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2017年12月24日日曜日

古代原始林の面影残る「糺ノ森」を逍遥す


糺ノ森

 京都の高野川と鴨川の合流点の北に広がっている鬱蒼とした森、賀茂御祖神社(通称下鴨神社)の社叢林である糺ノ森は、古代山城国時代の原始林の諸相をよく残す森であると言われる。平安遷都の頃には約500万平方メートルを誇った森も、時代を経て徐々にその面積が狭くなって行き、中世の「応仁の乱」では森が広範に焼失してしまったという。このような原始林をも焼き尽くした「応仁の乱」がいかに破壊的な戦乱であったかを物語っている。その後下鴨神社の社叢地として手が入れられて幾分整備されたものの、また明治維新後の社寺地の官有地化で森が減り、現在では往時の7分の一の面積になったと言われている。森の中にはいく筋かの小川や地下水脈があり、豊かな植生を育み、京都市内にあって貴重な水生植物の揺籃にもなっている。

 糺ノ森では古代祭祀跡が発掘されている。現在のような壮麗な社殿が創建される以前の原始神道の祭祀形態である磐座(いわくら)跡が複数箇所確認できる。もっとも、時代的には平安末期から鎌倉初期のもので、大和三輪山中の磐座や筑紫宗像大社の沖ノ島や高宮斎場のような弥生、飛鳥時代から続く屋外祭祀跡に比べると新しい。しかし、このような祭祀形態が平安末期から鎌倉初期まで続いていたことを示す貴重な遺跡だ。

 この上賀茂/下鴨神社は古代豪族である鴨(賀茂)氏のゆかりの神社である。末裔には鴨長明(下鴨社境内の河合神社の神官の息子で、「方丈記」の著者)や賀茂真淵(江戸時代の国学者)などの著名人があり、現在も賀茂/鴨/加茂を姓とする一族が続く日本の名家の一つである。ところがこの鴨(賀茂)氏、なかなか謎の多い豪族であり、その由来、出自が必ずしもわかっていない。

 鴨氏には大きく2系統あるといわれる。山城葛野の賀茂氏と大和葛城の鴨氏である。他にもあるようだが、この上賀茂/下鴨神社を依代とする山城葛野の賀茂氏系統は、日本書紀、古事記に、神武天皇の東征に際して熊野から大和に向かう道案内をした「八咫烏」の伝承に繋がる一族であるとされている。すなわち天神系の神を祀る一族であるという位置付けになっている。一方、大和葛城の鴨氏は、出雲系で三輪山の神、大国主命、大物主命、大田田根子(おおたたねこ)の伝承に繋がる一族であるという。すなわち国つ神、地祇系の神を祀る一族であるとされている。葛城と言えば大和盆地で大王家と勢力争いした一大勢力葛城襲津彦(葛城氏)との関係が問われるのだが、これもはっきりした伝承や記録が残っていない。しかし鴨氏と葛城氏は非常に近い関係にあったと考えられている。大和葛城の高鴨神社を依代とする。

 一方でこの葛城の鴨一族がのちに山背(後の山城)葛野に移ったのが上賀茂/下鴨神社の祭主である賀茂氏であるという説も唱えられている。同じく山背葛野を拠点とした渡来系氏族の秦氏(太秦広隆寺は秦氏の創建)との関係も深い。この秦氏は中国あるいは朝鮮半島から渡来した一族「弓月君」の末裔で、もともとは大和葛城に定住していた渡来系氏族と言われる。こちらも初期ヤマト王権により山背の葛野に移され、その後彼の地に大きな勢力を誇った。やがて和気清麻呂に協力して桓武帝の平安遷都を支援したと伝えられる。。

 このように定説がないのだが、初期ヤマト王権成立時に王権(三輪王朝)に対抗する一大勢力であった葛城襲津彦(葛城王朝)が争いに敗れ滅亡し、その残存勢力(鴨氏、秦氏を含む)が大和葛城から山背葛野に移動した(させられた)ようだ。先述のように強力な渡来系氏族の系譜を引き継いでおり、8世紀後半には平安遷都に大きな貢献を果たした。平安京の有力氏族になってゆくのだが、やがては平城京から移ってきた宮廷貴族である藤原一族が摂関政治により朝廷を牛耳ってゆく歴史は改めて語るまでもないだろう。賀茂氏は上賀茂/下鴨神社の祭主/神官として血脈をつないでゆくことになる。古代原始林はこうした歴史を見守ってきたのであろう。「糺ノ森」は黙して語らず、だが...


河合神社はイチョウの落ち葉に彩られる

小川の流れをいただく



賀茂御祖神社(下鴨神社)回廊

賀茂御祖神社(下鴨神社)楼門

下鴨神社鳥居


糺ノ森の紅葉残照


参道の名残の紅葉

古代祭祀「磐座」跡

日が沈む

発掘された祭祀跡


糺ノ森の小川


落ち葉

河合神社
女性に人気の神様

灯篭

干支ごとの神様

女性が絵馬で顔を叩き奉納すると美人になれる?





鴨長明の方丈
長明はこの河合神社の神官の息子だった