その疑問を解く鍵の一つはその成り立ちにありそうだ。東京は意外にも公園が多い日本の街の一つで,その総面積は74.4㎢(東京デズニーランドの146倍)だそうだ。これは明治の東京遷都時に、欧米流の「公園(Park)」の概念を政府がいち早く導入し、その場所を指定した事が始まりだと言う。明治6年の太政官布達で指定された公園は、上野、浅草、芝、深川、飛鳥山、の5カ所。いずれも上野(寛永寺境内)、浅草(浅草寺境内)、芝(増上寺境内)、深川(富岡八幡境内),飛鳥山(王子権現境内)と、寺社の境内であり、今で言う公園のイメージではない。ようするにまとまった土地が確保出来る寺社地を「公園」に指定した。特に廃仏毀釈の機運が強く、まして賊軍徳川幕府縁の寺社は狙われたのかもしれない。既知の通り、上野寛永寺も芝増上寺も徳川家の菩提寺、霊廟であったところだ。,幕末に彰義隊が立てこもって抵抗した寛永寺は、上野戦争で灰燼に帰し、跡地は帝室博物館や美術学校、音楽学校となり、上野恩賜公園として整備された。
一方、芝公園の方は、その境内が太政官政府により接収され、上記の通り公園指定がなされた。そのうえでその敷地が増上寺に貸し出されたという。こうした公園と寺院境内の区分が判然としない状態が芝公園の始まりであった。しかし,上の寛永寺と異なり、幕末混乱時期にも増上寺は境内、建物は残ったのでしばらくは「芝公園」(=増上寺境内として)はまとまった形で存在した。その後、先の大戦の空襲では寺の堂宇がことごとく灰燼に帰した。戦後、敷地は増上寺,徳川家に返還されたが、公園/旧境内は様々な経緯で,秩序無くバラバラになってしまう。徳川家霊廟が整然と並んでいたところは、不動産開発会社に売却され、東京プリンスホテル、芝ゴルフ場(現在のプリンス・パークタワーホテル)となり、本堂裏手の旧境内地には東京タワーが建設された。
このような明治期の境内の接収と公園指定、戦後の返還と土地権利関係の混乱、こうした事情が現在の東京タワー/ホテル/芝公園/増上寺というカオスな佇まい、景観を作り出した。結局、芝公園は、一体何処が「公園」なのか?という有様になってしまった。かといって、増上寺の大伽藍が並んでいる訳でもなくて、その寺域も判然としない。堂々たる三解脱門と戦災後再建された本堂は鉄筋コンクリート造りの威容を誇っているが、他は徳川将軍家霊廟の痕跡を留める台徳院惣門、有章院二天門がわずかに残っているだけである。それもあるべき場所にない唐突さ、かつ荒れ果てて哀れな有様だ。
東京タワーを背にした増上寺の風景が、東京をシンボライズする観光絵ハガキの一枚になってしまったというのは,こういう経過を知るとまことに皮肉としかいいようが無い。今日も海外からの観光客がここを訪れ、増上寺山門辺りでしきりに記念写真を撮っている。彼等はここを芝公園(ShibaPark)、それとも増上寺(Zoujouji-Temple)だと思って写真撮っているのか?誰か説明してあげて下さい。「お・も・て・な・し」ですよ。
(東京都公園協会HPによれば、この薄皮饅頭のような緑地帯が現在、東京都が管理している「芝公園」だそうだ。)
(東京タワーを背景にした増上寺。東京を代表する観光絵はがき的風景。しかしそこには複雑な経緯があった)
(堂々たる三解脱門。江戸時代にはこの山門の階上から海が見渡せたと言う。)
(梅の花の蜜を吸いにきたメジロ。都会にも春の訪れを感じさせる場所がある。これぞ「芝公園」)