久しぶりにこの季節、大和路を散策することが出来た。しかも、大阪にいたときに訪れることの出来なかった、奈良大宇陀の「又兵衛桜」(本郷の瀧桜)を、ついに訪ねることが出来た。大宇陀は美しい佇まいの街並の織田氏の城下町。何度か散策に訪れたことがある町だ。城下町といっても、織田松山藩3万石という小藩の町で、壮大な縄張りの城下町とはかけはなれた静けさだ。むしろ商家が軒を連ねる在郷町の雰囲気の方が強いように感じる。
又兵衛桜は、この大宇陀の古い街並の西、1kmほど離れた阿騎野の里にある。大宇陀川沿いの山の斜面に樹齢300年超の古木が、孤高の古武士のように屹立している。車でないとなかなか行きにくいところだが、最近は有名になって観光バスで団体さんが押し掛けるようになった。また、前を流れる本郷川の河川敷の整備が進み、観光客用の広場や見物スペースも用意され、山間にひっそりと佇む老木のイメージが薄れてしまった。周辺があまりにもきれいに整備されると、まるで場違いなステージに立たされた老優のようでもある。それでもその風格と時空を超えた存在の重さを十分に感じさせる。
この日はあいにく天気が不安定で、晴れていたかと思うと急に雨が降り始めるという、花見にはあまりよろしくない一日であった。近鉄榛原駅からバスに乗って大宇陀高校で下車。日頃の行いが悪いせいか、よりによってバスを降りると、いきなり雷様のお出迎え。激しい雷雨にしばし万葉公園の体育館の軒先で雨宿り。小降りになってから雨の中を1キロほど歩くと、雨にけぶる山肌に又兵衛桜が見えてきた。なんとドラマチックな出会いではないか。そして雨上がる...
「又兵衛桜」の名前の由来は、江戸時代初期の剣豪、後藤又兵衛にちなんでいるそうだ。後藤又兵衛は、今年のNHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」にも登場しているが、黒田官兵衛に育てられ、官兵衛の子で筑前52万石の当主となる黒田長政の家臣となる。勇猛ぶりで名を馳せた黒田24騎の一人として活躍する武将である。後に諍いがあり黒田家を出奔する。最後は大坂夏の陣で、豊臣方の武将として大坂城に入り、道明寺の戦いで壮絶な戦死を遂げたといわれている。講談などで登場する剣豪として人気の有名人だ。ある意味、黒田官兵衛や長政よりも人気があったかもしれない。その又兵衛、実は大坂城を抜け出して生き長らえ、ここ大和の宇陀の地に隠遁、静かな余生を送ったのだと。その屋敷跡に桜の古木が残った、と地元では伝えられている。この他にも、「その後の又兵衛」の伝承が残っている地域がある。大分県の豊前中津にも彼が晩年を過ごした地というのがあって、耶馬渓には墓まである。源義経伝説のように、人々に愛された英雄の生存伝説はあちこちに語り伝えられている。
この辺りは古くから阿騎野(あきの)と呼ばれ、飛鳥、奈良時代には宮廷の狩り場であったところだ。推古天皇の時代、「薬狩り」が催されたことが『日本書紀』に記されている。「薬狩り」は宮中行事でもあったとされ、男性は猟を、女性は薬草を摘んだ。天武・持統天皇の時代にも阿騎野で行われたと文献に残る。万葉歌人・柿本人麻呂も草壁皇子、軽皇子(のちの文武天皇)に随行し、この地に秀歌を残した。大宇陀の町と阿騎野の里を見渡すことの出来る「かぎろいの丘」に登ると柿本人麻呂の万葉歌碑が建っている。
「東の 野に炎(かぎろひ)の 立つ見えて かえり見すれば 月傾きぬ 」(万葉集 巻1-48)
まさに春爛漫、本当に美しい風景だ。桜、桃、梅、椿、レンギョウ、ユキヤナギ、ハナスオウ、モクレン、コブシが一斉に咲きほこり、青紅葉や、樹々の新芽が浅葱色に芽吹く。田んぼにはレンゲやスミレが咲き誇る。先ほどまでの雨で山肌には煙霧がかかっている。ああ美しい。なんと心癒される時間と空間であることか。いつまでもここに佇んでいたいものだ。
