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2015年1月23日金曜日

旧制浪速高等学校「イ号館」を訪ねる 〜父の青春時代の面影を求めて〜

 私の父は生まれも育ちも大阪天王寺、チャキチャキの(?)浪速っ子であった。以前、私がこのブログを始めるきっかけとなった大阪勤務時代、当時住んでいた天王寺の宿舎の近くに、父が旧制中学生時代まで暮らした住所と番地を確認することができた。しかし、父がその後進学した旧制浪速高等学校(浪高)へも行ってみたいと思いつつ、結局大阪在任中、この浪高のあった豊中待兼山を訪ねることができなかった。今は大阪大学の豊中キャンパスとなっている旧制浪速高等学校跡には、本館である「イ号館」が残っており、大阪大学会館として保存活用されているという話を大阪大学OBの同僚には聞いていた。

 旧制浪速高等学校(浪高)は、1926年(大正15年)に大阪府立の公立7年制校(尋常科4年、本科3年。のちに尋常科は廃止された)として創立された。その後、終戦後の1949年(昭和24年)には学制改革で大阪大学に包含され、翌年に廃校となった。その間、たった24年という短い歴史ではあるが、政官界、財界、学界に戦後の日本を代表するリーダーを多く送り出した旧制高校として知られる。制服はボタンのない「海軍式」で、上からマントを羽織り、かっこよかった、と父も語っていた。学生は、やはり地元出身者が多かったようで、当時、大阪が日本一の経済都市で「大大阪」と呼ばれていた時代に創設された学校だけに、地元財界の御曹司など都会的でスマートな学生が多かった、と言っていた。旧制高校といえば、弊衣破帽に朴歯下駄という「バンカラ」が主流であった時代に、やや異色の旧制高校だったのかもしれない。

 一方、大阪には官立の旧制大阪高等学校(1921年大正10年創立)もあった。やはり戦後の学制改革で廃校となり大阪大学に包含されたが、こちらはキャンパスが引き継がれず消滅してしまった。旧制高校は戦後、新制大学に包含、改組され、旧ナンバースクールは、一高が東京大学に、二高は東北大学に、三高は京都大学に、四高は岡山大学に、五高は熊本大学に、六高は金沢大学に、七高は鹿児島大学に、八高は名古屋大学に、それぞれ包含、改組された。旧帝國大学では九州大学が旧制福岡高等学校を吸収し、大阪大学が旧制浪速高等学校と旧制大阪高等学校を吸収した。ちなみに浪高も一部の教官と蔵書は、府立浪速大学、のちの大阪府立大学に引き継がれた。父もよく大高は官立なのに無くなってしまい、卒業生はかわいそうだ、と言っていた。

 父の浪高時代の青春は、勉学一筋であったようだ。学究肌を地で行くような人で、もともと愛だの恋だの、ナンパな話は聞いたことがなかった。かといって、硬派ぶってバンカラ風を愛するわけでもなく、端然としていたようだ。浪高では弓道部に属し、各地の旧制高校との他流試合に出かけたといっていた。旧制松江高校との試合では、松江高校が駅まで出迎えに来て、黒山の人だかりの駅前で蛮声を張り上げてエールの交換を行い恥ずかしかった、と語っていたくらいだ。また、ご時世で、軍事教練では、分列行進、閲兵の指揮をとらされ「大声を出すのが大変だった」と述懐していた。確かに、父は、成績優秀でひときわ長身で目立つ体躯だったので、選抜されたのだろうが、サーベルで号令かけている父を想像できない。

 このように、父には中学時代から自ら興味のある研究テーマがあり、「その研究のため」という明確な進学理由を持っていたので、あまりそれ以外のことにうつつを抜かす、というようなことはなかったようだ。本人の希望としては、そのためには名古屋の八高へ進学したかったようだ。のちに祖母や父から聞いたエピソードで、浪高理科に合格したのち、大阪駅から八高受験のため名古屋に向かおうとしていた父を、中学の担任の先生が大阪駅まで「浪高に行け」と連れ戻しに来たそうだ。

