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2017年3月10日金曜日

「カメラの聖地」大井町散策 〜Nikonのある町〜


こんな昭和な街並みも残る


 大井町と聞いてどんな街をイメージするだろうか? 競馬場?大井埠頭?元京浜工場地帯?大井町阪急?きゅりあん? 鉄道ファンなら(といっても中高年以上)国鉄大井工場か。少なくともさしたる名所旧跡も見当たらないし、はやりのお洒落なお店もないので、なかなか話題になるような人気のエリアというわけにはいかないだろう。たぶん住みたくなる街ランキングトップテンに入ることもない。だが、そう捨てたものではない。私のようなカメラファン、そして「時空トラベラー」にとって大井町は決して記憶から消え去ることのない地名である。ここは知る人ぞ知る「カメラの聖地」なのだ。そうカメラファン憧れの世界ブランドNikonの大井工場所在地なのだ。丁度ライカファンにとってWetzlar GermanyがErnst Leitzの創業の地、カメラの聖地としてその名が記憶に刻まれているのと同じで、大井町はNikonの創業の地である。あのレジェンダリー一眼レフカメラNikon Fが生まれた聖地なのだ。



NIPPON KOGAKU TOKYOというロゴが刻印された
Nikon F最初期型
この大井工場101号館で生まれた

ニコン大井工場101号館
去年の姿

今年、取り壊しに向けて覆いがかけられた


 Nikon Corp.の前身は1917年(大正6年)創業の日本光学工業。もともとは軍用の光学兵器開発製造するために設立された。のちのトプコン(東京光学工業)が主に陸軍用製品を供給したのに対し、海軍用製品を開発製造した。1933年(昭和8年)に、大井町のシンボル的白亜の殿堂大井工場101号館が建設された。有名なのは戦艦大和の艦橋に装着された巨大な測距儀。これがここで製造された。

 戦後は民生品にシフトしていった。特にカメラは戦後日本の復興のシンボル的な製品となった。いまでは世界のNikon:ニコン(ナイコン)! プロはもとより、アマチュアにとっても憧れのカメラだ。私の子供の頃は、Nikonのカメラなんぞは、手に入れたくてもなかなか入荷しない高嶺の花だったことを覚えている。しかし、そんなNikonも戦後のカメラ事業創業の頃は苦闘の連続だった。当時、プロの写真家にとって圧倒的に支持されていたのは、ドイツのErnst LeitzとCarl Zeiss。特にオスカー/バルナックが開発した35ミリ判フィルム(ライカ判)を使う小型カメラLeica。その改良版のLeica Mは究極の光学レンジファインダーを搭載し、他社の追随を許さない精密光学機器の精華であった。これにNikonなど日本のカメラメーカーは無謀にも挑戦し、多くのいわゆる「ライカコピー」を生み出したが、結局追いつくことができず、一眼レフ方式のカメラ製造に転換した話は有名すぎる。しかし、その結果、レンジファインダーではなくてペンタプリズムを搭載した一眼レフカメラは、その優秀なレンズ群と共に報道カメラマン始め、多くのプロに支持されるようになり、カメラ市場を制覇する。こうして戦後日本のNikonが名門Ernst Leitz社を抜いて世界一のカメラメーカーに成長することになった話も改めて述べる必要もないだろう。
1933年に開業した101号館

現在の101号館
取り壊しが始まった。


無残な姿に...

 その大井工場101号館は2016年解体が決まり、83年の歴史に終止符を打つこととなった。そして2017年に入っていよいよ解体が始まった。そのNikonの栄光の歴史を象徴する白亜の殿堂は、いま無残な姿をさらしている。あのレンジファインダーカメラNikon Iに始まり、名機Nikon SP、そして伝説の一眼レフNikon Fもこの101号館で開発、設計、製造が行われた。F3まではここで製造されたそうだ。ニコンファンにとってはまさに聖地と言わざるを得ない。そこが取り壊されてしまう。折しも今期決算でNikon Corp.は、本業のカメラだけでなく、レンズ、メガネ、さらには半導体ステッパーなどのハイテク製品を含め、業績の不振を露呈してしまった。老舗が希望退職を募る状況は悲しい。デジカメ時代になってカメラメーカ各社は冬の時代を迎えるところと、新たなビジネスチャンスを見つけ出すところと明暗が分かれている。Nikonはきっと名門光学機器メーカーとしての再生を果たすものと期待している。


 時代は繰り返す。名門Ernst Leitz社のちにLeica社も、かつてはNikonに市場を奪われて経営破綻に瀕した。スイスの会社の買収されてLeicaはその創業の地Wetzlarを去り、新天地Solmsへ移り再起を期することとなった。そして時はめぐり、老舗ブランドを生かした戦略でしだいに好調の波に乗り始めたLeicaは、再びその創業の地Wetzlarへ戻って来た。会社の復活を象徴するように。LeicaとNikon。良きライバルは輪廻転生。巴のように時間差で浮いたり沈んだり絡み合い転がりながらながら生きのびてゆくのだろう。LeicaもNikonもそのブランドイメージは強烈だ。レジェンドといっても良い。そうしたアセットを最大限活用した新しいビジネスモデルを創造することだろう。


ニコン大井事業所

光学通り
この左手が101号館

 ところで、日本のWetzlarともいうべき大井町を歩いてみよう。JR大井町駅からNikon大井製作所に向かう「光学通り」を進む。徒歩20分程で聖地到着。通りの街路灯にずっとあの「Nikonロゴ」と「光学通り」のサインがでているので間違うことはない。地元では誰もが知っている通りだ。実は横須賀線のJR西大井駅が一番近い最寄駅だ。駅ホームから工場の建物群が見える。ここが現在の大井製作所だ。今はここでカメラを作っていないそうだ。新館ウエスト館は本社っぽく見えるが、本社は品川インターシティーにある。

 前述のように、大井町といえば、大井競馬場が有名だし、大型コンテナ船の出入りが忙しい大井埠頭を思い浮かべる人もいるだろう。線路の東側は工場が立ち並ぶモノ造りの街、労働者の街であった。大井町駅前にはカネボウがあったが、やがて撤退し、その跡地を小林一三氏が買い取り、大井町阪急百貨店が出来た。その後改装され阪急大井町ガーデンになっている。立会川が駅前を流れていたが、暗渠化して、「立会通り」という地名にその痕跡を残す。戦後の闇市の名残の東小路や平和小路がディープな世界を今に残している。「路地裏探訪ブーム」で最近は人気が出てきているという。一方、東急大井町線はお洒落で人気の自由が丘や二子玉川へ連れて行ってくれる。臨海高速鉄道線も深い深い地下に駅ができ、西は渋谷、新宿へ。東はお台場へつながっている。2020年のオリンピック会場に出かけるのも便利!というわけだ。隣のJR品川駅には新幹線駅が開業し、さらにリニア新幹線駅もできる。羽田空港の国際線増便も有之、ますますこの辺りは便利で賑やかになってきている。なんだか、しばらく忘れていたバブルみたいな様相だ。


JR大井町駅



平和小路入り口
人気店だが本日休業で誰も並んでない
こちらは行列

東小路

 歴史を遡れば、江戸時代には大井は江戸の近在。品川宿のさらに西に位置している荏原郡大井村であった。あたりは地下水脈豊富な江戸の近郊農業地帯であった。いまでも町内あちこちに水神社がある。明治以降、東京が帝都となってからは政治家、軍人、官僚が多く住む住宅地になった。伊藤博文の大井別邸があった。伊藤公の墓所も西大井駅近くにある。別邸は最近まで池上通り沿いに存在していて、ニコンの社員クラブとして使われていたが、残念ながら解体され、今は無粋なマンションが建っている。ちなみに解体された建物は、伊藤公の故郷萩に移築されている。大井は品川区に属し、海岸線に沿っている旧東海道あたりも大井だが、もう一方、旧大井村の鎮守の鹿島神社あたりからは高台に位置している。鉄道、道路といった交通の便がよく、住みやすい住宅街である。西大井あたり(出石町、金子山町など)は隣の大田区山王に隣接する比較的閑静な立地である。豪邸とまでは言えないまでも、それなりの敷地を有し、囲い塀、鬱蒼とした木立の庭を配した戸建ての立派な邸宅が多い。しかし、最近は御多分に洩れず、相続税対策であろうか、そうした古い邸宅の売却が進んでいて、一軒の屋敷があった土地が更地にされると、その跡地には3〜5軒くらいの狭隘なプレハブの3階建住宅がギッチリと隙間なく立ち並ぶ。生け垣も塀もなく、一階が全てガレージと玄関で、道路にママチャリや子供の遊び道具、植木鉢が散乱するという生活感丸出しの住宅街に変貌しつつある。公/私の境界が曖昧な雑居地化し人口密度が高まり、街の瀟洒な景観も、邸宅街としての品格もどんどん失われてゆく。山手の下町化が進んでいる。しかし下町の人情は育っているのだろうか?

 Nikonのある「光学通り」を一歩脇に入ると、そこにはまだ昭和な街並みが残されている。三間通りは道幅3間。道幅が狭いが旗の台、中延から西大井経由大井町まで延々と一直線に伸びている(車は大井町方向の一方通行)。商店街としてはシャッター通り化しているが、看板建築の商店も残されている。これだけの「昔繁華街」が連なっているのに感動する。一歩通りを入るとさらに狭い路地が網の目のように伸びていて、どこからどこまでが個人宅の敷地なのかわからない世界が広がっている。かと思えば大きな樹木が塀越しに緑陰を作り出しているような邸宅もまだある。時空を超えた不思議な世界だ。さらに、驚きは銭湯が多いことだ。どれも現役で、ニコン工場の周りだけでも3軒の銭湯がある。別にニコンの従業員向けにあるというわけでもないだろうが。まだそうした需要がこの辺りの街にはあるということだろう。庶民的な街でもあるのだ。街角には水神様やお稲荷さん、お地蔵さんが鎮座ましましていて江戸の在「大井村」の佇まいをよく残している。古い道標があちこちに残っているのも珍しい。江戸の外なので江戸切り絵図にも出てこないし、歴史の舞台となったような名所もない。人気のお散歩コースとして取り上げられることもない。おしゃれなカフェやレストランもない。ないない尽くしなのだがなぜか惹かれる大井町。「世界ブランドNikon」を生み出した大井町。不思議を体感したいなら是非お越しください。


ニコンのある光学通りと並行する三間通りは昭和な雰囲気が残る


東光寺のしいのきとお地蔵様
大きなみかんの木がある家


昭和な商店街

看板建築商店群
路地という迷宮へ
大井三又の地蔵堂
東京には珍しく地蔵堂が街角にある。
京都、大阪、奈良では良く見かけるのだが。



鹿島神社のお祭り
水神様もあちこちに祀られている
大井は地下水脈が豊富なところだ

旧大井村の総鎮守鹿島神社


光学通りにある
東京浴場

みどり湯
大盛湯

























 ちなみに今回の撮影機材はLeica Q Summilux 28mm f.17 ASPH。Leicaの目で見るNikonの聖地というわけだ。Nikonへのレスペクトを込めて大井町へ切り込んだLeica。なかなかドラマチックだ。そのうちLeicaへのレスペクトを込めてNikonをぶら下げてでWetzlarに乗り込んでみたいものだ。