗣、橘逸勢など八体となっている。そして桓武天皇勅願所とある。しかし、これら祀られている神々は、政変や争乱により、非業の死を遂げた人たちばかりだ。無実の罪を着せられて殺されたり、流罪になったり、恨みを持って死んで行った、いわば政治的敗者となった人々だ。しかも創建は桓武天皇。すなわち彼等を無念の死に追いやった政治的勝者その人である。そういえば、この辺りには崇道天皇社や井上神社がある。崇道天皇は非業の死を遂げた早良親王のことで、その死後に名誉回復のために贈られた諡である。この蘇我馬子ゆかりの元興寺境内の南大門付近にこうした政治的敗者が祀られているのも不思議である。
しかし、何故このような形で政治的敗者が政治的勝者によって祀られるのか? 決して敗者を哀れむ勝者の余裕などと言うものではなかった事が知れる。当時は、天変地異や飢饉、病気は全て人知を越えるもので,怨霊の祟りから来ると信じられていた。政敵を計略を持って陥れ、呪詛、讒言で無実の罪を着せて殺し、身分を剥奪し、流刑にし、そうやって政治権力を奪取していった政治的勝者は、その過程で犯した罪への恐れという潜在意識がどこか拭えないのだろうか、我が身、我が一族に振りかかる災いを、政治的敗者の怨霊による「祟り」であると考えた。自然現象発生のメカニズム理解にもとづく災害の予知や、病気の治癒などの医学も発達していなかった当時、頼るは神仏の力のみ。栄華を極めてみても自分の良心の呵責に耐えきれないその人間につきまとう弱き心が、「祟り封じ」をすれば災いから逃れられるであろう,と考えさせた。災害、病気、死... いかな権力者であってもどうにもコントロール出来ないものがあった。権力者にとっての「祟り封じ」は単なる私的な不安除去のまじないの域を超えて、マジメで立派な政治行為として執り行われていた。
「祟り封じ」の例は、太宰府へ流されて非業の死を遂げた菅原道真公の怨霊を鎮めるための天満宮創建や、反逆者として殺された平将門の怨霊を鎮める神田明神社など、奈良時代後半から、平安時代に数多く見られる。映画「陰陽師」で表現されていたように、平安貴族はこうした怨霊を鎮め、祟りを取り除くために陰陽師を重用した。陰陽師は私的な祈祷師ではなく、ちゃんとした陰陽寮という国の役所の官僚であった。無実の罪で死に追いやられた早良親王の怨霊が、平安の都を破壊と荒廃の渦に巻き込まんとするのを安倍晴明が封じる,と言うのが映画のストーリーである。
まさに御霊神社は、藤原百川の計略により冤罪で非業の死を遂げさせられた、光仁天皇の皇子、他戸親王と、天皇の后であった井上皇后、また桓武帝の信任厚かった藤原種継の暗殺の嫌疑をかけられ無実を訴えながら流刑地へ向う途中憤死した早良親王などの恨み、怨霊を封じ込める「祟り封じ」の神社であった。また、太宰少弐に左遷された藤原広嗣や、承和の乱で流罪となった橘逸勢(三筆と言われた遣唐使帰国組のエリート貴族)も祀られている。京都には上御霊、下御霊の両神社があり、彼等は八所御霊として祀られている。桓武天皇勅願はそうした理由からなのだ。
「祟り封じ」と言えば、梅原猛氏の「隠された十字架。法隆寺論」によれば、再建された法隆寺、東院伽藍はまさに、藤原一族に抹殺された聖徳太子一族の怨霊を封じ込めるための「祟り寺」であるとする。奈良時代初期に。こうした怨霊信仰があったのか、という疑問を投げかける説も出されているが、精緻な史料の読み込みに基づくストーリー展開と仮説の検証がサスペンス小説を読むような興奮を味わわせてくれる。なによりも人間の飽くなき権力への執着と,手段を選ばない闘争。そしてその反作用としての祟りへの恐れが、時代を動かしていたのだ。
しかし、「祟り封じ」の寺や社が、後世、太子信仰、天神信仰や、学業成就、縁結び、無病息災、家内安全などの現世利益の神仏として「崇められる」ようになるのは何故だろう。もはや「祟り」を恐れた権力者の手を離れ、聖徳太子や天神様となり、庶民の現世利益を守る神仏へと変遷していったのであろうか。いやいや、権力者達が、彼等の霊を慰め、再び災いを為さぬようにするため、むしろ聖人化し、美しい諡号を贈り、尊崇の対象化してしまったのかもしれない。ともあれ、前にも述べたように、長い藤原一族の栄華の陰に滅びて行った数々の人々がこのような形で神として日本各地に祀られて、地元の守り神になっているのも不思議なことだ。日本独特の精神構造を物語るように思う。そういえば「祟(たたり)」と「崇(あがめる)」と字が似ていると感じるのは私だけか。
(御霊神社鳥居。朱塗りの鳥居が可愛らしい「えんむすびの神さま」だが...)
