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2015年9月27日日曜日

鍋島藩秘窯の里 伊万里大川内山を再訪

今回の伊万里大川内山探訪は雨模様であった。前回は訪れたのは3年前の8月。夏の日差しが眩しい暑い一日であったが、むしろこうした陰鬱な天候の方が秘窯の里にふさわしいのかもしれない。しかし里山は秋の色。田んぼの稲穂は黄金色のこうべを垂れ、コスモスが一面に咲き誇り、歴史の里を彩っている。

鍋島藩窯は、江戸時代には門外不出の御用窯で、朝廷や将軍家、大名家、海外の王侯貴族向けの、いわば鍋島家権威財生産を担った。その製品は年間限られた数の生産しかしない「限定品」であった。しかも有田や波佐見などと異なり、その製品が一般市場に出回ることは少なく、したがって江戸時代の色鍋島や鍋島青磁、染付など、古伊万里にカテゴライズされているものは、現在では骨董美術品的な扱いとなっている。

明治の廃藩置県以降、藩窯は廃止されたがその鍋島窯の伝統技法は引き継がれ、現在の伊万里大川内山には、30軒ほど窯元がありそれぞれの個性を競っている。なかには現代の生活にも受け入れられやすいデザインの作品を出している窯元もある。しかし御用窯のデザインと御用窯だけに許された染付など、一定のボトムラインの上にそれぞれの特色を出した作品を生み出している。有田の香蘭社や深川製磁のような主に海外市場を狙って明治期に設立された日本を代表する有名な大手ブランドや、柿右衛門、今右衛門などのように世襲ブランドを守っている窯元などと異なり、大掛かりにブランドエクイティーを押し出していない窯元が多く、それだけ奥も深くて、自分の好みの窯元を探して巡る楽しみがある。

そしてその集落の佇まいは密やかで美しい。街並みを見て歩くだけでも楽しい。そういった時の流れのなかで秘められた「美」が熟成し、芳醇な香りをあちこちに漂わせている。しかし、一方、その歴史と伝統を担ってきた無名の陶工たちの無縁仏群が、この里のもう一つの異空間を形成していることにも気付かされる。


以前訪ねた時のブログです。


時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 伊万里秘窯の里 大川内山を巡る ー「違いの分かるオトコ」の窯元散策ー: 「伊万里焼」と「鍋島」と「古伊万里」と「有田焼」の違いをご存知ですか?私は今回の旅でようやく分かってきたような...気がします。まずは大川内山のご案内を。 1675年から廃藩置県の1871年まで、大川内山は肥前佐賀鍋島藩の御用窯がおかれていた。ここでは独特の磁器製造技術を藩...





鍋島藩の秘窯は切り立った大屏風風奇岩に囲まれた谷間にあった。
中国の景徳鎮の官窯を模して開いた。


度肝を抜かれるのがこの村の入り口に架かる橋

「トンバイ塀」
窯の耐火煉瓦を積み重ねたもの

橋にも河岸にも陶器やトンバイが埋め込まれている


伝統の登り窯
現在はほとんどがガス窯で焼くそうだが、
陶工の伝統技法を伝承するために年一回、この登り窯で焼成するという。


それぞれの窯元のギャラリーを見て歩くのは楽しい。




里はまもなく稲の刈り取りシーズンへ

コスモスが村を彩る

川の左手に幾多の陶工達の墓が連なる
かつてここは閉ざされた異空間であった。


以前訪ねた時のブログです。
伊万里焼、有田焼、古伊万里、鍋島、などの違いを知りたい方はこちら(↓)をご覧ください。

時空トラベラー  The Time Traveler's Photo Essay : 伊万里秘窯の里 大川内山を巡る ー「違いの分かるオトコ」の窯元散策ー: 「伊万里焼」と「鍋島」と「古伊万里」と「有田焼」の違いをご存知ですか?私は今回の旅でようやく分かってきたような...気がします。まずは大川内山のご案内を。 1675年から廃藩置県の1871年まで、大川内山は肥前佐賀鍋島藩の御用窯がおかれていた。ここでは独特の磁器製造技術を藩...






2015年9月18日金曜日

「横須賀ストーリー」 〜「富国強兵」の栄光と挫折〜

横須賀へ行ったら、記念艦「三笠」と横須賀海軍カレー、Navy Burger、どぶ板通りのスカジャンショップ。 おおっと、三浦按針夫妻の墓も忘れちゃいけない。しかし、横須賀と言えば基地の町、山口百恵の横須賀ストーリーの町。そんな横須賀の今を歴史散歩。


連合艦隊司令長官東郷平八郎元帥像と記念艦「三笠」



徳川幕府はフランスの技術協力を得て横須賀奉行小栗上野介のもとで横須賀造船所、製鉄所を建設した。現在の住友重工のドックや米軍基地になっているところはその跡地。フランス人技師ヴェルニーの名を冠したヴェルニー公園が記念公園として市民の憩いの場となっている。ここからは米海軍基地と海上自衛隊基地の両方が見渡せる。そして明治維新後はこれらの施設は明治新政府に引き継がれ、やがて大日本帝国海軍の横須賀鎮守府となる。佐世保、呉、舞鶴などとともに我が国有数の軍港となる。戦後は米軍に接収され、いまは米軍海軍基地と海上自衛隊基地が共存。日米安全保障体制のシンボルとなっている。

この横須賀に「三笠公園」がある。そう、あの日露戦争における日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破って、日本に大勝利をもたらした連合艦隊司令長官東郷平八郎と、その旗艦「三笠」が美しい勇姿を誇っている。その「三笠」が保存される場所は、広大な米海軍基地の一角にある。華々しい日本海海戦の勝利のシンボル、日本近代化の成果として展示保存されている。

日露戦争における日本海海戦の大勝利についての歴史的な意義、解釈については司馬遼太郎「坂の上の雲」など、多くの記述がある。歴史的事件が時代の大きな転換点になった。この勝利が世界を驚かせ、日本が西欧列強と肩を並べる「一等国」になった、ということだけでなく、その後の「一等国日本」の運命を決定づける意味でも。すなわち19世紀の終わり、白色人種・西欧列強に虐げれてきた有色人種、植民地化されて劣等国にされてしまったアジア諸国の希望の星となった日本人、日本が、その後何故アジアの人々期待を裏切る敵のような扱いになってしまったのか?

昨今の中国・韓国の政治指導者たちによる日帝侵略歴史認識のプロパガンダには、自国における彼らの不安定な政治権力基盤が見え隠れするが、それにしても日本は先の大戦で未曾有の大敗北を喫してしまう。その結果320万人もの同胞が犠牲となり、幕末明治維新であんなに恐れていた事態、すなわちわが国土が外国軍隊によって占領され植民地化されるという悪夢。それが正夢になってしまった。なんと我が国の歴史始まって以来初めての独立喪失を経験する。いわば日露戦争の大勝利を頂点に、日本は「坂の上の雲」から「焼土」に転落してしまう。日本海海戦の「トーゴーターン」が日本を勝利に導いたが、その後の国策の「トージョーターン」が日本を敗北に導く結果となってしまう。どこでどう間違ったのか?

明治維新の志、「殖産興業」「富国強兵」という近代化政策。文明開化運動。これらを進めたその大きなモチベーションは、このままでは西欧列強の帝国主義的な植民地拡大の餌食になってしまう、という強い恐怖が基礎になっている。当時のアジア諸国の中で数少ない独立国(日本、タイ、トルコなど)のなかで、いち早く近代化を果たした日本はアジアの希望の星となった。清やロシアという大国を破り「一等国」として西欧列強と伍すアジアで初めての国家になった。しかしやがて激しい帝国主義的権益獲得競争の渦のなかに巻込まれて行くことを意味した。

そもそもこのような権益確保、植民地争奪戦の帝国主義跋扈の時代、弱肉強食の世界の中で生きてゆこうとすると、自国のみを強くして守っていれば良いのか。周辺事態は刻々と変化してゆく。特にアジアの大国であった清の弱体化による東アジアパワーバランスの不安定化は欧米列強の東アジア進出を招くことになる。英国はアフリカ、中東、インド、ビルマ、マレー半島から香港、上海へとその帝国拡張の食指を伸ばしてきた。フランス・ドイツはこれに遅れじと中国大陸に権益を求めた。

日本にとって直接的な脅威はロシアの南下政策。これらが先鋭化された地域が満州であり朝鮮半島であった。すなわち日本のすぐ目と鼻の先にロシアが清の弱体化の間隙をついて進出してきた。朝鮮は清の冊封国であった。朝鮮の近代化は遅れ、近代化を進めようとする動きへの抵抗勢力が王朝を支配していた。そこにロシアが食指を伸ばしてきた。幕末の日本が恐れていた事態が朝鮮半島で起ころうとしている。これを黙って新生日本は見ていて良かったのか。前近代的で保守的な旧文明諸国。そこへ跳梁跋扈する帝国主義的近代国家。こういう構図のなかでなんとか近代化を果たした新興国日本はどんなアジアのホラーストーリーを見たのか?自らの安全保障のためにどんな世界戦略、サクセスストーリーを持っておくべきなのか?極めてセンシティブで重要な国家経営の課題であった。

こうして日清・日露の戦役で勝利し、清、ロシアの脅威を取り除いたが、気がつくと日本は帝国主義的な植民地争奪戦、権益獲得戦のど真ん中にいて、そのプレーヤーの一人となっていた。清朝が瓦解し、辛亥革命後の混乱の中、中国大陸では蒋介石率いる国民党政権との泥沼の戦いにズルズルと入って行き、果てしなき戦線拡大の先には、イギリスでもなく、オランダでもなく、フランスでもなく、新興の資本主義大国アメリカが立ちはだかっていた。そして敗北。

広大な米太平洋艦隊横須賀基地。街を歩けばアメリカンな匂い。米兵がいっぱい乗って鎌倉見物に向かう横須賀駅。ドルが使えるドブ板通り。米国海軍ニミッツ提督が尊敬してやまない東郷元帥とその旗艦「三笠」。彼は戦後その保存に尽力し、今の記念艦「三笠」がある。かつて日本を開国に導いたアメリカ。ペリー提督は浦賀に上陸した。そして日本と戦争して日本を占領したアメリカ。日米の歴史が詰まった街だ。そして宇崎竜童と阿木耀子と山口百恵は横須賀を新しい夢のステージに変えた。「港のヨーコ、ヨコハマ、ヨコスカ♫」が響く街。山口百恵の「もうこれっきりですか?」日本の近代化と帝國海軍横須賀軍港物語は、GIブルース物語へ。そしていま横須賀ストーリーへ。明治維新以降、戦後に至る日本の歴史を象徴する街になっている。




「さかみ」でなく「みかさ」
1902年英国ヴィッカース造船所建造
Z旗上がる
「天気晴朗なれど波高し。皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」


現在の横須賀港
左は海上自衛隊横須賀基地
右は米海軍横須賀基地

旧横須賀製鉄所の鍛造装置。蒸気機関で動いた(ヴェルニー記念館)
幕臣小栗上野介がフランスのヴェルニーの技術協力を得て建設した横須賀ドックと製鉄所。
小栗上野介は幕末混乱の中、官軍に斬首刑に処せられる。
のちに薩摩出身である東郷平八郎は、小栗の遺族を自邸に招き、
日露戦争に勝てたのは彼のおかげであった、と小栗の遺徳を讃え、感謝の言葉を述べた。



追記:「一撃講和」の夢?


日露戦争の背景:

先の日清戦争による朝鮮半島における権益、遼東半島割譲へのドイツ・フランス・ロシアによる三国干渉。「臥薪嘗胆」
朝鮮王国の宗主国「清」の衰退と、朝鮮半島へのロシアの触手(朝鮮王高祖を取り込み)。三国干渉で放棄させた遼東半島旅順港の火事場泥棒的な獲得。満州への進出(東清鉄道)。
日本の地域安全保障が脅かされる事態に。日露交渉で「満州におけるロシア権益を認める」かわりに「朝鮮半島からの撤退」という妥協案を提案するも拒否。ロシアはますます軍備増強、英独仏の満州からの撤兵要請も無視し、朝鮮半島にも権益を拡大しようとしてきた。日本の存立危機へ。ロシアという大国にとって日本という極東の小国に妥協しなくてはならない理由はなかった。

しかして日本はロシアに宣戦布告。しかし相手は国力10倍。勝てるはずがない、と誰もが見ていた。したがって「初戦で圧勝し全面講和に持ち込む」という方針。戦争を長引かせると国力が持たない、そして成功するわけだが、その背景には外交による苦心の布石があった。

①反露政策を伝統的に取る英国と日英同盟によるロシアの東西挟み撃ち(小村寿太郎)
②反露ユダヤ系金融資本による戦費調達。(高橋是清)
③アメリカルーズベルトによる講和仲介。(金子堅太郎)(小村寿太郎)
④ロシア国内調略、すなわちロシア革命支援(明石元二郎)


太平洋戦争の敗北:

しかし、この「一撃講和」戦略は、その後の軍部の常套手段になりつつあった。戦争回避という手段を取らず戦争に持ち込む場合、国力が劣る小国が大国に対して戦争を仕掛けて勝つ方法はこれしかないと考えた。日露戦争は数々の僥倖が功を奏し、この勝ちパターンが確立したかに見えた。しかし、先述のように、それには様々な条件を満たす必要があったことをどこまで教訓として学んだのだろうか。同じ柳の下にドジョウは二匹いない。

同じ戦略が太平洋戦争では機能しなかった。もともと英米との協調を主張し、対英米戦争に懐疑的であった山本五十六提督が連合艦隊司令長官に抜擢されたのは皮肉であった。しかしそうなった以上、なんとか手を打たねばならぬ。山本提督の真珠湾奇襲差作戦は、まさに初戦圧勝、早期講和を期待したものであった。まさに日露戦争の勝ちパターンである。しかし、山本提督自身が真珠湾に米機動部隊の中核である空母を撃滅できなかった結果を見て、これは失敗したと悟ったという。すぐにミッドウェー海戦で連合艦隊は米機動部隊に大敗を帰すことになる。この状態で長期戦に入ってしまっては戦争の早期講和は望むべくもない。ということは日本は消耗戦の泥沼から抜け出せなることを意味した。東郷も山本もこうした全体像をよく把握し戦略を策定できるリーダーであった。そのような二大海軍提督を持てたことは日本が誇るべきことであろう。

しかし、山本提督はニューギニアで撃墜され戦死。その後の日本は太平洋での戦いで米国に次々と負け戦となり、とうとう本土爆撃、沖縄上陸、原爆投下を許すこととなる。しかし、軍部はこの期の及んでまだ「一撃講和」を主張し、特攻作戦で一撃を加えたのちに講和に持ち込もうという、大好きな勝ちパターンをここでも持ち出す。しかし事態はすでに圧倒的負けパターン。しかも同盟国ドイツは敗北。客観的な情勢判断を誤った楽観的作戦行動。最後は「本土決戦」「一億玉砕」などという捨て鉢でとても理性的とは言えない断末魔の判断すら下そうとした。

