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2016年5月17日火曜日

旧古河庭園にバラを愛でる



 五月の薫風、爽やかな晴天のもと、旧古河庭園にバラを愛でる。休日にもかかわらず幸い思ったほどの人出もなく、比較的ゆっくりと庭園散策を楽しむことができた。東京にはこうした庭園が多い。江戸時代から続く大名庭園だけでなく、明治以降、維新の元勲、旧大名家、財界の長老、文化人などの邸宅が都民の公園として開放されている。さすが近代日本の首都、東京だ。

 その一つ、ここ旧古河庭園は、明治の元勲、陸奥宗光の邸宅があったところである。その後陸奥の息子が古河家の養子に入ってことから、古河家の邸宅になった。1917年(大正6年)に古河虎之助が洋館と庭園を築造し、現在の姿となった。武蔵野台地の傾斜を利用して、最頂部の本館から、イタリア式/フランス式の美しいバラ園を斜面に配し、底部に日本庭園を展開するという変化に富んだ景観を生み出す構造となっている。日本庭園は、山県有朋の無鄰庵や南禅寺別荘群の庭園などを手がけた京都の名作庭師、小川治兵衛(植治)の作。建物/洋式庭園はジョサイア/コンドルの最晩年の設計で、本館はレンガ造りの躯体に黒い新小松石を貼ったルネッサンス洋式の建物だ。なんと豪勢な東西の巨匠のコラボではないか。今となってはこのような文化財として残るような邸宅、庭園を作る有力者もいなくなった。終戦後はGHQの接収されたが、返還され国有財産となった。東京都に貸し出され、都民公園として整備された。

 東京には明治から戦前にかけて、立派なお屋敷街があった。立派な塀に囲まれ、鬱蒼とした樹木に覆われた閑静な邸宅が、東京という街の時代の繁栄を象徴していた。しかし、一億総中流、いや最近は中流と下流に二分化して、資産家が少なくなり、さらに資産家もお屋敷を維持できなくなった時代だ。今では東京へ出てきて出世して、大会社の社長になったと言っても、サラリーマン社長の場合は富豪と言えるほどの資産を持っているわけではなく、子々孫々に財産を残せる人はそれほどいない。仮に不動産を残しても、低成長時代、ゆとり世代の息子や娘は、それほどの所得を得ていないので相続税を払うことすらできない。我が家の周辺の住宅地も、かつてのお屋敷が、代替わりで空き家となり、やがて相続税対策で売却され、立派な洋館や日本家屋が惜しげもなく取り壊されて更地になっている。その後には、大きな敷地だとマンションが、ちょっと狭い敷地だと、一階はほぼ駐車スペースというプレハブ住宅が10軒くらいギチギチに建つ。いずれにせよチマチマしたマイホームを建てるのが精一杯という時代は、良い時代なのかどうなんだろう。100年後のこの街の景観を想像することができない。建物や住宅という「不動産」はもはや「不動産」ではなく、単なる「耐久消費財」になってしまい、建てては壊すを繰り返さないと経済が回らないようになってしまった。経済合理性と効率が優先する社会にあっては、住宅メーカーにしてみれば100年も保たれては困るのだろう。京都の南禅寺界隈の別荘群にしても、これらを文化財として維持、保存して行くにはそれなりの費用がかかる。文化財としての価値をよく理解し、このような永続的な負担に耐えうる「資産家」は海外に求めなければならなくなってきているのかもしれない。

 せっかくコンドル設計のルネッサンス様式の邸宅や、見事に手入れされたバラが咲き誇る庭園を散策してきたのに、そんなことばかり考えてしまうのはサラリーマンの性なのだろう。もとよりマンション住まいの自分自身がこのような豪邸に住めるとは思わないが、かといって豪邸を所有する人々を僻んで、それが取り壊されてチープな景観の街になっていくのを喜ぶ気にもなれない。「文化財守れる人が文化人」。守る気はあるが金がない。情けない。しかし、豊かさとは、懐の金の多寡で決まるものではなく、心の余裕で決まるものらしい。隣人愛や知性や豊かな教養があれば、自ずと人には品格が備わる。それが心の余裕につながってゆくものだ。街の豊かな風格もいかにお金をかけたかではなく、いかに品格の歴史が蓄積されたかで決まるのだと思う。そのような人々が心豊かに住まう街、それが英国の田舎で学んだライフスタイルなのだが... 往年の経済大国「英国」に、かつての経済大国「日本」が学ぶべきはこういうコトだと思う。