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2011年1月12日水曜日

法隆寺 斑鳩町西里 匠たちの故郷は今

 


 世界遺産法隆寺の西大門を出ると、幅3m程の道が一本西に向う。その両側に広がる落ち着いた町並み。一歩足を踏み入れただけでなにか違う雰囲気が漂う静かな町並み。大和路で見かける白壁、大和棟の立派な構えの豪農の住宅が立ち並ぶのでもない。虫籠窓に煙出にウダツが上がる商家の家並でもない。武家屋敷でもない。土壁に囲まれた邸宅が並ぶなにか質実剛健でかつ洗練されたな雰囲気の町。

ここは斑鳩町西里。現在の住居表示では法隆寺西町。かつて法隆寺の建立、作事に携わった匠達の故郷である。
法隆寺の東には東里という集落があり、こちらも法隆寺を支える人々の住む町であったと言う。

西里は一町四方(300m四方)程の地区で、この町の西口に掲げられてい案内板によれば、近畿一円の大工支配となった中井大和守正清の出身地で、その父、孫太夫正吉は法隆寺大工の棟梁で、京都の方広寺大仏殿建立、大坂城築城にも携わるなど、大掛かりな普請を手がける専門集団であったようだ。正清は関ヶ原の合戦以降、徳川家康に取り立てられて伏見城の築城、江戸城本丸や天守や法隆寺の大修理、江戸の町割りに携わった。畿内,近江六カ国の大工棟梁を支配するに至る。しかし、大坂夏の陣では豊臣方に西里の中井館が攻められ、その戦乱の中で町は焼かれて衰退した。

こうした歴史を持つ西里地区はかつて程の輝きは失われたようだが、法隆寺の作事を請け負う匠の伝統は絶える事なく今に引き継がれている。ここは法隆寺の昭和の大修理を手がけた宮大工の棟梁故西岡常吉氏の出身地でもある。また、そのご子息故常一氏は薬師寺金堂の再建の棟梁である。いわば伝説の父子はここ西里を一族の故地としている。

そもそも法隆寺は50〜80年毎に修理、補修を行ってきている。さらに過去4回の大規模な解体修理が行われている。昭和の大修理の以前は500年前だという。そうでなくてはこのような木造建築がこのような姿で現代の世まで古の姿をとどめることはない。しかし、その営みは想像を絶する長期にわたる技術承継のプロジェクトである。

一言で匠の技の継承というが、1400年の時空を超えて現代までそのオリジナルな姿を維持出来る「技」を継承するという事は奇跡に近いだろう。何十年あるいは何百年に一度であるから、次の修理の時には手がけた元の棟梁や大工はもちろんいない。元の設計図面や前の修復の記録も必ずしも残ってはいない。古材の活用、オリジナルと同じ材料の調達にも挑まねばならない。建築工法も大きく時代とともに変わるのだから、昔の技の継承はほとんど無に近い所からはじめなければならない。そう思うとため息が出てしまう。

この西里集落を西へ抜けると、藤ノ木古墳が目に飛び込んでくる。六世紀後半の円墳で、未盗掘古墳である。状態の良い家型石棺と二体の人骨、3セットのきらびやかな馬具、土師器、埴輪、数々の装飾品が保存状態もよく出土したことで有名。崇峻天皇の陵墓ではとの見解もある。古墳時代末期で、しかも仏教伝来の時期でもあり、次第に古墳は築造されなくなってゆくが、ここの出土品は古墳時代最後の輝きであるのかもしれない。

現在はきれいに整備され。史跡公園となっている。遠くに葛城山を望み斑鳩の里散策途中に人休むするのにちょうど良いベンチも備わっている。あんまりきれいな芝生の小山なので子供達が駆け上って遊べそうだ。かつては草蒸し、鬱蒼とした木立に囲まれた古墳だったそうだ。その方がロマンを感じるけどなあ。

