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2024年7月28日日曜日

古書をめぐる旅(53)『The Mikado's Empire:皇国』ウィリアム・グリフィス著 〜近代日本史学の始まりの書〜





晩年のグリフィス夫妻肖像写真


今回はWilliam Elliot Griffis:ウィリアム・エリオット・グリフィスの著作「The Mikado's Empire:皇国」を紹介したい。著者のグリフィスはアメリカのオランダ改革派教会の宣教師である。ラトガース大学の出身でそこで教鞭を取っていたが、越前福井藩藩校「明新館」に招聘されたお雇い外国人教師である。版籍奉還に伴い東京の大学南校へ移る。彼の略歴、幕末維新時期の活躍、功績についてはこれまでのブログ(後掲)で述べてきたので、それを参照願いたい。本書は彼が日本から帰国したのちの1877年にNew York:Harper & Brothersから出版された第二版。初版は前年の1876年。以降重版を重ね、ラフカディオ・ハーンも来日に際して持参している。

本書『The Mikado's Empire:皇国』は、2部構成となっており、第1部が日本史概説。第2部が彼自身の日本滞在記である。彼の主著ともいうべき重要著作である。今回は第1部の日本史概説を中心に読み進めてみた。日本という国の成り立ちを古代に遡り解説し、そこから現代の(明治の)日本の姿を、「王政復古」「Mikado:天皇」の国の出発という視点で描いている。明治天皇が近代日本を統治する英邁な君主であると敬愛の念を示し、その天皇制のルーツと、その後日本が辿った天皇・貴族・武士との緊張関係の歴史、そして統治権威と統治権力の二元構造を述べている。彼は福井藩に招聘されていたが、版籍奉還、すなわち幕藩体制の崩壊(雇い主の福井藩の消滅)、封建体制からの決別という日本史の大転換期に身を置くこととなった。日本が近代化を進める国家体制として、天皇主権国家としてスタートするという歴史の現場を目の当たりにした。しかし、国学の流れを汲む尊皇攘夷思想に影響された日本人とは異なり、近代科学者、あるいはプロテスタントの合理的神学理解として、この王政復古を見つめている。明治天皇を敬愛するも、一方的な皇国史観や専制君主制を受け入れたわけではなかった。西欧諸国ではこの頃すでに近代的な国民国家が成立しており、国王を戴くイギリスも立憲君主制国家であり、まして独立戦争、南北戦争を経験したアメリカは共和制の人民主権国家である。グリフィスはその世界から日本にやってきた知識人である。特に紀元前660年に遡るとされている皇統の紀元を記述する歴史書、日本書紀と古事記に触れ、その史料批判を行なっている点に興味を惹かれる。彼が歴史学者であるという認識は現代でもあまり共有されていないかもしれないが、以下に述べるように、彼の本書で展開された日本史概説が日本の歴史学研究に与えたインパクトは大きい。そういう点で、この著作は、幕末・維新期にやってきた外国人の数ある日本見聞録の一つと片付けてしまうことはできないと考える。

本書の第一部は、近代的史学研究手法を持ち込んだ最初の日本史概説とも言える。 歴史研究の要諦は歴史資料(古文書や史書など)の記述を鵜呑みにせず、その編纂の時代背景や編纂者の意図などを読み解くことで史実を特定してゆく、いわゆる史料批判が基本である。当時すでに当たり前のこととされていたこの歴史研究姿勢を最初に日本に持ち込んだことに大きな意義がある。その後、帝国大学に史学科ができて、その初代教授にドイツから招聘された御雇外国人が就任した。外国人教師が史学科の初代となった理由は、こうした近代史学研究手法を日本に伝えることにあった。明治日本では、物理や化学、あるいは医学のような自然科学領域においては『科学的手法』『近代合理主義』を取り入れるのに躊躇はなかった。一方で歴史や文学、法律・政治・経済のような人文・社会科学研究領域に『科学的手法』を取り入れるには時間がかかった。こうしたアプローチをとった初期の研究者は外国人であり、いわゆるジャパノロジストを呼ばれたアーネスト・サトウ、ジョージ・アストン、バジル・ホール・チェンバレンなどのイギリス人が名を連ねる。アメリカ人にもその先駆的役割を果たした人物が登場する。その一人がこのウィリアム・グリフィスである。これ以降、久米邦武、津田左右吉(「神代史の新研究」1913年、「古事記と日本書紀の新研究」1919年)など日本人研究者の中に、こうした科学的手法による歴史研究、史料批判が定着し、そうした研究姿勢が主流になってゆく。しかしそれは大正デモクラシーの時代を待つ必要があったし、軍国主義傾向が強まるにしたがって、そうした研究姿勢が筆禍事件の餌食になっていったことを忘れるわけにはいかないだろう。

