奈良県の柳生の里は、徳川家剣術指南役、柳生石舟齊、宗矩、十兵衛などの柳生一族の故地。荒木又右衛門や宮本武蔵等も訪れた剣豪の里である。JR奈良駅前からバスに乗り、50分ほどで柳生の里へ直行できる。そこから円城寺、峠の茶屋春日石仏群と柳生街道を下って、高畑町に出るコースが柳生街道散策の一般的なルートであるようだ。
今回は、逆に春日大社の社家町であった高畑町から入り、春日石仏群までのショートコースを往復した。いわゆる滝坂道だ。ここは能登川の渓流沿いの石畳道。ゆるく登りとなっているが標識等もよく整備されていて歩きやすい。連休最後の晴天の一日とあって、中高年カップルや山ガール、子供連れの家族などとすれ違う。やはり柳生の里まで行き、そこから下ってくる人が多いようだ。
柳生街道は、昔から奈良と柳生の里を結び、さらには伊勢方面とも結ぶ比較的通行の殷賑な街道であったようだ。石畳を敷き詰めたのは何時の頃か不明だが、当時としてはよく整備された街道であったのだろう。しかし、石畳は水に濡れると滑りやすく、歩きにあまり苦痛を感じない私も、意外に難儀した。堅いソールのウオーキングシューズじゃなくて、昔のわらじの方が足裏で一つ一つの石をグリップしながら歩けて滑らないのかもしれない。
ここは石仏が多い石仏街道でもある。まず高畑町から入ると「寝仏」にで会う。石畳の脇に岩が転がっており、よく見ると仏像が斜め横に刻まれている。おそらく山腹から滑り落ちてきたのだろう。チョット分かりにくいお姿だ。
さらに進むと街道の左手上の崖に「夕日観音」と「三体地蔵」が刻まれている。石畳の街道からはさらに急峻な道無き道をよじ上らねばならないが、近づくと「夕日観音」はかなり立体的な石仏である。「観音」と呼ばれ人々に親しまれているが、よく見ると弥勒如来像である。「三体地蔵」はそれなりに痛んでいるが、三体とも錫杖を手にした姿がよく確認出来る。
さらに柳生の里方面へ歩を進めると、狭い渓谷対岸の大きな岩の壁面に刻まれた三体の磨崖仏「朝日観音」がある。これも中心は弥勒如来で左右に地蔵菩薩を脇侍として配している。街道からもよく拝むことが出来る。
そして滝坂道を進むと大きな杉の木が現れ、その杉の大木を中心に道が三叉路に別れている。この辻に立つのが「首切り地蔵」である。身の丈180cmほどの大きな石像で、首のところで折れている。これを人々は荒木又右衛門が試し切りをした跡であると言い伝えている。いかにも剣豪の里へ続く道すがらの伝承らしい。
近くには能登川の源流である地獄新池があり、その周りに春日山磨崖仏と地獄谷磨崖仏がある。春日山磨崖仏は岩をくり抜いた洞窟に三体仏や地蔵が彫られており、結構どれも傷みが激しい。特に弥勒三尊像は、残念ながら二体のご尊像が破壊されている。まるでバーミヤン石窟寺院をタリバンが破壊したような痛々しい有様である。現在この石窟は金網で囲まれ保護されている。写真が撮りにくいが、皆考える事は同じで、金網の一部がちょうど良い角度で広げられていて、レンズがハマるようになっている。
いずれも平安末期から鎌倉時代の作とされている。おそらくもともとは、誓多林や忍辱山(いかにも仏教の聖地にちなんだ地名だ)に向う弥勒信仰や山岳信仰に起源があったのであったのだろう。しかし時を経るに従い、街道を往く人々の通行の安全を守ってくれる「観音様」や「お地蔵様」として拝まれたのだろう。街道沿いの石仏を、庶民は日常の生活を見守って下さる有難い、親しみやすい仏様と解釈したのだと思う。
今回は、ここで滝坂道を引き返した。この道は学生時代に一度歩いた記憶があるが、あまり詳細を覚えていない。きっと奈良のガイドブックかなにかを見て行ってみよう、くらいの感覚で訪れたのだと思う。「昔はものを思わざりけり」である。それはそれで良いのだと思うが、若い時には気付かなかった事や、感動しなかった事でも、この年になると感ずる何かに出会うことがある。
しかし「一度行った事がある」というだけの記憶も大事である。こうして時を経ての再訪が、学生時代とは違う「美」や「やすらぎ」を感じ、知らなかった歴史を発見させてくれる。そしてさらなる未知への興味をかき立ててくれる。若い頃にあちこち旅をし、訳も分からず知識を詰め込む。そうした事に無駄は何も無い。それが時とともに記憶の中で熟成してゆく。だから年齢を経るという事も悪くはない。時空旅行はなお続く。
(柳生街道の他に、奈良市内各所の秋の風情を合わせご覧下さい。撮影機材:Nikon D800E, AF Nikkor 24-120mm.いつもながらブラパチ風景写真には最適のコンビです)
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(JR奈良駅からバスで柳生の里まで直行。あるいはバスで破石町下車、高畑町を抜けて柳生街道(滝坂道)を登る)