横穴式の石室内は厳重に封印されたドアの見学窓から覗くことが出来る。これがおもしろい。中は当然真っ暗だが、人が窓に顔を近づけるとセンサーが働き、石室の照明が点灯し家型石棺が観れるようになっている。古墳とセンサーという組み合わせ。被葬者も想定外の仕掛けだろう。

異なる時代の遺跡、建造物、町が共存する斑鳩の里。厩戸皇子が権謀術数の渦巻く飛鳥を避けて居宅を構え,後に法隆寺を建立したたこの里に、それを支えた人々の生活があった。大陸の渡来人から技術を学び,継承して日本独特のものへ昇華させてゆく。日本人が好きな「モノ造り」の原点がここにあった。古代の東大阪、蒲田だ。

そして現在までその香りを残す町がある事に時空の重みを感ずることが出来た。















































2011年1月9日日曜日

三度目の奇跡? ー明治維新、戦後復興の次は?ー

 このごろ日本は「三度目の奇跡」を起こさねば、という議論が盛んだ。評論家や日経新聞あたりがわいわい言ってるのが引き金になっているようだ。「明治維新」と「戦後の復興」につぐ「三度目の奇跡」という訳だ。
 欧米列強に対抗して,アジアのなかでいち早く近代化を成し遂げ、アジア初の国民国家を樹立し、さらに、戦争で壊滅的破壊を経験したにもかかわらず、世界第2位の経済大国に成長した日本。この時レファレンスモデルは「欧米」諸国である。アジアの国なのに欧米のように近代化した「例外としての日本」という訳だ。これが「奇跡」と呼ぶ所以である。

 そこで今、なぜ「三度目の奇跡」が必要という議論になっているか。それは「少子高齢化」「経済の低成長」「国家財政の大赤字」という三つ子の不安材料を抱え、国家の衰退に直面しているからだ。遅れているはずのアジアの国々、すなわち韓国や台湾や中国に追い上げられ、追いこされる事態に直面しているからだ。さらにはインドやASEAN諸国も急速に経済成長して来ている。

 とりわけ中国の経済、政治、外交、軍事面で急速な成長が大きなな脅威と感じ始めている。このように常に外部に「脅威」があり、それが臨界点に達した時に「奇跡」を起こして来た、という日本の歴史から来くる期待がある。やや「神風」みたいな「奇跡」を待望する空気もあるようだ。

 これからはアメリカじゃない。中国だ、とか、いやアメリカと中国の板挟みだとか、歴史上想定出来なかった事態に「第三の奇跡」を求める志向となっているのだろう。確かに,この日本を取り巻く事態は明治維新/戦後復興のときと違って、追いかけるモデルがない事態になっているのは事実だ。

 もっとも日本は歴史上、既に「三度」の奇跡を経験している。上述の二つの「奇跡」以前に1450年ほど時間を戻してほしい。このときの脅威は隣国である中国、当時の大唐帝国だ。そして一度目の日本の「奇跡」は645年に始まる「大化の改新」だ。これは我々が歴史で習った中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我入鹿を誅殺し,時の権力者蘇我氏を滅ぼした,いわば宮廷クーデタそのものを言うのではない。

 最近の歴史認識では、「大化の改新」は、この宮廷クーデター(巳支の変)に始まる天皇中心の政治体制,すなわち律令体制、公地公民制、班田収受法等による経済改革などの一連の改革を言うとされている。この改革には実は「大化の改新の詔」から30年以上の時間を要し、壬申の乱以降の天武天皇、その妃の持統天皇の時代になってようやく大王の「倭国」(いわば連合王国)から天皇中心の国家「日本」(中央集権国家)が実現している。
 
 しかし、何故このような「改革」、いや「革命」が必要だったのか。この動きを強いたのは,当時の「倭国」を取り巻く東アジア情勢に他ならない。すなわち朝鮮半島白村江での唐/新羅連合軍との戦いでの倭国/百済の決定的敗北、大陸からの撤退である。これは単に朝鮮半島での「倭国」の権益を失う、という事態に留まらず,引き続き唐が日本本土に侵攻してくる、というホラーストーリーを想定させるに十分な事態であった。

 この事態に対応する為に、天智天皇以来、急速に強力な国家体制を整備する必要に迫られた。すなわち富国強兵(防衛線の建設と徴兵制)、殖産興業(公地公民制、土地人民の国有化、生産性向上)、政治の近代化(天皇中心の律令体制)、官僚制の確立(ヤクサノ姓)、あげくには近江京への遷都を進めざるを得なかった。これが第一回目の「奇跡」である。

 ちなみに、ここまで聞いて、この時のこの事態と改革のプロセスは実に明治維新に似ていると思われるだろう。その通り,明治維新が「王政復古」と呼ばれる理由は、この天皇中心の国家体制の創建をモデルとし、この時代の国家体制を戻そう(少なくとも武家の棟梁将軍中心から天皇中心への政権交代、すなわちアンシャンレジュームという意味において)とした事による。明治期に如何に天皇制が日本の国家の基礎であるかを認識させる営みが数々行われたのはこの為である。この話はまた別途。

 話を戻す。日本という国は,その地政学的な位置から,常に近隣の大国の文化的、経済的便益を享受しつつも、その脅威に対抗してゆかざるを得ない宿命であった。もっとも隣の朝鮮半島ほどではないにしても。最初は,大唐帝国であり、次は大航海時代を経て東洋に進出して来た西欧列強諸国。そして帝国主義戦争で勝利したアメリカである。

 もちろん長い歴史の中で,周辺諸国に日本は忘れられた時期があったり、一時的に侵攻されたり(元寇)、自ら西欧諸国の進出の脅威を「鎖国」という形で防御したりした時代もあるが、ユーラシア大陸の東辺部にある島国として常に大陸の影響を肌身に感じつつ国家経営して来た。

 こうした点ではユーラシア大陸の西の端の島国であるイギリス(正確にはイングランド、スコットランド、アイルランド、ウエールズ等の国々と言うべきだが)と同じである事が面白い。イギリスの場合は,実際に大陸からの侵攻を受けている。ゲルマン人やバイキングによる侵攻、ローマ帝国の属領化、フランスのノルマンコンケスト。スペインによる圧迫、海上封鎖等。そうした厳しい「国際環境」が遂にはイギリスに絶対王政を確立させ、七つの海に進出させるエネルギーとなるのだが,その話もまた別途。

 このようにマクロ的に歴史を振り返ってみても日本を取り巻く環境は激的に変化したと言わざるを得ない。世界が狭かった時代には隣の大陸の大国、文明を気にしてれば良かった。そのうちユーラシア大陸の反対側からやって来た近代文明と緊張関係が生まれ、さらには広大な太平洋に阻まれているが故に、「隣」とは意識しなかった新大陸からやって来た文明と戦うはめに。そしてふと気付くと今度は旧文明となり脅威でなくなっていたはずであった隣の中国が再び歴史の表舞台に躍り出て脅威に。日本は東西両面の強大国の狭間に存在する国家になってしまった。

 それだけではない。「World is flat.」世界は歴史上経験した事がない新たなフェーズに移りつつある。 経済のボーダレス化が国家の有り様を変えつつある。近代の象徴である国民国家を枠を超えるグローバルなステージにどのような立ち位置を確立するのか、これは日本だけではなく、それぞれの国家が直面する挑戦的な課題である。

 こうしたなか、日本は、アメリカにつくか、中国につくか,なんていう亡国的な二者択一でもなく、両大国の橋渡しをするクニになる、なんて誰も期待してない役割を勝手に自任するのでもなく、永世中立国になる、なんて第2の「鎖国」を夢想するのでもなく、国境のないグローバルな世界の中で独自の役割を果たす国になることを目指さねばならなくなる。その時、その中心は多分日本という「国家」ではなく、国家の枠組みを越えて世界で活動する日本人という「人」となるのかもしれない。またそのような人材を多く輩出する「国家」日本になる。それこそが「第四の奇跡」だ。

 

2011年1月5日水曜日

ライカM9チタン初見参 !

