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2017年8月25日金曜日

宮地嶽神社の謎 〜「光の道」は誰の道 宗像族?安曇族?〜


宮地嶽神社参道
年二回夕日が参道の真正面の海中に没する光景が有名で「光の道」として人気が出ている

海中には相島が
海人族の古墳や大陸への渡海の拠点跡が見つかっている


 今年、宗像大社の沖ノ島など三宮(沖津宮、中津宮、辺津宮)と、関連遺産の新原・奴山古墳群が世界遺産に登録されることになった。4〜7世紀の宗像海人族の地域祭祀とヤマト王権下の国家祭祀への変遷をいまに残す貴重な沖ノ島遺跡、およびその関連遺産である。有名な沖ノ島は海の正倉院と呼ばれるほど、手つかずの奉納品や祭祀跡が残されており、大陸との交流を物語る出土品の数々はすべてが国宝。

 一方、このあたりにはもう一つ宮地嶽神社という古社がある。地元福岡では宗像大社と宮地嶽神社、箱崎八幡宮、太宰府天満宮はお正月の三社参りの定番コースとなっており、昔から参詣者が多い神社である。子供の頃の私にとって宮地嶽神社は太宰府天満宮参道の名物「梅ヶ枝餅」と似た「松ケ枝餅」を食べたことしか記憶にない。しかし、こうして日本の古代史に興味を抱き研究し、その一環としての各地の神社、古神道の由来に思いを致し始めると、宮地嶽神社についてもどのような由緒のお社なのか興味が湧いてきた。しかし、そう思って調べ始めると宗像大社などと比べその由来、歴史的背景が不明であることに気づき始める。神社記載の創建由来には、日本書紀の記述に神功皇后が三韓征伐に出かける前に、宮地岳に登ってはるか大陸に向かう海を眺めながら渡海の安全と戦勝を祈願した、とあり、その故地に社を建てたのが始まりとされる。息長足比売命(神功皇后)とその時に付き従った勝村大神(藤高麿)、勝頼大神(藤助麿)がご祭神であるとされている。全国宮地嶽神社の総本宮だ。日本の神社は日本書紀や延喜式神名帳の記載を創建の由来としているところが多い。しかしそのような「公式記録」が編纂される7世紀後期以前の姿はなかなか見えてこない。天武・持統朝以降は日本の神は全て皇祖神天照大神を頂点とする神の体系化に組み入れられてきた。「神社」という拝礼のための施設が設けられるようになるのもこれ以降のことだ。もちろんその以前には様々な地元の神、氏族・豪族の祖霊神、自然神がいた。まさに八百万の神々であったはずだ。その時代の神の姿、信仰の姿は見えてこない。

 この宮地嶽神社についても同様。この地元の人々の崇敬厚い古社の成り立ちは上記の日本書紀の記述があるのみだ。そもそも勝村大神、勝頼大神とはどのような神であったのか。藤高麿、藤助麿とは何者なのか?地元の豪族の一族であったのだろうが宗像海人族との関係があるのか。津屋崎古墳群に位置するエリアであるが、どのような人たちであったのか。宗像大社との関係など、どうもあまり明快になっていない。ネットで検索しても、地元の個人の研究家のブログにユニークな解釈と推理が掲載されたものはあるが、学術的な研究資料や古文書紹介などは極めて少ない。もっとも個人ブログは読んでいて面白いのだが。

 やはり現地へ足を運んで見ることにした。何十年ぶりの参拝であろうか?それこそあの「松ケ枝餅」以来であるから。昔は貝塚から西鉄宮地岳線に乗って簡単に神社参道まで行けたが、2007年に新宮から津屋崎までが廃線となってしまい鉄道の足を失ってしまった。今回はJR福間駅からバスで向かった。参道入り口に近づくにつれ、鳥居の背後に美しい三角錐の甘南備山が聳えているのを発見した。やはりそうなのか!これこそ宮地嶽である。甘南備山をご神体として崇拝する古代の聖地そのものの佇まいである。まさに宮地嶽とはご神体山のことだったのだ。古社参拝に際してまずは納得の景観である。

