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2025年7月23日水曜日

日本人は交渉下手なのか? 〜日米関税交渉本日決着〜


ベッセント財務長官と赤沢大臣(ブルムバーグ)

今日、8月1日期限の日米関税交渉がまとまり、トランプ大統領、石破首相から発表があった。この決着をどう評価するかは意見が分かれるだろう。25%の脅しに粘り強く交渉して15%まで降ろさせた。いや一方的関税拒否だったはずが15%を受け入れたのは脅しに屈したことはおなじだ。見返りの5500億ドルの対米投資は日本にどのようなメリットがあるのか。米の輸入枠は増やさず、その枠内でアメリカ産を増やすだけなので米農家は守られた。参院選挙に負けた自民党の総裁続投の苦心の交渉。中国や他国との交渉が行き詰まる中、日本との交渉が妥結したことでトランプも胸を撫で下ろした。等々。この交渉が日本にとって上手くいったのかどうか。その評価はこれからだ。いずれにせよ日本からアメリカに輸出される自動車にこれまで2.5%だった関税が15%課されることになる。25%に比べれば日本の経済への影響は多少軽減されたとは言え、依然、一方的で法外な関税であることには違いない。鉄鋼、アルミは50%だ。その結果はアメリカの消費者にも皺寄せがくる。そもそもアメリカの突出した国際収支の赤字がこれで解消することはない。これで産業空洞化が解消されるわけでもない。二国間協定で関税を一方的につりあげて相手からディールを引き出す手法が受け入れられないことも変わらない。その詳細分析に立ち入ることが今回の目的では無いのでここまでとするが、そもそも「日本人は国際的な交渉が上手いのか下手なのか」についてこの機会に考えてみたい。

国際的な交渉は難しい。難しいと言って仕舞えばそれまでで、それをやり切るのが国を背負う政治家であり、エリートなのだから「難しい」なんて言わせない。しかし「難しい」のだ。当事者でないものが外から見てると何やってんだと思うことも多い。交渉の駆け引きや全体像がわかっているわけではないし、交渉の逐一が情報共有されるわけでもないので、ついついマスメディアはじめ、根拠不明のSNSインフルエンサーなど「外野が騒がしい」ことになりがちだ。また、こうした交渉の常でその結果についても100%双方がウィンウィンなどと言うことはなく、かならずどこか不満が残り、双方持ち帰ると、交渉に負けたんじゃないか。その「責任論」云々が議論されがちだ。合意内容が「玉虫色」で実行過程で食い違いや思惑違いが出ることもままある。歴史を振り返ってもよくわかる。日露戦争の終戦交渉、ポーツマス条約などがその典型的な例だろう。勝ったのに賠償金が取れないと、国内では暴動となり日比谷焼打事件などが起きた。満州おける日本との鉄道事業参画を目指すアメリカの鉄道業者代表が東京で暴徒により危険に晒されたりした。言論統制下の国民は、勇ましい勝利のニュースしか聞かされておらず、戦争の悲惨な実態や日本がこの戦争で国家存亡の危機に瀕していることなぞ知らない。そもそも薄氷を踏む勝利で、金を使い果たしギリギリの停戦交渉であったことは後で分かった。勝ったという高揚感。一等国になったという欧米列強に対する劣等感の裏返しとしての優越感。そしてアジア同胞へ向けられた優越感。そればかりが国中を覆い尽くし、現実を謙虚に受け止めることができなかった。その感情論が40年後の国家破綻の前哨戦となるなどとは、その時誰も考えなかった。国際的な交渉の難しさという経験を、幕末の開国条約交渉に限らず日本は経てきたはずであった。

今回の関税交渉の詳細な内実について我々が知りうる立場にはないし、どんな駆け引きや取引があったかも詳細はわからないが、交渉をまとめることがいかに茨の道かは、私もささやかながら海外事業の経験で身に染みているつもりだ。ビジネスパート、敵対買収相手、規制当局と、一筋縄ではいかない相手との交渉でストレスの連続であった。むしろ身内との交渉に時間と労力を取られてストレスを感じることもあった。いやその説得の方が時間を要した。国家間の戦争や外交交渉とは比べ物にならないとは言え、その結果が「双方にとってウィンウィンの合意となった」と言う公式発表にも関わらず、全ての人に満足のいくものとは限らないのはM&Aディールでもおなじだ。その結果、交渉担責任者は国賊扱いされたり、会社に損害を与えたとして懲罰対象、左遷人事になったり、誹謗中傷にさらされたりもする。よくやったという評価は表に出ない。交渉には常に妥協と譲歩、コンセッションがつきものなのだ。また合意内容の実行過程で齟齬が得たり事情変更があったり、時間が経たないとその結果は見えてこない。その交渉の成否は歴史が評価することになる場合もある。

それにしても日本人は交渉が下手だ。これは感じる。自分自身の経験を振り返っても内心忸怩たる想いが残るものばかりだ。留学中も学生同士のディベートやスピーチでの良くトレーミングされた表現力、論法、相手への敬意、突破力に敬服したモノだった。それは欧米人だけではない。むしろ途上国の若者の説得力ある論旨と実に堂々たる態度に驚嘆した。そんなかれらが実社会で修羅場を潜り、経験を積み、尊敬を勝ち取り、人脈も形成して政治や外交でビジネスで本領発揮する。それに比べると日本人は真面目でおとなしく、お行儀が良いが、相手に強い印象を与えない。「顔が見えない」というやつだ。そもそも長い鎖国を経験し戦争や外交下手の歴史を歩んできた日本に、広い視野と戦略思考、そして強かな交渉人は育たなかったのだろうか。「男は黙って!」「巧言令色仁少なし」を美徳とする文化。歴史を振り返っても国家のリーダーですら、国際問題、外交、戦争に関する広い視野と知見をもって大局的に判断し、タフに交渉できる人物、そして相手からも尊敬される人物は少なかったように思う。歴史上の人物であえて挙げるならば、徳川家康か。あるいは外交官としては幕末の幕府三英傑(彼らはすごい。鎖国下のどこであれだけの外交交渉力を習得したのか?)、明治の日露戦争終戦処理の金子堅太郎や高橋是清、小村寿太郎、諜報力を象徴した明石元二郎。戦後のGHQと渡り合った白洲次郎もすごい。大局観を持てないリーダーと相手の話を聞かないリーダー、相手へのレスペクトをもてないリーダー、そして責任を負わないリーダー。そんな彼らの根拠のない楽観主義に基づく意思決定、その結果があの未曾有の敗戦だ。そして戦後はアメリカの核の傘の下で戦争や外交のコストと修羅場を避けて、ひたすらエコノミックアニマルに徹していた。その結果の高度経済成長。幸せなことと言えば幸せだが、不幸といえば不幸。外交力を失うと言うことは諜報力も失うということ。あの日露戦争で発揮した日本の諜報力、外交力は、戦後影を潜め、今や日本ほど諜報力の貧弱な先進国もない。Ninjaの国が... 安全保障という言葉は声高に議論されたが、自らの安全保障を真剣に考えたことはなかった。そうこうしているうちに経済力も失われ始めてしまった。これからは振り向いても後ろにアメリカはいない世界で生きてゆかねばならないだろう。

世の中は、「話せばわかる」相手ばかりではないことは今さら言うまでもないだろう。かと言って気に食わないからと感情論で相手を罵倒したり誹謗中傷してはまとまる話もまとまらない。喧嘩して「啖呵切ってケツまくってやった!」は浪速節の世界ではカッコいいが、そんな「匹夫の勇」は世界ではなんの結果も生まない。カオスの世界を生き残るメンタルの冷静さとタフさがいる。相手への共感力、突破力がいる。人と人との信頼関係が何より大事だ。バカは困るが頭が良いだけでもダメだ。平和ボケ、思考停止の失われた30年、気がつけば外国エージェントのボットによる認知戦のターゲット国になり、それに左右されるSNSポピュリズムに政治も席巻される時代だ。交渉も一筋縄ではゆかない。日本は大丈夫なのか?大丈夫じゃないね。国家、企業、あらゆる組織のリーダーの資質に赤信号が点っている。与党も、野党もどの面を見てもトランプや習近平、プーチン、とやり合って勝てる面構えじゃない。「永田町」という政局の論理でしか考えられない。優秀だと評判だった官僚もいまや単なる「官僚的サラリーマン」だ。企業戦士も24時間戦えなくなっている。しかしそんなことボヤいている場合ではない。日本はこの敗戦以来の80年目の危機に直面している。否応なしに外交力、交渉力が鍛えられることになるだろう。ただその経験値を積むまでは死屍累々だろう。そして外交の基礎は諜報力、発信力だ。これも一朝一夕ではできない。世界を俯瞰できるかどうか。その手始めが今回のトランプ関税交渉だ。第三の開国だ。