 昨年の12月には発売,とされていた、全世界500台限定のライカM9チタン。年末の29日に、いつもライカシステムではお世話になっている、日本橋のF越写真機店のSさんから「はいりますよ」「見ますか?」と連絡あり。

 おっ、約束通り12月中に入荷ですか、かろうじて... 昨年9月のフォトキナの華々しいデビューいらい、音沙汰がなかったので、また出荷が延期になりました、なんてアナウンスがあるのかと思っていたが。聞けば、年内に入荷出来たのは日本では10台未満だとか。なかなかもったいつけるなあライカは。

 さて、現物を早速拝見。でっかい箱に二重に梱包されている。オープニングセレモニーだ。まずはあのホルスターが黒い袋に入ってお目見え。その下から出て来た玉手箱のような黒い立派なハコ。これを左右に引っ張ってスライドさせて開ける。立派な装丁の「取り説」と「うんちく本」等が同梱。さらにその下に赤絨毯ならぬ赤いスエードの内装に囲まれてボディー、35mmレンズ、フードが鎮座ましましている。なかなか脱がすのに苦労するがワクワクする正月の姫始めのようだ(あくまでも喩えです)

 フィンガーループとショルダーストラップもボディーレザーと同系統の革製のものが付いて来た。例のホルスタータイプのケースもなかなかの出来映えだ。が,ちと恥ずかしくてこれ肩にかけて撮影には出ないだろうな。何だろう?と衆目を集める事間違いない。目立ちたい人にはおススメですが。

 さて肝心のボディー。ひんやりとしたチタンの感触がたまらない。かつてのM6チタンのような真鍮板にチタンコーティングしたもの(Titan finish)とは異なり、無垢のチタン削り出し。M7チタンも無垢だそうだが、M9の方がふんだんにチタン使ってそうだ。現にボディーサイズはわずかに従来のM9よりは大きい。しかし,重量は軽い。また指紋がつかないような特殊コーティング処理がなされている。

 ライカの赤いエンブレムが目を引く。レザーも未来的でいい。中身はこれまでのM9と同じなのだからあんまり感動する部分はないのがもったいないくらい外装は素晴らしい。久しぶりに興奮するカメラボディーに出会えた感じだ。ボディーの面取りやレザー部分が手を加えられて近未来的なルックスになった。アクセサリーシューはチタンでカバーされ、シャッターボタンはレリーズ用のネジを塞いで指触りがよい。正面から見たら、採光窓がなくなり代わってその位置にLeicaのアクリルネームプレートが鎮座している。手作業で墨入れしたものとか。全体にバランスのとれた精悍なルックスとなった。

 デザインを言うなら、以前から気になっているアクセサリーシューのオフセット位置を、この際レンズ中心線上に持って来れなかったのだろうか?そして正面のライカエンブレム左上のほくろのような丸い採光窓(何用だったっけ?デジタルになって唐突に付けられた)、これもデザインバランスを壊してると思うんだけど。

 ストラップ類は一新され、右肩にあるアナに、フィンガーループ(大小3種)、ショルダーストラップのコネクターを差し込むことが出来る。この為には裏蓋を開けて、専用のフックを引っ張ると、アナのカバーが外れる仕掛けになっている。この辺が「ライカのお作法」を踏襲している。しかし、ちょっと頼りなげなアナのロック。本当にこの高価なカメラが外れて落ちたりしないのだろうね。
 ただフィンガーグリップはホールドが良い。新しいカメラの保持スタイルを提案している。

 同じくチタン素材の鏡胴の35mmズミルクスと、同じ素材で出来た花形フード。これを装着した姿は最高。フードはねじ込み式。レンズ先端のリングを外してからフードをねじ込む。フードの切りカキ位置がちょうどになるようにねじ込みが一定位置でロックされるようになっている。ドイツらしからぬ芸の細かさだ。

 全体に愛でて楽しむのにいいが、それだけではなく、手になじむ形状と,適度な重さ、チタンの手触りはこのカメラを持ち歩く事を楽しくするに十分な逸品にしている。お散歩ブラパチカメラにはもってこいだ。もっともベンツSクラスに乗ってコンビニへ弁当買いに、みたいな空気だが...

 唯一、機能面で通常のM9と異なるのは、ファインダー。フレームが赤いLEDで表示される点だ。これはなかなかいい。レンズ装着と電源スイッチオンで自動設定されるので、フレームセレクターレバーが正面になくなった。何よりも見やすい。これまでのM3以来の伝統のフレームは正面の白いアクリルの明かり取りから入る光で白く輝かせる「光学式フレーム」であった。これが光線との向きで見にくいのが問題視されて来たが,解決した訳だ。

 ライカは感触を楽しむ趣味カメラなのだから,このM9チタンの出来は素晴らしく、趣味人をなかなか虜にさせてくれる。これまでのライカお得意の限定版商法ではあるが、この一品はかなり限定版として本格的に差異化を計っている。これからのライカレンジファインダーデジタルを暗示するスタイルだろう。

 しかし、惜しむらくは、その手の届かない価格にふさわしいもっとデジタルカメラとしての機能のブラッシュアップ、強化充実を計って欲しいものだ。もっともコレを撮影現場でガンガン使う人はどれくらいいるのか。したがってこの際これ以上言うまい。まあ一言居士を黙らせるオーラを持っているよ、このM9チタンの工芸品としての造り込みへのこだわりは。

2011年1月3日月曜日

気まぐれライカM9に手を焼く

 正月もあっという間に終わって、三日には羽田から伊丹まで飛び,西部戦線に復帰。

 東京の正月は晴れ。日本全国が風雪による厳しい寒波で翻弄される中、関東平野はカラっ風のいい天気。Uターンラッシュに混雑する羽田到着ロビーを横目に,逆Uターンでゆったりと大阪へ。

 羽田は新滑走路を離陸。やがて左手に東京スカイツリーと東京ゲートブリッジがちょうど見えたので愛用のM9でパシャリ。両方が見渡せる絶好のアングルだ。東京ゲートブリッジもまだ建設中で繋がっていない。よく見ると双子の怪獣が向き合っているようだ。新しい東京のランドマークが間もなく誕生する。

 離陸後一時間もしないうちに、はや伊丹着陸態勢。大阪は近い。高速陸蒸気でも二時間半なのだから。機内サービスのお茶飲んでる暇もない。しかし、雲間から見える奈良の東山中、紀伊山系は白銀の世界。飛鳥の里も冬景色だ。日本も狭いようで広い。様々な季節が同居している。

 奈良盆地から生駒山を超えると河内平野。八尾飛行場が見える。やがて大阪城を左下に見て機は市街地広がる大阪の街のど真ん中にドンドン降りてゆく。ビルや高速道路をかすめながら着陸。 と、平穏な飛行であったが、この間,我が愛用のライカM9はご機嫌斜め。突然「フォルダー番号をリセットしろ」「SDカードがフル」とのメッセージがでて、シャッターが下りなくなってしまった。正月早々...
 SDカードの容量はまだ70%程空いているのに。MENUからフォルダー番号リセットボタンを選んで押しても何の変化もなし。今カードの初期化すると全部消えてしまう。どうしたらいいんだ!?

