カトリック浄水通教会 聖マリア像 |
森の散歩コース
福岡市の南公園は小高い山で緑濃い公園である。市民には動物園がある公園で知られていた。いまもリニューアルされて市営動植物園がある。この界隈は江戸時代には福岡城の真南に位置する大休山という山であったところであり城南の防御となっていた。また谷筋は浪人谷と呼ばれる武士の住居地であった。高校時代は受験勉強に疲れると自宅から近いのでよく散歩した。照国町の陸軍墓地から登ってゆく。起伏があって結構息がはずむが、緑陰の風が気持ち良い。展望台に上がると眺望が開け、福岡の市街が良く見える。心落ち着く好きな場所だった。
高校を卒業した時、いつもつるんでいた仲間みんなでこの展望台に集まり、目の前に広がる我らが故郷、福岡の町を眺めながらこう約束した。
「3年後にまたここで会おう!」と。
なぜ「3年後」なのか、今となってはその理由をよく思い出せない。ただ卒業したばかりでそれぞれ大学に入っても専門課程が未だ定まらない。あるいは浪人したり、大学紛争真ただ中の時代で、入学試験が中止になった大学もあって志望大学へ進学できるかも危ぶまれた時代だった。地元の大学へ進学する場合も東京や関西へ行く場合も。3年たてば皆それぞれの進学先や専攻科目が決まり人生航路が定まっているだろう、と。その時また集まって旧交を温めようと。なんとなくそう考えたのだと思う。というより、ロマンチックな青春ドラマの一シーンみたいなことに憧れたというのが若者の本音かもしれない。
今のこの歳になれば3年なんてあっという間だが、18歳の若者たちにとっては「3年後」は「将来」の話であった。そして約束通り3年後にそのメンバーは南公園の展望台に集まった。見渡す福岡の町もそれほど変わらないし、あまり懐かしさはなかったが、みんな少しだけ大人になった気分だった。東京や関西の大学に進学した九州男児くんは多少は垢抜けた。勉強する学部/学科も決まり少し人とは違う道を歩み始めたことになったと感じたものだった。もちろんこれから始まる人生の荒波などまだ知る由もなかったし、ささやかな一歩に過ぎなかったのだが。
あれからうん十年。気がつくと定年を迎え、社会人としての終末期にはいって久ぶりにあの展望台を訪ねてみたくなった。「3年後」を誓ったあの時代にタイムスリップできるかもしれないという微かな期待を胸に。地下鉄の桜坂駅(あの時はそんな地下鉄もなかったが)から南公園を目指して歩き始めた。しかし南公園自体が鬱蒼たる森に成っていて、遊歩道の入口が確認しずらい。鎖のバリアーがあって閉鎖されている感じすらする。公園内に入り坂を登り始めると人気がない。たまにジョギングする人に出会うだけだ。標識も無く道に迷う。あの展望台がなかなか見つからなかった。ようやく見つけた古ぼけた標識でここが展望台である(あった)ことがわかった。展望台はすっかり樹木に覆われ森の一部になっていた。もちろんそこからは全く展望が利かなくなっている。なんと南公園は荒れ放題になってしまったのかとガックリした。しかし、傍らの案内板によると、これは都心にあって貴重な自然環境と緑を回復し「極相林」として「自然の森に還す」試みだという(環境省の「特定植物群落」に選定されているようだ)。なるほど、それなら悪くない。昔の姿が残っていなかったとガッカリする必要はない。こうして福岡を離れてうん十年の間に南公園自体がタブノキとスダジイの森に回帰してしまったのだ。我々の青春のField of Dreamsはこの鬱蒼たる緑の大海に飲み込まれてしまった。青春の思い出はこの森の奥深くに封印されている。あの頃の若者が木陰から姿を表すこともなくなってしまった。その方が良いではないかと納得した。
南公園のかつての展望台が樹木に覆われて展望が利かなくなった代わりに、公園の西側に新しく西展望台が出来ていた。ここからは福岡市街を360度見渡せる。福岡もいまや人口150万の大都会だ(福岡を出たうん十年前は人口80万であった)。ここから展望する福岡の街はすっかり変貌を遂げてしまった。その林立するビルの合間合間にかつての故郷の痕跡を探すが、なかなか見つけ辛い。ただ遠くにそびえる油山と背振の峰と静穏な博多湾だけは今も変わらず福岡を見守ってくれている。
浄水通りと城南線
展望台を後にして南公園の東の斜面に連なる瀟洒な通り、浄水通りに出る。かつて丘の上に平尾浄水場があったことから名付けられた。そういえば小学校の時に、学校からの遠足で浄水場へ社会科見学で行き、隣の動物園で1日過ごして帰った覚えがある。南公園、動物園、御所が谷から薬院大通からまでの一直線の長い坂道。あの頃から福岡の山の手お屋敷街であった。かつては筑豊の炭鉱主や地元の実業家の邸宅が軒を連ねていたが、今はマンション街になってしまった。