元々グリフィスの専門は歴史学ではなく、プロテスタントの宣教師であり、かつ化学や物理を教えるために福井藩に招聘された科学者であった。しかし、彼の日本史概説は彼が元々持っていた科学的な研究手法や合理的思考法が日本史研究においても存分に発揮されたものであると見ることができよう。特に、先述のように日本書紀や古事記の神話と歴史の区分の曖昧さ(むしろ神話を歴史的事実であるとする筋立て)は、記紀編纂の時代背景や当時の政治的な環境、為政者の政治的な意思に着目して読む必要がある。結果、「神武は実在しない創作された初代天皇」との見解を明確に示すなど、今では定説となっている記紀解釈を提示した。日本古代史研究における史料批判、科学的史学研究の嚆矢となった。グリフィスは、古い神話を歴史だと信じている人ばかりではなく、今や日本人でも、欧米に留学したり、近代的知識と合理的思考に触れた人なら、同じ答えに辿り着くとしている。日本古代史の研究はこれに続きチェンバレンの1882年(明治15年)の古事記英訳、1887年(明治20年)のアストンの日本書紀の研究に繋がってゆく。しかし、チェンバレンは歴史と神話を区分せず、いわば神話学的な視点から古事記を世界の神話と比較して、そこに日本に固有のストーリーはないと論じるなど、グリフィスの歴史学研究アプローチとは異なっている。1903〜1925年に刊行されたJames Murcoch:ゼームス・マードックの「日本史」全3巻(2022年8月1日 The History of Japan, by James Murdoch )は、ジャパノロジストによる最初の体系的な日本通史と言われているが、ここにはグリフィスと同様の史料批判手法が用いられているほか、日本書紀と古事記を中国王朝や朝鮮半島の歴史書との比較研究を展開している。しかし、グリフィスのこうした明治初期の研究成果は日本の歴史学会からはあまり評価されていないようだ。アジア協会や日本史学会創設に尽力し、多額の寄付をしたにもかかわらず、設立メンバーには選ばれず、いわば学外者として関与するにとどまっている。学会の閉鎖性というべきか。今日でもグリフィスが近代的な日本史研究の先駆者の一人であるという認識は薄いようだ。

彼は幕末・明治期の御雇外国人に関する研究にも力を入れ、招聘者のリスト(今でいうデータベース)を作成した。本人はもとより、その親族や友人、子孫、子弟などからも詳細な聞き取りを行い、日記や手紙、政府内外の記録など文献資料にも当たる網羅的な研究である。これは母校のラトガース大学図書館のグリフィス・コレクションに収蔵されている。その中から前回紹介したフルベッキ伝やタウンゼント・ハリス伝などが生まれている。こうした研究活動や著作発表は、実証的な史料収集と事実(史実)を特定する活動を軸とした歴史学研究の成果というべきものである。現在でも幕末維新史研究の重要な史料となっている。こうした功績から日本政府から叙勲を受けている。グリフィスを明治初期における『お雇い外国人教師』の一人、ジャパノロジストとひとくくりにするのではなく、グリフィスの歴史研究者としての評価をより正しく認識する必要があると思う。そういう意味でもこの『The Mikado's Empire:皇国』は日本史研究の歴史の画期となる著作であると考える。


2022年1月22日「古書をめぐる旅(19)』フルベッキ伝

2024年1月28日『古書をめぐる旅(44)』タウンゼント・ハリス伝









追記:なぜ『日蓮の法難』が巻頭に登場するのか?