(恋愛成就を神前に祈る。女性達のパワースポット)
(御霊神社の御祭神は奈良時代末期に非業の死を遂げた人々ばかり。桓武天皇勅願。その意味は?)
(柊鰯(ひいらぎいわし)。平安時代に始まる玄関の鬼除けのおまじない。ここならまちでは各家に普通に見かける。権力者じゃなくったて鬼や祟りは怖い。)
この日も若い女性の一団がキャーピーキャーピー言いながら、御霊神社でおみくじ引いたり、お守り買ったり、にぎやかであった。たしかに彼女達の最大の関心事である「恋」をかなえてくれるというのであるから人気スポットになるのも不思議ではない。また「昔キャピキャピギャル」=「今大阪のオバちゃん」ご一行様も「ここが「オレイ」神社ヤデ!」と押し掛ける。「あれから40年」。いったい何を祈るのか。しかし、以下のような御霊(「ゴリョウ」ですからね)神社の創建の由来を知ると不思議に思うだろう。なぜ「縁結びの神様」になって行ったのか。
この御霊神社のご神体は早良親王、井上皇后、他戸親王、藤原広嗣、橘逸勢など八体となっている。そして桓武天皇勅願所とある。しかし、これら祀られている神々は、政変や争乱により、非業の死を遂げた人たちばかりだ。無実の罪を着せられて殺されたり、流罪になったり、恨みを持って死んで行った、いわば政治的敗者となった人々だ。しかも創建は桓武天皇。すなわち彼等を無念の死に追いやった政治的勝者その人である。そういえば、この辺りには崇道天皇社や井上神社がある。崇道天皇は非業の死を遂げた早良親王のことで、その死後に名誉回復のために贈られた諡である。この蘇我馬子ゆかりの元興寺境内の南大門付近にこうした政治的敗者が祀られているのも不思議である。
しかし、何故このような形で政治的敗者が政治的勝者によって祀られるのか? 決して敗者を哀れむ勝者の余裕などと言うものではなかった事が知れる。当時は、天変地異や飢饉、病気は全て人知を越えるもので,怨霊の祟りから来ると信じられていた。政敵を計略を持って陥れ、呪詛、讒言で無実の罪を着せて殺し、身分を剥奪し、流刑にし、そうやって政治権力を奪取していった政治的勝者は、その過程で犯した罪への恐れという潜在意識がどこか拭えないのだろうか、我が身、我が一族に振りかかる災いを、政治的敗者の怨霊による「祟り」であると考えた。自然現象発生のメカニズム理解にもとづく災害の予知や、病気の治癒などの医学も発達していなかった当時、頼るは神仏の力のみ。栄華を極めてみても自分の良心の呵責に耐えきれないその人間につきまとう弱き心が、「祟り封じ」をすれば災いから逃れられるであろう,と考えさせた。災害、病気、死... いかな権力者であってもどうにもコントロール出来ないものがあった。権力者にとっての「祟り封じ」は単なる私的な不安除去のまじないの域を超えて、マジメで立派な政治行為として執り行われていた。
「祟り封じ」の例は、太宰府へ流されて非業の死を遂げた菅原道真公の怨霊を鎮めるための天満宮創建や、反逆者として殺された平将門の怨霊を鎮める神田明神社など、奈良時代後半から、平安時代に数多く見られる。映画「陰陽師」で表現されていたように、平安貴族はこうした怨霊を鎮め、祟りを取り除くために陰陽師を重用した。陰陽師は私的な祈祷師ではなく、ちゃんとした陰陽寮という国の役所の官僚であった。無実の罪で死に追いやられた早良親王の怨霊が、平安の都を破壊と荒廃の渦に巻き込まんとするのを安倍晴明が封じる,と言うのが映画のストーリーである。
まさに御霊神社は、藤原百川の計略により冤罪で非業の死を遂げさせられた、光仁天皇の皇子、他戸親王と、天皇の后であった井上皇后、また桓武帝の信任厚かった藤原種継の暗殺の嫌疑をかけられ無実を訴えながら流刑地へ向う途中憤死した早良親王などの恨み、怨霊を封じ込める「祟り封じ」の神社であった。また、太宰少弐に左遷された藤原広嗣や、承和の乱で流罪となった橘逸勢(三筆と言われた遣唐使帰国組のエリート貴族)も祀られている。京都には上御霊、下御霊の両神社があり、彼等は八所御霊として祀られている。桓武天皇勅願はそうした理由からなのだ。
