表紙 |
伊奘冉、伊弉諾二神像として掲載されている |
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William George Aston (1841~1911) Wikipedia |
本書は、1896年にロンドンの日本協会雑誌付録第一「日本記」全2巻、Transactions and Proceedings of The Japan Society, London Supplement I, NIHONGI, Chronicles of Japan from the Earliest Times to A.D.697としてロンドンで刊行された。出版社はKegan Paul, Trrench, Truebner & Co Ltd. である。著者のウィリアム・G・アストン(William George Aston:1841-1911)は、アイルランド生まれでダブリンのクイーンズカレッジ卒業後、英国外務省の日本語研修生としてアーネスト・サトウとともに採用され、1864年に江戸の英国公使館に通訳生として赴任する。公務に従事する傍ら、日本語研究に取り組み、退官帰国後には、数多くの日本に関する研究書を発表した。その中には「日本神道論」「日本文学史」「日本古代史」があり、なかでも西欧の日本研究者に大きな影響を与え、研究の進歩に貢献したのがこの「日本紀」である。本書はその貴重な英訳初版本である。
このアストンの「日本記」は、8世紀に編纂された日本初の国家としての正史「日本書紀」の初めての英訳であり日本の古代史研究資料としても貴重な書籍である。しかしなぜかアストン没後は再版、改訂されることはなく、日本においてもその存在を知る人も少なかった。不思議なことである。戦後の1956年になってようやくロンドンで再版された。出版社はGeorge Allen & Unwinである。初版の2巻本が1巻にまとめられたが内容は全く同じである。これ以前にはチェンバレンによる「古事記」の英訳がある(以前のブログ参照 2025年5月17日古書を巡る旅(64)チェンバレン英訳「古事記」)。アストンはチェンバレンの古事記を読んでおり、彼の原稿を所有していたため関東大震災で失われた原本を復刻することができた。この復刻版ではアストンが新たに注釈をつけ、これが現代の英訳古事記の底本になっている。そういう意味においてアストンの古代日本語の流麗で正確な翻訳、注釈には定評があり、この評価はあたかもチェンバレン版「古事記」のアストン訳注で発揮されたもののように受け止められがちである。しかし、これに先立つアストン版「日本紀」にこそ、その翻訳の力量が遺憾なく発揮されている。
本書は、全2巻で、第1巻は神話と神武天皇から武烈天皇まで。第二巻は継体天皇から持統天皇まで。神話部分と神武天皇から持統天皇までのクロニクルな年代記として訳出されている。日本書紀は元々漢文で記述されており、その文体、用語法の違いから、執筆者には渡来人(ネイティヴの漢人)と倭人(外国語としての漢文を学んだ)の2種類が存在していることが最近の研究で明らかになっている。アストンもその内容と文体が中国からやってきた人物(渡来人)の影響を受け、そうした文化的な背景を受容して記述されていることを指摘している。この古代日本を知る上で、それに影響を与えた中国語(漢字)、思想、政治制度、文化についての理解と注釈なしで、歴史書として日本紀を解読することは困難であると考えた。そもそも日本書紀の編纂の背景には、古代東アジア世界の超大国である中国(唐王朝)を意識して、新興国家「日本」(かつて倭国と呼ばれた)の独立と、神代から続く天皇の支配の正当性を対外的に宣言することがあり、その表明の書としての正史編纂であった。アストンはそうした国家アイデンティティー表明の中にもその内容に多くの中国王朝からの影響が見て取れると指摘している。
このようなアストンの注釈豊富な翻訳姿勢は、のちのドナルド・キーンの英訳のような読んで面白い文学的な訳文ではなく、逐語訳で正確性を期したもの、比較歴史学、神話学研究的な姿勢によるである。その意味においてはチェンバレン版古事記が、文学作品的な味わいがないと評されるのとと共通している。元々「文学作品」として取り扱っていないのである。歴史的史料、ないしは比較言語学、比較神話学の文献資料として扱っている。巻頭でその翻訳の考え方、姿勢が表明されている。
