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2009年7月30日木曜日

筑後八女福島の町並み

 筑紫の国には古い町並みがいたるところに残されている。筑後吉井、筑前秋月、筑前山家、などなど。
 ここ八女福島は、天正5年(1587年)に筑紫広門の福島城の城下町として開かれ、その後慶長6年(1601年)柳川に入城した田中吉政の支城として城は改修整備され城下町も整備された。そのときの町割りが今もそのまま残されている。
その後、徳川幕府の一国一城令により城は破却されたが町人町は残り、街道沿いの在方町(農村地域の商工業中心地)として発展した。
八女と言えば全国的にお茶が有名。その他にも、仏壇や提灯、和紙、酒などが今でもこの地域の特産として造り続けられ、往時の繁栄を今に伝えている。

 福岡からは西鉄天神大牟田線の電車で西鉄久留米まで行き、そこからは八女行きのバスで40分くらい。筑後平野の南に位置し、あたりはお茶や果物の産地としても有名。

 かなり広範囲に古い町家が広がり、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている面積は20ヘクタールに及ぶ。大和の今井町や河内の富田林のような密集度はないが、これから修理、再生される建物が増えれば、町の規模としてはかなりの大きさを誇り、景観的にも堂々たる町が復元されるものと期待される。城下町からスタートして商業地として発展した歴史は、大和の大宇陀にも似ている。

 それにしても八女福島の町や、その盆地の有様は、なんと大和盆地に似ている事に驚く。盆地の北に広がる10数キロに及ぶ八女丘陵には石人山古墳や岩戸山古墳に代表される古墳群が東西に150-300存在していると考えられている。 筑紫の国造磐井の墓とされている岩戸山古墳から展望する八女盆地は南に脈々たる山々をひかえ、まさに大和盆地が三輪山を始め東山中の山々を背景にまほろばを形作っているのと非常に似ている。驚いてしまった。
ちなみに邪馬台国九州説論者の邪馬台国比定地の一つがここ八女だ。

 町に戻ろう。町家の建物は最初は草葺き屋根だったが、江戸時代後期からはその経済力を背景に妻入りの「居蔵造り」の町家が増えてゆく。防火上の理由から瓦屋根、土蔵造りを進めたもので、他の町にも見られる建物「進化」プロセスがここでも見られる。

 また明治以降、昭和初期に至ると、道路拡幅に伴い、軒切りが行われ建物正面一階の意匠が大きく変わる。また、洋風建物が出現し始め、木造の「和風」洋風建築は今となっては町の景観の多様性とその長い歴史を知らせるランドマークになっている。しかし、当時は大きく町の景観を損ねた事だろう。「景観」という概念があったかどうかは知らないが。

 今の八女福島は、観光客の訪れもなく、町は静かに日常の生活を営む人々の姿に満ちていた。仏壇製造、提灯屋さん、清酒蔵元の堂々たる建物。小さな商店。八百屋さんも立派な古い建物で商売している。

 あまり極端な建物の改築がない事がこの町が昔の景観のままに保たれている理由の一つだろう。その一方、荒れるに任せた居蔵造りの建物や、シャッターおろしたままの町家が哀れを誘う。いずれ保存修復されるのだろうか。いずれにせよ、皮肉にも近代化やバブルの波に取り残されたればこそ生き残った景観なのだ。これからこの町の生きる道がこうした景観修復と保存活用のなかに見いだされるかもしれない。ただテーマパークのようなスケルトンタウンにならず、また、観光目的で改造される町家風飲食店やおみやげ屋にも変質せず、地元の人々の生活とともに保存される為にはどうしたら良いのだろう。

(写真はゲットしたばかりのオリンパス・ペンE-P1での撮影)