おまけ1

私の極めて限られた経験をもとに交渉相手の感想(あの時の彼らの顔を思い浮かべつつ)を述べると、アメリカ人は、一般にタフな交渉スタイルで有名だが、理屈よりも情だ。意外に人間関係がモノを言う。交渉担当がほぼ全権を持って決めるが、交渉担当者の能力は個人差がまちまちで。理性的な人物に当たれば話は早いが、時には訳の分からんこと言って(きょうは気分がのらんとか、妻の誕生日なので帰るとか)翻弄されるような人物も。イギリス人は、驚くほど諜報能力が高く、よく相手を研究している。さすが大英帝国の伝統。ファクト、エヴィデンスベースで攻めてくる。一番タフな交渉相手だ。アメリカ人のようにフレンドリーさは見せないが、信頼できるとなれば本音を見せる。捻りのあるジョークや嫌味に絡め取られないようにしなくてはならない。中国人は常に法令集を傍に置き参照しながら交渉し、最後はトップに伺わなければ決まらない。今までの交渉はなんだったんだと言うこともある。その場で決まることはほぼない。結果が出ない。ガードが硬く官僚的で交渉担当に権限はない。終わった後のエンドレスのカンペイは勘弁してくれ〜。日本に近い?

まあ、こうした各国のカウンターパートの違いをカリカチャライズすることは、話としては面白いが、あくまでも個人の経験に基づく感想なので、誤解と偏見をもたらすことにならぬようこの辺でやめておく。要は交渉とは多様なバックグラウンドをもった相手(人、組織、制度、文化)との総合格闘技のようなものだ。それを受け入れる懐の深さと、多くの引き出しいっぱいの話題が必要だ。最後は相手を説得する突破力が不可欠。しかし長い交渉の中で信頼関係を築き、お互いレスペクトし合える関係を持てることは楽しいことでもある。そうでなければ結局交渉ごとはうまくいかない。「敵ながらあっぱれ」。あの交渉を共に戦った仲間、という連帯感すら感じる。そういう友人達とは今もつながっている。

しかし、今回のような一方的な恫喝、無理筋をディール成功のための有効手段だと思っている人物との交渉はタフだろう。気まぐれで、感情的で、へつらう人大好きな親分相手じゃ、いくら取り巻きや側近をエビデンスベースで説得し理屈で納得させても、最後は親分への効果的な「情」に訴える一撃がなければだめだ。すなわち「俺が勝った!」と思わせる舞台設定。そのために3ヶ月で8回もワシントンに参りをしたと言う「忠誠心」の証(その気が無くても)も大事かもしれない。若い頃、会社の拠ない仕事で、とある筋の親分のところに売掛金の回収交渉に行ったことがある。法的な措置と言っても、そんなことわかって恫喝で踏み倒しているのだから、正論の通じる相手ではない。何度も通い、今回のベッセント財務長官のような合理的思考の持ち主である組織の経理担当者が当方の立場を理解してくれて、親分との面談を仲介してくれた。その結果、親分は「お前の何回も来たしあいつの顔を立てて払ってやる」で決着した。メンツが全てのロジックに優先される世界だった。理屈や合理性ではなく信頼関係とも無縁なディールもある。そんなことをふと思い出した。


おまけ2

交渉の場で日本人がよく聞かされるアメリカ人のおべんちゃらジョーク。我々が下手くそな英語で話すことを自嘲気味に詫びると、決まって彼らが返す定番ジョーク。

You know
The person who speaks two languages, Bilingual!
The person who speaks three languages, Trilingual!
The person who speaks only one language, American!

あるいは、
I am not able to speak Japanese as you speak English well.

You speak perfect English!  Where did you learn?

これをトランプが英語が公用語の国の大統領にベンチャラして失笑されたのは記憶に新しい。


おまけ3

トランプのやり方は極めて乱暴かつ国際的な品位に欠くが、アメリカの関税率引き上げは共和党支持者の70%以上が支持している。なぜか?

