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| Karl Popper (1902~1994) |
カール・ポパーは、オーストリア出身で、ナチ政権の弾圧を逃れてニュージーランド、イギリスへ渡り、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス:LSEで長年教鞭をとった20世紀を代表する哲学者の一人である。ファシズム批判、コミュニズム批判など全体主義批判で知られる。本書は戦前から戦後の冷戦時代に盛んに読まれた哲学書である。最近はあまり読まれなくなったようだが、その強烈な衝撃は今も残っている。そして今再び注目を集めている。
私は、80年代初頭LSE修士課程在籍中に、一度だけこの著名な哲学者の講義を聞きに行ったことがある。せっかくLSEにいるのだからこのカール・ポパーの顔くらい見ておきたいという軽薄な関心であった。今から思えばなんとも恥いるばかりの浅学非才の若造の行動であった。講義は「社会科学における合理性とは」と言った内容だったように記憶するが、どんな講義であったかしっかり覚えてもいないし、今回取り上げる『歴史の貧困』を読んだのもずっと後の、あの91年のソ連崩壊の時のことだ。なんたる大馬鹿者!もったいないことをしたものだ。しかし若き日のあの出会いの思い出が、時空を隔てて我が記憶の底から蘇り心に強く響き始める。もう少し人生の前半で知っておくべきであったが、今からでも遅くはない。いや、歴史の反動や科学的合理性への懐疑など、21世紀の今(再び)起き始めた大きな哲学的思潮の変化を考える時にこそ読み返す意味がある。
「歴史に学べ」「歴史は繰り返す」「愚か者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」。人はよくそう言うが、確かに人間は過去に犯した過ちに学ばず、同じ過ちを犯す。歴史は様々なことを現在の我々に教えてくれる。また未来を予測すらしてくれる。前者の轍を踏まないよう未来を歩む、それが歴史を学ぶことの意義だと信じている。おそらくそれは間違っていないのだが、歴史の発展に何か普遍の法則や理論があるのだろうか。だから未来は予測可能だと信じているのか。社会科学は自然科学のような「科学」なのか。歴史学は科学なのか? 本書でポパーは「歴史の行く末は予測できない」「歴史的運命への信仰は迷信である」「歴史学は科学ではない」と断じている。理論物理学はあっても理論歴史学は存在し得ないと。社会科学の諸分野で、経済学を除いては、すべて物理学的な方法論を試みて成功したものはなかった。そうした物理学的方法論の適用可能性を論ずるなかで、「歴史(法則)主義:Historicism」が適用可能な方法論であるかの如く扱われ、それが自明のことであるかのようにさえ考えられてきたことを批判した。さらにこの「歴史(法則)主義」がファシズムやナチズム、コミュニズムのような全体主義を引き起こしたと批判している。
歴史を学ぶことの意義を考えるにあたって、ポパーはこのような重要な問題を提起しているわけで、私にとっては衝撃的であった。本書の元となった論文の上梓は1944年である。そして英語版の初版刊行は1957年である。世界がファシズムと戦い、やがて勝利し、あらたなコミュニズムという全体主義の脅威にさらされた時期の著作である。彼は本書の献辞で、「歴史的運命の不変の法則というファシズム的、共産主義的信念の犠牲となったあらゆる信条の、あらゆる国の、あらゆる民族の無数の男たち、女たち、子供たちを偲んで」としている。彼の反「歴史法則主義」はこうした全体主義に結びついてゆく危険性への批判から始まっていている。これはもちろん歴史に学ぶことの重要性を否定するものではないが、歴史に科学的な法則を見出そうとする、一見合理主義的な考え方の落とし穴、あるいは科学哲学上の矛盾を指摘しているのである。
本書の序文で、「歴史主義」の矛盾を指摘して批判する。
(1)人間の歴史の道筋は知識の成長に大きく影響される。
(2)合理的または科学的な方法により、人間の知識が将来どのように成長するかを予測することはできない。
(3)従って、人間の歴史の将来の道筋を予測することはできない。
(4)このことは、理論物理学に対応する歴史の社会科学である理論歴史学が成立不可能であることを意味する。歴史の発展に関して、歴史的予測の基盤となりうる科学的理論というものはありえない。
(5)それゆえ、「歴史的発展の理論」、すなわち歴史主義の方法の根本目的は誤って構想されている。歴史主義は破綻する。
論点の根本は(2)で「成長する人間の知識というようなものがあるとするなら、明日にならなければわからないことを、今日予知することはできないのである」。まさに予測不能な未来を論理的に予測することの矛盾を説いている。歴史の法則というようなものが未来に起きる必然を言い当てることはできないのである。こう言い切っている。
振り返ってみると、学生時代に学んだマルクス経済学。まずは入り口でフリードリヒ・エンゲルスの『空想から科学へ』を読まされる。社会や歴史の発展には法則がありそれに従って進んで行く、それはまさに空想ではなく科学であると。そしてカール・マルクスは、上部構造は下部構造が規定する。すなわち経済が政治活動や思想、信仰を決定付けると。資本主義が成熟すると、「持てるもの」と「持たざる者」という階級間の矛盾が生まれ階級闘争が起き「徒手空拳のプロレタリアート」がやがて生産手段を所有するという共産主義へと移行すると論じた。ヘーゲルの弁証法、唯物史観による「歴史法則」である。「そうか、世の中は科学的な法則により動いているのか、歴史には発展理論があるのか」。若くてナイーヴな学生の頭にはわかりやすく魅力的な説明であった。世の中の仕組み、歴史理論が分かったような気がした。若者が熱狂するはずである。また、ダーウィンの進化論に触発されたハーバート・スペンサーの「社会進化論」にも「適者生存論」にも、社会や歴史の発展段階を合理的に説明する説得力を感じたものだ。
しかし、ほんとにそうなのか?歴史学は検証可能な出来事が繰り返される「合理性」を持った科学なのか。普遍的法則で歴史上の出来事は説明できるのか。この疑問はやがて、現実の社会では理論や法則に従ったとは思えない、検証不可能で再現性のない事象が出現し、歴史が紡がれてゆくことを知ることとなり、より深まってゆく。矛盾が取り除かれない事象は科学的に検証不可能なのではないか。ポパーが言うように確かにそこには「歴史(法則)主義」の落とし穴、矛盾があるのかもしれない。そう気付かされた。
なぜマルクスが言うように資本主義が極限まで発展したイギリスではなく、資本主義すら経験も成立もしなかった農奴制国家、帝政ロシアが共産主義に移行したのか。なぜ歴史の発展段階における必然とされた社会主義、共産主義は100年も経たないうちに崩壊し世界から消えたのか。何故中国ではプロレタリア政党は生き残り専制的で強大な資本家に変質したのか。マルクスやレーニンの理論と矛盾するではないか。実証されたはずの出来事が次々と瓦解する、あるいは非合理的な変質を遂げ、矛盾したまま存在し続ける。歴史は科学なのか?やはり空想なのか?
一方で、ファシズムやナチズムはむしろ歴史法則の必然性を否定し、カリスマ的な独裁者による「意思」と「行動」により人種的競争」における勝利を勝ち取る、「優越人種」が「劣等人種」を淘汰するといった「非合理的歴史観」いや「空想」に立っている。すなわちコミュニズムのいう「合理的歴史観」の台頭に恐れをなして沸き起こってきた、いわば恐怖の対抗概念である。たしかに両方(いわゆる極左、極右)とも、民主的な討論を嫌い、反対者を弾圧する独裁主義、あるいは全体主義である点は共通するが。ポパーの言う、歴史(法則)主義、歴史的運命の不変法則が全体主義を生み出す危険性があるという主張。それはコミュニズム(マルクス・レーニン主義)の歴史観には当てはまるが、ファシズム、ナチズムの非合理的歴史観には当てはまらないのではないか。そもそも科学的な「実証」も、ポパーが言う「反証」も不可能な「空想」に過ぎないのだから。
今再び世界は、陰謀論を振りかざす極右(ネオファシズム、ネオナチ)の台頭を憂慮し、民主主義的システムを利用して全体主義的な思想、体制が生み出される事態に直面して、リベラリズムの衰退を懸念する。そんな歴史の揺り戻しの時代を迎えている。一方で、経済的格差が極大化する社会に於いて、イデオロギーの左右の対立よりも、中間層の失われた所得階層ピラミッドの、ほんの一部の上層と大多数の下層の対立がより大きな問題となっている。新たな「階級闘争」である。そんななかで新自由主義経済システムの矛盾を指摘し、富の偏在から再分配を実現しようという「社会主義」が見直され始めている。ここでは「全体主義的な社会主義・共産主義」ではなく「民主的な社会主義・民主社会主義」を目指そうという、保守主義への対抗思想である。またAIの進化に伴い発生する労働価値の低下、それにともなう格差社会、すなわち科学的合理性への懐疑、経済合理性への強烈な疑問が湧き起こっている。専制主義・権威主義と民主主義・リベラリズムの分断。経済成長、科学技術発展の果実、富を独占するトップ・オブ・ピラミッド(TOP)と富を享受できないボトム・オブ・ピラミッド(BOP)の分断。さらに言えばAIを使う人とAIに使われる人の分断。こうした分断の様相も変化し始めている時代に、ポッパーから何を読み取るのか。確かに200余年前の「フランス革命前夜」「産業革命直後」を引き合いに「歴史は繰り返す」と言う論調は一見するとわかりやすいアナロジーではあるが、本当にその歴史から何を学び得るのか。彼の思想が現代においても答えを導き出す手立てとなりうるのか。私はまだ彼のこの著作から確たる答えを見出せずにいるが、読書人の評価を聞きたいものだ。
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| 1989年アメリカでのペーパーバック版 |
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| 日本語訳は2013年初版 日経BP社刊 岩坂彰訳、黒田東彦解説 |
ポパーの「反証主義」Falsificationism
ポパーの科学哲学思想の基本は「反証主義」である。すなわち科学における「実証主義」:Critical rationalism、「帰納法」:inductionに対する、「反証主義」:Falsificationism、「演繹法」:deductionである。
彼は、科学的理論の正当性は、それが正しいことの証拠を挙げる「実証」ではなく、それが間違いであることの事例の検討、すなわち「反証」により決定される。反証事例が挙げられない理論は科学ではない。科学と非科学を線引きするものは「反証可能性」である。ポパーは、経験主義:Empiricismの系譜上にあるベーコン、ロック、ヒュームの「帰納と実証」ではなく、「演繹と反証」によって科学の当為(あるべきこと:Sollen)を基礎付ける。すなわち「反証可能性」がない理論は科学ではないとする。
「科学的真理」とは、現段階であらゆる反証事例の検討に耐え抜いた「仮説」であり、それはいずれ反証される「暫定的な真理」である。ニュートン物理学が光速度と量子の発見によって否定されたように。科学の進歩は「実証」ではなく「反証」により実現されると考えた。
ポパーの「歴史法則」「社会進化の法則」「歴史発展の理論」などが科学的な理論ではないという指摘は、すべて彼の「反証主義」から自然に導き出される結論である。
ちなみにポパーの言う「歴史主義」は、哲学史でいうところの「歴史主義」すなわちHistorismと区別する意味でHistoricismと称している。日本語訳としては「歴史法則主義」とした方が理解しやすい。


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