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2013年6月12日水曜日

そうだ鑑真和上に逢いに行こう!

 いよいよ関西生活もカウントダウンに入った。そういう時期になると、何かやり残した事が無いかいろいろ考える。日頃やっておけば良いものを,いざ時間が無くなるとバタバタするのが凡人の凡人たる所以。もちろん関西でまだ行ってない所は多い。これを全部制覇するのは5年では難しいし、また後の楽しみにもとっておきたい所もある。しかし、どうしても外してはならない事を一つ忘れている。そうだ、鑑真和上に会いに行こう!

金堂の平成の大修理が成った2009年に唐招提寺を参拝して以来,エンタシスの列柱と天平の甍という建築美を眺めに何度も訪問した。御本尊の盧遮那仏も拝観させていただいた。古代蓮の神秘的な美しさも楽しませていただいた。しかし、肝心の開祖、鑑真和上には一度もお会いしていない。ご真像は毎年一回6月6日の開山忌舎利会の前後三日間だけに特別開扉されている。なかなかお目にかかれないので、今年は鑑真和上像の新たなレプリカが作成され、初めて一般に公開された。


尊敬する鑑真和上にご挨拶せずに関西を離れるわけにはいかない。鑑真和上像は御影堂に東山魁夷画伯の障壁画に囲まれて鎮座ましましているが、例年その特別開扉には大勢の人が押し掛けるという。どうも静かに和上と対峙したい時に、押すな押すなで落ち着かないご「見学」は意味が無いと思い、なかなか足が向かなかったが、いよいよこれが最後なので意を決して唐招提寺に向った。

当日は週末にもかかわらず意外に訪問者は少なく、ご真像にも並ばずにゆっくりと対面することが出来た。ご尊顔は写真でしか拝見した事が無かったが、想像通りのもの静かで奥深い佇まいである。和上が経て来た艱難辛苦が忍ばれるが、表情にはその片鱗すら見せない静溢さがある。しかし,その奥に強い意志を感じる事が出来る。周りで参拝している人々も、一様に静かに手を合わせている。和上のご遺徳の為せる技だろう。無駄な言葉は不要とばかりの存在の重さだ。新しい像は開山堂に安置されていて、ガラス張りの堂内におわします。いずれも写真撮影禁止。寺院での堂内撮影禁止は、私としてはいつも残念に思う事だが、今回ばかりは心のフィルムにしっかり焼き付けることが出来たので満足である。

唐招提寺は東大寺や薬師寺などの天皇の勅願で開いた官寺ではない。また藤原氏の開いた興福寺のような氏寺でもない。中国から一身を投げ打って日本における仏教教義の普及のために5度の遭難にも屈せず渡海した鑑真和上の精神を受け継ぐいわば戒律の専修道場である。政治権力の安泰といった動機から一線を画した寺である。一族の繁栄と安寧といった動機とも無縁である。また後世の現世利益を求める庶民のための寺でもない。そのようななんらかのご利益(ごりやく)を求める心を超えた普遍的、哲学的、スピリチュアルな場だ。

名誉欲、金銭欲、物欲煩悩留まるところを知らず。私(わたくし)を捨てて公(おおやけ)のために生きる。世のため、人のため、真理のため、という気高い生き方を忘れてしまった今の自分に対する戒めとなる訪問であった。よかった、鑑真和上にお会い出来て。今、来し方行く末を振り返る人生の転換点に立ち、その時期に敢えて俗世の垢にまみれた現代の都に再び還って行く身にとって、この一瞬はかけがえの無い精神浄化のプロセスであった。




(若葉して おん目のしずく ぬぐわばや  芭蕉)






















































(緑がだんだん濃くなって行くの西ノ京、唐招提寺辺りを散策。カメラはLeica M (Type 240)+Summicron 50mm. Fujifilm X-Pro1)