ページビューの合計

2021年9月23日木曜日

お江戸日本橋の復活へ 〜いよいよ「橋上橋を架す」の愚を解消することに!?〜


「日本橋」に覆いかぶさる首都高速
戦後長く東京を代表する景観となってきた

銀座サイドからの景観
右は野村證券本社

日本橋室町サイド三越側からの景観
最近の若者はこの高架が「日本橋」だと思っているようだ

高速道路架橋の間にあまりデザイン的にもシンメトリカルでない形で
道路元標が設置されている。

「日本橋」のたもとに立つオリジナルの道路元標

日本橋三越が橋の袂に


「西河岸橋」から見る日本橋

「常盤橋」の頭上を走る首都高速

「日本橋」の親柱も高架橋の間で肩身が狭い

東京都の紋章を持つ獅子
「日本橋」は徳川慶喜の筆になる


1964年の東京オリンピックを目指して、東京が大規模な都市改造に夢中であったときに、この日本橋の上に高架道路橋が架せられた。東京の慢性的な交通渋滞を解消するための首都高速道路建設のためだ。都心の住宅やビルが密集している地域で用地買収がいらない、建設コストが安く済む、工期が短くて済む、そういった事情から道路上に橋脚立てて、川を埋め立て、堀割に沿って蓋するように高架橋が建設され、都心をくねくねと蛇のように進む首都高速道路が生まれた。これが現代の東京都市景観の特色となっていて、その土木建設技術の高さを誇る近未来的な都市構造の創出であるとみなされてきた。しかし、その日本の建設技術の素晴らしさと、経済便益への期待とのトレードオフで、水の都江戸の面影を残す景観と情緒、水辺に暮らす人々の生活環境が消えた。日本橋川の中空に巨大な高架橋が建設され、人々に歌われた「お江戸日本橋七つ立ち」の五街道の起点にして、日本の中心(道路元標)としてのシンボル、日本橋がこの巨大な大蛇のようなな構造物で汚されたと感じた人が多い。しかし当時は「お国のためにはやむを得ない」と、オリンピック優先、経済優先がまかり通った。まるで戦前の国威発揚なら「やむを得ない」と戦争進めた時代そのままに、何も変わっていない日本人の思考様式を感じさせる諦めようであった。当時は古き佳き江戸の、さらには近代国家の帝都東京のシンボルとしてのノスタルジアよりも、戦後の高度経済成長のシンボルとして受容された。だれも「屋上屋を架す」ならぬ「橋上橋を架す」愚とは考えなかった。むしろ経済合理性を考えれば、金に換算できないぬ景観や情緒など無くなっても「やむを得ない」と、それ以上考えなかったといったほうがいいかもしれない。

あれから57年、コロナパンデミックで世界中が大騒ぎのなか、東京で二度目のオリンピックが開催された。東京も世界的なパンデミックの例外ではないのだが、多くの国民が不安視するなか開催は強行された。しかし、時代はすっかりは変わった。1964年の時のような高揚感は、コロナ禍がなくとも既になかった。日本はもはや戦後ではない。高度経済成長の時代も終わり、バブル崩壊後の失われた20年も取り戻すことなく過ぎてしまった。GDP世界第二位の地位も中国に奪われた。産業資本主義からマネー資本主義の時代となり、これだけは不動と信じた「技術立国」の幻想が儚くも消え去る事態を迎えた。デジタルトランスフォーメーションの潮流もリードするどころか乗り遅れてしまった。少子高齢化が進み、人口の三分の一は65歳以上という超高齢化時代。人々は国の経済成長よりも、個人の生活の質を求めるようになった。もはやオリンピックが国威発揚だなんて誰も考えない時代になった。それだけ日本人は、日本社会は成熟したと言える。そうなると経済効率優先の高速道路よりも、安心で安全で心地よい生活環境を求める。そんな価値観の変遷がこの半世紀に起こった。こうしてこの日本橋も、中空に覆いかぶさるモンスターのような高速道路橋を撤去して、豊かな水辺の生活と親しみやすい景観を取り戻そうという動きが出てくる。そしてついにい、去年、2020年に高速道路高架橋を撤去することが決まった。高架橋の代わりに地底深部にトンネルを掘り高速道路を通す、という新しい技術がそれを可能にした。空から地下へ!今度は地下鉄や高速道路、地下街、上下水道、通信ケーブル洞道など、地下に都市インフラが網の目のように張り巡らされる時代を迎えた。

日本橋は江戸時代には日本の五街道の起点として。明治には近代化日本のシンボルとして。戦後は戦後復興とそれに続く高度経済成長のシンボルとして、それぞれにその姿を変貌させてきた。今、日本橋はその姿を再び新たにする時を迎えた。新しい時代に応じた人々の価値観の多様化を反映させるように。日本橋は「橋の下の橋」から再び陽の光を浴びてその美しい姿が人々の視界に蘇ることになる。そして日本橋川は、日の当たらない地下構造物的な扱いから、再び、都心の親水エリアとして生活にうるおいを与える場所となる。こうして振り返ると日本橋は日本の近現代の歴史と人々の暮らしを写す鏡のようだ。高速道路の橋脚の撤去と、新しい日本橋エリア完成は2040年だそうだ。まだ20年も先だ。いかに長寿社会になったとはいえ残念ながら我々世代でこの完成を見る人は限られるだろう。なんとか頑張ってカメラ持って駆けつけたいものだ。人の一生を超えて都市の輪廻転生はとどまることを知らない。それが現し世の姿である。


(日本橋の過去と未来)

昭和初期と思われる日本橋の姿

明治の架替前の木造の日本橋

(国土交通省関東道路整備局古写真より)

2040年完成予想図(三井不動産より)

(撮影機材:Leica SL2 + Lumix-S 20-60/.5 5.6)

2021年9月11日土曜日

9.11同時多発テロの悲劇から20年の今日 〜「テロとの戦い」の20年はなんだったのか?〜

ラガーディア着陸のときに見えるマンハッタンの姿(2002年)。
WTCのツインタワーがなくなり景色が一変した。


9.11の数カ月後にANA機から展望したロワーマンハッタン
WTCのツインタワーがなくなっている!
2021年9月11日
Reuterより

9.11同時多発テロの悲劇から今日で20年。あの衝撃的なニューヨーク、ワールドトレードセンタビル:WTCへの旅客機突入とその後の壮絶な倒壊は一生忘れることはできない。あの時私は東京にいてテレビでその瞬間を観た。最初は何を放映しているのか理解できなかった。飛行機が事故でビルに衝突したらしい、とかワシントンのペンタゴンやペンシルバニアでも飛行機が墜落したらしいとか、状況の把握ができていない様子の報道が続いた。しかし、徐々にこれは同時多発テロ攻撃だということが明らかになってきた。それにしても目の前で旅客機がWTCに激突する瞬間が放映されている。やがてその二棟のタワーが跡形もなく粉塵とともに倒壊してゆく。こんな悲劇を自宅のテレビでライブで見るなんて恐ろしい時代になったものだと戦慄した。ビルで働いていた人々、飛行機に搭乗していた人々、救援に駆けつけた消防、救急隊、警察の人々。2977人が犠牲となり、行方不明者が未だに多数いる模様だ。犠牲者の中には日本人の駐在員や学生も24名含まれていた。取引先であったM銀行のNY支店もこのビルに入居しており多くの犠牲者が出た。改めてご冥福をお祈りしたい。

私は2001年のこの時期、会社の海外事業の立ち上げで東奔西走していた。実はこの数日後にニューヨークへ出張予定であったが、日本からのNY便がすべてキャンセルとなり、この未曾有の事件で一時米国内の飛行が全面禁止されるなど大混乱となった。したがって出張は急遽延期。それでもクローズ直前の重要案件であったので、米国の航空規制が解除されるとともにニューヨークへ向かった。搭乗したANA機JFK便は、ほとんど乗客なし。CAのほうが多い貸切状態であった。ANA機はマンハッタン上空に近づき着陸態勢に。冬空の下、ロワーマンハッタンが眼下に見渡すことができた。上空から見るニューヨークマンハッタン島は、一見いつもと変わらぬ風景であったが、一つ大きな景観の変化があった。WTCのツインタワーが見当たらないのだ。やはりそうなのだと、その異様さにショックを覚えた。

JFKに到着すると、入国管理は意外に厳しくなく、到着客も少ないのでむしろスムースに入国できた。すぐに空港からカウンターパートのダウンタウンのオフィス、WTCすぐ隣のワールドファイナンシャルセンターに向かう予定であったが、電話で確認するとそこも被災していたので、急遽ミッドタウンの仮オフィスに向かった。ハドソン河畔の倉庫街のようなところに彼らは仮住まいしていた。彼らは、こういうタイミングで日本から駆けつけてくれたことにえらく感激して、涙ぐみながら固い握手をしてくれたことが印象的であった。日頃、強がりの権化でタフネゴシエーターを自認するのような大男が、弱音とも優しさともつかぬ感情を、思わず表してしまったようだ。こちらもクロージングを急ぐ当方側の事情で来ただけなのだが。ただ交渉そのものは相変わらずタフであった。ビジネスは、文字通りビジネスライクで止まらないのである。その日は空いているホテル(確か北野ホテルだった)に一泊して翌日のフライトで東京へ帰った。あの頃は元気いっぱいであった。

あれから今日でちょうど20年。これがきっかけとなったアメリカの「テロとの戦い」は、アルカイダやタリバンというテロリストの巣窟とされたアフガニスタンへの出兵、タリバン政権の打倒。大量破壊兵器を隠し持つと言われたイラクへの戦争とサダム・フセイン殺害。9.11同時多発テロの首謀者とされるオサマ・ビンラディンの殺害。次々と軍事力にものを言わせて他国に介入していった。こうした戦いは今年の8月31日の混乱のアフガニスタン首都カブールからの米軍の撤退で終わった。米軍撤退決定からあっという間にアフガニスタン政府と政府軍は瓦解し、大統領や政府高官は大金とともに国外脱出。壊滅させたはずのタリバンが速やかにカブールに侵攻し、20年ぶりに首都奪還、政権を取り戻した。あの9.11から始まった「テロとの戦い」この20年は何だったのか。アメリカや海外からの援助は政府高官や政商が懐に入れ、国民には行き渡らず、治安も国民の生活も守れないそんな腐敗した政府を米軍が守る。さすればそんな政府は国民の信頼を得ることができず、タリバンしか我々を守ってくれないと信じるようになる。テロはなくなるどころかこうして生き残り、世界に拡散し、イスラム国:ISISのようなウルトラ過激テロ集団まで跳梁跋扈する始末だ。今回もタリバン制圧下のカブールに突如現れ、国外脱出で混乱するカブール空港周辺に自爆テロを敢行して多くの人を殺害し、恐怖に陥れたテロ集団こそタリバンと敵対するISISだ。在留外国人とその家族、アフガニスタン人スタッフとその家族は、タリバンの首都制圧でパニック状態となり、次々空港に殺到。国外脱出を試みる群衆でカオス状態となった。離陸する米軍輸送機に群がる群衆の必死の形相はショックだ。デジャヴだ。ベトナム戦争のときのサイゴン陥落。米大使館屋上からのヘリでの脱出、タンソニェット空港の飛行機にしがみつく群衆。あのときの悲劇の再来だ。あれは「共産主義との戦い」であった。ソ連は崩壊したが、どっこい中国共産党と朝鮮労働党は生きている。より大きな脅威となって存在感を増している。

