豊葦原瑞穂国 |
田植えに始まる稲作農耕 |
日本最古の稲作農耕集落跡「板付遺跡」 |
上空から見る「板付遺跡」 都市化した環境にわずかに残る初期の環濠集落の痕跡 |
前回のブログ(https://tatsuo-k.blogspot.com/2023/01/blog-post_11.html)では、古事記の神話は「人の起源」をどのように語っているか、について考察してみた。今回は、日本の文化の基層をなす稲作の起源について見てみたい。稲作農耕文化はどこから来たのか?古事記はどのように語っているのか。
文明や文化は古来、大陸や半島から海を渡ってやって来た。そして人の移動に伴ってやって来た。海で隔てられた列島への到達には船を操る海の民の存在が必須だ。したがって農耕文化の伝来にも漁労民、海洋民の介在があった。あるいは海洋民が定住して農耕民になっていったこともあるだろう。列島においては、まず大陸に近い沿岸部にそうした文明のフロンティアが成立した。それが列島内部に徐々に展開してゆく。そうした外来の文明や文化を「受容」し「変容」させて独自の文化を生み出していった。それをまた海を経て発信していった。それが日本である。
稲作農耕文化も例外ではない。まず最初は種籾を持った大陸の人々が小さな船で海を渡り列島に稲作を伝えた。文明や文化そのものを伝えることが目的であったわけではない。様々な事情で危険な海を渡り、大陸から船でやって来た。そして生活のために列島に定着して、その種籾を撒き稲作を始めた。それを見た列島の人々が、その種籾をもらい、耕作のやり方を習って稲作を始めた。徐々に従来の縄文的なコミュニティーが、外来の農耕定住コミュニティーの影響を受け、それを「受容」し、列島風に「変容」していったのが弥生時代である。文明や文化はこうした人々の通交、交流の中で伝搬し定着し、また還流してゆく。考古学的には、大陸に近い北部九州の福岡の板付遺跡、江辻遺跡、唐津の菜畑遺跡など紀元前930年頃の水耕稲作遺跡が日本最古の稲作の痕跡ととされている。稲作はこの頃大陸から伝わったのであろう。これが狩猟・採集や小規模な栽培を生業とする縄文的な人々の社会に変革をもたらし、定住して農耕を営む弥生的なムラ、クニが生まれ、やがて国になった。これが日本の先史時代の姿であった。もっともこうした縄文から弥生への変遷は、フェーズ転換やパラダイムシフトというような急激なものではなかったことも、最近の研究で明らかになっている。それでも大陸からもたらされた稲作農耕が、日本列島の住人に大きな変化をもたらし、日本の文化に大きな影響を与えたことは事実だ。このことは7世紀の古代日本人の記憶の中にもはっきりと生きており、それがその時代に記述され編纂された古事記や日本書紀、万葉集などに表現されている。
ではこの稲作の起源を、古事記はどのように語ってるのだろう。結論を先にいうと、「どこから来たのか?」というよりは、この葦原中国においては稲作が「所与」のものとして扱われているのではないか、ということである。まず、高天原から葦原中国に稲作と農耕をもたらす上で重要な役割を果たしたのはスサノヲであるとされているように見える。とは言っても、スサノヲが稲作をもたらした、と明確に語られているわけでもない。曖昧である。古事記の神話では次のように語られている。高天原を追放されて放浪している途中、スサノヲは食べ物を求めて女神、オオゲツヒメカミ(大宜津比売神)と出会った。オオゲツヒメカミは体の穴という穴から食べ物を生み出してスサノヲに提供した。しかし、スサノヲはこれを穢れたものとして殺してしまう。そのオオゲツヒメカミの体からは蚕や五穀が生まれ、その中からカムムスヒノミオヤノミコト(神産巣日御祖命)が穢れを祓って穀物の種をスサノヲに与えた。これが葦原中国における稲作農耕と養蚕の起源であるとされている。やがて出雲にたどり着いたスサノヲは、そこでクシナダヒメ(櫛名田比売)に出会い、ヤマタノオロチを退治してヒメと結婚する。後にスサノヲの子孫であるオオクニヌシ(大國主命)が国を栄えさせた、これが地上の国の始まりであると。