 パニック状態でそれ以上の撮影続行は不可能となる。したがって東京スカイツリーまでは撮れたが、白銀の東山中、大阪城は、くやしいが見過ごすよりなかった。動かない金属の塊(文鎮と化した)ライカを握りしめ「この役立たずメ」と、よほど床に投げつけてやろうかと思った。

 なんか「いざ本番」「決定的瞬間」という時になって,突然写せなくなる事が多いような気がする。以前にも「カードが認識出来ません」とか「カードがロックされてます」とか、たわけたメッセージが出て撮影を中断しなくてはならない事があった。「これだ」と思ってスイッチオンしてシャッター押すと,反応しなくてチャンスを逃した、なあんて事も。

 家に帰ってマニュアルを読む。この説明文の日本語がまた何言ってるのかよくわからない。ドイツ語の直訳? 訳したヤツは内容を理解して書いたとはとても思えない。一瞬オレの日本語読解力がなくなったのか、と考え込んでしまった。
 気を取り直して何度か読み直すと,要するにどうもフォルダー番号がL99999999になるとそれ以上記録しないようだ!(SDカードに容量があっても!)。 その場合、マニュアルで番号をリセットする事が必要らしい。しかもリセットするにはSDカードを初期化する必要がある、と書いてある。しかも初期化は「上書き」を選ばねば完全な初期化は出来ず、フォルダーに大量のデータが残るようだ。そして「上書き」には数十分かかる、とある。したがってバッテリーはフルに充電しておくように、とご丁寧に注意書きが...

 バカヤロウ! 冗談じゃないよ。撮影現場でそんなことが出来るか! 少なくともニコンやキャノンでそんな経験は一度もない。M8でもそんなリセットのモードはなかったのに。故障でないとしても、使い手が想定出来ない事象が発生するということは、道具として完成されてない事の証明だろう。
 
 仕方ないから,これまでM9用に使用している(ライカ社ご指定の)SDカード3枚の中身を全てハードディスクに落としてから、一時間程かけてセッセと「上書き」で初期化。バッテリー2個があがり!充電中。で、ようやく撮影可能になった。でもこれで大丈夫なんだろうな?不安だ。

 もうあんまりライカの悪口いいたくないのだが、こう度々だと「怒ってしまう」というより「笑ってしまう」(イヤ、とほほほほ、と「泣いてしまう」)。いくらライカはマニア向けの趣味カメラとは言っても、こんな作業を「ライカのお作法」として楽しむ程、私もお人好しのアホではない。少なくともプロ用機材としては信頼感0。やっぱりライカはシンプルで堅牢な銀塩機械式カメラしか信頼出来ないのか。

 大阪だけに、締めは「そんなアホな」「ええ加減にしろ」「もうええわ」「ありがとうございましたあ〜〜〜」かあ。


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(東京の新しいランドマークとなる、東京スカイツリーと東京ゲートブリッジ)

2011年1月1日土曜日

2011年の新年を迎えて

2011年が明けた。東京は晴天で穏やかな新年となったが、日本は寒波に覆われ厳しい寒さと積雪の正月となった。

 紅白歌合戦見て、ゆく年来る年みて、何となく正月に突入。新年を目出度がってばかり入られない。一晩寝て正月が来たからといって,情けない今の日本の現状が変わる訳ではない。日本はこれからはモデルのない変革を果たさねばならぬ時代へ突入する。

 少子高齢化、経済成長の低迷、国の借金の増大という3重苦を抱えて、明治維新や戦後の復興につぐ3度目の奇跡を起こさねばならない。いや、白村江戦敗戦後の復興改新を含めれば4度目だ。しかしこの変革には先行事例はない。大唐帝国や西欧列強や米国といったモデルはない。独自にあらたな国家ビジョンを作り出さねばならない。前代未聞のチャレンジであるが、これを乗り越えなければ「衰退」の二文字が現実のものとなる。

 今こそ「イノベーション」という言葉の意味を真剣に考えなくてはならない。これを「技術革新」と翻訳する時代は終わった。全ての価値創造モデルイノベーションだ。それには独創的な価値創造を可能とする「人」を育てる必要がある。あたらしいヒーロー、そう「英雄像」が必要だ。「モノ造り」よりも「人創り」が優先だ。時間がかかるが100年の国家戦略とビジョンがいる。

