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2014年3月17日月曜日

上野公園は近代建築の宝庫だ 〜上野公園の謎〜

 前回のブログ「謎の芝公園」でも述べたように、上野公園は明治6年の太政官布達で指定された東京5大公園の一つである。しかし、ここは他の公園と異なり、明治新政府の「近代化」への意気込みを象徴するかのように、西欧風の文化施設、それに相応しい近代建築がひしめき合っている。帝室博物館(現在の東京国立博物館)、博物館表慶館、帝室図書館(現在の国立こども図書館)、黒田記念館、音楽学校奏楽堂(保存建築)、美術学校の陳列館、正木記念館、赤煉瓦校舎、京成電鉄博物館動物園駅舎(現在は閉鎖中)など、さながら東京「明治村」「明治たてもの園」の様相を呈している。

 かつては、現在の上野公園全体が、江戸幕府徳川総家の菩提寺、霊廟、東叡山寛永寺境内であった。いわば徳川家にとって芝の増上寺と並び、宗家鎮護の寺があった場所だ。江戸期のはじめ、天海僧正により、天台宗の寺院として創建された寛永寺は、平安京、京のみやこの鬼門封じの比叡山延暦寺にならい、江戸の鬼門封じとして創建された。山号も、東の「叡山」である東叡山、寺の名前も、延暦寺が天皇勅許で創建年号を用いたのと同様に、寛永年間の創建であることから「寛永寺」とした。おまけに不忍池は琵琶湖を擬したという念の入れよう。

 今、上野公園に、創建当時の壮大な寛永寺の面影を見出すことは難しい。しかし、かつてこの敷地がすべて寛永寺境内であったと知ると、その広大さに驚く。今では国立博物館敷地の右側に、わずかに堂宇が残り、あるいは再建されている。博物館裏手には再建された根本中堂、寛永寺墓地があり、ここに綱吉霊廟門などの遺構が保存されている。また、大仏様(上野大仏)は寛永寺のシンボルであったが、幾多の火災で現存しておらず、公園内にわずかにお顔がレリーフのように保存されているのみだ。かつて、現在の大噴水広場には根本中堂がそびえ立ち、国立博物館敷地には本坊が、左右に五重塔も並ぶ壮麗な伽藍配置であったが、ご存知の通り、幕末の戦乱で、ことごとくこれらの堂宇は失われた。

 最後の将軍、徳川慶喜が謹慎して寛永寺に蟄居した折、将軍を官軍から守ろうと幕臣や佐幕派の浪人たちが「彰義隊」を結成し寛永寺に結集した。しかし、江戸城無血開城、慶喜の上野退去後も寛永寺にたてこもる抵抗勢力、彰義隊を官軍は徹底して壊滅させる。いわゆる戊辰戦争の上野戦争である。このとき寛永寺は灰燼に帰した。官軍総司令官の西郷隆盛の銅像と、彰義隊記念碑が並んで建っているところが上野公園の歴史を物語っているような気がする。

 明治維新後、新政府は焼け野原となった寛永寺境内、上野の山一体を帝室御料地とし、医科大学の敷地などに使おうとしたが、オランダ人医師ボードウィンの提言により,日本初の公園に指定した。これが現在の上野公園の始まりだ。公園には、これまでの徳川幕藩体制のシンボルであった寛永寺に変わり、明治近代化のシンボルとも言える、数々の近代西欧建築が建ち並ぶことになる。江戸から東京へ、時代の変遷を物語る上野の景観のドラマチックな転換である。今の東京に江戸の町並みの痕跡を探し出すのが困難であるように、上野のお山から徳川幕府時代の痕跡は消し去られてしまった。そこに、まるでテーマパークのように、当時の人々の日常からは隔絶した異空間が出現したのであろう。御料地である公園は、1923年に宮内省から東京市に下賜され、「上野恩賜公園」と呼ばれるようになった。

 <上野の近代建築遺産コレクションをご覧下さい。江戸の名残も少しだけ...>



 (国立博物館本館。明治14年にジョサイア・コンドルが設計、竣工の帝室博物館本館は、その後の関東大震災で大きな損傷を受け、建替えられた。昭和12年(1937年)に現在の本館である「復興本館」が完成した。「日本趣味を基調とした東洋式」だそうだ。という事はこの建物には西洋近代建築的要素はない,という事なのか。設計は公募で選ばれた。)



 (博物館表慶館。明治41年竣工。大正天皇が皇太子時代のご成婚記念に建てられた。片山東熊の設計。)




 (国立こども図書館。明治39年(1906年)に竣工の旧帝国図書館。当初は博物館と並び近代化に必要な国家の文化施設として企画されたが、日露戦争による財政難で、本来はロの字型の壮大な建物となる予定が、全体の四分の一に縮小され、前面一列部分だけが竣工した。明治ルネッサンス様式の美しい建築だ。今見ても正面ファサードは壮大だが、横から見ると平べったい壁のような建物だ。今は安藤忠雄による補強保存改修がなされ、オリジナリティーを残しつつも耐震構造とし、安全かつ使い心地の良い施設に生まれ変わっている。)




 (旧音楽学校奏楽堂。明治23年日本初の木造洋風コンサートホール。山田耕筰、滝廉太郎、三浦環が演奏した舞台や、日本最古のパイプオルガンが残る。大学構内から現在の場所に移設保存されている。)




 (東京芸大陳列館。昭和4年(1929年)竣工。岡田信一郎設計。スクラッチタイルが美しい。芸大美術館本館が出来るまではこちらが本館として使用されていた。)




 (東京芸大正木直彦記念館。美校校長を35年務めた同氏を記念してたてられた。昭和10年(1935年)竣工。金沢庸治設計。和様式の門と建物のコンビネーションがなかなか瀟洒。この奥のGeidai Art Plazaはコージーで楽しい。背後は陳列館。)



 (黒田記念館。黒田清隆の作品をおさめる記念館として昭和3年(1924年)岡田信一郎設計により建てられた。現在は国立博物館の施設の一つとなっている。路面に展開しているコーヒーショップの看板が一寸雰囲気壊してるか。)




 (京成電鉄「博物館動物園駅」駅舎。左手は黒田記念館。昭和8年(1933年)地下を走る京成本線の公園地上出入口としてもうけられたが、平成9年(1997年)営業休止。平成16年(2004年)廃止となり、現在は使用されていない。地下を走る電車の音だけが聞こえてくる廃線マニア好みの鉄道遺産だ。建物は国会議事堂を彷彿とさせる重厚なもの。ちなみに国会議事堂よりは古い創建。)




 (因州池田家江戸屋敷表門。丸の内の鳥取藩上屋敷から移設されたもの。建築時期は江戸末期とされている。明治期には東宮御所に移されていたが、現在は国立博物館敷地に移設保存されている。入母屋造、唐破風屋根の左右の番所など、当時の大名屋敷がいかに壮大であったか、そのよすがを知ることができる。東京大学赤門(旧加賀藩邸)と並ぶ大名屋敷遺構。近代建築、モダン建築で満たされた国立博物館の敷地空間に佇む武家屋敷門、という唐突感にもかかわらず、辺りを制する存在パワーが際立つ。)




 (徳川綱吉霊廟門。徳川幕藩体制の栄華を物語る華麗な作りだが、それだけにその時代の終焉がいかに侘しいものかを如実に物語っているようだ。この地に残る数少ない寛永寺の遺構の一つは、訪れる人も少ない国立博物館の裏手の墓地に保存されている。)

上野公園マップ: