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2015年4月12日日曜日

なぜ古事記・日本書紀には卑弥呼が出てこないのか? ー記紀編纂の時代背景を読み解くー


 日本の古代史、とりわけ古代倭国の成り立ちを文献史学の観点から知ろうとしても、限られた資料しかない。中国の資料としては、最古の地理書、山海経に「倭」が出てくる(日本列島の倭であるか議論あり)、紀元前1世紀の漢書には「百余国」の「倭」が出てくるほか、1世紀頃の倭国の様子を記述した後漢書東夷伝、3世紀の倭国の様子を記述した三国志魏志倭人伝と、その後の5世紀の晋書、宋書などがある。一方、倭国側(日本側)の資料としては、8世紀初期に編纂された古事記、日本書紀くらいしか見当たらない。その元となったと言われる帝記(大王の記録)、旧辞(各氏族豪族の記録)については4〜5世紀の編纂と言われるが、その存在は確認されていないし、おそらく散逸し現存していない。

 ところが厄介なのは、これら数少ない文献資料であるこの中国の史書にある「倭国」の記述と、日本の記紀の記述とのあいだに共通点がなかなか見出せない事である。中国の史書より後の時代に編纂された日本の記紀に(史書を参照したと思われる引用が神功皇后の項に一箇所出てくるが)、本文に中国側の史書に記された内容が全く反映されていない。例えば,記紀には邪馬台国も卑弥呼の存在も出て来ない。奴国や伊都国の存在にも言及していない。奴国王が後漢の光武帝に朝貢して「漢委奴国王」の金印をもらった(江戸時代になって志賀島から発掘され、奇しくも後漢書の記述を証明する物証が出た訳だ。)ことも、倭国王(伊都国王?)帥升が遣使したことも、卑弥呼が魏の明帝に遣使して「親魏倭王」の印綬をもらった事も記述がない。5世紀の「倭の五王」の朝貢・遣使の記録もない。あるいは逸失してしまった帝記、旧辞(記紀の元ネタ)にはそのような記述があったのだろうか?それを記紀編纂時に「誤りを正す」として削除したのだろうか?資料が残っていない今となっては確認しようもないが。

 何故なのか?

 後漢書や魏志倭人伝に出てくる,奴国、伊都国、邪馬台国などの筑紫の国々(いわばチクシ王権)と、大和地方に興ったヤマト王権とは別の王統であって、その王権の系譜に連続性はないからだとする。したがってヤマト王権、やがては大和朝廷の正史である日本書紀にも、天皇の記である古事記にも、チクシの国々の話は出て来ない。チクシが登場するのはヤマト王権がチクシにその支配権を及ぼした話(筑紫磐井の反乱)だけだ。ここではそういう説もある事を紹介するに留めるが、知る限り,ヤマト王権がチクシ王権を打倒したという明示的な記述も考古学的証拠もない。また逆に、チクシ王権が東遷してヤマト王権を樹立したという明確な証拠もない。中国の史書に出てくる「倭国大乱」(2世紀後半)や、日本書紀にある「筑紫磐井の乱」(6世紀前半)、記紀に出てくる「神武東征神話」などの事件・エピソードが何を意味しているのかの検証が必要だろう。

 記紀編纂の時代背景を知るべし。 

 そもそも歴史書というものは必ずしも史実を客観的に記述するものではない。「歴史は勝者が書くものである」。むしろ、「天皇」の記である古事記にしても、「天皇」が支配する国「日本」の正史である日本書紀も、その時代の為政者すなわち天皇の統治権威の正当性と、それによる統治の意思を内外に表明するため編纂されたものである。その時点での政治権力者にとっての「正しい歴史認識」の定本として編纂された。日本書紀や古事記を読み解くには、それが編纂された時代背景、政治背景を知らねばならない。時代は、645年の乙巳の変(いわゆる大化の改新)、663年の白村江での敗戦、672年の壬申の乱を経て、天武天皇即位。天武/持統天皇時代へ。「倭国」から「日本」へ、大宝律令の制定、公地公民制、天皇中心の新国家体制の確立、といういわば国の有り様を大きく変えようという、いわば「大宝維新」の時代であった。

(参考:以前書いたブログ:讃良大王(ささらのおおきみ)持統天皇、維新大業の足跡をたどる

 記紀編纂の時代背景を整理すると以下のような事情があった。

 国内的事情:
*氏族・豪族集合体国家(まだ国家の体をなしていなかった)から天皇を中心とした中央集権的な国家体制の確立へ。
*有力氏族に共立された大王(おおきみ)から天の神の子孫、天皇(すめらみこと)へ。
*律令制(大宝律令)による律令国家(法治国家)の確立。
*私地私民制から公地公民制へ(氏族豪族の経済・権力基盤を崩し天皇中心へ)。
*八百万の神々(各地の氏族・豪族の神々)から、皇祖神天照大神を最高神とする神々の体系化。
*年号(大宝)の使用徹底。時間の支配。

 対外的事情:
*唐・新羅との白村江戦いでの敗戦。その後の国家基盤の建て直しと富国強兵策。いわば安全保障体制整備。
*中国の唐帝国とは一線を画した独立した倭国、いや新しい「日本」を宣言(国家としてのアイデンティティーの表明)。
*天から降臨した神の子孫である「天皇」(天帝)が治める国家、という統治理念宣言。
すなわち、これまでは地上世界を支配する天帝は中華皇帝しかいなかった。蛮夷の国々はその徳を慕って朝貢し、皇帝からその地域の支配圏を認証してもらう(冊封体制)という華夷思想がこの東アジア的宇宙観、世界秩序であった。そこにあらたなもう一つの「日本(ひのもと)の天皇」が支配する宇宙の存在を宣言した。いわば日本型華夷思想の登場。
*換言すれば中華王朝の朝貢・冊封体制からの離脱。


 したがって日本書紀の歴史認識の根幹は、倭・日本の起源は、決して中国皇帝に朝貢し冊封された王たち、すなわち後漢書東夷伝や魏志倭人伝に記述されているような「倭」(自ら名乗ったわけでもない)の奴国王や伊都国王、邪馬台国女王卑弥呼などを祖先とする国ではない。その昔、大陸から渡来した人たちや、彼等の子孫が北部九州や日本列島に定住して水稲農耕をもたらし、形成したムラ、クニが起源となった国ではない。天皇は天から降臨した神の子孫である。太陽神•農耕神アマテラスの子孫である。すなわち自らがその統治の権威と権力を有する存在であって、中国皇帝から柵封された(権威を保証された)「蛮夷の王」ではないぞ、と。「豊葦原瑞穂の国」は、決して中国から伝来した水稲農耕文明が生み出した倭国/日本のことではない。天皇の祖霊神である高天原(天つ国)の神々(天神)が創造した、まさに「葦原中つ国」のことなのだ、と。中国側の視点(華夷思想に基づく蛮夷の国)から記述された史書を引用しなかったのは、このような「歴史観」(あるいは政治思想的主張)が記紀の基本的メッセージとしてあったからではないかと考える。


 倭国/日本の文明はどこから来たのか?

 そのような「大宝維新」の時に編纂された正史「日本書紀」に表明された建国歴史観、公式ストーリー、政治的主張にもかかわらず、稲作農耕文化が大陸から伝搬してきたこと、鉄資源を大陸に求めるなど、倭国の文明は大陸由来であることは否定しがたい事実である。北部九州を中心に板付遺跡や菜畑遺跡などの初期弥生の農耕集落遺跡が見つかるなどの考古学的発掘がそれを証明している。そもそも「日本書紀」を記述する文字自体が中国からの輸入によるもの。日本書紀は漢文体で、主要な部分は渡来系の史人によって正しい漢文で書かれている。そして、新生「日本」は、世界思想としての仏教を鎮護国家の法とし、中国の律令制を導入し、中国風の官僚制、中国風の都城を建設した。このように大陸文化の流入/受容により倭国が形成されてきた。文化の交流には、必ず人の交流がある。大陸からの渡来人の存在が大きな役割を果たしていたことは疑う余地もない。というのが「正しい歴史認識」であろう。

 歴史とは先述のように、その時の政治意図に基づいて解釈され利用され創作されるものだ。まして新興「日本」が対外的にその国のアイデンティティーを主張しようという「正史」においておやである。そこで、「大陸伝来」「渡来人」によって水稲農耕文化がもたらされ、原住民であった縄文人と徐々に融合しながら弥生の国々が生まれた、という代わりに、「天から降臨してきた神」によって創造されしものとした。天孫降臨神話の創出である。