 初夢はどんな夢になるのだろう。



 
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(2011年元旦の初日の出。ちょっと寝坊して太陽が高く揚がってしまった。東京の正月はスッコーンと良い天気)

2010年12月30日木曜日

あずまくだりの旅

今年も暮れの帰省の時期になった。難波をあとにして江戸へ下向。

 上方からのあづまくだりなので帰省ラッシュにも巻き込まれずにゆったり帰ることが出来る。冬は視界が利くので超高速陸蒸気の旅もいいが、飛行機の旅が面白い。
 
 空飛ぶ時空移動マシーンは摂津の國、難波を飛び立つとすぐに、天空からはるか京の都を見下ろす。掌にもてあそぶように電脳暗箱ライカで師走の京都洛中洛外図屏風を切り取る。風神雷神の気分だ。

 やがて、尾張名古屋をひとっ飛びすると、もう左前方に真白き富士の嶺が視界に飛び込んでくる。これも電脳暗箱でバシャリと切り取る。伊豆の國を眼下に相模の國へ。

 しばし上方から江戸までの鳥瞰図パノラマを楽しむ。ああ,うまし國ぞ安芸津嶋大和の國は...

 時空移動マシーンはあっという間に武蔵の國、江戸の街に我を送り届ける。あの「天空の木」なる電波塔のその建設途上の姿を中空に眺めつつ地上に降りたつ。

 時は今...? かなり時間軸があちこちにズレたな。


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(伊丹を離陸して間もなく京都市上空)

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(伊豆半島、相模湾上空から富士山を望む)

2010年12月24日金曜日

博多、聖福寺と今津浦 ー栄西の足跡をたどるー

 
聖福寺
博多御供所町

今津湾
渡唐船の風待ち港であった


博多は古代より大陸との窓口として栄えた商都であった。いま、来年の九州新幹線全線開業を目指して建設中の博多駅から大博通り沿いに走ると、祇園を過ぎて広い大通りの右手に壮大な寺院群が見えてくる。この辺りが御供所町だ。この辺りは博多における寺町であり、東長寺、聖福寺、承天寺などの壮大な伽藍が建ち並ぶ。

承天寺は宋の商人で博多を拠点に活躍した謝国明が建てた。また聖福寺は日本初の臨済宗の禅寺として宋から帰国した栄西が開いた。大陸から持ち込まれた、うどんや、喫茶、ういろうの起源もここに発すると言われている。舶来品発祥の地という訳だ。

このあたりは中世博多の時代には謝國明に代表される華僑、すなわち博多を拠点とした日宋貿易を動かしていた博多鋼主が多く居住した地域であった。1195年、帰国した栄西は、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝より許しを得て、さらに博多鋼主の協力を得て華僑の居住地区であった博多百堂にに禅寺聖福寺を建てた。山門の扁額には後鳥羽天皇からもらった「扶桑最初禅窟」の文字が掲げられている。さらに栄西は後に京都で建仁寺を建立する。

博多の聖福寺は塔頭38院を数え、寺内町を形成する大寺院であった。その後、戦国時代の戦乱や、その戦後復興たる博多の太閤割により、その寺域は大幅に削られたが、今でも塔頭6院を数える博多屈指の大寺院である事には違いない。今は臨済宗妙心寺派の寺院となっている。

聖福寺は博多の東、石堂川ベリに位置しているが、この勅使門から真西に一本道が伸びている。その西の果てが博多総鎮守、櫛田神社だ。そう博多祇園山笠で有名な。聖福寺と櫛田神社を結ぶ線が、秀吉が後に行った太閤割り以前の博多浜の中心線であった。

