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2013年3月12日火曜日

河内王朝(倭の五王)の祖が眠る 大仙古墳(伝仁徳陵)を訪ねる

 前回の香椎宮探訪の時に書いたように、文字を持っていなかった倭国の実情を知るには、当時の中国の史書に記されている倭国の記述を読み解くしかない。しかし、3世紀の魏志倭人伝の邪馬台国卑弥呼,トヨの記述、5世紀の宋書倭国伝の「倭の五王」の記述はあるが、その間の4世紀は、倭国に関する記述が途絶え、「空白の一世紀」と言われている。倭国大乱の後に鬼道をよくするシャーマンである邪馬台国の卑弥呼を共立し、なんとか倭国がまとまり、卑弥呼の死後は男王が立つが再び争乱となり、トヨの擁立で落ち着く。そういう「政祭二元(ヒメ/ヒコ制)」の体制の倭国は、空白の100年の後に、突如、勇猛な男王達のもとに統一を果たし、朝鮮半島にまで勢力を広げる武断的な国家に変貌したという。この間、倭国に何が起こったのだろうか?

一説には、3世紀の中国の史書に記述された邪馬台国の話は「チクシ倭国」での出来事であり、「ヤマト倭国」とは別の国であったのだ、という見解がある。そのチクシ倭国はやがて衰亡し、再度の倭国内の争乱の後に、ヤマトや河内に成立した倭国に取って代わられた(あるいは王権がチクシからヤマトへ東遷した)という説だ。日本列島の文化の中心が北部九州チクシから、ある時期に近畿ヤマトに移ったのは事実であるが、それがこの「空白の4世紀」の出来事なのだろうか。魏志倭人伝に記述された倭国と宋書倭国伝に記述された倭国との間にそのような断絶があるのかどうか,推測は出来ても検証は出来ていない。

日本の8世紀の史書である日本書紀は天皇在位年をベースとした編年体で記述されているが、年代が曖昧である(神武天皇即位は紀元前7世紀、縄文後期/弥生前期、神功皇后は3世紀(卑弥呼の時代の即位)、仁徳天皇は130才で崩御したことになっているなど)ので、中国の史書と読み合わせる場合、記述された出来ごとと時代とが一致しない。

また、日本書紀においては代々の天皇の事績について、複数の説が紹介されており(「一説に曰く」)多様な解釈が成り立つ余地が多い。そこから類推しながら読み解く必要があって厄介だ。「一説に曰く」的に解釈すると、ヤマト(三輪山山麓)には崇神大王による、三輪王朝が成立し、出雲との深い関係(出雲がヤマトに服属した(國譲り伝説)、あるいは出雲勢力がヤマトに進駐した(大国主=三輪山の大物主として祀られる))や、四道将軍の一人である吉備津ヒコによる渡来人系の国吉備の征服などにより、倭国(おそらく畿内ヤマト地方を中心に)を平定して行った(出雲の國譲り伝説は記紀では「神代」の出来ごとだが、実際にはおそらく3世紀末から4世紀初頭の出来ごとか?)。しかし、3世紀の魏志倭人伝に出てくる邪馬台国も卑弥呼も記紀では触れられていない。

やがて4世紀末〜5世紀前半になると新しい大王による倭国平定(「山河を跋渉して寧所にいとまあらず」。近畿だけでなく、筑紫を含む西日本一帯と東国伊勢)があったのだろう。これら宋書倭国伝の「倭の五王」の上奏文に記されているに事績についても、記紀に記述は無い。ヤマトタケルの東征、熊襲平定伝承があるがこれがそうなのか?ヤマトタケルは実は倭王武であり、すなわち雄略天皇の事績を過去に投影して記述したもの,とする解釈もある。しかし、ヤマトタケルは景行天皇の皇子でいわば三輪王朝に血統。さらに神功皇后(聖母)の夫、仲哀天皇はヤマトタケルの子となっている(ともに実在性が薄いとされている)。皇統が繋がっている事を示すために創作されたのかもしれないが、話に矛盾や時代の不一致が多すぎて繋がらない。この間、三輪から河内を基盤とする新王朝(河内王朝)に交代した可能性がある。

記紀の記述によれば、神功皇后の子、応神大王の子が仁徳大王である。しかし、一人の大王の事蹟を幾代かの大王の事蹟であるように調整した可能性もある、として応神/仁徳は同一人物だという説もある。ともあれ、聖母(しょうも)である神功皇后と、河内王朝の始祖である応神/仁徳大王の時代の始まりが、万世一系の皇統の中の出来ごととして記述されている。一方、5世紀の中国の史書、宋書倭国伝によれば、倭の五王(賛、珍、済、興、武)が朝貢し、倭国内を平定したことと、さらに朝鮮半島の支配権を認めるよう上奏している。この倭の五王が記紀のどの天皇(大王)に比定されるのかが論争になっているが、もとより記紀と宋書倭国伝との間に共通のタイムスケールは存在しないので、個々の人物をあてはめる事は困難で定説は無い。せいぜい倭王武は雄略天皇(大王)であろう、ということだけが一致を見る見解となっている。

しかし,それにしても5世紀当時の倭国王達が,自らの名を賛とか珍とか中国式の一文字で名乗ったのだろうか?という別の疑問もわいてくる。まさか現代の日本の首相がアメリカへ行って、大統領に「Call me Ron. Call me Yasu」と言った話と同じじゃないだろう。もちろん記紀にはこのような一文字名の天皇(大王)は存在しないし、和風諡の名称からも類推出来る名前ではない。雄略天皇(大王)は「ワカタケル(幼武)」と呼ばれていたらしい事は埼玉の稲荷山古墳や熊本の江田船山古墳などから出土した鉄剣の象眼文字から分かっているが、その「武」と関連があるのか。一説に、これもヤマト倭国の大王の話ではなく,チクシ倭国の話だという。九州王朝説に繋がる異説であるが、学会からは無視されているそうだ。