日露戦争の「一撃講和」の勝ちパターンは、外交戦略の成功と稀代の幸運の賜物、という分析と評価がなされぬまま、根拠のない、文字通りの希望的観測のお題目に祭り上げられてしまったようだ。先に見たように日露戦争を勝利に導いたのは巧みな外交戦略とのタイアップがあったからだ。太平洋戦争にそのような外交戦略が準備されていたのだろうか。

同盟:
国際連盟を脱退して孤立した日本が組んだ相手、ドイツは、日本の中国大陸・太平洋での戦いを展開すること力になったのか?確かに欧州戦線に英米ソを釘ずけにして戦力を東に向けさせなかった点では有利に働いた。ソ連は日本と不可侵条約を結んで欧州戦線に集中した。マレー半島・インドネシアで英国・オランダは降伏した。米国だけが太平洋での戦いに戦力を割く余裕があった。
しかし、欧州でドイツが敗北すると、連合国側は一斉に東に向かった日本との最後の戦いを挑んできた。ソ連は不可侵条約を破り、満州へ突如侵攻してくる。

戦費調達:
一方、戦費調達・石油などの資源はどうであったか?ロシアを敵とするユダヤ資本はドイツと同盟した日本に資金を出すはずもない。アメリカのユダヤ資本があてになるはずもない。国内の戦時国債が調達源となる。国が滅びれば借金も消え失せる自滅的な戦争であった。石油はアメリカが禁輸措置を取ったために、自ら南方進出して確保しなければならない。こうしてますます戦線が拡大してしまう。

講和:
「一撃講和」というけれど、誰に講和仲介を依頼するのか。終始、不可侵条約を結んでいたソ連を頼みにした。この判断の誤りは結果を見れば明らかだろう。ドイツが降伏し欧州戦線が収束し、背後に憂いのなくなったソ連は、連合国のヤルタ・ポツダム会談での密約もあり、またロシア伝統の南下政策を実行する好機である。、ここぞとばかり不可侵条約など無視して満州になだれ込んできた。開拓民を地獄に落としめ難民の群れに襲い掛かった。降伏し武装解除した日本軍将兵を襲ってシベリアへ抑留した。樺太と北海道の北方4島を不法占拠する。日露戦争の雪辱を果たせとばかりに。

相手国内調略:
米国内の世論を味方につけたか?厭戦気分を喚起できたか?全く逆であった。むしろ中華民国総統蒋介石、その夫人の宋美齢の米国における反日アピールが功を奏した。


そもそも国際連盟を脱退して世界を敵に回し、その孤立のなかから日独伊三国同盟を選択し、英米との協調路線を捨てた時点で外交は破綻していた。世界から孤立してしまったのだから。この同盟に反対した山本五十六は戦死し、広田弘毅は抵抗の術を失って外相、首相を辞任(その後極東裁判で唯一文官として絞首刑を宣告され、抗弁せず従容として死に赴いた)。自分の信念とは異なる結果を引き受けさせられる運命は得てしてあるものだ。

このように考えると、日清/日露の勝利がのちの大日本帝國の命運を皮肉な形で決めたのかもしれない。「勝って兜の緒を締めよ」





2015年9月1日火曜日

飛鳥逍遥再び 〜古代史の舞台を巡るフォト紀行〜


飛鳥は行くたびに新しい感慨に耽ることができる場所だ。まだまだ謎に包まれたこの時間と空間に何かを感じることができるからだ。この日本の原風景のようなのどかな里には、いたるところに歴史の痕跡が潜んでいる。飛鳥は歴史学と考古学が出会える場所でもある。まだ発掘されていない古墳や宮跡や初期仏教寺院の遺構があちこちに埋もれているに違いない。目に飛び込んでくる小さな丘、こんもりした木立だって、きっと何かの遺跡に違いない。小径の高低差にも大きな意味が隠れているに違いない。そんなことを考えながら歩く飛鳥は「時空トラベラー」の聖地だ。この国の成り立ちをめぐる旅、歴史の情景を辿る旅。何度行っても飽きることはない。今年は例年になく暑い夏、噴き出す汗をぬぐいながら1年ぶりに飛鳥を逍遥する。

折しも奈良国立博物館開設120周年記念特別展「白鳳」展が開催中で、飛鳥文化から白鳳文化への移ろいを育んだ飛鳥の地を思い描く格好の機会となっている。


飛鳥のシンボル「石舞台古墳」
権勢を誇った蘇我馬子の墓だと言われている

夏過ぎて秋来たりし飛鳥の空

「飛鳥時代」とは、推古天皇・聖徳太子から天武天皇・持統天皇治世の100年余(6〜7世紀)ほどをいう。実に日本史における画期的な時代であった。すなわち、倭国から日本へ転換した時代。歴代中国王朝に朝貢し冊封される国「倭」から、独自の天帝を頂き、中華世界とは異なる宇宙を有する「日本」という新しい国家のアイデンティティーを主張した時代だ。その後の日本の歴史を規定する基礎ができた時代なのだ。

この時代の画期的事績を列挙してみよう:

*仏教伝来(思想的・文化的グローバリズムの到来)
*乙巳の変(大化の改新)蘇我氏宗家滅亡
*対外戦争「白村江の戦い」敗戦。安全保障意識
*戦争による民の疲弊、壬申の乱による王権交代
*天皇中心の中央集権的な国家体制確立
*仏教を鎮護国家の法とする
*律令制整備(近代国家としての法整備)
*私地私民から公地公民(豪族による割拠支配から天皇による集権支配へ)
*八百万の神々の世界(地域ごとの豪族の割拠)から皇祖神アマテラスを頂点とする天皇統治の世界へ(神々のシステム化)
*国家の正史「日本書紀」、天皇の記「古事記」編纂(国家のアイデンティティー宣言)
*飛鳥古京→藤原京→平城京へと新国家にふさわしい壮大な宮都造営
*国号を「倭」から「日本」へ。
*飛鳥文化→白鳳文化

こうした天皇中心の国家統治体制の確立という一連の流れの背景で、蘇我氏という外来文化を積極的に取り入れる先進性と、一方で大王をも上回る権勢を振りかざした、いわば有力国際派豪族支配(渡来人コミュニティーをバックに持ち、外来の仏教を導入した崇仏派)から、藤原氏という国内派支配の体制(大王の廷臣、古来からの神道神祇職の家系の中堅豪族)への転換の時代とも言える。「大化の改新」の功労者中臣鎌足の息子で、天武・持統親政時代に雌伏して勢力を伸ばした藤原不比等の「天皇中心の国家体制確立」に果たした役割は大きい。それは、連綿たる皇統と朝廷という大木に絡みつく藤の蔓のように、以降1300年も続く「藤原時代」の始まりでもあった。

そう思って見渡すと、中臣鎌足が生まれ育った小原の里からは、大化の改新の密議を交わした多武峰、談山(かたらいやま)が見える。この多武峰の山頂からは、板蓋宮、蘇我氏の居館、飛鳥寺などを見下ろすことができる。入鹿が殺害された板蓋宮跡からは、飛鳥寺も甘樫丘も見渡せる。入鹿が殺された時、父の蝦夷は甘樫丘の蘇我宗家居館に火を放ち滅した。飛鳥寺に佇む入鹿の首塚は甘樫丘を恨めしげに見上げている。その甘樫丘に登ると飛鳥古京が全方位見渡せる。北には持統帝造営の藤原京(新益京)跡を耳成山を背景に望むことができる。その遥か遠くには聖徳太子の斑鳩宮、法隆寺の斑鳩の里も見える。東には古代ヤマトの聖なる三輪山もすぐ眼前だ。西には二上山。仏教でいう憧れの西方浄土、河内を経て大陸へと続くシルクロードにつながっている。

こうして見渡すことのできる狭い箱庭のような飛鳥の里が、我が世界なのだ。ここから日本は始まった。波頭を超えて大陸と密接に繋がっていた「倭国」から、この囲まれた盆地を国家の中心に定め、「日本」になった。「日本人」のDNA揺籃の地はこの飛鳥だった。
甘樫丘を望む






以前書いたブログを参考まで。


① 甘樫丘に登り蘇我氏の役割を振り返る。

「甘樫丘〜神聖なる山の変遷〜」


② 飛鳥時代は女帝の時代であった。

「飛鳥古京散策〜飛鳥時代とは〜」


③ 藤原氏の時代の始まりはここに。

「春爛漫の飛鳥を歩く〜藤原一門1300年の歴史はここに始まる〜」


④ 藤原氏の栄華を誇る平城京。

春日大社 今を盛りに藤の花



中臣鎌足の生誕地、小原の里。その母の大伴夫人の墓所から望む


小原の里から多武峰、談山(かたらいやま)を仰ぎ見る。
中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏打倒の密議を交わした山だ。


蘇我入鹿の首塚。背後には蘇我宗家の居館があった甘樫丘が
入鹿が殺されると、その父蝦夷は甘樫丘の宗家居館に火を放って果てた。


蘇我氏は仏教を倭国に導入し、わが国初の仏教寺院「飛鳥寺」を創建。渡来人仏師により釈迦如来が建立される。その後幾多の戦乱や災害で、往時の姿は失われてしまったが、お顔の一部に創建時の形が残っている。
その脇には聖徳太子像。蘇我氏系の血筋を持つにもかかわらず、一族が蘇我氏に殺される悲劇のヒーロ。謎に満ちたその姿に慄然とする。


蘇我氏がわが国で始めて造営した仏教寺院、法興寺(飛鳥寺)
平城京遷都時には奈良に移され、元興寺(現在の奈良町あたり)となる。
なぜ藤原氏が平城京へ蘇我氏由来の寺の移転を許したのか謎である。

甘樫丘からは、飛鳥坐神社の森とその背後の鎌足が育った小原の里を展望することができる。
今はのどかな飛鳥の里の風景だが、覇権を巡って権力者たちの存亡をかけた闘争の場であった。


甘樫丘から西を見渡すと、畝傍山、さらには二上山が展望できる。
穴虫峠を越えれば河内、難波、瀬戸内海を経て大陸シルクロードにつながる。
仏教の世界観では憧れの西方浄土の地。


甘樫丘から見渡せば飛鳥古京全体を手に取るように見渡すことができる。
今は静かな田園地帯になっているが、
右手には飛鳥板蓋宮跡、石舞台古墳。正面は多武峰。左には飛鳥寺(法興寺)