中国の国家資本主義によるアメリカ市場簒奪。中国の外需頼みの経済成長への反発。これは日本やドイツについても同じ。アメリカの国際収支の赤字は世界でも突出しており、これがアメリカが「搾取されてきた」というトランプ流のレトリックにつながる。
アメリカの国内産業空洞化、金融、ITなどの知的産業部門の伸長は、労働力、雇傭の移動を促さず、貧富の格差が拡大。反知性主義、ポピュリズムへ。労働市場政策の失敗。
GATTで一定の成果を挙げた自由貿易体制だが、WTOの自由貿易体制は中国や日本、ドイツに大きな利益をもたらしたがアメリカは大きな赤字を抱えることになった。中国はアメリカだのみの経済成長で内需拡大が進んでいない。日本やドイツも同じ(80年台の日米貿易不均衡問題と同じ)という認識。この貿易不均衡問題はなかなか解消されていないと言うのがアメリカの主張。トランプで爆発しこれを支持する国民が根強くある。
だからといってトランプの政策に合理性があるとは言えず、二国間協定による一方的高関税圧力が、世界の貿易促進につながることはない。かつての重商主義貿易体制への後戻りであり、反動政策であることには違いない。現実に関税率20%を超える国は(一部の最貧国を除いて)ない。新しい多国間貿易の仕組みを考える必要。中国の国内需要の拡大も課題。そして何よりもアメリカの雇用と富の分配の問題を解決しなければならない。









2025年7月5日土曜日

古書を巡る旅(66)Lafcadio Hearn『神国 Japan An Attempt At Interpretation』〜小泉八雲の日本論〜

 

表紙


1904年の初版

神道の巫女


1906年の第9版



初版と第9版



今年後半のNHK朝ドラ「ばけばけ」。ヒロインはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の妻、小泉セツがモデルだ。ハーンに日本の古い伝承話を数多く伝え、彼の著作に大きな影響を与えたと言われている。ドラマの展開がどうなるのか楽しみにしている。アイルランド出身のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は「怪談」「心」「骨董」などの日本の伝承説話集が知られているが。彼の晩年の著作に『神国 Japan An Interpretation』(1904年)がある。これは彼のいわば日本論の集大成ともいうべき著作である。1904年9月にニューヨーク、ロンドンのThe Macmillan Companyから初版が刊行された。ハーンは同年4月に東京にて没しており、この初版刊行を見ることはできなかったが、多くの人々に読み継がれた人気の著作で、重版を重ねている。和訳本が「神国日本」として昭和7年に第一書房から戸川明三の訳で出版されている。


「神国」とは?

ハーンは、日本が「八百万の神々」の国であり、人々が自然や祖先を神聖視する文化を持っていること。日本人が生まれながらにして宗教(神道的感性)と共にあるということ。彼はこうした日本の特性に驚き、敬意を込めて日本を「神国」と呼んだ。特に「死者は生者の中に生き続ける」という祖先崇拝の思想に着目し、それが日本人の社会の秩序や道徳を支える基盤となっていると評価している。ややショッキングな表現であるが「死者が生ける者を支配する国」とも表している。すなわち人は死ねば墓に埋葬されて肉体は土に還る。しかし霊魂はその体から抜け出て天界に行って神になる。しかしその神は「全知全能の神」になるわけではなく、生前の「人格」をそのまま受け継いだ神である。その神は常に生ける家族、部族、国家と共にあり守護神となる。だから祖霊を厚く敬い、家に位牌を祭り、祖霊の教えに従って生きる。かつてローマ・カトリック教会が、異教徒へのキリスト教布教にあたって、家族での位牌などの個人の祭祀を禁じ、破却を命じた。全知全能の神が唯一の神で信仰と祭祀の対象であるとしたが、ハーンはこれは全ての世界で受け入れられるものではないと主張する。神道においては祖霊を祀ることそれは宗教ではなく、その精神構造に根付いた習俗であり霊的体験である。これを否定する事はできない。これらをハーンは合理主義的な研究者や客観的視点から論ずる批評家としてではなく、「外から見た愛ある観察者」として書いている。日本の精神世界を敬意と共感を持って世界に紹介しようと試みた。ハーンは次のように述べている。