 宮地嶽神社は、宗像大社、新原・奴山古墳群の南西に10数キロしか離れておらず(現在の行政区分では福津市(福間と津屋崎が合併して福津!)に属す。宗像大社は宗像市)、旧宗像郡(律令制下では「宗像神郡」として特別の扱いであった)に位置している。中世から近世に栄えた津屋崎千軒もすぐ近くだ。周辺に広がる津屋崎古墳群はおそらく海人族の有力勢力の奥津城であろう。それが宗像族なのか安曇族なのか。安曇族は綿津見神を奉斎し糟屋郡の志賀島、志賀海神社をその依り代とする海人集団であった。古代奴国の漢王朝への朝貢にも関わった可能性がある筑紫倭国の海人一大勢力。しかし、6世紀に起きた「筑紫君磐井の乱」では磐井(チクシ大王)側につき、その敗北とともに信州安曇野(「穂高神社」には一族の守護神、綿津見神が祀られている)初め、全国に離散する。さらに白村江の敗戦では族長安曇比羅夫が戦死し、一族は歴史の表舞台から消えてゆく。あるいは一部のグループは住吉神社の祭主としてヤマト王権に仕えたとも言われる。一方の宗像族(胸方族)は筑紫君磐井の乱ではヤマト王権側につき、ヤマト王権を守る宗像三女神を奉斎する地方有力豪族として「本領安堵」されて繁栄を誇る。宗像大社はその宗像海人族の依り代である。宮地嶽神社は、宗像郡内に位置しているものの、安曇族の志賀海神社(糟屋郡)と宗像族の宗像大社(宗像郡)の中間に位置している。宮地嶽神社の立ち位置が問題となるわけだ。鎌倉時代の古文書には宮地嶽神社が宗像大社の域外摂社の一つであるという記述がある。いつの間にかそういう位置づけにされてしまった可能性もある。

 祭祀の形態も宗像大社と宮地嶽神社では異なるようだ。宗像大社辺津宮周辺には甘南備山は見当たらない。大島中津宮、沖ノ島沖津宮、ともっぱら島を神の依代、ご神体として海に向かって祭祀を行う。辺津宮には古神道の原型と言われる磐座「高宮斎場」があり、ここは鬱蒼たる森の中に鎮座している。大陸への海上交通を守り、やがては出雲大社と同様「道主貴(みちぬしのむち)」としてヤマト国家の安寧を守る国家祭祀を執り行う。社格は延喜式神名帳の官幣大社であり式内社。

 一方、宮地嶽神社の背後には美しい甘南備山、標高180mの宮地嶽がそびえる。ちょうどヤマトの三輪山や春日山、早良國の飯盛山、伊都国の高祖山を彷彿とさせる景観である。おそらくこのご神体山が先に信仰の対象であったのだろう。拝殿や神殿のような参拝用の神社建築ができるのは、仏教伝来以降(仏教寺院建築の影響を受け)のことである。ここ宮地嶽神社周辺を俯瞰すると、神が降臨する磐座や神籬、依り代といった場所で祭祀を行う原始神道の形態、さらにはその山や杜や川、岩そのものが御神体となる自然崇拝アニミズムにより立つ古神道の典型のような佇まいが残っている。社格は県社で延喜式に記載のない式外社である。

 宮地嶽山上には神功皇后が戦勝祈願をしたという場所に建てられた古社跡がある。この神奈備山は本殿の北に聳えており、かつては海からその姿が真正面に拝めたことだろう。さらに宮地嶽神社境内には本宮跡がある。実はこここそ参道の真正面なのだ。ここから真西の海岸線に向かって参道が800メートル一直線に伸びる。年二回夕日がその参道の先の海中に落ちることから「光の道」として有名になっている(昔から有名だったのだろうか?あまり記憶にない。最近のTVCMで人気スポットになったようだ)。その海中には相島が見える。そこは海人族のものと考えられている積石古墳群がある。宮地嶽と相島。山神と海人。どのような繋がりがあるのだろう。いろいろと想像を掻き立ててくれる景観ではないか。現在の本殿は参道の真正面にはない。すこし左に折れたところに建っている。明治期の再建だという。通常、東西南北いづれかに面した参道の正面に本殿があるべきだが、ここはどうしてこの配置になったのか。黄金色にかがやく本殿屋根が異彩を放っているが。