米国はじめ、イギリス、ドイツ、フランス、カナダ、オーストラリア、韓国は自国民の救出とアフガニスタン人スタッフ救出のため、軍用機やチャーター機を派遣して、次々と国外へ脱出させた。米国は軍も大使館も31日の撤退期限の最後までカブールにとどまり約2万人の民間人、アフガニスタン人スタッフとその家族を救出した。イギリスも英国大使が現地に留まって、最後まで救出作戦の陣頭指揮をとった。アフガニスタン人とその家族には英国入国ビザを発給し続け、6000人を英国に送り込む姿が世界に報道されて印象的であった。それでも全員の救出はできず非難されている。一方でこうした米英はともかく、我が日本はいかに。大使は不在。大使館員15名は全員が8月中旬には早々と英国の救援機で国外に脱出し、カブールの日本大使館を閉鎖(外務省の公報でも発表)。在留邦人の救援機は、ほとんどの各国救援機が飛来したあと、最後の最後に派遣されてきたが、遅れてきた自衛隊機はカブール空港での自爆テロで着陸できず、隣国パキスタンで待機。救援を待っていた在留邦人、大使館、JICAなどのアフガニスタン人スタッフその家族500人ほどは結局、救出されることなく、自衛隊機はわずか日本人1人を含む崩壊したアフガニスタン政府関係者10数名人を載せて飛び立ってしまった。日の丸を背負った自衛隊機が救出に失敗して飛び立ってゆく姿を、取り残された在留邦人やアフガニスタン同胞はどんな気持ちで見ていたのか。在留邦人や同胞を救出し、一番最後に現地を離れるべき在外公館職員がいないのだから、自衛隊機との救出連携も取りようがない。また大使館の輸送支援がなければ、テロで混乱し、公共輸送機関などあてにもできない在留邦人が空港に行くことすらままならぬ状況であることはわかっていたはずだ。政府の自衛隊機派遣も、意思決定が遅すぎる。結局、ほぼなんの成果もなくカラで引き上げてくるなど失態と言わざるを得まい。救援は失敗した。アフガニスタンの友人を失い、そして国際的な非難を浴びる結果となったしまった。ちなみに中村哲医師の遺志を継ぐペシャワール会の医療メンバーは現地に残り、引き続き診療に携わっている。頭が下がる思いだ。

日本という国は危機管理が弱い、「平和ボケ」だなんて言っている場合ではない。9.11は決して対岸の火事ではない。アフガニスタンのタリバン復活も、ミャンマー国軍クーデタ、民主勢力の弾圧も、香港の民主主義抹殺も決して対岸の火事ではない。もちろん台湾の民主主義を守る民衆の戦いも。このアメリカ軍のアフガニスタン撤退劇を観て、これからもアメリカが同盟国とその国の人を守ってくれるという幻想を持つことはできない状況が見えてきた。「自由と民主主義」「法の支配」「自由競争市場経済」といいう「普遍的価値観を共有する」はずの同盟者アメリカは、大統領がトランプからバイデンに代わっても「自国優先主義:America First」をはっきり打ち出している。自力救済しない、できない国は同盟国でも助けない。アフガニスタン政府の他力本願に嫌気が差したので、手を引いたらあっという間に崩壊した。これはアメリカにとっては極めて重要な教訓だ。かつてアフガニスタンに手を突っ込んだ大国は、みな統治に失敗して撤退し、そしてその後は自国が衰退している。イギリスも、ロシア(旧ソ連)も、そしてアメリカも...自分で自分のこともできない人のことにかまっている場合ではないという空気が流れ始めている。軍事力では人の心は制圧できないことも。そして「普遍的価値」が通用しない世界があることも。日本はコロナパンデミックのバタバタで露呈した、有事、非常時の意思決定プロセス、体制、心構え、指導力の欠陥をキッチリ総括して修復しておく必要がある。コロナ対策に限らない。これからは東アジアにこうした有事がありうることを肝に銘ずる必要がある。有事における在留邦人の保護と救出。自国権益の保全。それができないでどうする。あの満州国崩壊に伴う難民と化した日本人開拓団の悲劇以来何も変わっていないではないか。いざというと米軍頼みでは、崩壊したアフガニスタン政府と同類になってしまう。それは決して憲法を改正して軍事力を強化することで解決する問題ではない。政治における国民の命と財産と生活を守る目線の回復だ。その憲法で「健康で文化的な最低限の生活」が保証されている(生存権)はずである。国民がいざというときに「公助」に期待できず、「自助」「共助」しかあてにできなくなったら政府はいらないということになる。国民にお願いしかしない政治、いざとなっても国民を助けてくれない国。肺炎になって高熱が出ても医者に見てもらえず自宅待機という名の「放置」がまかり通る医療先進国。テロや有事に在留邦人や味方の友人を助ける前に早々と脱出する平和国家の在外公館。それで良いのか。日本は有事対応や外交が不得手だ、なんて反省ばかりしてないで「平和ボケ」から目を覚ますときだ。折しも自民党総裁選が始まる。もっぱら自民党内の派閥争いや長老政治という、世の中に全く通用しないロジックで選挙が動いている。しかしこの国難は、そんな過去の論理を壊して大胆な改革に向かうキッカケにならなければならない。目を覚ませ自民党、怒れ主権者!




2021年9月8日水曜日

古書を巡る旅(14)"Blake Poetical Works" 「ウィリアム・ブレイク詩集」 〜BBC Promsとそのフィナーレを飾る愛国聖歌Jerusalem!〜

BBCより

 今年も英国はプロムス:Promsの季節である。BBCの毎年恒例の夏の音楽祭で、国中が盛り上がる一大イベントだ。今年は7月30日に始まり9月11日に最終日フィナーレを迎える。去年に続いて今年もコロナ感染で開催が危ぶまれたが、一部オンライン、そして会場のロイヤル・アルバート・ホールは無観客で開催することになった。無観客だと、例年のような(写真は2018年のプロムスのフィナーレ)盛り上がりには欠けるだろうが、これも致し方ない、コロナパンデミックはこうした伝統のプロムスの歴史にも異例の出来事として記憶されるであろう。

この最終日にエルガーの「威風堂々」や「Rule Britania」と国歌「God  Save the Queen」と共に合唱される「エルサレム:Jrusalem」。プロムスのクライマックスを飾る聖歌で、英国民はユニオンジャック打ち振りながら感極まり「英国人で良かった!」と感じる瞬間である!そうしたことからGod Save the Queenに次ぐ第二の国歌と言われる。これはウィリアム・ブレイク:William Blakeの詩に、著名な音楽家ヒューバート・パリー卿:Sir Hubert Parryが曲をつけたもの。映画「炎のランナー」Chariot of Fire (Hue Hudson 監督、1981年)でも、冒頭のランナーたちが渚を駆けるシーンと、最後の主人公エブラハムの葬儀のシーンで、彼らへの敬意と功績を讃えて流れる。この映画のプロローグとエピローグを飾る感動的な聖歌である。イングランドの不屈の精神と理想を賛美するこの聖歌は、あらゆる場面で歌われる愛唱歌でもある。以前から感じていたことであるが、こうした愛国歌を心置きなく会場全体で合唱し、国旗を打ち振りながら全員が愛国的歓喜の渦に身を委ねるなんてなかなかないことだろう。愛国心は一歩間違えば、と気に病むのは日本人ぐらいなのだろうか。あのときの戦争の戦勝国と敗戦国の違いをいつも感じる。

かつてロンドンのLSEに通っていた時、ストランドのセントクレメント教会から時々この聖歌Jerusalem が聞こえてきたのを覚えている。そもそも教会から聞こえてくる賛美歌や聖歌の調べは、特に我々のような東洋の国からやってきた人間にはエキゾチックに感じるものだ。しかしその時はなんという聖歌なのか、どういういわくのある歌なのか知らなかった。のちに映画「炎のランナー」:Chariot of Fireで、その冒頭と最後に流れる聖歌が、あの時ストランドで聴いたことのある曲であることがわかった。心が震える思いがした。歌詞を知って日本人の私ですら、妙に愛国的気分が高まり感極まる思いがしたものである。それが詩人ウィリアム・ブレイク:William Blakeとの出会いであった。

ところでエルサレム:Jerusalemを書いた、そのウィリアム・ブレイク:William Blakeとは何者なのか?今ではイギリスを代表するロマン派詩人と見做されているが、日本人にはそれほど馴染みのある詩人ではないかもしれない。彼は1757年ロンドン、ソーホーで生まれ、1827年ロンドンのストランドで世を去った。生粋のロンドンっ子である。彼は画家、銅版画家として活躍し生計を立てた他、詩人、神秘主義のアーティストで、難解な作風で幻想的な詩が多く、生前は認められることが少なく不遇であったという。しかし、彼の死後、その評価が見直され現代に至るまで様々なアーチストに影響を与えた。いわばビジュアルアートと文学をあわせて表現した先駆者であり、神秘主義的、象徴主義的な表現メッセージが再評価されたとも言われている。特に彼の預言書、長編詩集「ミルトン」の序章の一節エルサレム:Jerusalem(1818年)が先述のように様々な場面で取り上げられるようになり、曲が付けられるに及んでついには第二の英国国歌とさえ言われるようになった。「ブレイクといえばエルサレム」と固定観念化された感がある。ところで彼にはこの「ミルトン」とは別に「エルサレム」という長編詩もあるので混同されがちであるので要注意だ。この預言書、長編詩「ミルトン」は偉大なる詩人ジョン・ミルトン:John Miltonを主人公とした詩集である。彼はミルトンをギリシア、ラテンの剣に毒された預言者であると批判しつつ、一方でミルトンを彼自身に投影するというような神秘主義的な作品である。その序章に掲げられた「エルサレム」は古典的な伝統主義や近代的科学万能主義の双方を批判した詩となっている。

彼は英国ロマン派詩人と言われているが、自由主義、反戦主義、人種差別反対、奴隷制廃止、女性解放 そして産業革命時代の科学万能主義に抗う歌や作品を数多く描いた。かといって必ずしも政治的なスローガンを前面に出した反体制詩人というわけでもない。神秘的な題材を借りて象徴主義的な表現で語った詩人である。この「エルサレム」でも産業革命、科学万能時代のシンボルたる煙を吐く工場を「悪魔の工場」に見立て、再び緑豊かなイングランドの丘に理想郷、エルサレムを打立てるのだ!と歌っている。「工場」を英国を覆うあらゆる権威主義、科学的合理主義や自由を束縛するものどものシンボルとし、これと戦う意志を表しているのだが、彼の表現はなんとも象徴主義的であり、アナーキーなものを感じる。一方で、イングランドこそ聖なる都エルサレムが建設されるべき「選ばれた地」であるという選民意識の表れとも解釈される。ここが「愛国歌」として持て囃される所以なのだが。

第一次大戦中の1916年に、英国民の戦意を鼓舞するために、彼の詩に音楽家のヒュバート・パリー卿:Sir Hubert Parryが曲をつけたのがこの聖歌となった。しかしブレイク自身が国粋的な「愛国者」かといえば、前述のように、ある意味ではシニカルでアナーキーな反戦主義者であった。その彼の詩がなぜ、後世、国民の戦意を鼓舞する愛国歌とされたのか?ちなみに作曲をしたパリー自身も自由主義者で戦意高揚歌には抵抗があり、そういう点でブレイクの詩に共感しこれを選んだとも言われている。「愛国歌」であり「反戦歌」であるという、イギリス人には不思議な愛され方をしたものである。その証拠にこの聖歌は、先述のように第二の国歌として歌われるだけでなく、婦人参政権運動の応援歌として、イングランドのラグビー・クリケットチームの応援歌として、労働党の党歌として、あるいは極右グループの愛唱歌としても歌われるという多様な面を持っている。英国という国の持つ多様性というか、感性の複雑性というか、人々の愛国心も一様ではない、なかなか単色で理解がしにくいメンタリティーであると感じる。

日本では大和田建樹、柳宗悦、大江健三郎が ブレイクをロマン主義の詩人として紹介している。


Jerusalem:原詞と日本語訳

And did those feet in ancient time.
Walk upon England's mountains green:
And was the holy Lamb of God,
On Englands pleasant pastures seen!