1. 神道の本質
神道を「宗教というより習俗・感情の体系」とみなす。祖霊崇拝と自然崇拝からなる。
祖霊崇拝には、1)家族の祖先の礼拝、家庭の祭祀 2)氏族/部族の祖先の礼拝、鎮守の神、産土神の祭祀 3)帝国祖先(皇祖神)の礼拝、国家の祭祀、がある。 その中心となるのは家族の祭祀でありこれは習俗である。そして自然物(山、川、木など)に神が宿るとされる自然崇拝、アニミズム的感性が自然なものとして受け止められ、自然や日常の中に神聖さがあると感じている。神道は「信仰」というより日本人の精神構造、霊的体験に深く根付いた習俗である。

2. 祖先崇拝と死生観
日本では死者は消え去る存在ではなく、「家」の中に残り、生きている子孫と共にある。
先祖は守護霊として日常生活に影響を与え、祭祀を通じて身近なものであり、その加護は子孫達に感謝される。これは「個人」より「家」や「共同体」を重んじる価値観と結びついている。

3. 西洋キリスト教との対比
西洋のキリスト教は祖霊信仰を認めず、唯一最高神こそが信仰の対象であり「個人の救済」につながる。日本では「個人」よりも「家」や「社会との調和」が優先される。西洋近代の合理主義・科学主義とは異なる「霊的直感」が日本文化の中核をなす。

4. 文化的持続力と秩序
日本人の秩序や道徳の根底に神道的世界観(目に見えないものへの敬意)があると考える。この世界観が、長い歴史の中で日本の社会的安定や美意識を育んだと評価する。そして仏教は神道とうまく習合して日本人に取り入れられた。古来からの習俗である祖霊祭祀を否定せず、むしろうまく受け入れて行った(仏壇の位牌と神棚の共立)。また神道が教えや教義をもたらさなかったのに対し、仏教は説話を通して教義を説いた。日本に新しい哲学をもたらし教育の場を与えた。その道ならしをしたのは倫理、道徳を説いた儒教であると。神道、儒教、仏教という習合が文化と秩序を形成したとする。この点が習合が起こらず受容されなかったキリスト教との違いである。


ハーンのキリスト教観 ケルト文化への共感

キリスト教を抑圧的・排他的・権威的な宗教と見ている。特に、善悪二元論的な世界観、罪と罰、地獄・救済といった構造に違和感を覚えていた。またキリスト教が霊的多様性を否定し、他宗教を異端視する傾向を持つことに批判的である。「神を信じなければ永遠に地獄に落ちる」という唯一絶対神的な考え方は、彼にとって非寛容で人間的ではないと映った。

またキリスト教的道徳観がしばしば「他者への支配の道具」になっていることに懸念を示している。こうした教義や道徳観の押し付けは、スペインやポルトガルがキリスト教布教を領土的征服、民族支配の道具として用いた事例から理解されるとしている。彼にとって本来の宗教とは、人々の感情や生活に自然に溶け込むものであり、上から押し付けられるものではないと考えた。

そもそもハーンはアイルランドや古代ケルトの神話・妖精譚などに親しんでおり、その霊的多様性、自然信仰、死者との交感に強い親近感を持っていた。日本の神道や民間信仰、伝承に出会い、それを理解する際にも、このアイルラン人の心の古層に息づくケルト的感性が彼の内面で共鳴していたと考えられる。この、いわば「ケルト回帰」は年少期にカトリック教育を押し付けられ、それに違和感を持ったことがきっかけとしている。さらに子供の頃から木、石、水などに霊が宿るとするアニミズムの感性を自然なものとして受け入れており、それが日本文化との親和性を高め、「一木一草に神宿る」「八百万の神」的世界観は、彼が「子どもの頃に感じていた世界の神秘」に近いと感じた。日本においてもアイルランドにおいても、大陸周縁部の島国には大陸の文明、宗教を受容する以前の、その土地古来の宗教、習俗、霊的感性がありそれが人の心の古層に今も息づいていると。単に日本が好きだ、という以上に、自らの心のルーツやオリジンに触れる感覚を得た、という方が当たっているかもしれない。

