二上山は、大阪からは、河内平野の東に連なる山々、生駒、葛城、金剛山の切れ目に、双峰(ツインピークス)の美しい立ち姿で存在感を示している。遠く西宮の我が家の窓からも、大阪のビル街越しに眺めることが出来る。一方、奈良から見ると、大和盆地の西にやはり双峰が望め、夕陽が美しい山容である。どちらから見ても,すぐそれとわかる大和・河内のランドマークだ。
標高517mの雄岳と標高474mの雌岳の二峰が一対となって二上山(にじょうざん。古くはふたかみやま、と呼ばれる)である。有史以前、2000万年前の噴火で出来た火山だが、現在は死火山に分類されている。この辺りは古くはサヌカイトという火山性の堅い石を産出しており、各地の古代遺跡で出土する石器や、高松塚古墳の石材に、ここ二上山で産出されたサヌカイト製が見つかっている。ある意味古代の重要な原材料供給地域であったのであろう。現在でも,この辺りの穴虫には金剛砂という研磨剤を製造する工場がある。
二上山に登るのは二度目である。前回は當麻寺から雄岳・雌岳の馬の背までのコースをとったが、雄岳には登らなかった。今回は近鉄二上神社口駅から、真っ直ぐに歩き、加守神社横から登った。當麻寺からの登山道は短いが急勾配であるが、二上神社口コースはやや長いが道がよく整備されていて登りやすい。登山道の新緑が青空を背景に目に鮮やか。これから登る雄岳の若緑が美しい。山の空気が美味しい。心が洗われる。途中、樹々の間から葛城山がその大きな山塊をあらわにしている。さらに進むと、今度は眼下の早緑の海の中に當麻寺の甍が浮かんでいる。
雄岳山頂近くには大津皇子の墓がある。宮内庁指定陵墓となっているが、「陵」ではなく「墓」と表記されている。小さな円墳だ。なぜこのような山頂に埋葬されたのか。一説にこれは本当の大津皇子の墓ではなく、二上山麓の古墳がそれであるとも言われている。大津皇子は天武天皇の皇子で、謀反の疑いをかけられて果てた悲劇の皇子である。それゆえ二上山は皇子の悲しみが宿る山でもある。姉の皇女が悲しんで歌った歌碑が二上山の麓、當麻寺に近くにある。
雄岳山頂にたどり着くと、そこには葛木坐二上神社が鎮座まします。ピンク色の八重桜が咲き誇る山頂は、チョットした広場になっているが、ここからは残念ながらあまり展望は利かない。この山頂では神社が入山料を取っていると聞いたが、この時は誰もいなくて,取られなかった。この二上山自体が二上神社のご神域だそうで、それで「環境整備費」などの名目でお金を集めていたようだ。しかし結構登山客からは評判の悪い入山料であったので、止めたのかもしれない。
今回の二上山登山の目的は,いつも大阪のオフィスから眺めるこの二上山から、反対に河内、難波津すなわち大阪がどのように見えるか確かめること。そして、同様にヤマト王権、倭国の人々が憧れた二上山から、大和国中を展望することである。早速,両国が展望出来る地点へ移動を開始。雌岳へ下る途中の道から少し入ったところに小さな展望台がある。ここから河内平野南部から大阪湾が一望に見渡せる。さらに、雌岳頂上へ向う途中の休憩地点からも河内平野北部,さらには難波、すなわち大阪市街が一望出来る。昼を過ぎる頃から少々ガスってきたが、大阪市内のビル群がうっすらと見えた。もっとクリアーだと大阪湾,六甲山まで見える事だろう。私が毎日通っている難波宮近くのビルもあのビル群の一つだ。「今日はコッチから見てるぞ!」と叫びたくなる。
雌岳山頂は日時計のある広場になっていて、ピクニックの家族連れや元気なオバちゃんハイカーで賑わっている。関西の中高年はみんな元気だ。こんな山にヒョイヒョイ登ってくる。犬を連れて登ってくるオッチャンもいる。ここは日常生活の中の山なのだ。公園の築山みたいなもんだろう、地元の人にとっては。
この展望台からは大和盆地が樹々の間から望める。耳成山、畝傍山、香具山の大和三山、さらには遠く東山中の山並が、また三輪山もうっすらと見える。聖なる三輪山、山辺の道から見る二上山は、三輪山と卑弥呼の宮殿跡ではないかと騒がれた纏向遺跡を直線を伸ばした先にあり、三輪山から太陽が昇り、二上山に陽が沈む、という日本古来の自然崇拝、太陽信仰の重要な山である。ちなみに纏向の神殿/宮殿遺跡は,後世の平城京や平安京の宮殿のような南北軸ではなく、東西軸の宮殿であった。すなわち、三輪山を背に、二上山を前にした造りであった。
仏教伝来以降の飛鳥古京(遠つ飛鳥)から観ても、二上山は陽の沈む西方浄土を表す神聖な山であった。敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇、聖徳太子が二上山のむこう(西)の日が落ちるところ、磯長谷、近つ飛鳥を安息の地に定めたのも、こうした西方浄土の考えがあったとも言われている。二上山はヤマト世界にとっては三輪山と並ぶ神聖な山であった。
一方、河内、難波から眺める二上山は、難波の津に到着した大陸からの使者や渡来人にとっては、長い長い旅路の果て、これから向う倭国の王都、飛鳥古京。さらには国名改め日本の都、藤原京、平城京へと通じる道の途中にそそり立つ神秘の山であった事だろう。また、都を後にして筑紫太宰府へ赴任する官人、遣隋使や遣唐使として波頭を越えて彼の地へ向う人々にとっては,振り返って都に別れを惜しむ山であった。その心のうちは複雑であった事だろう。様々な想いが心をよぎった事だろう。その思いを胸に涙で眺めた二上山であったのかもしれない。二上山麓の両側を通る竹内街道,穴虫越は都から難波を通じて西国,果ては大陸へと繋がる「文明の回廊」であった。世界史的視点から見ると「シルクロードの東の果て」だった。
こうした古代の人々の思いを空想しながら二上山を下り、當麻山口神社の傘堂を経て、當麻の里へたどり着いた。當麻寺では牡丹が咲き誇り、中将姫の穏やかな祈りの姿があり、野原にはレンゲが咲き,鯉のぼりが青空を泳ぐ。そこには穏やかな春の里の風景があった。ふと振り返ると,今下って来た二上山の向こうには、既に陽が傾き始め、そろそろ夕刻の景色へと変わろうとしている。影が長く伸びた當麻寺の双塔、二上山双峰のシルエット。やはりここは時空を超えた極楽浄土の世界である。
(撮影機材:Nikon D800E, Nikkor AF Zoom 28-300mm. 撮影画素数は36.3メガピクセルだが、Picasaにアップするために実際の画素数を圧縮している)