いわゆる「出雲神話」前半である。ここに登場するクシナダヒメは、クシ(奇し)イナダ(稲田)ヒメ(女性)、尊い稲田の女神、すなわち稲作の女神であると解釈される。高天原から追放されたスサノヲが地上の国、出雲に稲籾を持ってやってくる前にすでに稲作の女神がいるのである。では、その前に登場する先述のオオゲツヒメカミとはどのような神なのか。この話は、出雲神話のヤマタノオロチ退治やクシナダヒメとの結婚の前に、唐突に現れた話で、古事記のストーリーに一貫性がない例の一つであるとされてきたが、このオオゲツヒメカミの物語は、稲作起源譚にとって重要なエピソードであるという説を唱える研究者もいる(三浦佑之説)。すなわち、この神は体内からあらゆる食物が出てくる、すなわち大地の恵み、生命力を宿した神「大地母神」のような神であるとする。しかし、これは栽培・耕作といった秩序だった生産活動をイメージするものではなく、狩猟・採集をむねとする混沌とした生産の女神である、すなわち縄文的な女神であり、弥生的な稲作の女神ではない。この縄文の女神が殺された話が、弥生時代への転換を象徴的に示唆しているとする。そして、スサノヲが出雲で出会ったこのクシナダヒメが稲作の女神であり、これが弥生の女神の出現だというわけだ。
興味深い解釈だ。しかし、これは、稲作伝来を契機とした縄文時代から弥生時代への変遷という歴史を知っている後世だからこそ、そのように解釈したのではないかと考える。むろん古事記の作者には、オオゲツヒメカミは「縄文的」女神、クシナダヒメは「弥生的」女神という区分認識はなかったであろう。またスサノヲがカミムスヒから得た種は稲だけではなくて、五穀の種と養蚕である。そのなかでクシナダヒメという稲作の女神と結婚することで稲作が別格な農耕であることを示したにすぎないのではないだろうか。古事記では明確な稲作の起源譚が語られず、クシナダヒメの存在が示唆するように、稲作は高天原(天の国)からもたらされたものではなく、葦原中国(地上の国)に既に存在しているものとして描かれているように読める。ただ、確かにこのエピソードからは、「縄文的」な混沌とした生産の時代(狩猟採集の時代)から、「弥生的」な秩序だった生産活動の時代(稲作農耕の時代)への変遷があった、という認識を古事記の作者が表明したものであるようにも読める。7世紀の倭人いや日本人の心の基底に、縄文的な時代の記憶が受け継がれていて、稲作農耕がその時代を大きく変えたと認識し、それがやがては「治天下大王」である天皇を生んだ、という理解が示されている。これは必ずしも稲作=天皇という明確な図式ではないにしても、稲作農耕社会の登場が、狩猟採集社会とは異なる天皇のような統治者の出現を想定していた。8世紀に表された古事記にこのような上古の日本人の記憶の基層にある「歴史観」の表明があるとするとこれは興味深い。
ちなみに、このオオゲツヒメカミの物語に類似の神話は、インドネシアや、太平洋島嶼地域、メキシコやペルーに広く伝承されている。すなわち、生きている間は、人間に食料を与え、殺されてから、その死骸のあちこちから穀物(芋、豆、とうもろこし、稲など)などの栽培作物を生み出した女性(女神)の物語である。農耕や作物の起源神話の一つの類型、「ハイヌウェレ型」(インドネシアに伝わるハイヌウェレ神話に原型を求めたドイツの民俗学者の類型)と言われるものである。これに類する民間伝承や昔話は、「山姥」話のように日本のあちこちにも伝わっている。オオゲツヒメカミ神話もその典型的な事例で、古事記がこうした外来の神話の影響を受けていることを示唆している。その中でも、さらに「稲」に特別な意味を持たせたのがクシナダヒメやスサノヲの物語であったのだろう。