山懐に抱かれた里の曲がりくねった田舎道を歩いていると、本郷川に沿って杜に囲まれた古社に出会った。いかにも古神道の原風景を見るような鎮守の森だ。阿紀神社である。現在の社殿は安土桃山時代に現在地に建立されられたのもだという。伊勢神宮と同じ神明造の社殿で、りっぱな能舞台を備える。創建の歴史は不明である。、現在の杜のすぐ隣の丘に「高天原」の標識があり、元々はここに鎮座ましましていたのだと言う。ご祭神(主神)は天照大御神。この神社も幾つかある「元伊勢」の一つだ。しかし、その佇まいは、天武・持統治世の皇祖神創出に先立つ、田の神、山の神、といった自然神、地元の産土神のそれである。この地元の神も、後に天照大御神を頂点とする皇祖神システムに組み入れられていったのだろう。
また、記紀には、神武天皇が熊野から大和国中を目指して進軍するとき、阿騎野から菟田野(うたの)を八咫の鴉(やたのからす)に導かれ、無事に通過することが出来たと記されている(近くに八咫鴉神社がある)。背後には、神武軍の大和侵攻の司令塔の役割は果たしたと言われる伊那佐山も、その秀麗な甘南備の山容を誇っている。ここ宇陀では地元の「荒ぶる神々」に行く手を阻まれて苦戦するが、ついにはこれらの抵抗勢力を破り、大和国中に進駐。橿原宮にて初代天皇として即位した。記紀が語る「日本建国」物語のクライマックスの場面である。また674年の壬申の乱では、吉野を出た大海人皇子がここ菟田野で狩人たちに導かれて東国伊勢へ脱出、やがて体制を立て直して近江京を落とし、大和に凱旋して天武天皇として即位する。何やら似たような展開だが、この壬申の乱の話が、記紀編纂のなかで参考にされ、「神武東征」物語の原型になったのだろうともいわれている。今は穏やかな山里、阿騎野、菟田野は、熊野、吉野、伊勢と大和国中を結ぶ回廊として、たびたび歴史に登場する重要な舞台であった。
阿紀神社をさらに先へ進むと、やや小高い丘の上に天益寺(てんやくじ)がある。この寺は真言宗の寺で鎌倉時代創建の古刹である。阿紀神社の神宮寺として建てられたという。ここの枝垂れ桜がまた絶品だ。不幸にも平成11年の不審火により堂宇は消失したが、この桜の巨木は残った。又兵衛桜からは徒歩で5分ほどの近さであるにもかかわらず、訪れる人も無くひっそりと里を見下ろしている。しかし、その伸びやかな枝振りと、輝く花弁の美しさは,又兵衛桜とは別の趣を醸し出しており、その風景を独り占めするという贅沢を楽しむことができる。
都会でのにぎやかで慌ただしい桜三昧で、やや「桜酔い」の眼に、人知れず山里に咲き誇る桜の古木の立ち姿。又兵衛桜は有名になりすぎてしまったが、それでもその孤高の品格が心に沁み入る日本の桜の風景であることは間違いない。
(「又兵衛桜」(本郷の瀧桜)。あいにくの雨であったが、それはそれで風情がある)
(孤高の古武士のような風格を感じる)
(阿紀神社の杜)
(結界を示す注連縄と紙垂が美しい。紙垂は稲作の神である雷の形を表したものと言われる)
(天益寺の枝垂れ桜。ここからは阿騎野の里、大宇陀松山の街並が展望できる)
(下から見上げるとまた見事)
(甘南備の山、伊那佐山)
(大宇陀松山の街角。重要伝統的建造物群保存地域に指定されている)
(撮影機材:Nikon Df+AF Nikkor 28-300mm。ブラパチ風景ハンティングにほぼ万能のセット)
「又兵衛桜」の場所を見るには「Google マップで見る」をクリックしてください。
アクセス:近鉄大阪線「榛原」駅下車。奈良交通バス「大宇陀」行きで「大宇陀高校」下車。そこからは徒歩で15〜20分。県道に沿って歩くのが分かりやすいが、一歩脇道に入って里の景色を楽しみながら散策するのがおすすめ。案内標識はよく整備されている。