彼は文中で「私の心は東洋的であるよりも、むしろ古代ケルト的である。私は教会よりも森に神を感じる」と書いている。


「イエズス会禍:The Jesuit Peril」という一章

ハーンのこうしたキリスト教観と日本の歴史への眼差しにおいて注目すべき一章が本書に掲載されている。題して「The Jesit Peril:イエズス会の禍」。彼はイエズス会の伝道活動、キリスト教の布教は日本にとって大きな厄災であったとする。キリスト教化することが征服の前提で、アメリカ大陸の先住民やその文化をキリスト教布教で抹殺し征服した歴史を日本で繰り返さなかったことは幸いであった。まさに家康の国と文化を守るための冷静で賢明な政策であったとその功績を高く評価している。弾圧や島原の乱で大勢のキリシタンが殺害されたは、これをイエズス会のあやまった活動のせいであり日本が被った厄災であると断じている。この一文は、明治期の欧米人の「キリシタン弾圧、禁教令、鎖国」史観としては衝撃的であった。これほどまでにキリスト教伝道(特にイエズス会、フランシスコ会、ドメニコ会の誤った方針)が日本に災いをもたらし、それを家康が賢明にも見抜いてそれを防いだ、という歴史観を欧米人側から表明した評論は少ないだろう。大抵はキリスト教殉難の歴史の一環として理解されているからである。ハーンは、スペイン、ポルトガルによるキリスト教(カトリック)布教の失敗の原因は、日本人の祖霊信仰、多神教的宗教観を理解しなかったこと。あるいは容易に「奇跡」で信仰を獲得できると信じたこと。また天皇の存在(家父長的な宗教権威のトップに位置している)の意味を軽視したこと、日本の世俗的権力のトップ(皇帝=将軍)の力量を見誤ったことだとする。そこにプロテスタント国のイギリス、オランダが現れ、家康に宗教対立の実相、世界各地の植民地化の動向が報告されたことだ。少数の派遣軍部隊で軍事的にあれよあれよという間に征服されたアメリカ大陸の諸文明のようなわけにはいかなかった。またハーンは明治になって、禁教令が廃止されてもキリスト教信者は増えていないのはなぜか?と問うている。

こうした彼の主張を今見てみると、皇国史観、神道至上主義、家父長制度礼賛、個人より国家、というふうに見えるかもしれないが、これは一面的な見方であると感じる。たしかにバジル・ホール・チェンバレンの「Sympathetic understanding of Japan」ような批判(古書を巡る旅(12)チェンバレン「日本事物史」)もあったが、彼の主張は、一神教、キリスト教至上主義への懐疑が第一義であって、こうした自然と祖霊を礼拝する霊的、多神教的な宗教観がその一方に厳然としてあることを西欧諸国に知らせたかった。そうした「一木一草に霊が宿る」「祖先の霊魂の存在」「木霊の声を聞く」という宗教観はヨーロッパにおいてもキリスト教布教以前にヨーロッパ諸民族の心の底にあった霊的観念ではないか、ということを思い起こさせることであった。そもそもハーンの著作の多くは読者として欧米人を想定しており日本人に向けて日本を論じたつもりはない。「神国」の真の意味も日本人が受け止めがちなそれとは異なるメッセージがそこにある。ハーンの宗教や信仰というものは多様である。しかもそこには初源的で普遍的な共通する心があるはずであるという指摘は、現代の一神教の教条主義者たちの寛容性を欠く終わりの見えない血生臭い対立に一石を投じるものとなると考える。

ちなみに、本書には古事記、日本書紀に関するアーネスト・サトウ、ウィリアム・アストンなどの研究、著作の引用が頻繁になされている。しかし、ハーンが影響を受けたとする古事記を英訳したバジル・ホール・チェンバレンの関する引用がない。不思議だ。またハーンの神道に関する知識は江戸時代の賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤の国学者の研究、書籍を原典としている。それを19世紀のハーバート・スペンサーの進化論という最新の思想、理論で批判的に解析している。ハーン独特のアプローチが面白い。


ハーバート・スペンサーの日本への助言書簡

ハーンの著作は人気を博し、1904年の初版以来、2年間で9版を重ねている。手元にはもう一冊、1906年2月の第9版がある。出版社はニューヨークのGrosset & Dunlap社である。興味深いのは、初版にはないハーバート・スペンサーから金子堅太郎あての日本に関する助言書簡が、この版には追録されていることである。

当時ダーウィンの進化論に影響を受け、それを社会に適用した社会進化論、適者生存論がスペンサーによって唱えられた。これは一世を風靡し、大きな論争を巻き起こした。スペンサーは欧米だけでなく日本でも盛んに研究され取り入れられた。モースや森有礼がスペンサーを引用し、帝国大学で講義した。ハーンもおおいに影響受けたようで、たびたび彼の社会進化論的な解釈を本文中で展開している。初版には間に合わなかったが、このスペンサーの書簡を入手し追補しようと考えたにちがいない。