「祟り封じ」と言えば、梅原猛氏の「隠された十字架。法隆寺論」によれば、再建された法隆寺、東院伽藍はまさに、藤原一族に抹殺された聖徳太子一族の怨霊を封じ込めるための「祟り寺」であるとする。奈良時代初期に。こうした怨霊信仰があったのか、という疑問を投げかける説も出されているが、精緻な史料の読み込みに基づくストーリー展開と仮説の検証がサスペンス小説を読むような興奮を味わわせてくれる。なによりも人間の飽くなき権力への執着と,手段を選ばない闘争。そしてその反作用としての祟りへの恐れが、時代を動かしていたのだ。
しかし、「祟り封じ」の寺や社が、後世、太子信仰、天神信仰や、学業成就、縁結び、無病息災、家内安全などの現世利益の神仏として「崇められる」ようになるのは何故だろう。もはや「祟り」を恐れた権力者の手を離れ、聖徳太子や天神様となり、庶民の現世利益を守る神仏へと変遷していったのであろうか。いやいや、権力者達が、彼等の霊を慰め、再び災いを為さぬようにするため、むしろ聖人化し、美しい諡号を贈り、尊崇の対象化してしまったのかもしれない。ともあれ、前にも述べたように、長い藤原一族の栄華の陰に滅びて行った数々の人々がこのような形で神として日本各地に祀られて、地元の守り神になっているのも不思議なことだ。日本独特の精神構造を物語るように思う。そういえば「祟(たたり)」と「崇(あがめる)」と字が似ていると感じるのは私だけか。
(御霊神社鳥居。朱塗りの鳥居が可愛らしい「えんむすびの神さま」だが...)
(恋愛成就を神前に祈る。女性達のパワースポット)
(御霊神社の御祭神は奈良時代末期に非業の死を遂げた人々ばかり。桓武天皇勅願。その意味は?)
(柊鰯(ひいらぎいわし)。平安時代に始まる玄関の鬼除けのおまじない。ここならまちでは各家に普通に見かける。権力者じゃなくったて鬼や祟りは怖い。)
2013年5月6日月曜日
春日大社 今を盛りに藤の花...
連休も後半に入り、五月晴れの良い天気が続く。奈良春日大社の藤は今が盛りだ。しかし本殿前の「砂ずりの藤」は50センチ程で,まだ砂を擦っていない。最盛期には房の長さが1メートルを超えるそうだ。今年は遅いようだ。万葉植物園のほうには、早咲き、遅咲きいろいろな種類の藤が集められており、今が全体としてはもっとも華やかに咲き揃っている時期だ。また,眼を転じると三笠山山腹の山藤も美しい藤色の房をつけて、鮮やかな新緑の山肌を彩っている。散ってしまった桜の後に来る美しい季節だ。
春日大社は、言うまでもなく藤原氏の創建になる神社だ。平城遷都の後に、鹿島神宮の武甕槌命、香取神宮の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山(三笠山)の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。もともとこのあたりは春日氏という在地の豪族の地であった。美しくなだらかな甘南備型の山容を誇る御蓋山そのものをご神体とし,麓に地主神の磐座があったという。後に藤原氏が春日大社を創建するにあたり地主神に移転願い、現在の春日大社殿が設けられと言い伝えられている。現在は本殿回廊の南西の榎本神社に祀られている。
藤原氏(中臣氏)は645年の「巳支の変」の功労者中臣鎌足の子孫であり、その子不比等の時に、飛鳥、藤原京から奈良平城京へ遷都(710年)。その折りに春日大社と興福寺を新たに創建した。すなわち平城京の東に、わざわざ出っ張った外郭を設け、そこに藤原一門の氏神と氏寺を設けた。春日大社と興福寺はこうした創建の背景から縁浅からぬ関係にあり、神仏習合が進んだ平安時代には興福寺の僧兵は春日大社の神輿を押し立てて強訴に繰り出したりしていた。