アストンは日本紀の解説書として、18世紀末の江戸時代寛政年間に出版された「書紀集解」(国学者河村秀根)を用いている。それ以外にも釈日本紀などの歴史書や、フローレンツのドイツ語訳を参照し、チェンバレンや、サトウの著作を参考に彼の幅広い日本語能力、古代史知識、中国文化の知識をフルに活用した翻訳となっている。しかし、「書紀集解」を典拠とする点で日本書紀研究の現代的視点から見ると、いまや過去のものとみなされる解釈も多いのは致し方ない。特に古事記と日本書紀の成立経緯や成立意図を現代の研究者ほど明確に意識しないまま比較している面がある。また日本紀の原本として「帝紀」「旧辞」をあげており、蘇我宗家の滅亡とともにこれらの原本が失われたことは指摘してたうえで、「旧辞」を「旧辞記」しているのは何かの混同だろうか。しかし、当時の(いまから130年前の英国人研究者による日本古代史史料の解読、研究姿勢とその成果には舌を巻くほかない。特に史実と伝承、神話を明確に区別して考察する姿勢は、現代の「記紀」史料研究では既定のものであるが、この当時においては注目される。しかし、6世紀以降の天皇の事績に関する記述が多くの点で史実であるとみなした点は、現代ではその多くが潤色されたものであるとの見解で一致していることから見ると資料の批判的解読に限界があると言える。それにしても、そんな研究深化の過程での誤りを現代の視点で批判することにどれほどの意味があるのか。こうした先人の業績の積み重ねあればこその日本書紀解釈であり、古代史研究である。アストンの当時としては最も正確な翻訳、これを世界に紹介した功績は偉大である。
明治期に日本が欧米列強に対し、国家的表象としての古代史、国の正史(あるいは国家創世神話)を求めていた時期にこのアストンの英訳「日本書紀」が大きな役割を果たしたと言われる。「記紀」の復活。皇国史観の確立に向けた時代であった。そもそも「日本書紀」の編纂目的が8世紀に倭国から日本(ひのもと)と名乗って、中華帝国(唐)、東アジアに国家デビューを果すための漢文による正史編纂事業であったことを考えると、1100年後の19世紀の明治維新という新たな近代国家デビューの時期に再び「日本書紀」「古事記」の存在が脚光を浴び、それがイギリス人研究者によって英訳復活したことには歴史のシンクロニシティーを感じざるを得ない。無論アストンはそのような明治国家の意図を汲んで英訳を試みたわけではないが、そのような要請に合致することとなった。
そもそもアストンもチェンバレンもこうした日本の古代史料を日本人に向けて英訳本を出したわけではない。アストンは巻頭言で明確に「ヨーロッパの研究者向けに翻訳を試みた」と書いている。当たり前だというかもしれないが、これらの英訳本が日本人に評判が良いことを思い出して欲しい。つい我々は、日本人ですら解読が難しい古代史料を英訳したことに感動する。そして日本を美しくユニークな国、人、文化として評価してくれていると思い嬉しがる。明治期以降の日本人が大好きな「外国人が見た日本」!、現代的にはCool Japan!現象だ。親日家、だとかジャパノロジストだとか言ってもてはやす。もちろん彼らは日本に興味を抱き、深く愛したが、しかし研究対象として日本を客観的、批判的に分析する視点を忘れてはいない。チェンバレンに「その観察は日本にシンパシーを持ち過ぎている」と批判されたラフカディオ・ハーン(古書をめぐる旅(66)ラフカディオ・ハーン「神国」)ですら、イギリスやアメリカ、欧米諸国の読者向けに彼らが東洋で見つけた新たな事実、物語を紹介しようとしたものだ。「西洋文化に対する東洋文化」という比較文化論的な視点での研究書あるいは論評書なのだ。決して日本贔屓したり、日本人を持ち上げようとする媚びへつらいの意図はない。われわれ日本人がこれらの研究書、作品集に接するときにその著者の意思を尊重しなくてはならない。
それにしてもこのような日本の古典研究が、明治期にこうした英国の外交官、御雇外国人によってなされたことに注目したい。そこには当時の大英帝国の国家としての情報収集能力、異文化研究能力、人材育成能力の卓越したパワーを感じざるを得ない。オルコックもパークスも、館員に、1日の半分を日本研究のために費やすよう命じた。大英帝国の余裕のなせるわざではあるが、その余裕は単に国家の経済的な優位性、軍事的な優位性によるものだけではなく、同時に「インテリジェンス」重視の知性の優位性によるものであった。現代においてジャパノロジストを見なされる日本研究者、オリファント、サトウ、アストン、ミットフォードもみな若き駐日英国公使館員であった。チェンバレンは、公使館員ではなくお雇い教師であったが、なんと帝大の「国文学」講座の初代教授であった。ジャパノロジストはこうして生まれた。「英国諜報部員」の実相は007のようなアクションスターだけでなく知的研究者であった。
そうした大英帝国時代以来の外国研究の伝統は、ロンドン大学 東洋・アフリカ研究学院(The University of London, The School of Oriental and African Studies)にそのレガシーと最新研究が引き継がれている。