条約改正が外交課題として佳境に入っていた時代、伊藤博文、森有礼ら政府高官はスペンサーなど欧米の有識者に日本の外交課題や進むべき方向についての意見を求めた。そうした伊藤博文の意を受けて金子堅太郎はハーバード留学ののちルーズベルトなどの人脈を活用してアメリカ、イギリスの重要人物との接触を試みていた。ロンドン滞在中にスペンサーに会おうとしたが、結局は会うことができず、書簡を送ることにした。これに1892年8月26日にスペンサーから金子宛返信があった。スペンサーは日本について強い興味を抱いており日本にとっては格好の知識人(知日派)であった。しかし彼は、日本は西欧制度を一挙に入れる(replace)のではなく、日本古来の制度に接木(grafting)するように導入すべし」という保守的な(言い換えれば漸変主義的)助言をした。例えば外国資本を国内に無闇に入れてはならない。土地を外国人に売ってはならない。外国人との結婚を奨励してはならないなど、極めて保守的な内容であった。憲法(1889年)も国会(1881年)も出来たばかりの未熟な国に、治外法権、関税自主権撤廃は時期尚早と。社会の発展段階、国家の成熟度に合わせて徐々に進めるべしと。

スペンサーの死後、The Timesに公開された書簡をハーンは読み、予想通り保守的な助言だとしつつ、スペンサーに共感している。ハーンは日本の伝統的な文化や思想が西欧化することで一気に失われることを恐れていた。たとえ日露戦争で日本の軍艦がロシアの軍艦を轟沈させたとしても(この時点ではまだ日露戦争の結果は分かっていなかった)、軍事的成功と産業的成功は別であると主張。当時の日本の富国強兵ムードに危機感と違和感を抱いたハーンの警鐘と言って良いだろう。しかしハーンは「やがてそんな心配をしなくても良い時代がやってくるだろう」、「その時には(スペンサーのいう)保守主義を捨てても危険はない。しかし現在一時だけは保守主義を救済の力としなければならない」と締めくくっている。このスペンサー書簡をハーンの著作「神国」に掲載する予定であったものと思われる。この時ハーンはすでに亡くなっていた(1904年4月)ので、出版社は彼の遺志をついで改訂版で追補した。ちなみに金子堅太郎は、スペンサーの助言に謝意を示した上で、日本は古来、外国文化を受容し上手に変容してきた歴史を持つので心配ご無用、と返信している。

この追補は、日露戦争開戦と富国強兵に傾斜してゆく日本、伝統的な考え方や価値観が崩壊してゆく日本。急速に変わりゆく日本の行末を危惧するハーンの心情を表すものとして重要であると考える。いわば本書「神国」全体に通底するハーンの観察、主張を最後にスペンサーが追認してくれると考えたに違いない。自由民権運動が国会開設、民選議員制度で懐柔され、日清戦争に伴う三国干渉への反発、「臥薪嘗胆」、むしろ「民権」より「国権」優先の空気が漂う時代であった。明治政府はただ一途に「一等国」への道を直走った。スペンサーの助言を横目に、ハーンの懸念をよそに、条約改正、富国強兵の道をつきすすんだ。1894年の日英、日米通商航海条約で初めて幕末以来の懸案であった「不平等条約」解消、「平等な改正条約」が調印された。長年の懸案が解決された瞬間であった。しかし日本政府は、西欧列強諸国と並んで市場を開放し、外資の導入、外国人の土地所有、外国人との結婚は認めたものの、その実態は厳しく外国に規制を設ける保守的なものであった。ハーンはスペンサーの保守的な助言はここに生きているとしている。しかしハーン自身も日本人と結婚し日本に帰化し、小泉八雲と改名したが、その子孫は、その「保守主義」のせいで高級官僚や高級軍人などへの登用に制約が設けられた。急速な変化で古き良き日本の伝統が破壊されてゆくのは忍びないが、「保守主義」が守られたことで家族には思わぬ制約ができてしまった。日本を愛し帰化したハーン、いや小泉八雲は複雑な心境であったと思う。




参考:古書を巡る旅(2)ラフカディオ・ハーンと尋ねて