いにしえの時
イングランドの緑の山々に
神の御足が降り立ったというのか
聖なる神の子羊が
清純なる緑野に顕れたというのか

And did the Countenance Divine,
Shine forth upon our clouded hills?
And was Jerusalem builded here,
Among these dark Satanic Mills?

雲立ち込める丘に
神の御顔が輝き出でたというのか?
こんな闇の悪魔のような工場の間に
かつてエルサレムが存在したのか?

Bring me my Bow of burning gold;
Bring me my Arrows of desire:
Bring me my Spear: O clouds unfold!
Bring me my Chariot of fire!

燃え盛る黄金の矢を我に!
望みの矢を!槍を!雲をけちらせ!
炎のチャリオットを!

I will not cease from Mental Fight,
Nor shall my Sword sleep in my hand:
Till we have built Jerusalem,
In Englands green & pleasant Land

心の戦いは決して止まず
剣は手の中で眠ることなし
イングランドの清純なる緑野に
エルサレムを再建するまでは!


BBCより

THE SUNより


会場となるロイヤルアルバート・ホール


2012年のBBCプロムスのYouTube動画はこちらから⇒ https://youtu.be/041nXAAn714


今回入手した「The Poetical Works of William Blake」は1890年の出版の小型の詩集で、いつもの神田神保町の「北沢書店」で入手した。ヴィクトリア朝時代の絵画、芸術のムーヴメントをリードした「ラファエル前派」のメンバーの一人William Michael Rossetti(Gabriel Dante Rossettiの弟)の撰録、編纂であり、巻頭に長文の回顧録が掲載されている。ブレイクの作品の多くが彼の死後、価値が薄いものとして焼却されたり散逸したりしたようで、このロゼッティも、彼なりの評価で撰録し、捨てるものは捨てている。ロゼッティはブレイクの名誉を守るために、彼の名声を傷つけると感じた作品を処分したとしている。その取捨選択の適否はともかく、ブレイクはまだまだ奥深い彼独自の世界を持っていたようで、多くの未知の作品が現代まで残っていないのが残念である。20世紀になって、英国ロマン派の創始者として再認識され、BBCが英国の偉大なる芸術家100人の一人に選定するなど、再評価が進んでいる。本当の芸術家は死してその名を輝かすものなのだろう。



The Poetical Works of William Blake、1890年版
編者は彼の友人William Michael Rossetti

預言書「ミルトン」Jerusalemの一節


預言書「ミルトン」の序文
ここに詩「イェルサレム」が掲載されている

ブレイクによる装画

彼の描くアイザック・ニュートン
産業革命後の科学万能時代を批判する意図で描かれた

2021年9月5日日曜日

古書を巡る旅(13)Japan Day by Day:「日本その日その日」〜貝の採集に日本へ来た生物学者エドワード・モースは、そこで何を見つけたのか?〜

品川区立大森貝塚遺跡庭園のモース博士像

「品川区立」大森貝塚遺跡庭園である
大田区の皆さんごめんなさい

「アッ、見つけた!」

桜の季節


貝層の出現状況が保存展示されている


JR線の大森駅と大井町駅間の切り通しの小高い台地上に「大森貝塚遺跡庭園」がある。ここは明治にモース博士が大森貝塚を発見した場所で、その跡が今は区民憩いの公園になっている。春は桜が美しく、電車が見える公園として子供達にも人気である。大森貝塚は小学校の教科書にも登場し日本人なら誰でも知っている遺跡で、品川区の名所旧跡の一つである。日本の考古学発祥の地と言われる。しかしそのモース博士とはどのような人物なのか。意外に知ってるようで知らないことも多い。


1)エドワード・シルベスタ・モース:Edward Sylvester Morse(1838年〜1925年)の略歴

1838年 アメリカのメイン州ポートランド生まれ。

日本の生物学、博物学、考古学の父と言われる。もとは動物学者、腕足類(二枚貝の一種)の研究者。しかし、若いときはろくに学校も行かず退学になったり、仕事も転々としていた風来坊。ただ貝類の採集、標本には情熱を持っていて、新種の発見や希少種の収集の世界では有名であったようで、大学の研究者も標本の見学に来るほどであったという。このように大学出ではなく素人の研究者から出発。やがてハーバード大学アガシー教授の学生助手になり本格的な研究生活を始める。さらに学位がないにも関わらずボーディン大学の生物学教授やハーバード大学の非常勤講師をつとめるまでになる。日本の植物学の父と言われた牧野富太郎博士(1862〜1957年)を彷彿とさせる。

日本滞在期間は通算3年ほど。東大教授在任は2年ほどと短いが、後世に多くの功績を残した。もちろん大森貝塚の発見と発掘調査が彼を有名にしているが、実は。この頃西欧社会に大旋風を巻き起こしたダーウィンの「種の起源」(1859年)「進化論」を初めて日本にもたらした功績が大きい。また、大学の教員の質向上(専門的な御雇外国人の雇用、推薦)、研究者の育成、大学の研究レベルを上げるために、論文を海外雑誌(Nature等)に投稿し、学会、海外研究機関、研究者との研究交流を進めることの重要性を説き、自ら実践した。そして日本文化にインスパイアされて民具、陶器などのコレクターとなる。


1877年(明治10年)腕足類研究、新種の貝類採集のために来日する。特段、日本に興味があったわけではなく、多様な腕足類の存在に興味があったための来日であった。しかし.....