 さらに本殿の奥へ進むと奥宮があり、奥宮八宮巡りができる。その一つは不動明王を祀る社であるが、これは7世紀初築造といわれる円墳、宮地嶽古墳である。江戸時代に石室が確認され、その後の発掘調査で横穴式の大規模な古墳であることがわかった。横穴は23mにもおよび、ヤマトの石舞台古墳や見瀬丸山古墳に匹敵する巨大石室を有する。江戸時代中期にその石室を利用して不動明王を祀っている。ここからは金銅製の太刀や馬具、装飾品など多数の貴重な副葬品が出土しており「地下の正倉院」と言われるほど。そのうち十七点が国宝である。誰の墓なのか?学会の定説では、海人族である宗像一族の長で、天武天皇の妃、古市の皇子の母となった娘の父、宗像徳善の墓であろうとしている。一方、ここは宗像族の支配エリアではなく、筑紫君磐井の子孫、葛子の支配エリアである。磐井の乱後、葛子は粕屋の屯倉をヤマト王権に差し出したのちも糟屋郡あたりに勢力を保持したと唱える人もいる。したがって宮地嶽神社は磐井一族の社(勝村大神、勝頼大神は磐井の子孫とする)であり、もう一つの海人族の大勢力安曇族の勢力範囲であったと説明する。宮地嶽神社関係者はこの説をとっており、古墳の主も胸方徳善ではなく安曇/磐井一族であるとしているようだ。このように未だ謎が多い宮地嶽神社だ。宗像大社と宮地嶽神社は、ヤマト王権に寄り添った宗像族と、筑紫君磐井に寄り添った安曇族のその後の一族の明暗を分けるせめぎあいの場であったのだろうか。

 ここでも古来からの海人族の土着の祭祀と、稲作農耕民の甘南備山信仰、6世紀以降ヤマト王権の古墳といった祭祀の形態が混ざり合っていったのだろう。7世紀末から8世紀に天武・持統朝に「日の本」という国家成立、天皇支配の正当性を宣言すべく編纂されたヤマト王権の正史、日本書紀には、筑紫倭国の王・首長/豪族たち、地元の海人族の祭祀については記述されていない。それは中央から遠征してきた神功皇后の三韓征伐戦勝祈願(宗像三女神への)と、それに付き従った地元の神・豪族の姿として記述されているだけだ。記紀では、常に筑紫は大和に支配された地域であることしか書かれていない。したがってヤマト王権に従った勢力、宗像族/宗像大社に関する記述はあるが、「反乱者」「チクシ王権」である筑紫氏の磐井や安曇族、志賀海神社、宮地嶽神社に関する記述は簡単なものか、神功皇后のようなヤマト王権側の人物の活躍と関連付けた由来が記述されるのみである。敗者の歴史は抹殺される。もっとも、伝承はともかく神功皇后自体その歴史的実在が疑われるし、三韓征伐という伝承も、史実に即したものであるか疑わしい。

 北部九州には神功皇后やその子応神天皇にまつわる伝承、神社(八幡信仰)が非常に多い。もっとも八幡神自体は記紀には登場してこない。八幡神の依代である宇佐神宮も、もとは渡来系の辛島氏の祭祀の場で、八幡神信仰は大陸の神の影響が強いとも言われている。神功皇后と応神天皇の事績の記述は、もともと渡来人とチクシ倭国の王や豪族であった人物の活躍を神格化して、チクシ平定のプロセスとしてヤマト王権の創世ストーリーに取り入れていったのかもしれない。チクシ倭国は大陸との交流が頻繁な海洋国家であり、また列島最初の稲作農耕先進地域であった。記紀には記載されない「この国の成り立ち」を物語る様々な出来事がここではあったはずだが、それらはヤマト王権の描く歴史の闇に追いやられてしまった。そこを掘り起こさねばこの国の成り立ちの真の姿は見えてこない。邪馬台国も卑弥呼も漢委奴国王も倭面土国王帥升の名も、日本の正史である日本書紀には一切出てこない。ここ宮地嶽神社には倭国の成り立ちを解くカギが隠されているかもしれない。



正面の神奈備山、宮地嶽
これこそ古神道の御神体山
山頂に古社跡がある



人気の景観となっている
しかし、古くは海岸線はすぐ手前にあったという





日本一の大注連縄

宮地嶽奥宮古墳
宗像海人族の長得善の墓だと言われているが、異説もある。
貴重な副葬品の数々が出土し「地下の正倉院」といわれる

宮地岳奥宮古墳石室内
お不動さんを祀っている

本宮跡
参道の真正面に位置していた


現在の本殿
金色の屋根

(撮影機材:SONYα7RII+24-70/2.8)