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2013年5月6日月曜日

春日大社 今を盛りに藤の花...

 連休も後半に入り、五月晴れの良い天気が続く。奈良春日大社の藤は今が盛りだ。しかし本殿前の「砂ずりの藤」は50センチ程で,まだ砂を擦っていない。最盛期には房の長さが1メートルを超えるそうだ。今年は遅いようだ。万葉植物園のほうには、早咲き、遅咲きいろいろな種類の藤が集められており、今が全体としてはもっとも華やかに咲き揃っている時期だ。また,眼を転じると三笠山山腹の山藤も美しい藤色の房をつけて、鮮やかな新緑の山肌を彩っている。散ってしまった桜の後に来る美しい季節だ。

 春日大社は、言うまでもなく藤原氏の創建になる神社だ。平城遷都の後に、鹿島神宮の武甕槌命、香取神宮の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山(三笠山)の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。もともとこのあたりは春日氏という在地の豪族の地であった。美しくなだらかな甘南備型の山容を誇る御蓋山そのものをご神体とし,麓に地主神の磐座があったという。後に藤原氏が春日大社を創建するにあたり地主神に移転願い、現在の春日大社殿が設けられと言い伝えられている。現在は本殿回廊の南西の榎本神社に祀られている。

 藤原氏(中臣氏)は645年の「巳支の変」の功労者中臣鎌足の子孫であり、その子不比等の時に、飛鳥、藤原京から奈良平城京へ遷都(710年)。その折りに春日大社と興福寺を新たに創建した。すなわち平城京の東に、わざわざ出っ張った外郭を設け、そこに藤原一門の氏神と氏寺を設けた。春日大社と興福寺はこうした創建の背景から縁浅からぬ関係にあり、神仏習合が進んだ平安時代には興福寺の僧兵は春日大社の神輿を押し立てて強訴に繰り出したりしていた。

 その後の藤原不比等は、聖武天皇の后に光明子(光明皇后)を出し、その娘、阿部内親王を女帝、孝謙天皇、一代おいて称徳天皇重祚とするなど、朝廷との姻戚関係を持ち権勢並びなき地位を誇った。しかし、直系の男子4人が次々と天然痘で亡くなり、また藤原仲麻呂(恵美押勝)を反乱者として失い、一族存亡の危機に立たされた。この藤原一族に降りかかる災いは、過去に討ち果たした政敵の怨霊のせいだとして、これを振り払うために、焼失した法隆寺を再建し、蘇我氏建立の法興寺(飛鳥寺)を飛鳥から奈良に移転させたという。すなわち法隆寺は聖徳太子一族の怨霊を封じ込める「祟り寺」だと言うのが、梅原猛の「隠された十字架:法隆寺論」の論旨だ。ちなみに梅原説によれば聖徳太子の子山背大兄皇子一族を抹殺したのは蘇我入鹿であるが、いわば蘇我一族の内紛を引き起こし太子一族を滅ぼしたのは藤原一族だとしている。その後ろめたさから聖徳太子の祟りを恐れたと言う訳だ。まったくミステリー小説にも匹敵する謎解きを与えてくれる本である。

 藤原氏はもとは中臣氏で、鹿島の神祇職の家系であり、蘇我氏に滅ぼされた物部守屋とともに廃仏派であったとされる。春日大社が上記の通り関東と河内の4神を勧請して創建された背景にはそういった一門のルーツがあったのだろう。しかし、何時から、あれ程排斥した仏教を取り込むようになったのか。これには先のような崇仏派の蘇我氏や聖徳太子一族の怨霊を封じ込めるため、という理由もあったのかもしれないが、朝廷や支配階層に置ける仏教勢力の台頭が看過し得ない状況になり、一門の権勢を揺るぎなきものにするためには仏教勢力を支配下に治める必要があったのだろう。最初はそうした極めて政治的な理由で仏教勢力懐柔政策をとっていたが、藤原一門の女性達は、そんな男達の政治的意図よりも、一族の病気平癒や、降りかかる祟り封じの方がより現実的な懸案であった、ついには本当に仏教が心の拠り所となるに至り、深く帰依するようになって行ったのだろう。法隆寺に奉納されている数々の仏や宝物は不比等の妻橘夫人(三千代)によるものが多い。不比等と三千代の娘、光明子(光明皇后)の夫聖武天皇は、深く仏教に帰依し、東大寺、毘盧遮那仏(大仏)建立という国家事業を成し遂げる。またその娘である阿部内親王、後の孝謙天皇は遂には、帝位を僧侶道鏡に譲ろうとさえする。

 寄り道してしまったが、春日大社に戻ろう。ここはやはり藤の花が美しい。幣殿前庭の有名な「砂ずりの藤」。三笠山山麓の山藤。そして春日大社の杜のあちこちに咲き乱れる山藤。付属の「万葉植物園」には珍しい色とりどりの藤が咲き乱れる。藤は文字通り藤原一門の氏神の神紋である。また、鹿は春日大社の神の化身だとされ大切にして来た。咲き乱れる藤の花房に鹿。まさに奈良春日大社をシンボライズする画だ。

 藤という植物は,極めて生命力の強い植物だ。蔓性の樹木で、その美しく気高い藤色や白色の花房を養う幹は、うねうねと太くて大きなトグロを巻き、地表から地中にかけては辺りを覆い尽くすほどの根が張り巡らされている。もともとある巨木や岩に巻きつき、地下に根を張り、たくましく大きく成長してゆく。そして時には巻き付いた巨木を枯らし、壊死させ、岩を砕き、地表に他の樹木が生育するのを阻む。美しい花はただ何事も無く可憐に、あるいは華麗に咲き誇っている訳ではない。果てしなき生存のための闘争の結果なのだ。そう言ってしまうと花を愛でる風雅さが無くなってしまうが,栄華と権勢を誇るということはそうしたものなのだ。人工的に藤棚にそろえられた色とりどりの藤ばかりではなくて、春日の杜に一歩足を踏み入れてみるといい。そこかしこに、こうしたたくましい山藤の生い茂る姿が見える。そしてそのせいで枯れてしまった巨木が天を指差してジッと沈黙を守っているのが見える。まさに藤原一族が巨木に寄り添って成長し栄華を極めて行った歴史を物語るように。



 幣殿前の名物「砂ずりの藤」




 本殿東側、三笠山の山肌に咲く山藤




 「万葉植物園」に残る藤の古木




 春日の杜の巨木に絡み付く山藤




 春日大社の燈籠と藤の蔓