来日早々、横浜から新橋に向かう汽車のなかから大森貝塚発見。

乞われて東京帝国大学教授(生物学)に(2年契約)この間江ノ島に臨海観測施設を開設する。

同年11月米国における講演などの仕事のため一時帰国

1878年(明治11年)家族とともに再来日

1879年(明治12年)東大満期退職。帰国

1880年セーラムのピーボディ科学アカデミー館長に

1882年(明治15年)再再来日 今度は生物学者、考古学者としてではなく、日本の文化に強烈なインパクトを受けたコレクターとして、民具、陶器など美術/工芸品の収集のためにやってきた。

1883年(明治16年)離日 

1914年ボストン博物学会会長

1915年ピーボディ博物館名誉館長

1917年セーラムで「日本その日その日」:Japan Day by Day執筆、刊行

1925年セーラムで没す


2)ダーウィンの「進化論」とモース

1859年に発表されたチャールズ・ダーウィンの「種の起源」は衝撃的であった。生物は、その種が枝分かれして変異し、自然淘汰や適者生存で進化していったものだとする。この頃の「常識」、すなわちキリスト教的な理解では、種は神がそれぞれに創造した不変のものである。人間は神が初めから神に似せて創造したものであり、いわば猿が進化したものであるはずがない。これはキリスト教会の聖職者のみならず、一般の人にも信じられていた。さらに驚くのは19世紀、科学的合理性勃興の時代にあって生物学者にも、それを否定する、あるいは疑念を抱く学者がいたことだ。モースの恩師ハーバード大学のアガシー教授もその一人であった。モースはアガシー教授の反進化論を最初は支持。しかし、腕足類研究を通じて、どうしても「進化論」支持せざるを得ない事実を確認するに至り、モースは「進化論」者へと変わっていった。そして腕足類の種類が奇跡的に豊富な日本での採集と標本のために来日した。

こうして日本に初めて最新の「進化論」を持ち込んだのが他ならぬモースであった。彼は大森貝塚発見で有名だが、生物学者としては「進化論」をもたらした功績が大であるといわれている。モース以前にもドイツから来た外国人教授が進化論を説いたとか諸説あるようだが、彼の大学での講義と一般向けの講演が印象的で、当時の日本に大きな影響を与えたことは間違いない。マスコミにも大きく取り上げられている。ちなみに元々モースはアメリカでも多くの講演会を持っており、講演で稼げるほどの講演上手で人気があったようだ。ダーウィンの「進化論」発表から17年が経っていたが、まだまだ欧米のキリスト世界では完全に定着していたとは言えない中、彼はその最新の理論を説き、東大での講義には500人の受講者が集まったという。キリスト教の教義を第一義に自然界の成り立ちも理解してきた西欧諸国の衝撃と異なり、日本で進化論はどう受け入れられたのか? ハーバート・スペンサーの「社会進化論」を生み出した生物進化の理論は、日本では急速に進んだ明治維新後の社会の変容にも適用されると考えられた。とくに自然淘汰や適者生存の考えが受け入れられて、ハーバート・スペンサーが福沢諭吉、西周など明六社メンバーでもてはやされた。また政治思想家であり、のちの東京帝大総長となる加藤弘之などがモースの説くダーウィンの生物進化論講義を熱心に聞き、影響を受けたと言われている。それはスペンサーの社会進化論の源流としてであった。


3)大森貝塚の発見は何をもたらしたのか?

前述のように横浜から新橋へ向かう汽車が大森駅を出てすぐに、鉄道建設のために開削した切り通しの断面に白い貝殻の層を確認。これが古代人の生活の痕跡、いわばタイムカプセルとしての貝塚であることを発見した。東京帝国大学教授となっていたモースは早速発掘許可を得て調査した。その結果、この貝塚は3000〜3500年前の古代人の集落跡であり、人骨のほか、土器、石器、骨角器など261点が発掘された。考古学的な時代区分として新石器時代の遺跡であることを特定した。また縄目模様の土器が多数検出されたことから、のちに「縄文時代」と命名されることとなる。モースは、先述のように腕足類の貝の研究をしていたことから貝塚には強い興味を持っていたのだが、いざ掘ってみると貝殻の向こうに先史時代人の生活と文化を発見したというわけである。「日本の考古学発祥の地」の碑が大森駅にある。

彼は、この発見により腕足類貝の研究、進化論の研究から次のフェーズへ転換したと言っても良い。モースはこれまで考古学という概念、研究領域が明確に存在しなかった日本に考古学をもたらしただけではなく、世界に日本の「縄文文化」を知らしめることとなった。発見の功名争いもあった。ナウマンやシーボルト(あのシーボルトの孫で英国公使館書記官)と争い、彼が独占的に発掘権を得たと言われている。また発掘成果をまとめた研究論文を海外にいち早く発表するなど、国際的な研究交流を進めることの重要さを教えた。大森貝塚の出土品の一部は米国に送られた(現在ピーボディサセックス博物館に収蔵されている)が、代わりに米国から先史時代先住民の出土品などの多様な研究資料が東大に寄贈された(アメリカ先史時代先住民と東アジア先史時代人が同じルーツであるとの仮説を提唱している)。また多くの図書の贈与が日本側に行われ、現在の東京大学図書館の基礎となった。こうして大森貝塚の研究成果が、彼を通じて大学の国際的な研究交流、方法論の確立、人材育成につながっていったことは特筆すべきであろう。


4)なぜ大森貝塚碑は二つあるのか?