飛鳥板蓋宮伝承地
蘇我入鹿が誅殺された現場
背後には蘇我氏の居館があった甘樫丘が見える。
持統天皇が造営した藤原京の大極殿跡
背景は耳成山

仏の世界を現世に実現しようとした天武・持統天皇の御心を示すかのように
真夏の藤原宮跡に睡蓮が涼やかに咲き誇る
藤原宮跡は今では睡蓮の咲き誇る畑となっている
背後には畝傍山

キバナコスモスに彩られる飛鳥路
飛鳥稲淵あたりの棚田風景
豊葦原瑞穂の国の姿だ。



広大な中国風都城として造営された藤原京はわずか16年で廃都となる。
元薬師寺跡
藤原京の西に建立されたが、平城遷都に伴い、奈良西の京の現在の薬師寺の地に移設された。
夏にはホテイアオイが一面に咲き誇る








2015年8月15日土曜日

戦後70年の終戦の日を迎えて

 今日、2015年8月15日は戦後70年目の終戦の日だ。暑い一日だ。しかしどこまでも澄み切った青い空。悲しみを忘れさせるような。

 8月は多くの魂があの世とこの世を彷徨う月。仏教でいうお盆の時期であり、先祖の霊魂が帰ってくる月である。しかしそれだけではない。8月は終戦の月である。先の大戦の最末期のひと月で大勢の人々が亡くなった。6日の広島原爆投下(9〜12万人が即日死、19万人が4ヶ月以内に死亡)9日の長崎原爆投下(7万4千人が即日死)、9日のソ連軍満州侵入(50万人の難民、死亡者不明)。その前の3月から6月の沖縄戦(捨て石作戦)で20万人、沖縄県民の4人に一人が死亡。3月10日の東京大空襲では一晩で10万人の市民が焼死している。そのほとんどが子供や母親や老人を含む一般市民であった。大勢の無辜の民が亡くなった。前線で戦い、戦死し、病死し、特攻で亡くなった人々も、もともと徴兵された普通の市民や学生である。戦没者慰霊の季節。

 開戦の判断と意思決定の是非と共に、終戦の判断と意思決定は時宜を得たものであったのだろうか。この時期になるといつも近現代史研究者や評論家やジャーナリストが、当時の講和の判断が迷走した事情をいろいろに分析しているが、少なくとももう一ヶ月終戦の判断が早ければこの何十万の一般市民は死ななくてよかっただろうと思う。国民を守るという判断基準がなかったのだろうか?国民を守らない国、軍隊とは何なのか?戦争指導者の責任の重大さを思わざるを得ない。これほどの負け戦(いくさ)を負けと認めず本土決戦に持ち込む方針を堅持し、「此の期に及んで」特攻攻撃による一撃講和で有利な条件で講和する道を模索していたという。その根拠のない楽観主義、あるいは現実を見ようとしない自己肯定主義。その間に人類にとっての最終兵器、禁断の原爆が使用され、何十万人も死に、ソ連の火事場泥棒参戦を許すことになった。結局、最後は無条件降伏。日本の戦争指導者の判断は正しかったと言えるのか。 なぜこのような日本有史以来の破滅を体験しなくてはならなかったのか。その総括はしたのか。中国や韓国に言われるからではなく、300万人とも320万人とも言われる自国民を犠牲にした戦争の歴史を忘れる事なぞ出来るのか。

 戦後70年目の終戦の日の安倍首相の談話が、彼の個人的な世界観、意思とは別のメッセージにならざるを得なかったことは皮肉だ。彼の内閣の支持率の凋落を考えての政治判断であったことだろう。しかし、もういい加減に謝罪し続けるのはやめにしたい、というメッセージも忘れずに付け加えられたところに本音が見える。当然、中国や韓国や旧連合国の反応は好意的とは言えない。どんなに謝ったって「許す」というメッセージは出さないだろう。少なくとも加害者側から言い出す話ではないというのが彼らの言い分だろう。もっとも彼らの反応自体も、それぞれの国の指導者が自国で置かれている政治的立場を反映した、自国民を念頭に置いた政治的なメッセージなのだ。常に外部に敵を作り、内政の矛盾から国民の目をそらせるのは、古今東西変わることなく続いてきた為政者の常套的国民支配術なのだ。そもそも国家・支配者の思惑と国民・市民の思いは必ずしも一致しない。戦勝国、敗戦国を問わず、否応無く国家の思惑で戦争に巻き込まれていった国民の悲惨な記憶は、もっと長い時間の中でしか咀嚼されて行かないだろう。自ら、あるいは親兄弟の体験に基づく感情が昇華して知恵になるには70年は短すぎる。