グリフィスは、本書の巻頭に『日蓮の法難』の図を掲げている。これは、鎌倉龍ノ口で役人が日蓮を処刑しようとしたが、突然現れた輝く光が刀を砕いて斬首できなかったというエピソードを描いたものだ。日蓮の受難と超自然パワーを表すもので、いわばキリストの受難と復活を彷彿とさせるものがあると感じたのであろうか。彼は日本の仏教史における日蓮の存在を高く評価している。日本の仏教は、6世紀の伝来以来長く庶民の信仰からは遠い存在であった。難解な教義や哲学的思索などを説いた仏典の理解には、サンスクリット語や漢文が解読できることが必須で、インド・中国から渡来した高僧や、中国で学んで帰国したエリート留学僧によって学ばれ、伝達され、国家統治の思想(鎮護国家思想)として天皇をはじめとする政治的支配層に共有された。グリフィスは、のちに空海の出現を一つの日本仏教の画期とし、同時期の最澄の、いわば『比叡山スクール』に育てられた弟子たちの出現(のちの鎌倉仏教の開祖たち)に着目している。グリフィスは「仏教はキリストのいないカトリックである」と書いている。すなわち救世主がいない教義(ドグマ)というわけだ。面白い表現だ。かつては聖書はギリシャ語やラテン語で書かれていて、カトリック修道院で学んだ僧だけが、教義を解し教えを布教した。そういう点では仏教もカトリックも庶民は経典や聖書を読むことができなかった。仏教ではその教えを庶民に説く布教者も限られていたので、仏教が庶民の来世の救済や現世利益への信仰というコンテクストで受容されることもなかった。13世紀の鎌倉時代に入って現れた革命的な宗教者で、比叡山スクール出身の日蓮は、既存宗派を論破し、法華経こそが仏教の最高の経典であり、庶民は難しい経典を読まなくても「南無妙法蓮華経」を唱えれば成仏できると説いた。既存の観念を打ち破る画期的な論法は、時の権力者に恐れられるのが常である。日蓮は権力や他宗派による弾圧にも屈せず宗旨を貫いた。グリフィスは、日蓮を「仏教中興の祖」であるとしている。16世紀のキリスト教伝来の時にもイエズス会宣教師にとって最大の難敵は日蓮宗のBonzu:坊主・僧侶であったし、今でもキリスト教布教にあたって越えるべきハードルのひとつだと考えている。一方で、親鸞を日本仏教のプロテスタントだと見做していることも興味深い。浄土宗の開祖である法然も「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも極楽往生できると説いている。いずれも比叡山に学んだ新仏教宗派の開祖である。キリスト教プロテスタントの宣教師らしい評価なのであろうか。宗教改革のリーダーであるルターやカルバンの姿を投影したのかもしれない。

その一方で、グリフィスの日本の宗教、仏教や神道に関する眼差しは、この時期に日本にやってきた外国人のそれとはことなっていることに気づく。すなわち、キリスト教以外の宗教をエキゾチックではあるが野蛮な信仰、習俗と見る。『文明開花』とは『キリスト教化』することであって日本の『文明開花』は単なる西欧の模倣であると見る。いわば『キリスト教vs異教徒』という二項対立の視点である。いわゆるジャパノロジストの中にも多かれ少なかれこのような深層理解が潜んでいることが多い。しかし、グリフィスはプロテスタントの宣教師であるにもかかわらず、仏教や神道を相対化して理解することができるジャパノロジストの一人である。先ほどの日蓮、親鸞論などもその象徴であろう。こうした観点で日本に接した人物のもう一人は、ラフカディオ・ハーンである。彼の眼差しとグリフィスの眼差しには共通するものがあるように思う。どちらも日本人の宗教観や日常の宗教行事に親近感と慈愛の目を持って接している。いやむしろ宗教や信仰の問題というよりは日常生活に根ざした習俗の中に自然に対する畏敬や祖霊に対する敬いの心を見出した。ただ、二人の違いは、グリフィスがキリスト教宣教師であるのに対し、ハーンはキリスト教に懐疑的、ケルト的である。グリフィスとハーン。この二人の日本観。またチェンバレンやサトウのそれについてはまた別の機会に詳しく比較考察してみたい。


『日蓮の法難の図』が巻頭に掲載されている