その後の藤原不比等は、聖武天皇の后に光明子(光明皇后)を出し、その娘、阿部内親王を女帝、孝謙天皇、一代おいて称徳天皇重祚とするなど、朝廷との姻戚関係を持ち権勢並びなき地位を誇った。しかし、直系の男子4人が次々と天然痘で亡くなり、また藤原仲麻呂(恵美押勝)を反乱者として失い、一族存亡の危機に立たされた。この藤原一族に降りかかる災いは、過去に討ち果たした政敵の怨霊のせいだとして、これを振り払うために、焼失した法隆寺を再建し、蘇我氏建立の法興寺(飛鳥寺)を飛鳥から奈良に移転させたという。すなわち法隆寺は聖徳太子一族の怨霊を封じ込める「祟り寺」だと言うのが、梅原猛の「隠された十字架:法隆寺論」の論旨だ。ちなみに梅原説によれば聖徳太子の子山背大兄皇子一族を抹殺したのは蘇我入鹿であるが、いわば蘇我一族の内紛を引き起こし太子一族を滅ぼしたのは藤原一族だとしている。その後ろめたさから聖徳太子の祟りを恐れたと言う訳だ。まったくミステリー小説にも匹敵する謎解きを与えてくれる本である。
藤原氏はもとは中臣氏で、鹿島の神祇職の家系であり、蘇我氏に滅ぼされた物部守屋とともに廃仏派であったとされる。春日大社が上記の通り関東と河内の4神を勧請して創建された背景にはそういった一門のルーツがあったのだろう。しかし、何時から、あれ程排斥した仏教を取り込むようになったのか。これには先のような崇仏派の蘇我氏や聖徳太子一族の怨霊を封じ込めるため、という理由もあったのかもしれないが、朝廷や支配階層に置ける仏教勢力の台頭が看過し得ない状況になり、一門の権勢を揺るぎなきものにするためには仏教勢力を支配下に治める必要があったのだろう。最初はそうした極めて政治的な理由で仏教勢力懐柔政策をとっていたが、藤原一門の女性達は、そんな男達の政治的意図よりも、一族の病気平癒や、降りかかる祟り封じの方がより現実的な懸案であった、ついには本当に仏教が心の拠り所となるに至り、深く帰依するようになって行ったのだろう。法隆寺に奉納されている数々の仏や宝物は不比等の妻橘夫人(三千代)によるものが多い。不比等と三千代の娘、光明子(光明皇后)の夫聖武天皇は、深く仏教に帰依し、東大寺、毘盧遮那仏(大仏)建立という国家事業を成し遂げる。またその娘である阿部内親王、後の孝謙天皇は遂には、帝位を僧侶道鏡に譲ろうとさえする。
寄り道してしまったが、春日大社に戻ろう。ここはやはり藤の花が美しい。幣殿前庭の有名な「砂ずりの藤」。三笠山山麓の山藤。そして春日大社の杜のあちこちに咲き乱れる山藤。付属の「万葉植物園」には珍しい色とりどりの藤が咲き乱れる。藤は文字通り藤原一門の氏神の神紋である。また、鹿は春日大社の神の化身だとされ大切にして来た。咲き乱れる藤の花房に鹿。まさに奈良春日大社をシンボライズする画だ。
藤という植物は,極めて生命力の強い植物だ。蔓性の樹木で、その美しく気高い藤色や白色の花房を養う幹は、うねうねと太くて大きなトグロを巻き、地表から地中にかけては辺りを覆い尽くすほどの根が張り巡らされている。もともとある巨木や岩に巻きつき、地下に根を張り、たくましく大きく成長してゆく。そして時には巻き付いた巨木を枯らし、壊死させ、岩を砕き、地表に他の樹木が生育するのを阻む。美しい花はただ何事も無く可憐に、あるいは華麗に咲き誇っている訳ではない。果てしなき生存のための闘争の結果なのだ。そう言ってしまうと花を愛でる風雅さが無くなってしまうが,栄華と権勢を誇るということはそうしたものなのだ。人工的に藤棚にそろえられた色とりどりの藤ばかりではなくて、春日の杜に一歩足を踏み入れてみるといい。そこかしこに、こうしたたくましい山藤の生い茂る姿が見える。そしてそのせいで枯れてしまった巨木が天を指差してジッと沈黙を守っているのが見える。まさに藤原一族が巨木に寄り添って成長し栄華を極めて行った歴史を物語るように。そして取り憑かれた幾多の巨木の死屍累々たる有様に、栄華を極めるもの陰には滅びるものあり、という「光と陰」の物語を見る。
幣殿前の名物「砂ずりの藤」
本殿東側、三笠山の山肌に咲く山藤
「万葉植物園」に残る藤の古木
春日の杜の巨木に絡み付く山藤
春日大社の燈籠と藤の蔓
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