 明治維新以来、太平洋戦争の惨めな敗戦までの77年は、欧米の植民地化への脅威から、近代国家確立を急ぎ、殖産興業/富国強兵を国是とし、結果的に対外戦争を繰り返してきた年月であった。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変に始まる泥沼の日中戦争、南部仏印進駐、真珠湾攻撃、太平洋戦争。そして敗戦。有史以来初めて外国に全土を占領され独立を失うに至った。明治維新の掲げた理念の結末はこういうことだったのか?これに対し、戦後の70年は幸いにも戦争のない平和な年月であった。振り返ってみると、明治維新以前の江戸時代の260年も対外戦争に関与しない、巻き込まれない平和な時代であった。太閤秀吉の朝鮮侵攻、明国侵攻などという国策は荒唐無稽で無謀なものであることを理解していたし、大航海時代の南蛮人、紅毛人との争いにも巻き込まれないように鎖国という外交政策で国を守ってきた。それ以前の歴史で対外戦争に出かけたのは663年の唐・新羅連合軍との朝鮮半島白村江の戦いだ。倭国は惨敗して逃げ帰ってきた。日本という国は対外戦争に懲り、自ら出かけて行って戦争する事を避けてきた歴史を持っているはずなのだが。ある意味、明治維新はその歴史を変えてしまったのかもしれない。今更このグローバル時代に鎖国などという選択肢はないことはいうまでもないが、さればこれから日本は本当はどういう国を目指していけば良いのだろう。軍事大国でもない、経済大国でもない。どのような世界から尊敬される国を目指すのか。

最後に、岡倉天心の「茶の本」に記述された言葉を引用して筆を置きたい。

 「西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行い始めてから文明国と呼んでいる。--------- もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。」



夏の盛りに花を愛でることなく劫火に倒れた人々に一輪の芙蓉を捧ぐ



2015年8月12日水曜日

東海道品川宿散策 〜あの広重の街はどこへ〜

「時空トラベラー」の写真は歴史の風景を写し取ることをメインターゲットとしている。歴史の風景を撮るということは、いわばその時代の心象風景を切り取るということだ。現代に残る神社仏閣や、史跡、古墳、城跡の写真をただそのまま撮るのでは、記録写真、記念写真、観光写真になってしまう。一方、山や、海や、川といった美しい風景は、その光との出会いの瞬間を見つければそれだけで感動的な写真になる。しかし、「歴史の心象風景」と言った途端に、フォトグラファーにとっては甚だ壮大なチャレンジとなる。心のフィルム(いやセンサー)を繊細に働かさなければならなくなる。風景が醸し出す空気、余情、風情、情感といった、そもそも目に見えないものを感じて、それをデジタルカメラという極めて現代的な光学機器で切り取る作業なのだ。しかも現在と過去という時間の差を越えなければならない。その時代の人々の心のうちに分け入ることが必要となる。ここが普通の風景写真とは異なる点だ。そのためには、その時代の歴史や文化に対する理解と共感が不可欠となる。単に美しい写真を撮るのではなく、そこに流れる風情を読み取り、自分の感じたストーリーを表現しなくてはならない。これはマエストロ、入江泰吉先生の大和路心象風景から学んだ心構えだ。「入江泰吉の世界」が私の写真の原点と言って良い。もちろん、奥が深くて全くもって先生の域になぞ到達もできないが。少なくともこれからも、この難しい課題に挑戦し、表現できるよう心がけて精進していくつもりだ。

 そういう意味では、なるべく写真に現代の造作物や人が入ってはいけない。それらを避けるように撮り、できるだけ時空を超えたその時代の空気を切り取ろうとするが、現代の社会においてそれは、ほとんど困難な作業となる。入江泰吉先生もそれを心がけて何十年も大和路を取り続けることになったと述べておられる。昭和20年代くらいまでは大和路にもまだ古代の景観の面影があった。確かにあの頃の先生の白黒写真には古代の空気と情感が溢れている。今は豊かな田園風景が広がるパースペクティヴの中に「古代都市の滅びの佇まい」という飛鳥の心象風景を見てとることができた。宅地化されて規格住宅が立ち並んだのではそうした心象風景は蘇ってこない。現代の大和路は景観保護と、歴史遺産保護のために開発が規制されたが、それでも甘樫丘から見渡す飛鳥はすぐそこまで宅地開発の波が押し寄せ、今にもその津波にのまれる寸前に、ようやく止まっているという感じだ。まして、そのような景観の破壊はこの東京のような都市部においておやだ。

 話を今日の本題に移そう。今回は東海道五十三次第1番目の宿場町、品川宿散策である。江戸四宿の一つで、お江戸日本橋から京三条大橋までの東海道という日本の最も重要な幹線道路の最初の宿場町だ。街は目黒川を挟んで北品川、南品川に分かれ、1600軒、7000人が居住する殷賑な街であった。街道の宿場町というだけでなく、江戸時代を通じて江戸近郊の遊興の地(ここは江戸御府内ではない)として人気があり、近くには花見の名所御殿山もあった。人が集まれば遊廓も賑わい、遊廓があれば人も集まる... 品川は吉原に並ぶ幕府公認の遊廓があり、それは戦後まで続いたという。今は、品川駅の南側、八つ山橋から、北品川、新馬場、青物横丁、立会川さらには鈴ヶ森と昔の道幅で旧東海道が連なっている。しかしかつて多くの人々が往来し、殷賑を極めた品川宿の面影はなく、本陣、脇本陣もその痕跡(広場になり碑が立っているが)を止めていない。幕末には勤皇の志士等が集った土蔵相模がつい最近まで残っていたが、なぜか取り壊されてしまった。今や品川宿は極めて今時の地域の商店街といった風情になっている。