 こうした王権が天や神に由来するという国家創造神話は世界的にも珍しいものではない。中国の皇帝も「天帝」であるが、その統治権威は易姓革命により、徳がなくなれば打倒され交代させられる。朝鮮半島の初期王朝にも穀霊神が天から降りてきてその子孫が王であるという神話がある。中世ヨーロッパにおける王室の権威も、神の子孫だと主張しないまでも、神から与えられた権威に依って立つ統治という王権神授説から来ている。皇帝、王や天皇という世俗の最高権威は、それを越える天地創造神の存在によってのみ維持されるものなのだ。「神は人を造りたもうた。その神は人が造った。」


 日本版中華思想

 ちなみに、大陸における様々な戦争、政治的闘争、王朝交代の結果,倭国に渡来して来た(亡命して来た、あるいは難民として渡って来た)人々がいる。その他にも大陸と日本列島との間には様々な人の行き来があった。現代のような国境もなければ、国民国家や国民という概念もない時代である。彼等が倭国に様々な技術や文化,ライフスタイルをもたらした。しかし、こうした事実は、記紀においては、彼等は、決して亡命や難民、流民としてやって来たのではなく、天皇の徳を慕って、倭国(日本)へ渡来した「帰化人」であると説明された。これも中国の天帝思想、華夷思想を我が国に持ち込んだものに他ならない。ただし、中国の「易姓革命による皇帝の交代」という点だけ丁寧に取り除かれて「万世一系」皇統という日本型の天帝思想に変容されたが。


 このような背景,すなわち中華世界に対抗する「日本版の中華思想」を主張することが主眼となり、国内的にもそうした天皇の支配権の正当性の表明という主張に基づき編纂されたのが記紀である。そういう前提で理解すれば,中国の史書の記述をそのまま引用しない訳が分かるだろう。ゆえに記紀では後漢や魏に朝貢した奴国王も倭王(伊都国王?)帥升も邪馬台国女王卑弥呼も、宋書に記述されている倭の五王も出てこない。記紀編纂にあたり中国の史書を読んだ形跡はあるが、「不都合な真実」を本文には引用はしない。あくまでも中華帝国とは独立した「天皇が支配する」「日本(ひのもと)」であることを強調する意図があった。


朝貢・冊封体制の変遷

 こうした中国皇帝への朝貢。/柵封による倭国支配の権威付け、という東夷蛮国的秩序は、実は5世紀の「倭の五王」の時代から徐々に崩れ始めていたようだ。五番目の倭王武は中国皇帝からもらった「安東将軍」という称号を不服とし(高句麗王よりも低い称号だと)、より高い称号(官位・将軍位)を求めたが受け入れられなかった。当時の倭国王は、倭国内の統治権をほぼ確立し、朝鮮半島に進出し、その軍事的支配権、権益を主張して、それを中国皇帝に認めさせることに注力していたようだ。それが認められない状況が明らかになるにつれ、朝貢の効果に疑問を持ち始めた。また中華王朝は分裂混乱の時期であったことも背景にあっただろう。すなわち、当時の倭国王は、中国を中心とする東アジア的国際秩序にほころびがが出てきたことを感じ取っていた」。むしろ中華皇帝に対抗して、自らを「治天下大王」と称するようになったり、のちに「天皇」を名乗るようになる。事実、その後、新たな統一王朝である随や唐が現れるまで100年以上に渡って中国皇帝への朝貢使の派遣は途絶える。

 やがて600年には「遣隋使」が派遣される。小野妹子が携えた推古天皇/聖徳太子から随の皇帝煬帝への親書に「日の出る国の天子日の没する国の天子に申す。恙なきや」とあり、煬帝が「無礼な蛮夷の輩」と怒ったという。これは「日の出る、日の没する」に怒ったのではなく、「天子」がこの世の中にもう一人いる,と言って来た事に怒ったものだ。この世の中に「天帝」は中国皇帝ただ一人、という世界の常識に挑戦したからだ。その後200年に渡って遣隋使、遣唐使を含め20余回使節が中国との間を往来しているが、いずれも中国皇帝からの「官位」「将軍位」を求めてはいないし、受けてもいない。すなわち倭国側は遣隋使・遣唐使を「朝貢使・冊封使」とは位置付けなかった。随/唐はこれを朝貢使として扱ったが、倭国側はいわば文化使節(学問僧や留学生)と捉え、もっぱら先進文化の吸収と倭国への持ち帰りを優先した。こうした「日本版中華思想」の創造への系譜が、天武/持統帝の時代の「天皇」宣言、そして日本書紀/古事記における天孫降臨、皇祖神による支配権威の宣言に繋がって行った。