ところで、この大森貝塚遺跡の記念碑が二箇所あることをご存知だろうか。しかもたった300mしか離れていないところに2つ。ことの顛末はこうだ。

発掘から30年経過した昭和4年になって、モースの功績を顕彰する記念碑を建てようということになった、しかし、モースが発表した調査報告書に正確な発掘場所の記述がなかったこと、当時発掘に携わった人々の記憶が曖昧になっていたことから、発掘現場の位置の特定ができなかった。最終的に下記の二箇所が記念碑設置候補場所となった。結局、両方に記念碑が設置されることとなり、どちらがホンモノか長く論争となっていた。のちに当時の発掘届けの記録(東京市)が発見され、これにより、発掘現場は荏原郡大井村鹿島谷であることが判明した。すなわち現在の品川区大井6丁目の「大森貝塚碑」の位置である。現在はここに品川区立大森貝塚遺跡庭園が整備されている。もう一方は、大田区山王1丁目のNTTデータ大森山王ビル敷地内で、「大森貝墟」碑が立っている。大森は品川区ではなく大田区であるので、本来ならば「大森貝塚」ではなく「大井貝塚」と呼ばれてもおかしくないし、また近所の品川歴史資料館に発掘成果の一部の展示されている他、敷地内に大井鹿島谷遺跡(縄文集落跡)の一部が検出している。こちらも本来なら日本考古学発祥の地として「博物館」になっててもおかしくないのだがそうはならなかった。先述のようにモースの調査報告書に場所の正確な記述がなかったので、大森駅を出たあたりで発見した貝塚、ということから「大森貝塚」と認識されていたというわけだ。大森貝塚からの出土品は主に東京大学に保管されている。

第一現場)大森貝塚碑(昭和4年建立)品川区大井6丁目 大森貝塚遺跡庭園内




第二現場)大森貝墟碑(昭和5年建立)大田区山王1丁目 NTTデータ大森山王ビル敷地内


「日本電信電話公社」の文字が懐かしい


碑文に名を記している理学博士佐々木忠次郎(モースの弟子で、発掘に携わった)は、
大井の第一現場の石碑にも名がある。どちらが正しいのか迷っていたのであろう。


5)モースの日本滞在記、Japan Day by Day:「日本その日その日」(石川欣一訳)

進化論を日本にもたらし、衝撃を与えた生物学者。さらに大森貝塚を発見、発掘調査して縄文時代を日本と世界に知らしめた考古学者。それだけでも偉大な足跡を残したのだが、モースはそこにとどまることはなかった。彼の日本での研究活動、関心は第三のフェーズに転換してゆく。彼が招聘したフェノロサやビゲローなどと同様、日本の文化、生活様式に衝撃を受け、この西欧文化とは異なる「もう一つの世界」の新鮮さに目を開かされた。工芸品や、美術品のコレクションを極めた。能楽にも精通していた。フェノロサが廃仏毀釈の嵐の中で打ち捨てられてゆく仏像や仏教美術を惜しみ、岡倉天心と、破壊からの保護と救済に取り組み、日本美術の再評価の活動をしてきたことは知られている。しかし、一方、モースは庶民の生活の中で生まれてきた生活雑器などの民具、工芸に着目した。精力的に日本各地を旅行して、人々と交流し、好奇心旺盛に事物の観察を続け、民具や陶器の収集に努めた。これまで見てきたサトウやチェンバレン、フェノロサ、コンドルなどの明治期の来日外国人知識人に共通する「日本文明」の「発見」とそれへの憧憬と、それに触発された文化人としてのモースの姿があった。もともと生物学者としての観察力、収集癖(?)がむくむくと湧き起こり、彼の収集活動は膨大なコレクションを(モースコレクション)形成することになった。彼の日本滞在中の日記、旅行記がJapan Day by Day:「日本その日その日」である。滞在期間が短かった割には上下二巻からなる大部の書物で、その内容は生物学者、考古学者の域を超えている。

この”Japn Day by Day”は1917年セーラムにて執筆され出版された。彼が79歳の時である。掲載した写真はいつもの神田神保町の古書店「北沢書店」で見つけた初版本である。背表紙が少し傷んでいるものの装丁はしっかりしていて100年以上経過した古書としては良い状態だ。しかし、文化財級の古書を読み進めるにはやはり気を遣うので、リプリント版を入手してそちらを読んでいる。上下二巻からなる大部の著作で、1877年、1878〜79年、1882〜83年の3回の来日記録である。日本語版「日本その日その日」東洋文庫は米国でモースに学んだ弟子の石川欣一の翻訳による。

本書に収録されている彼自身のスケッチによる、当時の人々の日常生活、風景、文化、の紹介が興味深い。777点ものイラストが収録されている。彼は見たもの、気がついたものを子供のようにこまめにスケッチしたのであろう、さすが生物学研究者の観察眼と生き生きした描写力に驚嘆する。膨大なスケッチ、イラストをパラパラとめくって眺めるだけでも楽しい。またこの本に出てくる人々の姿は、西欧文明や科学技術文明に汚染される前の善良な日本人として描かれている。そのモース自身も古き良き時代の善良なアメリカ人であった。こういうものが消えてゆくことへの哀惜の念を示す書とも言える。この本はそういうことを感じさせる100年前の時代のタムカプセルである。

この時の日本滞在で、モースは膨大な古民具や陶器、書籍など美術/工芸品を収集した。その数は民具800点、陶器900点に及ぶと言われている。最近新たに当時の日本の古写真が発見され、モースコレクションの充実ぶりが再び脚光を浴びている(「百年前の日本 モースコレクション写真編」小学館)。おそらく多くが高価な美術品・工芸品ではないので、収蔵庫にまだ日の目を見ていないコレクションが眠っている可能性がある。民具は現在のセーラムのピーボディーエセックス博物館に、また陶器はボストン美術館に展示、保存されている。大森貝塚が3000年前の先史時代の生活の痕跡を止める遺跡だとすれば、モースコレクションは100年前の人々の生活の痕跡を今に残す文化財だ。どちらも「失われた日本」の再発見である。後者はたった100年前のことであるが。