まだ西鉄市内電車が走っていた頃、未舗装の坂道をガタゴトと軋みながら坂を登る市内電車城南線があった。大休山を開削して通した城南線は、切り通しに沿って練塀町(ねりべいちょう)、古小烏(ふるこがらす)といった電停が並んでいた。市電が廃止された跡はその名も「城南線」という通りになっている。今の地下鉄七隈線の桜坂駅の辺りだ。南公園の山はこの浄水通りと城南線に挟まれたエリアだ。緑豊かなこの辺りには、福岡のお嬢様学校街でもある。良妻賢母、文武両道の筑紫女学園、カトリック系の福岡双葉学園、県立福岡中央高校(才媛が集まる旧制福岡第一高等女学校。今は共学校だが女子の方が多い)。登下校時の城南線の電車は華やかだった。西新町の汗臭い九州男児くん達は、用もないのに(用事を作って)この電車に乗って薬院大通りあたりまで進出したものだ。浄水通りの九電記念体育館であるスポーツ大会や諸々のイベントはこのあたりに出かけるもっともいい口実であった。
またキリスト教関連の施設が集まっている地区でもある。カトリック系の福岡双葉学園、カトリック浄水通教会、カトリック福岡司教館、イエズス会福岡修道院、旧泰星中高校(現上智福岡中高校)はこの南公園周辺にある。ことにカトリック浄水通教会は美しい建物で、今でも白亜の聖母マリア像の高潔な姿が心に焼き付いている。1951年の再建(旧教会堂は箕島教会として移築されている。)で、白い大理石造りに見えるが構造的には木造建築だそうだ。これらの教会施設はこの界隈をエキゾチックで静謐なものにしてくれている。何十年ぶりかで訪ねてみたが、全てが時間を超えて昔のままだ。そして九電記念体育館。高校時代は室内競技の試合や、合唱コンクールなどのイベントがあり、よく行った。しかし、この九電記念体育館は、すでに閉鎖されている。積水ハウスが敷地を九電から買収し取り壊し予定。マンションが建つ予定だという。すでに一部ではマンション建設が始まっていた。なんでもマンション。お屋敷街も姿を消し、マンションに。マンションは景観破壊の代名詞になってしまっている。
ところで浄水通りには小石原焼窯元の直営店がある。この店のことはいままで知らなかった。いつか小石原の陶芸の里へ行ってみたいと思っているうちに、先の大水害だ。東峰村(かつての小石原村を含む)の多くの窯元も被災した。それでせめて今回は福岡市内で見れるところはないかとネット検索していてここを見つけた。薬院交差点に近いお店は「やまびこ」という。ここのお母さんに伺うと、なんと50年も前からやっているという。私の学生時代には既にあったことになる。お母さんと昔話に会話が弾んだ。昔話が通じるところが嬉しいやら悲しいやら。小石原の被災状況を聞く。上流の窯元は被害を免れたそうだが下流域の窯元は登り窯が流されたり酷い状況だという。この店の窯は幸いにも被害を免れたそうだ。隣の小鹿田(おんだ)焼窯元は無事だという。お母さん、浄水通りもマンションばかりになってしまって、向こう三軒両隣、回覧板回すところがなくなったと嘆いていた。小石原焼独特の飛び鉋の中皿を6枚購入した。今回の旅の思い出の逸品となった。
写真集:
旧南公園展望台
南公園散策路 |
展望台 あの時仲間と集まった場所。 ここからの市街地の眺望が素晴らしかったのだが... こんな状態ですっかり展望が利かなくなっている |
すだじいの巨木 |
旧南公園展望台 樹木に覆われてしまい、最初わからなかった。 もはや展望を望めない状態 |
新設された西展望台からの眺望
天神方面 背後は立花山 |
手前が大濠公園 向こうは博多湾/海の中道 |
福岡ドーム/シーホークヒルトン |
福岡タワー/シーサイドももち地区 |
那の津大橋 |
海の中道海浜公園遠望 |
福岡市西部全景 |
動物園の観覧車 |
油山 |
手前が大休山の自然林 南公園の森 天神方面を望む |
別府団地/梅光園団地 すっかり高層マンション群になってしまった 背後にうっすらと糸島富士「可也山」 |
変わらぬ姿の背振山脈九千部山 脊振山のレーダーサイトが見える |
福岡マリーンメッセ方面 |
九州大学六本松キャンパス跡は再開発建設ラッシュ |
足の長い男 |
浄水通り界隈
旧平尾浄水場に続く階段 昔のまま残っていた |
浄水通り 坂の上から薬院大通り方面 |
カトリック浄水通教会 |
カトリック福岡司教館 |
旧邸宅街の名残 |
お屋敷街はマンション街に変貌 |
九電記念体育館 解体待ち |
浄水通り沿いのマンション建築現場 |
小石原焼窯元直売店「やまびこ」 |
夕焼け 十字架は大名町教会 |