一方で、日本書紀では異なる稲作起源譚を示している。スサノヲではなくツキヨミが、オオゲツヒメカミではなくトヨウケを殺して、その死骸から生えた稲と穀物をアマテラスに献上したとする。しかしアマテラスはこれに怒り、ツキヨミとは今後一切同じ時間を過ごすことなく、アマテラスは昼間を、ツキヨミは夜を支配することとなった。これも、前出の「ハイヌウェレ型」であるとともに、太陽と月が昼夜で入れ替わる起源を説明している。また、「一書に曰く」で、アマテラスが高天原で育てられた神聖な稲籾を孫のニニギに託し、そのニニギが葦原中国を統治するために高天原から葦原中国の筑紫の日向に降臨するときに、この稲籾を携えて降りてきた。これが地上に稲作が始まった起源であるとする。この日本書紀の稲作起源説明のほうが、古事記のそれよりも明解で、しかも霊性があり神話としての説得力があるように思える。また、この「穀霊神の降臨」という神話は朝鮮半島にも伝わる。国外にも説得力を持つ神話として受け入れられることを狙ったのかもしれない。したがってアマテラス、ニニギの子孫たる天皇はその稲作に関わる祭祀の主宰者として権威を有し、皇室祭祀において稲作と養蚕が深く係る起源がここにあるとする。この、稲作がニニギによって地上にもたらされたとする点と、天皇の祭祀と稲作の強い結びつきを主張している点が、古事記の説明とは異なる。
差はさりながら、日本にとって稲作が特別なものとして受け止められていることは古事記でも日本書紀でも共通である。五穀の中でも稲が大八州、葦原中国の原初的な作物であり、日本は高天原からやって来た天孫族がもたらした稲作文化の国であり、それ故に、日本は「葦原中国」、「豊葦原瑞穂国」などと表現されている。ここには、海の向こうの大陸からもたらされた外来の作物、外来の農耕文化が根付いたものであるとの認識は表明されていない。この主張は、これまでも考察してきたように、日本が中国の華夷思想(大宇宙)、朝貢冊封体制から脱して、高天原の神々の子孫である天皇を頂点にいただく日本という小宇宙を形成する、という思想、国家観の表明と同根である。天武、持統期の新たな律令制国家樹立、「大王(おおきみ)」から「天皇(すめらみこと)」へ、自分が名乗ったわけでもない「倭(わ)」から「日本(ひのもと)」へ国号変更と同様、「豊葦原瑞穂国」もこの時代の国家アイデンティティー表明のエピソードのひとつなのだ。日本書紀は外国(中国)を意識して編纂された国の「正史」であるが、古事記は外国を意識していない分だけ、稲作農耕=天皇祭祀といった図式が明確に表明されていない。ただ日本文化の基底にある稲作文化は、天から与えられ、大八州に独自に始まり開花した文化だと説明している。このように古事記は日本書紀とも異なるストーリーを展開しているわけだが、どちらがより正確に日本における「稲作」の起源を説明しているかといった解釈論争してみてもそれは無意味であろう。稲籾を、スサノヲが持ってきた。いやニニギが持ってきた。その違いは神話の世界では重要かもしれないが、歴史の世界では史実とは別の「物語」でしかない。
こうした稲作の起源をめぐる捉え方一つを見ても、古事記は、客観的な史実、あるいは過去の出来事の記憶を基にして編纂された「歴史書」ではなく、かと言って古来より伝わる伝承や口承神話を積み上げて文字化した「神話集」でもなく、7世紀後半から8世紀前半という「日本国家」形成期において、最初から或る意図を持ってストーリーを作り(いくつかの撰録された伝承や神話に仮託して)記述された作品としての「物語」であるという性格が明らかになるであろう。語り継がれる神話や伝承を取捨選択して「文字化する」時点で、その撰録と、後世に残ることを見据えた文章表現には編纂を命じた為政者の意図が明確に表明され、作者がその意図に沿って物語として完成させる。まさに序文に言うところの「帝紀・旧辞をよく調べただし、偽りを削り、真実を定めて撰録し、後世に伝えよう」とした物語、すなわち「天皇の物語」なのである。そのように読むことで古事記の奥深さがより味わえるのだと思う。まさに古事記の解釈に関する定説は、「成立論的解釈」から「作品論的解釈」へと変わってきている。
参考文献:
「古事記」神話から読む古代人の心 三浦佑之 NHK出版
日本古典文学全集「古事記」 山口佳紀、神野志隆光 小学館