 では記紀は「倭国」いや「日本」発祥の地はどこだと考えているのだろう。

 記紀の建国神話によれば、天孫降臨の地(ニニギ降臨の地)は、「筑紫の日向(ひむか)の高千穂のクシフル岳」である。これは現在の宮崎県日向地方の高千穂(鹿児島説もあるが)だと解釈されている。そしてニニギの子孫である神武天皇は日向の美々津から船出して東征し、年月をかけて近畿大和地方に入り、橿原に即位して朝廷を開いた、というのが日本建国ストーリーだ。すなわちルーツは南九州の宮崎だと。弥生時代初期に大陸から水稲農耕文明が伝わり、鉄器が伝わり、様々な文化が伝わり、多くの渡来人が移り住み、弥生のムラ•クニが出現した中華文明のフロンティア北部九州ではなく、南方の黒潮海洋民族を起源とする漁労(海彦)、狩猟・採集(山彦)を生産基盤とする縄文文化と生活形態を色濃く残す熊襲・隼人の地、日向がルーツであるという。ここでも筑紫の奴国、伊都国や邪馬台国のあった北部九州が発祥地認識から丁寧に除かれている。記紀編纂時点でまだヤマト王権に完全に服属していない熊襲・隼人の地であること、さらにはまだ律令制下の日向国も成立していない時点であることを考えると、なぜこうした建国のストーリーを語ったのか疑問が湧いてくる。

 さらに記紀神話は次のようにも語る。イザナギが黄泉の国から戻り、穢れを落とすために禊をした。その時多くの神々が生まれた。そしてアマテラス・ツキヨミ。スサノオの三貴子が生まれた。同時に綿津見三神、住吉三神も生まれた。それが「筑紫の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)のアワギガハラ」だという。すなわちこれも宮崎県日向地方がその地である、と読ませている。ちなみに綿津見三神、住吉三神とも筑紫の那の津を拠点とした安曇族、住吉族の祖霊神である。さらには対馬、壱岐にルーツを持つ神々である。この矛盾をどう解釈するのか。

 しかし、この神話の編に出てくる「筑紫の日向(ひむか)」がどこなのか?現代の地域名にこだわって宮崎県であると考える必要はない。これはやはり北部九州(筑紫)のどこかだと考えるのが合理的だろうと思う。以前のブログで述べたように(筑紫の日向(ひむか)は何処?)、「日向(ひむか、ひなた)」という地名は、太陽に向かう方向を示していて、列島内のいたるところに同様の地名がある。また「高千穂」も必ずしも宮崎や鹿児島固有の地名ではなく「稲穂を高く積んだ気高く神々しい山」を指していて、これも神奈備型の山はいたるところにある。「橘」も地名ではなく海に飛び出した鼻/岬であるとすれば、これまたいたるところに見出される。問題は「阿波岐原」と「クシフル岳」だが、ここがどこかはわからない。いろんな説があるが特定は難しい。しかし、ここで言えるのは必ずしも宮崎県や鹿児島県ではなく、大陸に近い北部九州の福岡県や佐賀県といった地域のどこかではないかということだ。おそらく記紀の編者は、三貴子誕生の地、天孫降臨の地を設定するにあたり、倭国の本来の発祥の地を認識していたと思う。それは列島内で最初に稲作文化が入ってきた場所、大陸からの先進文明が入ってきた場所。すなわち北部九州である、と認識していた。しかし、それでは「天孫降臨」族が建国したクニにならない。大陸から渡海してきた異邦人が建国したクニになってしまう。したがって「筑紫」(元々は九州全体を指していたが、記紀編纂時期には北部九州と認識され始めた)ではあるが日向(太陽に向かう地)の高千穂(天つ神が降臨するような気高い山)という、抽象的な地名にした。地名に隠された本当の故地をあえて謎解き風に記述したのかもしれない。