 ここには滅びの美しさや、詫び寂びはない。歴史の風情を感じる景観は少なくなってしまった。建物はすっかり今時のものに建て替わってしまい、狭い間口の土地の区画だけが残った。古い町家を探すのも困難だ。つい200年ほどの時間を遡り夢想することも難しいほどに変貌してしまった。ここでは現代的なものを排した写真はもはや撮ることはできない。かつて訪ねた東海道五十三次の48番目の宿、鈴鹿の関宿(以前のブログ、鈴鹿の関宿をご覧あれ)は、往時のままの家並みと町割が残っていたが、首都東京の品川にそれを期待するのは無理だろう。やはり都市化するということは、景観を一変させるということだ。飛鳥は危ういところで大阪のベッドタウン化という都市化をストップして歴史的景観がなんとか残った。鈴鹿の関宿は、幸か不幸か都市化の波に取り残されたために貴重な歴史景観が残った。

 しかし、こうした古い建物や景観を博物館的に残すだけでは、未来に引き継ぐ歴史遺産にはならない。そこに生活があり、人がいなければ街として未来に残ってゆくことは難しい。鈴鹿の関宿も家並みは古いが、今を生きる生活の場として人々の暮らしが続いているからこそ街並みが維持されているのだ。ここ品川も、江戸の香りはおろか、昭和の香りも徐々に失せつつあるんじゃないかと心配になる。東京に多くなっているシャッター通り商店街化という衰退だ。地元の人々や商店街の組合や行政が、品川宿の歴史と伝統を生かした町興しに頑張っている。今月、空き店舗を利用して若者たちが「旅」をテーマとしたKAIDO Book Cafeを開店した。日経新聞にも取り上げられちょっとした話題になっている。小さな一歩かもしれないが、新しい宿場町文化と賑わいの復興を歓迎したい。


歌川広重
東海道五十三次品川宿

歌川広重
品川宿海上図
現在の品川宿
道幅は江戸時代のままだそうだが、街並みに往時の面影を見いだすのは難しい。


しかし、今でもそばや江戸前の魚介を食わせる店は多い
慶応元年創業の「はきもの」丸屋
品川宿の面影を残す数少ない店の一つ


看板建築
関東大震災後にできた類焼防止の建築様式
こうした昭和の家並みもわずかしか残っていない。
江戸時代の宿場町の面影を残す品川寺
街道の山手側にずらりと寺町が形成されていて現在も残っている。

今月、品川宿の空き店舗に若者たちが「旅」をテーマとしたKAIDO Book Cafeをオープンした。
新しい宿場町文化と賑わいの復興を歓迎したい。







2015年8月9日日曜日

アール・デコ建築の粋 〜旧朝香宮邸の美と技巧を愛でる(第二弾インテリア編)〜

 東京都庭園美術館はアール・デコ展開催中。以前来た時(アール・デコ建築の粋 〜旧朝香宮邸の美と技法を愛でる〜)には建物内部の撮影ができず、フラストレーションが溜まったまま帰ったので、今回は出直しというわけだ。日によって写真撮影が許されていることを知った。今日はやっと心置きなく撮影できた。アンリ・ラパン、ルネ・ラリックなどのフランスのアール・デコ作品と、それを東京に移植して根付かせた日本の匠が出会うとこうなった。フランスのアール・デコと日本のアール・デコを楽しめる。いわばジャポニズムの里帰りだ。この展覧会、さすがにフランスからの訪問者が多い。若いフランス人の学生に感想を聞いてみた。「トウキョウという東洋の街でパリに出会った!」と。コメントが出来過ぎだ。まあ、まずは写真をお楽しみあれ。

ダイニングルーム
イヴァン=レオン・ブランシェの壁面レリーフ、ルネ・ラリックのシャンデリア

テーブルセッティング
黒のテーブルに白い食器と銀のカテラリーが素敵だ。


アンリ・ラパンの香水塔を背景に
セーブル製陶製



ホール
アンリ・ラパンの内装設計

ルネ・ラリック


ルネ・ラリックの玄関のガラスレリーフ
撮影者が真ん中で一生懸命身を細くして隠れているのがご愛嬌だが

 インテリアを彩るパーツはフランス直輸入のものが多いが、日本の匠の手になる作品がまた素晴らしい。フランスのアール・デコと日本のアール・デコのコラボレーションだ。


イヴァン=レオン・ブランショ作
大理石レリーフ「戯れる子供達」
マックス.アングラン作エッチングガラス扉



日本伝統の模様「青海波」






ラジエータグリルカバーなどの装飾金物達。

これらは宮内省内匠寮技手のデザインにより電気鋳造で作られた。居室や階段など館内のいたるところに施されており素敵なアクセントになっている。アンリ・ラパンの内装デザインの重要な構成要素になっている。

これらのオーナメントは日本の匠によるアール・デコ作品。こうして日仏両匠の見事なコラボレーションが全体の意匠をさらにエレガントなものに仕上げている。。



マントルピースカバー

「香水塔」上部装飾の内側にはランプが仕込んである。