栄西は、二度目の渡宋の機会を博多湾の西に位置する糸島半島今津浦で待っていた。今津浦は現在は福岡市西区今津となっているが、当時の博多湾には博多津以外にもいくつかの浦や津があって大陸へ渡る船の風待ち港になっていた。江戸時代に入って鎖国で博多が寂れても、筑前国主黒田氏は博多の五カ浦を貿易港に指定して内国貿易、流通の拠点とした。

話を戻して、栄西は渡宋の機会を待つ間に、その今津の誓願寺で発願文を起草している。今は静かな漁村であるが、当時はこのように大陸へ渡る僧や商人、船乗りが集まる国際港であった。今津のさらに北には唐泊地区があり、その名の通り、遣唐使が風待ちをする港であった所である。ここから向うはもう玄界灘。

今津のある糸島半島は知られているように古代伊都国の所在地であった。今津湾の入口にそびえる小さな山、今山は当時伊都国を中心に北部九州全域に流通していた打製石器(石斧等の)の産地であった。今山自体が巨大な玄武岩が露出した岩山だ。ここが倭国の文明の中心であった北部九州の弥生の農耕を支える、石器農具の一大生産地であり、その富により伊都国が経済的優位性を保っていたと言われる。

今津干潟は江戸時代に黒田藩が干拓を進めた後に残った今津湾とそれに付属する干潟で、カブトガニに自生地としても知られている。ここからは遠く糸島富士(可也山)を望むことが出来る。そして、箱崎から移転中の九州大学の新キャンパス、伊都キャンパスの一部が丘の上に望める。静かな干潟である。

話は変わるが、この今津湾と今津干潟の間にかかる今津橋には思い出がある。私が幼稚園の頃だろうか、父につれられて釣りに来た事があった。当時は今川橋に住んでいたが、釣りの好きな父は、今津橋がよく釣れるという話を教室の人から聞き、日曜日に一人息子を連れて筑肥線で今宿まで行き、そこから昭和バスに乗って行ったのだろう。昭和バス、というと当時は何か糸島の田舎のバス、という印象があった。

夏の熱い一日、父は釣れた魚を魚籠(びく)に入れて、橋の欄干から長いヒモを垂らして魚籠を下の水面下につけていた。まずまずの釣果であった。まだ小さな子供であった私は父の回りで駆け回るだけで釣りはしなかったと思う。しかしどんな魚が釣れたのか見たくて、その魚籠を引揚げて、中を覗こうとしたその時、水を吸って思いのほか重い魚籠は私の小さな手から滑り落ち、重みでヒモが切れてバッシャンと音をたてて水中に消えていった。流れは速くあっという間に魚籠は見えなくなった。父は向こうの方で麦わら帽子を被ってを無心に竿を垂れて、水面に漂うウキを見つめている。息子がトンでもないことしてくれた事も知らずに...

私は悲しくなり、父のところへ「魚籠を落とした。ごめんなさい」と泣きながら走っていった。
父は「ええっ!」と釣り竿をおいて、魚籠をぶら下げていた欄干の所までかけて来た。ヒモをたくし上げると、何の手応えもなくするするとヒモだけが上がって来た。
父のがっかりした顔、一日中釣ってずっしり重くなっていた魚籠が消えた。

「ばっさり」と一言。

父は叱りもせず、釣り竿を担ぎ私の小さな手をしっかり握って夕焼けの今津橋をとぼとぼと歩いて帰っていった。

今では立派な自動車専用橋と歩行者専用橋に分離されたコンクリート橋がかけられているが、当時は古い木造の砂利道の橋が頼りなげに一本架かっているだけであった。車なんぞ通っていた記憶もない。強い日差しと、ほこりっぽい砂利道と、潮風と、そして無情な水の流れだけが心に残っている今津橋。父をがっかりさせたという悔悟の念。それだけにやけに長い橋であったという印象がある。

栄西の足跡をたどる今津、魏志倭人伝の伊都国、そのような事を知るのはもちろん、ずっと後の事である。
























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