 記紀には「出雲神話」「日向神話」はあるが「筑紫神話」がない。すなわち筑紫(大陸への窓口、北部九州)がヤマト王権、皇統の発祥の地・我が国のルーツであるという認識は示されていない。筑紫の国々の歴史は抹殺されてしまっている。あえて大陸からの人や文化の移入や、わが国における弥生的な稲作農耕文明の発祥の地という歴史的記憶を想起させる北部九州筑紫ではなく、遠い内陸の南九州の、むしろ縄文的な文化を色濃く残す「日に向うどこか」の「気高い山」が「天孫降臨」の地であるとして神秘性を演出して見せた。こうして中華王朝/文明からは独立した国家「日本」、もともと日本列島に「自生」した「豊葦原瑞穂の国」を描き出して見せたのだろう。神話は歴史的事実よりも神秘性の方が説得力を持つものである。


追記エピソード:

 記紀によれば、神功皇后は三韓征伐したという。その夫、仲哀天皇は「海の向こうの新羅を攻めよ」という神からのお告げがあった時、「そんな国は見えない」とその存在を疑ったために神罰で死んでしまった、と。この記述によればその頃の(どの頃なのか特定できていない?)天皇は新羅の存在を知らなかった事になっている。その存在を神のお告げで知り、さっそく遠征して服属させたとする。このような、いわば「日本版華夷思想」が描かれている。まして中国の皇帝に臣下の礼をとって朝貢したなんてめっそうもないことという歴史認識(一説に曰く。女王が魏に遣使したことを記している。ここが唯一日本書紀が中国の史書の記述に言及している部分)が読み取れる。

 ちなみに神功皇后の子、応神天皇は三韓征伐から戻って、筑紫の宇美(魏志倭人伝に出てくる「不弥国」といわれている)で生まれたとされている。北部九州縁の天皇だ。筑紫がルーツの住吉系の神社のご祭神は先の住吉三神のほか、神功皇后、応神天皇が祀られる事が多い。北部九州には神功皇后/応神天皇をご祭神とする神社が多いのはこのためだ。この「三韓征伐」という勇ましい事績が、歴史上のどの時代の誰の事跡に関連しているのか不明である。確かに4世紀後期、倭国が朝鮮半島で高句麗と戦闘した様子が好太王碑文に記されている。このころ倭国は百済の要請に応じて朝鮮三国の半島内における戦争に駆り出され、高句麗と戦っている。伽耶における鉄資源の確保もあり、朝鮮半島へ軍事進出したもようである。そして百済、新羅と交流が始まる。これは中国との朝貢/冊封関係とは異なる外交関係であった。威信材、文化や鉄資源などを贈り合う一種の贈答関係という外交であった。百済からの七支刀や仏教もそうした対価として送られた。しかし、このことをもって朝鮮三国が倭国に朝貢してきたとか、属国になったとか考えるのは、当時の倭国がわの「小中華思想」の反映だと考えられる。それが神功皇后の三韓征伐伝承になったと考えられる。一説に、672年の斉明天皇・中大兄皇子の白村江出兵の話が過去に投影されているのでは?と言われている。こちらは新羅を服属させるどころか、唐・新羅連合軍に敗北して逃げ帰っているわけである。また卑弥呼は神功皇后であるとする説を唱える人もいる。しかし、では卑弥呼が朝鮮半島に出兵して新羅を服属させたと言うのだろうか。あるいは神功皇后は魏の明帝に朝貢して「親魏倭王」の印綬を受けたというのだろうか。どちらもかなり無理があるように考えるが。





日本初の正史である「日本書紀」

天皇の記としての「古事記」

いわゆる「魏志倭人伝」





2015年4月1日水曜日

お江戸の町は花盛り。

 東京の桜は4月を待たず満開となった。28、29日の週末にはまだ5分咲きくらいだったが、気温の急激な上昇と晴天で一気に満開へ向かった。週が明けてしばらくはお花見日和の晴天が続いたが、週後半からは雨になるので花散らしになるだろう。定番のお花見スポット、千鳥ヶ淵へ行ったが、平日にもかかわらず見物客でごった返している。今年目立つのは外国人観光客。Hanamiを楽しんでいる。せいぜい日本の最高の季節を満喫して帰ってほしいものだ。