王朝交代説の論者によれば、武(雄略大王)が「祖デイ、甲冑を貫き、山河を跋渉して寧所にいとまあらず...」と中国皇帝への上奏文の中で述べた祖デイとは仁徳大王だとしている。これが河内の上町台地に都を定め(高津宮)、河内の開拓に力を注ぎ、自らの宮殿が痛んでも、民の竃に煙が発つまでは(民の生活が安定するまでは)税を取らず我慢した、という聖君子伝説の主である。河内を拠点に海洋通行を支配した河内王朝(倭の五王の時代)の始まりであり、奈良の三輪山の麓の崇神王朝とは別系統の王朝だとする。

ということは、大阪府堺市の仁徳天皇陵(最近は「大仙古墳」と呼んでいるが)はこの倭国を平定し、さらに朝鮮半島にまで勢力を伸ばした河内王朝(倭の五王)の始祖の墓であるという事になる。それにしても巨大な墓だ。全てに箱庭的でコンパクトな古代倭国のスケール感から遥かに飛び出したサイズだ。大仙古墳はその面積では世界一の大きさであり、体積では応神天皇陵とされる羽曳野市にある誉田御陵古墳より一回り小さいとされている。いずれにせよ周囲2.8キロの巨大な古墳である。しかし、周りを歩いてみても単なる壕と山にしか見えない。拝礼所に来て初めてここが陵墓である事を知る。地上で眺めてるだけではその広さは理解出来ても、前方後円墳としての巨大さをなかなか実感出来ない。やはり空中から眺めるのが一番だ。そういう意味ではエジプトのピラミッドに良く比較されるが、むしろ、ナスカの地上絵と比較した方が良いように思う。誰かが空中から俯瞰する事を想定していたのであろうか?よくこんなモノ造ったものだ。

ここ河内の百舌鳥古墳群には、かつては100基以上の大小古墳が散在していたが、戦後の宅地開発等で破壊され現在では約50基が残っているだけだ。それでも陵墓指定の上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)、田出井山古墳(伝反正天皇陵)もあり壮観である。もっとも、大仙古墳などの考古学的調査は陵墓指定されている事から充分になされていない。大仙古墳、ミサンザイ古墳、田出井山古墳のどれが一番古いのかも明らかでないので、大仙古墳が仁徳陵であるかどうかも確認出来ていない。しかし、ここ河内の地にこれほどの巨大古墳と数多くの倍塚が並んでいる事には驚かされる。当時はこのあたりは海に近く、おそらくは海上からこの巨大な築造物が見え、倭国大王の権威を内外にアピールしたのだろう。倭の五王達が中国王朝に対し倭国の支配の権力と権威を示し、朝鮮半島の支配を認めさせようとする政治的なアピールが働いていたのだろうか。

ちなみに、いつも疑問に思うのだが、何故、古墳(特に前方後円墳)はテンデの方角向いてで築造されているのだろう?東西南北など方角に対する法則性、こだわりは無かったのだろうか?例えば宮殿は纒向遺跡などは東西軸。飛鳥宮以降は南北軸。寺院も大抵は南北軸に配置されている。仏教や道教、風水などの外来の思想が入ってくる前の古墳時代には方向に関する考え方はおおらかだったのか?調べてみるがよく分からない。

話を戻して、このように歴史学的な観点からも、考古学的な観点からも,「倭の五王」とは誰なのか?王朝の断絶はあったのか? 未解明な点があまりにも多い。3〜5世紀の倭国における「王権」の受け渡しは、当時の記録(記憶?)をもとに、8世紀に記紀にまとめられた訳であるが、文字による記録の無かった当時の歴年はもとより正確であるべくもなく、中国の史書の歴年と合わせようとする事自体に意味が無いのかもしれない。そうなると唯一の文字による記録であり、年号の概念が使われていた中国の史書(編年体)と,実在する遺跡である古墳を考古学的に調査して付き合わせる検証作業が必要になる。

サは然り乍ら、一方の記紀の記述についてはその年代には疑問を持たざるを得ないし、出来事にも多くの異説があり、かつストーリーに矛盾もみられるが、全くの後世の創作と断じてよいのだろうか。各代の天皇の事績についての記述は、何らかの過去の出来事の記憶のもとずく記述であるか、後の世の創作である部分があるとしても、どのような理由や動機によるものなのか、記紀編纂時のどのような政治的な背景によるものなのか、そのようなことを考察しながら読む(批判的に読む)事が必要だろう。全く鵜呑みにするか,全く否定するか、の二者択一は有り得ない。

日本の古代史解明は、このように厄介な作業が伴う。しかし、私のような「時空の旅人」にとっては迷宮をさまようミステリーツアーのような醍醐味を味わうことが出来る。分かっていない事が多いから面白い。解明されていないエピソードほどワクワクする。想像力が働くからだ。もっともコウなるともはや歴史ではなく空想の物語の世界に踏み込んでしまっているが。

見よ!大仙古墳という巨大な古代史のタイムカプセルが眼の前に横たわっている。まだ語ってない事がイッパイあるぞ、と目配せしている。



(空路大阪に入ると、伊丹着陸直前に、巨大な大仙古墳を中心とした百舌鳥古墳群を眼下に見渡すことができる。ここからの眺めは素晴らしい。)



(大仙古墳の外周は2.8キロあり、その広さは充分体感出来るが、前方部にある拝礼所からだけ見てもこの古墳の巨大さはイマイチ実感出来ない。やはり空から見渡すのが一番だ。)