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2011年1月12日水曜日

法隆寺 斑鳩町西里 匠たちの故郷は今

 世界遺産法隆寺の西大門を出ると、幅3m程の道が一本西に向う。その両側に広がる落ち着いた町並み。一歩足を踏み入れただけでなにか違う雰囲気が漂う静かな町並み。大和路で見かける白壁、大和棟の立派な構えの豪農の住宅が立ち並ぶのでもない。虫籠窓に煙出にウダツが上がる商家の家並でもない。武家屋敷でもない。土壁に囲まれた邸宅が並ぶなにか質実剛健でかつ洗練されたな雰囲気の町。

 ここは斑鳩町西里。現在の住居表示では法隆寺西町。かつて法隆寺の建立、作事に携わった匠達の故郷である。
法隆寺の東には東里という集落があり、こちらも法隆寺を支える人々の住む町であったと言う。

 西里は一町四方(300m四方)程の地区で、この町の西口に掲げられてい案内板によれば、近畿一円の大工支配となった中井大和守正清の出身地で、その父、孫太夫正吉は法隆寺大工の棟梁で、京都の方広寺大仏殿建立、大坂城築城にも携わるなど、大掛かりな普請を手がける専門集団であったようだ。正清は関ヶ原の合戦以降、徳川家康に取り立てられて伏見城の築城、江戸城本丸や天守や法隆寺の大修理、江戸の町割りに携わった。畿内,近江六カ国の大工棟梁を支配するに至る。しかし、大坂夏の陣では豊臣方に西里の中井館が攻められ、その戦乱の中で町は焼かれて衰退した。

 こうした歴史を持つ西里地区はかつて程の輝きは失われたようだが、法隆寺の作事を請け負う匠の伝統は絶える事なく今に引き継がれている。ここは法隆寺の昭和の大修理を手がけた宮大工の棟梁故西岡常吉氏の出身地でもある。また、そのご子息故常一氏は薬師寺金堂の再建の棟梁である。いわば伝説の父子はここ西里を一族の故地としている。

 そもそも法隆寺は50〜80年毎に修理、補修を行ってきている。さらに過去4回の大規模な解体修理が行われている。昭和の大修理の以前は500年前だという。そうでなくてはこのような木造建築がこのような姿で現代の世まで古の姿をとどめることはない。しかし、その営みは想像を絶する長期にわたる技術承継のプロジェクトである。

 一言で匠の技の継承というが、1400年の時空を超えて現代までそのオリジナルな姿を維持出来る「技」を継承するという事は奇跡に近いだろう。何十年あるいは何百年に一度であるから、次の修理の時には手がけた元の棟梁や大工はもちろんいない。元の設計図面や前の修復の記録も必ずしも残ってはいない。古材の活用、オリジナルと同じ材料の調達にも挑まねばならない。建築工法も大きく時代とともに変わるのだから、昔の技の継承はほとんど無に近い所からはじめなければならない。そう思うとため息が出てしまう。

 この西里集落を西へ抜けると、藤ノ木古墳が目に飛び込んでくる。六世紀後半の円墳で、未盗掘古墳である。状態の良い家型石棺と二体の人骨、3セットのきらびやかな馬具、土師器、埴輪、数々の装飾品が保存状態もよく出土したことで有名。崇峻天皇の陵墓ではとの見解もある。古墳時代末期で、しかも仏教伝来の時期でもあり、次第に古墳は築造されなくなってゆくが、ここの出土品は古墳時代最後の輝きであるのかもしれない。

 現在はきれいに整備され。史跡公園となっている。遠くに葛城山を望み斑鳩の里散策途中に人休むするのにちょうど良いベンチも備わっている。あんまりきれいな芝生の小山なので子供達が駆け上って遊べそうだ。かつては草蒸し、鬱蒼とした木立に囲まれた古墳だったそうだ。その方がロマンを感じるけどなあ。

 横穴式の石室内は厳重に封印されたドアの見学窓から覗くことが出来る。これがおもしろい。中は当然真っ暗だが、人が窓に顔を近づけるとセンサーが働き、石室の照明が点灯し家型石棺が観れるようになっている。古墳とセンサーという組み合わせ。被葬者も想定外の仕掛けだろう。

 異なる時代の遺跡、建造物、町が共存する斑鳩の里。厩戸皇子が権謀術数の渦巻く飛鳥を避けて居宅を構え,後に法隆寺を建立したたこの里に、それを支えた人々の生活があった。大陸の渡来人から技術を学び,継承して日本独特のものへ昇華させてゆく。日本人が好きな「モノ造り」の原点がここにあった。古代の東大阪、蒲田だ。

 そして現在までその香りを残す町がある事に時空の重みを感ずることが出来た。






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