 この時期は、普段見慣れた都会の日常の風景が一週間だけ非日常の風景に変わる。通勤通学で通る最寄り駅への道も、このときばかりは「お花見ロード」。桜って考えてみると不思議は樹だ。普段は全く目立たず、どこに桜があるのか意識することもないのに、一年でこの時期だけ一斉に咲き、その存在を誇示する。こんなところにも桜がいたんだあ!と。桜は町の景色を一変させる力を持っている。人々の気持ちも切り替えさせてくれる。長くて寒い冬が終わり、暖かい春を迎える喜びに満ちている。桜を見上げている顔はそういった希望と安堵の顔だ。今年も春が来たぞ...  そしてあっという間に散りゆく。水面に浮かぶ花筏。散華の美も見事。そして新緑の季節へ。この時期は慌ただしい。

 そう思ってみると東京には桜が多い。江戸の名残だろう。上野寛永寺、墨田川堤、飛鳥山、愛宕山、御殿山、など江戸庶民の娯楽、お花見の名所が今も残っている。残念ながら御殿山は、黒船来航の時に急遽設けられたお台場用の土採りと、明治期の鉄道開通の時に山が切り崩されてほぼ無くなってしまった。千鳥ヶ淵や靖国神社などは明治以降の桜名所だ。それ以外にも地元の街のいたるところに桜が植えられている。

 戦前、東京市長であった尾崎行雄が日米友好の徴に贈ったワシントンポトマック川の桜は、東京と同じソメイヨシノであったが、こちらは一週間どころか一ヶ月くらい咲いていたように思う。なかなか散らない桜というのも妙なものだ、と思ったものだ。同じ桜でも風土によってその散り方が違う。日本とアメリカという風土の違いが、日本人、アメリカ人の心情の違いを表しているのだろうか。

 奈良、京都など関西はまだ開花したばかりだから、東京の桜の方が早い。奈良公園の氷室神社の早咲き垂れ桜は満開だそうだが、吉野のお山もこれからだ。又兵衛桜や佛隆寺の桜はもっと先だ。お江戸の桜とは違った風情があっていいものだ。

 それにしても、さくらさくらで、少々花酔い状態だ。桜には魔物が潜む。人を狂気に導く魔力がある、と言ったのは坂口安吾だったか。「桜の森の満開の下」では恐ろしいことが起こる、と。なにか心落ち着かなくなるのはそのせいなのか。満開の桜にただ浮かれて心ここに在らずなのかと思っていたが...


千鳥ヶ淵




平日にもかかわらずこの人出

大森貝塚庭園

JR大森駅への道







いつもの通勤路も花盛り
猥雑な駐輪場も画になる
八重洲さくら通り





日本橋野村本店前

日本橋



平日、曇天、強風、葉桜、にもかかわらずこの人出(上野公園)

目黒川
品川付近は静かで桜を独り占めできる





2015年3月25日水曜日

DUMBO Brooklyn ニューヨーク歴史地区 〜マンハッタン橋の下の物語〜

 ダンボ(DUMBO)といってもディズニー映画の耳の大きな子象の話ではない。ニューヨークブルックリンにある地区のことだ。ここはイーストリバーを隔てて対岸にマンハッタンの高層ビル群を望む景色の良いところ。最近は観光スポットとしても脚光を浴び始めている。しかし、かつてはマンハッタンブリッジの大きな橋脚の袂に広がる工場や倉庫がひしめくモノ造りの町であった。年配のニューヨーカーにとっては、地元ブランドのチョコレート工場やアイスクリーム工場が懐かしいところだとか。ご多分に洩れず産業構造の変遷により60年代以降衰退し、一時は廃墟同然の不気味で治安もよろしくない町へと変貌していった。1970年頃から、町の再開発を機に若いアーチストやアントルプルナーたちが移り住み始めた。古い倉庫や、工場跡がロフトやギャラリー、ビジネスインキュベーションの場として活用され始め、いまやトレンディーな街に変身を遂げつつある。地価・レントが高騰するVillageやSOHOを避けての移動だ。市当局はここを歴史地区の一つに指定している。

 もともとはマンハッタンのSOHOあたりもアイアンキャストの階段や外装の建物が並ぶ倉庫街であったが、いまやその独特の景観がアルチザンな街の顔になり、さらにはアーティストが活動拠点を構える憧れの地になっている。地価も高騰し、成功したアーティストやその雰囲気に魅せられた一部の金持ち(しばしばそうしたアート活動のパトロンである)しか住めない地区になってしまった。こうして若いアーティスト達はaffordableな新しい拠点を求めて、ブルックリンだけでなく、Meat Packing District:ミートパッキングディストリクトやHigh Line:ハイライン、あるいはハドソン河対岸のニュージャージーへと移り住んでゆく。最近はハーレムも新しい文化の発信地区に変貌してきている。どの地区もマンハッタン中心部への交通も便利で、若いサラリーマンたちにも人気のロケーションになっているという。

 DUMBOとはDown Under Manhattan Bridge Overpassの略で、「ダンボの物語」は文字通り「橋の下の物語」である。ニューヨーク最古のサスペンションブリッジ、ブルックリンブリッジもここに美しい姿を誇っている。3月初め、ちょうど訪れた時は雪景色を背景に、クリアーな青空。マンハッタンブリッジが夕日を正面に受けて輝き、対照的にブルックリンブリッジが夕日の残照にシルエットを落とすという、誠に美しい光景が出現していた。マンハッタンでは目にすることのできないもう一つのニューヨークの景観である。1870年以前は対岸からは船で渡るしかなかった。ここにFulton Landing:フルトン渡船場があったところからFultonとも呼ばれる。マンハッタンの素晴らしい夜景が楽しめる観光客に人気のRiver Cafeはここにある。


 こうしたスラム化した町が再び脚光をあびる町に移り変わってゆく様をgentrificationと呼んでいる。日本語では「都市再生」と訳しているようだが、日本の都市で行われているように、古い建築物を壊して、高層ビルに建て替える「都市再生」とは違う。古い建築物や町の景観を最大限生かしつつその中身を変えてゆく。それを、ハコモノではなくライフスタイルを提案する、いわば長いサイクルでの衰退と再生を繰り返す不断のevolutionと理解するならば、むしろ「町の輪廻転生」と言ったほうがいいように思う。都市はその中身を変えながら生き続ける。

 日本の地方の都市で、若者が出て行って年寄りばかりになってしまった古い町家、古民家を破壊してマンションにするのはgentrificationではない。古い町家や古民家での暮らしを新しいライフスタイルとすることだ。もっともマネーの論理がはっきりと働くニューヨークにおいては、そうしたgentrificationのせいで、街が賑わいを取り戻し、裕福な新住民が移り住み、地価が上がり、レントが上がる。それはとりもなおさず、安い家賃で暮らしてきた低所得の旧住民は出ていくことを余儀なくされるということを意味している。光と影を合わせて移ろいゆく、それが町の輪廻転生のもう一つの側面だ。


マンハッタンブリッジの橋脚が町のシンボル

石畳の街

イーストリバーままだシャーベット状だ。
春はまだ遠い

夕日を受けて地下鉄が行く

ブルックリンブリッジの夕景

ダウンタウンの夕景
新装なったフリーダムタワーも見える

ストリートペインティングもただの落書きではない
ここでは立派なアート作品



マンハッタンブリッジを下から覗く
橋脚の下はアートスペースやフードコートになる


DUMBOの街角
この橋はなんて巨大なんだ!

アート系のブックショップ








2015年3月13日金曜日

ニューヨーク郊外の小さな町 BeaconとCold Springsを訪ねる 〜そしてDia Beacon.こんなところに現代美術館が!〜

3月に入って、梅や蝋梅、椿が咲き始め、ようやく春の気配漂う季節になった東京を後に、極寒のニューヨークへ。最高気温でもマイナス1度、除雪の進んだマンハッタンの街角では雪が解けずに路肩で凍りついている。晴れの日の空は眩しいほど青いが、空気は突き刺すように痛い。久しぶりのfamily reunion。とりわけ「眼に入れても痛く無い」初孫と一緒!娘夫婦と初孫とでドライブに出かけた。なんと幸せな小旅行だ!そんな幸せにふさわしい素敵な街へ。

マンハッタンから車で80Km.ハドソン川に沿ってWest Highway , SawMill PKW、Route9Dと北上する。途中Bear Mountain State Parkの展望所で雪景色のハドソン川とベアマウンテンの眺望を堪能しながらのドライブ。陸軍士官学校で有名なWest Pointのさらに北、Beaconという小さな町に到着する。ハドソン渓谷沿いの美しい街並みが魅力的なニューイングランド風の町だ。中心部は歴史を感じさせる建物の立ち並ぶ通りと教会があるだけの静かな町並み。18世紀初めからプランテーションがあったところで、独立戦争当時にはFishkill 山にイギリス軍を見張るBaeconがあったことからこの町の名前になったという。アメリカ建国時代に形成された歴史ある街だ。

High Streetに沿って立ち並ぶ古い建物はアンティークショップ、廃業して売りに出されている古いホテル、小さなレストランやアートショップ。1870年代のスレート葺屋根の建物が復元保存されている。そして小さいが美しい尖塔を持つ教会。通りの先には雪化粧の山肌が迫る。

昔、イギリスのロンドンにいた時に、週末はよくKentやSussexの田舎へ車で出かけた。Tumbridge WellsやHasting,Battle, Ryeなどの小さな町のPub やレストランでイングリッシュブレックファーストやアフタヌーンティーを楽しむ。気取らない雰囲気で濃い紅茶やイングリッシュマフィン、ホームメードの生クリームとジャム。時にはミートパイ。たまらなく心豊かで嬉しい時間だった。Beaconの佇まいはあの時のイングランドの小さな村を彷彿とさせる。まさにニューイングランドと言われる所以だろうか。

Beaconにもコージーで素敵なレストランがある。アメリカらしくメニューはハンバーガーやパニーニが主体だが、イングランドの田舎町を思い出させてくれた。週末だからか結構込み合っていて、次々に客が来て、そのうち外で並んで待ち始めた。東京じゃあるまいし... あまり食べるところがないのと、なかなか洒落たところであることとで人気があるようだ。

最近、Beaconという地名が日本人のNY訪問客にも知られるようになったのは、Dia Beacon現代美術館が2003年に開設されてからだ。とは言ってもまだまだ知る人ぞ知るアートスポットだが。ハドソン渓谷沿いの広大な敷地に展開する自然と共生するアートスペースだ。Dia Art財団が展開する美術館はこのほかにもマンハッタンのチェルシーなどがある。ニューヨークといえばメトロポリタンや、グッゲンハイム、MoMAが有名人気美術館だが、ちょっと郊外に足を伸ばせばこんな素敵なところがある。

元はナビスコの包装工場であった広大な敷地には、これまた広々した建物が確保され、自然光だけで内部採光された空間が用意されている。それぞれの作品はそのなかにゆったりと配置されている。というより、このスペースそのものがまさに作品だと言えよう。写真撮影禁止と禁止マークの無いコーナーとがある。どういう区分けなのか不思議だ。人々の鑑賞を妨げるような無作法な観光客は少ないので、訪れた人は作品やその置かれている空間を愛でながら適切に撮影もしている、といった感じだ。ちなみに今はメトロポリタンもMoMAも写真撮影OKになっている。嬉しい。

しかし、なんという贅沢な癒しの空間と時間だ。日本人の「おもてなし」とは異なる「おもてなし」がここにはある。外に出ると雪景色のハドソン川を望む庭園がある。ここの植栽と青い空と白い雪、そして輝く太陽の組み合わせももう一つのアート作品だ。(Dia:Beaconウエッブサイト

少しマンハッタン方面に戻ると、Cold Springの街がある。ハドソン川に面した古い村である。ここも歴史的建物を中心とした街の佇まいが美しい。アンティークショップやブティークが並ぶ。夏は避暑地として人気だが、春まだ遠いこの季節の静かな佇まいもまた格別だ。ここもニューヨークなのだ。喧騒渦巻くマンハッタンとは違ったニューヨークのもう一つの姿を楽しむことができる。

どちらもマンハッタンからは、グランドセントラル駅からハドソンラインの電車でも行くことができる。所要時間1時間半ほど。


Beaconの町並み











Dia:Beacon現代美術館







Cold Springの町へ







Bear Mountain State Park