本日4月1日(月)、桜満開の中、11時41分に新元号が発表された。新元号は「令和(れいわ)」。出展は万葉集。桜じゃなくて梅の花にちなんだ元号だ。出典はこれまでの漢籍ではなく初めて日本の古典からである。万葉集巻第五の「梅花の歌三十二首」の序文から採ったもの。「時に、初春の令月にして、気淑く風和らぐ。」この一文は8世紀に筑紫国太宰府に赴任していた太宰帥大伴旅人が居館(現在の坂本八幡宮)で山上憶良などの筑紫歌壇の歌人を集め、梅の花の宴を催したことにまつわる。太宰府は古来より大陸との交流の窓口として栄えた「遠の朝廷」で、梅の花は当時珍しい大陸伝来の外来種であった。現在でも太宰府政庁跡や坂本八幡宮には多くの梅の木があり、のちに太宰府へ流されてきた菅原道真公が祀られる安楽寺、のちの太宰府天満宮も梅の名所である。当時は花といえば桜ではなく梅が大陸伝来文化の象徴的な花として愛でられた時代であった。四書五経のような漢籍ではなく、日本の万葉集を選んだこと、さらには古事記や日本書記といった国の正史ではなく、無名の庶民の歌も多数選ばれている日本最古の和歌集からの出典であること。そして梅の花の季節(令月、すなわち佳き月、正月)を選ぶことで、国の統治者の目線で安寧、繁栄を祈念するのでなく、かつ梅に象徴される外来文化と日本文化の「和合」を含意していることなど、なかなかの奥深い元号となったと感じる。
今後は5月1日に皇位継承、そして令和が施行されることとなる。元号は、もともとは中国漢の武帝が使い始めたもので、皇帝が天下国家と時間を支配することの表明であった。我が国で元号が初めて制定されたのは7世紀飛鳥時代の孝徳天皇の「大化」だと言われている。以来、平成まで247元号が使われてきた。このように元号は皇帝、わが国では天皇制と一体の制度であり、天皇が国家元首、主権者から「象徴」になった戦後日本国憲法下においても使われ続けている。すなわち古くからの風習、我が国固有の伝統文化となっている。日常の生活の中での実用性について西暦の方が使いやすいとか、西暦との換算が面倒だ、とか色々意見が出ているようだが難しく考えることはない。必要ならば西暦を使えば良い。役所や公文書には元号が用いられるが、かといって別に国民に使用が強制されているわけでもなく、無理やり天皇制崇拝と結びつける国粋的言説に反応する時代でもない。これも「象徴天皇」が国民に定着してきた証だろう。とりわけ、今回退位される「平成天皇」の「象徴天皇」としてのあり方を真摯に求め続けるご努力とお人柄が大きく貢献していると思う。戦前、元号は皇室典範により天皇が定めることになっていたが、戦後それが改定されたため、その存在根拠がなくなってしまった。しかし昭和54年、いわゆる元号法が制定され、今は内閣で閣議決定され、政令で定められるることになっている。本家の中国が共和制に移行したことに伴い元号を廃止したこともあり、今や元号を用いる国は、世界広しといえ、我が日本だけになってしまった。世界が、時代が大きく変遷してゆく中、他と違う変わらぬものが一本あって良い。絶滅危惧種、稀有な文化遺産。それだけでも元号を使い続ける意義も在ろうというものだ。
というようなお日柄でもあり、話がそっちへ行ってしまったが、そろそろ本題に戻ろう。今や東京は桜が満開で、お花見真っ盛りだ。前回、皇居乾通りの桜の通り抜けをご紹介したが、それに続いて、乾門から千鳥ヶ淵へと歩を進めた。その続きの写真をご紹介したい。
(第一章の続き)
皇居乾門を出ると、突然人が多くなる。そう、ここは北の丸公園の南の端、ここからは東京の花見の人気スポット千鳥ヶ淵であるからだ。途中旧近衛師団司令部の赤レンガの建物を右に見て、首都高速を脚下に見ながら千鳥ヶ淵戦没者墓苑に向かう。この辺りから、靖国神社までのお堀濠端の狭い土手道「千鳥ヶ淵緑道」はギッシリと花見客で埋め尽くされる。この雑踏については改めてここに記述して紹介するまでもないだろう。一つ感じるのは以前に比べて訪日外国人観光客や在日外国人家族などの姿が多くなったということ。確かに彼らにとって、桜と皇居と雑踏、コレぞNippon !なのだ。
少しウンチクを語る。千鳥ヶ淵は、江戸城の北の丸の西側を囲む濠のことだ。しかし、他の人工的に掘られた濠とは異なり、もともとは自然の川であったところを埋め立てて濠にした。それが「濠」ではなく「淵」と呼ばれる所以だ。現在は半蔵門と田安門がその両端に位置していて半蔵門よりは半蔵濠となっている。昭和34年、無名戦士、軍属の慰霊施設、千鳥ケ淵戦没者墓苑が設置された。そもそも何時頃から千鳥ヶ淵が桜の名所として有名になったのか。場所柄、江戸時代から庶民の間で桜の名所として人気があったに違いない。御殿山、飛鳥山、上野寛永寺などと並ぶ江戸の桜の名所として人気があったのだろう。しかし待てよ。そういえば江戸名所図会や浮世絵に「千鳥ヶ淵桜花爛漫図」なんてあっただろうか?江戸時代にはそれほど有名ではなかったのか? どっこい、意外にも千鳥ヶ淵には昭和30年台になってから桜が植えられたのだとか。元は千代田区が都民に水に親しんでもらう憩いの場として千鳥ヶ淵にボート乗り場を設けたのがきっかけだという。しかし濠にボート浮かべても何にもない。なんとも殺風景で様にならないということで、桜を植えようということになった。当時手に入るソメイヨシノを植え始めたのが事始めだそうだ。なんとそんな新しい桜鑑賞スポットだったのだ。しかも千鳥ヶ淵の遊覧施設であるボートが、実は桜より先だったなんて意外なアナザーストーリーだ。千鳥ヶ淵緑道が整備されたのはさらに時代が下り昭和50年のこと。しかし、今や内外から多くの花見客を集める大人気のこの桜名所を維持するのは大変なこと。桜の樹木としての寿命は意外に短く30年程だという。大勢の人が押しかけ、根っこを踏んだり、酒盛りのためブルーシートを敷いたり、車の排気ガスを浴びたり、一時はひどい目にあっていた桜たち。民間ボランティア「桜ボランティア」や都民、地元企業の寄付により、植樹や植え替えが進められ、観桜マナーの向上など、現在の桜の景観が保たれている。知らないところで苦労があるものだ。
首都高速が北の丸と本丸の分断している。 |
旧近衛師団司令部 |
千鳥ヶ淵緑道 |
ボート乗り場は順番待ちの大行列! |
土手は桜、菜の花、ダイコンの花で色とりどり |
千鳥ヶ淵緑道は狭い |
環境省HPより |