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2014年8月6日水曜日

太宰府 〜遠の朝廷(とおのみかど)にはチャンスがいっぱい!〜

 普段あまり小説を読まないが、最近面白い小説に出会った。澤田瞳子氏の「泣くな道真」ー大宰府の詩ーだ。日経新聞の書評欄に紹介されていたのが眼に留まった。この新進気鋭の歴史小説家の描く、菅原道真と彼を取り巻く太宰府や博多の人々、1100年ほど昔の太宰府と博多という町の有様が新鮮だ。逆説的だが、フィクションという形で描かれてはいるからこその、歴史書や考古学からは見えてこない当時の生々しい光景が目の前に広がる。まさにひとときの「時空旅」を楽しませてもらった。史料・文献を読み込んだ実証的な歴史研究の成果に基づいて書かれた歴史小説であるが、どこかサラリーマン小説的でもある。面白い。

 みやこで右大臣にまで上り詰めた菅原道真が、左大臣藤原時平の讒訴により,筑紫大宰府に左遷されて落魄の時を過ごすが、そこで、内裏しか知らず、位人臣を極めていた時には知る術もなかった、地方の民の暮らしぶりやその苦悩を知り、かたや博多津という国際貿易都市に入ってくる異国の文物の豊かさに驚き、そのなかで唐物書画骨董の真贋目利きに頭角を現し(さすが当代きっての文章博士だ)、再び生き生きと自分の立ち位置を見つけて行くというストーリーだ。

 道真公の大宰府左遷という誰でも知っているストーリーを、当時の大宰府/博多津という都市の性格をうまく舞台化して、新たな自分に目覚める一人の男の物語りとして描いた歴史小説だ。みやこ/朝廷というある種狭い世界で政治権力闘争に明け暮れている連中には見えない世界があるんだという。みやこでの権力闘争の敗者が、ここ大宰府という別の世界の勝者になるという。歴史小説であるが、現代の世相と重ねあわせた批判精神が愉快だ。痛快サラリーマン小説みたいなストーリ展開で一気に読み終えてしまった。サラリーマンの我が身としては身につまされる部分が多いだけに(笑)

 太宰府といえば,このように菅原道真が都から左遷されて来た鄙の地、というイメージが強い。しかし、大宰府は西海道(九州)九カ国三島を統治する,強大な権限を有した役所である。大宝律令下では最大の地方国衙であり、その街は「遠の朝廷(とおのみかど)」と称される殷賑極める大都会であった。さらに、大陸に近く、我が国弥生文化発祥の地であり,ヤマト王権の拡大に応じて外交窓口、辺境防備の役割を担う拠点となった。したがって、大宰府がとりわけ重要であったのは外交、国際貿易を取り仕切る役所であったという点だ。大宰府の外港である、那の津/博多津には筑紫鴻臚館が設けられ、そこで外交使節の接遇、饗応を行い、大陸との交易の先取り特権有した。これは独占貿易からの巨万の富という経済利権を有する地方国衙である事を意味する。特に平安時代に入り、遣唐使が廃止されると(この進言をしたのは菅原道真)、日本は一種の鎖国となり、博多津が唯一海外に開かれた港となる。江戸時代の鎖国体制の長崎と同様だ。その博多津を大宰府が一手に掌握していた。いや博多津は大宰府の一部であって、切っても切れない関係であった。

 その大宰府の最高位である長官は、大宰帥(だざいのそち)である。平安時代になるとその地位には代々親王がついた。筑紫大宰府に赴任しない「遥任」官として都に居たまま高給と貿易利権を手に入れる事の出来る美味しいポストであった。実際には、臣下である大宰権帥(だざいごんのそち)や、大弐(だざいだいに)がみやこから筑紫に赴任して地方長官,外交長官として、地元採用の官人を統率して権限をふるった。いわば中央官庁採用と地方採用のような構造だ。彼らも在任中(通常5年だったようだ)大きな経済利得を享受した。

 901年、菅原道真は右大臣から太宰権帥に左遷され、はるばる筑紫大宰府に流された。権帥(ごんのそち)とは、「権」(仮の)「帥」、すなわち、大宰帥の次官あるいは長官代理のようなポジションである。道真公のように従二位という身分の高い官人が赴任する時には、大弐ではなく権帥となった。権帥は必ずしも左遷ポストというわけではなく、実際に筑紫に赴任して活躍した大江匡房のような権帥もいた。彼は在任中せっせと蓄財をして都に帰っている。しかし道真公の場合は権帥といっても「大宰員外帥」で、実際には何の権限も与えられず、部下も身の回りの世話をする従者もなく、報酬も与えられないポジションであった。このような「哀れ道真公左遷」の話が後世あまりにも有名になり、太宰府は左遷の地、権帥は左遷ポストというイメージが定着してしまうが、実は先述のように、大宰府の高官という地位は美味しいポジションだったのだ。左遷されてきた人もいたが、願って赴任してきた人もいる、という状況だった。

 もっとも、みやこで位人臣を極めた道真公にとってはそんな現世利益みたいな話しはどうでも良いことだったろう。ただただ帝への忠誠と自らの名誉を重んじた。自身は一度も府庁に出仕しなかった。「不出門」の漢詩のように、府庁から朱雀大路を下った府の南館(といっても当時はほとんど廃屋状態だったと言われる)で「配所の月」を眺め、「観世音寺の鐘の音」を聴きながら謹慎していたから、実際に権限をふるう事も蓄財する事もなかった。

 903年、道真公が大宰府で亡くなって37年後の天慶年(940年)、伊予の中級官僚である藤原純友が瀬戸内海日振島で反乱を起こした。彼は都を襲わず、大宰府を襲う。このとき蔵司にあった財宝が奪われ,官衙はことごとく焼き払われてしまう。大宰府が西海道の租税徴収権限を有し、税の集積地であった他、博多津の筑紫鴻臚館での大きな貿易先取り特権による富の蓄積があったからこそ、襲撃のターゲットになった訳である。こうして大宰府官衙は壊滅するが、最近の都府楼跡の発掘調査で、すぐにこれまでにも増して壮大な政庁が再建された事実が判明している。現在、都府楼跡に並んでいる,壮麗な礎石群は、この第三期(一期は飛鳥時代後期の掘建て柱建築。二期は大宝律令下の奈良時代の礎石柱・瓦屋根の朝堂院形式建築)の再建政庁正殿の礎石であった。この時期は律令体制が崩壊しつつある時期で、中央の再建支援が期待出来ない状況であった。しかし、都の支援を仰がなくても、このような再建を可能ならしめる財力が、地元、博多や大宰府に備わっていた。

 人間の物欲煩悩とどまるところを知らず。大宰府が牛耳っていた富を巡る争いは,この後も続いて行くことになる。

 律令制の実質的な崩壊過程で、役所としての大宰府はその機能を低下させていったが、大陸の唐の滅亡、五代六国の王朝交代の混乱が収まり、東アジアに再びグローバリゼーションの波が押し寄せる情勢を見て、いち早く大宰府の戦略的役割を再評価したのが平安末期の平清盛である。彼は大宰府における宋との交易利権を独占すべく、自ら大宰大弐のポジションを朝廷に要求した。以降、平家一門は有力な子弟を大宰大弐として実際に赴任させている。平家一門の繁栄、みやこにおける権勢を支える経済的源泉が、この大宰府/博多津である事を認識していた。やがて清盛は活動の拠点を太宰府ではなく博多津に移し、袖の湊を建設することでますます宋との交易に傾注してゆく。さらには瀬戸内海に大型の宋船が通行できる航路を開削し、直接都に近い大和田の泊で交易独占しようとしたが、この国家的プロジェクトは実現を見ぬまま清盛は没し、やがて平家一門は壇ノ浦に沈んで行った。鎌倉時代以降は、源氏・北条氏など東国武士団はグローバリゼーションへの認識が薄く、平氏の勢力圏であった西国統治にも苦慮していた。海外との交易も大宰府による官製貿易から、徐々に博多在住の華僑(博多鋼首)や日本人商人の私貿易が中心となってゆき、のちの博多豪商達の黄金の日々に繋がってゆく。

 歴史に「もし」はない、とよく言われるが、この小説のなかの、もう一人の自分に開眼した菅原道真公が、いま少し太宰府で生きながらえていたらどうなっていただろう。後日譚を想像してみるのも面白い。

 すなわち、毛並みの良い学者一族の出という血筋、稀代の文章博士という知性、宇多天皇、醍醐天皇寵愛の右大臣、というみやこでの栄光の過去をすっぱりと忘れて、ひょっとすると唐物の目利き能力、漢籍の素養を生かしたコミュニケーション能力を遺憾なく発揮して、博多津の豪商、菅三道(かんさんどう)になっていたかもしれない。左遷されてもひたすら謹慎し、天拝山に登ってみやこの方角を遥拝する勤王の心篤き忠臣として彼の地で没するのではなく、己の才能が別のパラダイムに生きる事に気づき、博多津から海を渡り、世界に飛び出す冒険的商人に変身するのだ。かつて遣唐大使に任命されながら、唐の衰亡を見て遣唐使廃止を進言した道真。今度こそ渡海を果たす時がやって来た。和魂漢才の冒険的商人は無敵であっただろう。みごとな人生パラダイムシフトではないか!「もし」そうなっていたら、都で祟りをなすと恐れられる雷神にはなっていなかっただろう。もちろん太宰府天満宮も北野天満宮も創建されてなかっただろう。天神様として崇められたり、学問の神様にはなってなかっただろう。そのかわり後世に博多と福州・杭州の双方に子孫、人脈を残して、東アジアにネットワークを張る倭僑コミュニティーの始祖になっていたかもしれない。中高年の期待の星として歴史に名を残していたかもしれない。

 道真は膝を打って叫んだ。「おお、それは痛快じゃわい!」



うんちくコラム:

 「だざいふ」は「太宰府」なのか「大宰府」なのか?「福岡」と「博多」の違いに続くウンチク話第二弾。一言で言うと、大宝律令で定められた官位、地方行政官庁の名称としては「大宰」「大宰府」が使われていたようだ。後に地域の名称として「太宰府」を使うようになる。しかし、正確に使い分けられていた訳でもなく、古くから混用されていた。ちなみに天満宮は「太宰府天満宮」、現在の自治体としての市も「太宰府市」である。

 大宰府は「おほ みこともち の つかさ」と読み、「大宰(おほ みこともち)」は官位名称。その役所が「府(つかさ)」である。大宝律令以前は筑紫大宰だけでなく、吉備などの地方の長官を大宰と称していたようだが、やがて筑紫大宰府の長官だけを大宰と称するようになる。

 大宰府がいつ頃設置されたのかについては論争がある。7世紀の後半、白村江の戦い以降、現在の博多湾岸にあった那の津宮家を内陸に移したのが太宰府の始まりという説が有力だ。しかし、日本書紀には601年の推古大王時代に「筑紫大宰」の記述があり、大陸との窓口の役割を果たす官家があったようだから、さらに歴史はさかのぼるのだろう。

 逆に、何時無くなったのか? 平安末期の11世紀には地方行政組織としての大宰府は消滅してしまったようだ。律令制がその実態を失っていった時期である。したがっておよそ400年ほど存続していたのだろう。しかし律令官制としての大宰府は無くなっても、筑紫、博多の重要性は変わらず、鎌倉北条氏の時代にも、大宰府の地に鎮西総督府が置かれている(その場所は特定できていないが、政庁跡の東、現在の五条付近ではないかと言われている。発掘調査が進められている。)し、元寇のときも蒙古/高麗軍は、筑紫大宰府を目指して博多湾に上陸してきたと言われている。さらに官位としての大宰帥、権帥、大弐、少弐は府庁が無くなっても継続する。もとはみやこの皇族や貴族の官位であったが、先述のように、平清盛など、武士の台頭に応じて、有力武士団が、筑紫における外国交易による経済利権と九州統治の権威を得るためにこうした官位を欲しがるようになる。例えば、鎌倉から移って来た,いわゆる西遷御家人である武藤氏は、後に、その官位である大宰少弐の名を取り、少弐氏と改称する。また周防の大内氏は博多における権益拡大と九州支配を目指し、朝廷から大宰大弐の官位を受けている。

  こうして、大宰府の権威はいつまでも亡霊のごとく権力者につきまとった。なんと、最後の大宰帥は1849年に補任され明治2年1869年に任を辞した有栖川宮熾仁親王である。


大宰府政庁跡。平城京大極殿に匹敵する正殿ほか、壮麗な朝堂院形式の府庁が建っていた。
背後は大野城。有事の際は大宰府全体が籠城できた。
大宰府政庁正殿跡の礎石。第三期のものである事が分かっている。

太宰府天満宮と飛び梅
「東風吹かば思い起せよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」
筑紫鴻臚館発掘現場
旧平和台球場の地下に遺構が発見された。
九州帝国大学医学部の中山平次郎教授の功績をたたえる

左(北)の山は大野城、その麓に太宰府政庁跡や観世音寺が並ぶ。
右(南)の市街地のなかの小さな緑が菅原道真公の配所の館跡


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