 結局浪高に進学したが、そこで父は、後の人生に影響を与える多くの友人を得ている。父自身はその後、東京帝大に進み学界で研究者、教育者として活躍することになるが、その浪高人脈は、学界にとどまらず、財界、政界、官界で活躍する、いわば戦後復興期のリーダーたちのそれである。父の晩年まで各方面に活躍する同窓生との交流があったことを覚えている。この待兼山でのいい意味でのエリート教育と、多彩な人脈がのちの父を育てたといっても過言ではないと思う。羨ましい青春時代を送ったものだ。いや、羨ましいと言わしめるのも、のちの父の壮絶な学究人生を振り返ればこそである。あの時に培われたものが大きかったんだと。


 この度ようやく父の母校、旧制浪速高等学校を訪ねることができた。場所は豊中市の待兼山。父からよく聞かされた地名だ。同窓会誌が「待稜」であったことを覚えている。阪急石橋駅から坂を登り歩くのが正面ルートのようだ。父もそうして通っていたと話していた。ちなみに旧制高校は全寮制が多くて、私の子供の頃まで、旧制高校OBが全国寮歌祭なるものを毎年開催していて、NHKテレビで全国放送されていたのを覚えている。しかし浪高は全寮制ではなく、通学生が多かったそうだ。父も生まれ育った天王寺からこの頃には豊中に引っ越して自宅から通っていた。「孟母三遷の教え」。子供の教育のために引っ越した祖父母の父への愛情が感じられる。

 現大阪大学豊中キャンパスには、浪高本館「イ号館」が修復保存され、大阪大学会館として待兼山にそびえ立っている。ここに立つと、待兼山の名にふさわしく大阪を一望に見渡すことができる。とても風光明媚な地だあることがわかる。「イ号館」の前にはかつて、父が水練に勤しんだという池も半分残っている。弓道場は今も阪大弓道部が使っているとか。なんと緑濃い素晴らしいキャンパスだ。比較的新しく帝国大学(8番目)になった大阪大学にとって、「イ号館」は現在残る唯一の歴史的建造物(2004年登録有形文化財)としてキャンパスにアカデミックな風格を醸し出している。「時空トラベラー」にとってここに立っていること自体が得難い体験だ。

 ところで、今回の私の大阪大学訪問の主目的は、法学研究科での特別講義である。父と違って理系の学究の道を歩んだわけでもない「不肖の息子」が、亡き父の母校を図らずも訪れることができ、そこで、長く通信事業に身を捧げた会社人生を背景とした講義が出来たことは感慨ひとしおであった。講義を熱心に聴講してくれた若い学生諸君の澄んだ瞳に、そして講義の後の活発な質疑応答に「待陵」若人のアカデミックな伝統と父の青春時代の面影を見たような気がした。



旧制浪速高等学校生(理科)の集合写真
青春群像!
「イ号館」横の土手で撮った写真だと思われる

その石段が今も残っていた!
「イ号館」から理科特別教室へ移動する若き日の父(右)
写真の裏に昭和15年4月とある

浪高「イ号館」
父の卒業アルバムから


現在の浪高「イ号館」
修復保存され「大阪大学会館」として豊中キャンパスのランドマークとなっている。

「イ号館」を望む「浪高生の像」


同窓会により寄付された「浪高庭園」
リノベートされているがファサードの原型は残されている
階段は往時のままだという
館内廊下
         エントランス部のレリーフは往時のまま復元
当時の浪高キャンパス配置ジオラマ
エントランスに展示されている

この池には「水練場」があった
手前の石柱は当時池の周りを囲っていた柵の跡だ。

現在は大阪大学豊中キャンパス

法文系キャンパス

法学研究科特別講義
若き阪大生の瞳に父の青春時代の面影を見た