まとめ

結局、生物学者モースは、腕足類という貝、ただそれだけを探しに日本へやって来た。そして3000年前の貝塚遺跡を発見した。しかし彼は、もっと多くのものを日本で発見した。明治日本という西欧文明に対する「もう一つの世界」を。やがて多くの文物を収集し持ち帰ることになった。そしてより多くのものを日本に残して帰った。とりあえず、私はモースを「研究界のわらしべ長者」と名付けておきたくなった。


Japan Day by Day in 1917





大森貝塚発掘の模様




Peabody Essex Museum
(from the Boston Globe)

ピーボディ・エセックス・ミュージアム(旧セーラム・ピーボディ科学アカデミー)
膨大なモースコレクションは圧巻。



(撮影機材:Leica Q2, Summilux 28/1.7)



2021年8月25日水曜日

初期ヤマト王権はどこから来たのか?(第六弾) 〜とりあえずこのシリーズ完結編。で、謎は解明されたのか?〜

 

竜王山から展望する
初期ヤマト王権の地
左から大和三山、箸墓古墳、纒向遺跡、行灯山古墳、渋谷向谷古墳、背景は葛城山、金剛山、二上山



甘樫丘から見る三輪山

黒塚古墳頭頂部より箸墓古墳を展望

纒向居館跡発掘現場
背後には三輪山が


大和路散策もままならぬこの夏、夏休みの宿題じゃないけれど、「巣篭もり」中は充実の自宅学習で過ごす。NHK 文化センター講座の「日本古代史」をオンライン受講している。国際日本文化研究センター倉本一宏教授の明快な講義が腑に落ちる。もともと倉本先生の「戦争の日本古代史」「内戦の日本古代史」(いずれも講談社現代新書)、そして「大学の古代史」(山川出版)を読んで、我が日本古代史、特に3世紀倭国事情に関する疑問に見事に応えてくれる解説に感動していたこともあり受講することにした。論点はすでに理解しているつもりでいるので、6回シリーズの講義でこれまでの理解の整理を図り、あとはQ&Aによる論点解明が目的だ。講義は明快で論理的である。文献史学に考古学的研究成果も取り入れて、変なバイアスや「トンデモ異説」を廃した歴史観の提示であり、「素人歴史探偵」が喜んで飛びつくようなロマンチックで興奮するような物語ではない。歴史学に客観的という言葉が適切かどうかは別にして、通史として俯瞰的に眺めるアプローチと言ったら良いだろうか。すなわち邪馬台国近畿説、北部九州説云々という、少々地元が熱くなりがちな位置論争に巻き込まれることなく、3世紀当時の日本列島の姿を、そしてその国の有様を俯瞰する。邪馬台国や卑弥呼(3世紀の中国の史書三国志魏書にしかでてこない)は筑紫の地域連合とその首長の話であり、近畿大和の初期ヤマト王権とは別のものであるということ。当時の日本列島にはまだ統一的な王権など存在していなかったということ。これを明快に解説している。なぜ邪馬台国「近畿説」論者(依然として多数説とされるが)は無理に邪馬台国を奈良盆地の大和地区(あるいは纏向地区)に持ってきて、ヤマト王権、ひいては後世の大王家、天皇家につながるルーツだとしたがるのか?文献を読み返しても、考古学的な資料を見ても、なぜそのような結論になるのか?疑問を呈している。私も全てを先に決めている答えに無理やりこじつけているようで違和感を感じ続けていたので、先生の解説はいちいち納得であった。

倉本先生も指摘しているが、中国の三国志の魏書(いわゆる魏志倭人伝)にしか記述のない邪馬台国という北部九州の首長連合体の存在が、当時の列島全体の倭王権を代表していると考えること自体が、乏しい文献記述にこだわって惑わされている証拠である。まして三国志のなかでは魏書しか残っておらず、蜀書や呉書は失われていることから、魏と対峙して江南地方に勢力を有していた呉が倭国(近畿大和?)と交流していた可能性がないとは言いきれず、その記録が現存しないことも考慮しておくべきだとする。さらには、魏志倭人伝の記述を素直に解釈すれば「邪馬台国連合」が北部九州の範囲内であることは明確であるのだが、それを色々解釈を加えて(南を東と読み替えたり、距離を読み替えたり、地名を無理に当てはめたり)、どうしても近畿へ持っていこうとする。一方で、7世紀末から8世紀初頭に日本の天皇支配の起源と歴史と正当性を記述した日本書紀や古事記では「邪馬台国」「卑弥呼」に触れていないし、編者は魏志倭人伝を参照しているにもかかわらず、その記述をどのように位置づけるか述べていない。すなわち、記紀では邪馬台国や卑弥呼を天皇家のルーツとはみなしていない。3世紀半ばの列島は、いくつかの地域首長の国・クニや、その地域連合が各地に併存していた時期で、まだ統一的な王権など存在していない。のちに大和盆地に起こった初期ヤマト王権も、徐々に筑紫や、吉備、出雲などとの緩やかな首長連合を形成してゆく(古墳時代)が、統一的性格の「王権」「大王」が現れるのは5世紀の雄略大王の頃だし、血統による世襲、すなわち皇統(「万世一系」の)という概念が成立するのはさらに継体大王の時代6世紀以降の話だ。それでもなお大王が豪族・氏族を束ねる力は強いとは言えず、7世紀、8世紀初頭の古事記、日本書紀でようやく天皇を名乗り皇統の系譜が整理され、地域の豪族や氏族ごとの神々の体系化(皇祖神を中心とした同族化)が記録されるようになった。こうした史実にもかかわらず、近畿説論者は、3世初頭にはすでに列島には統一王権が存在し、それが後の天皇家のルーツであると主張する。もっとも、そう言っている人も「なんかおかしいぞ」と感じながら「まあ細かいことはいいじゃないか!」と主張を曲げていない気がする。こうなると、何らかの政治的な意図の発露か、あるいは地元に観光資源を確保したい自治体の思惑か、ロマンチックなフィクションの創出か、いずれにせよ学問の話ではない。

また倉本先生は、考古学的な年代確認手法とそれに基づいた時代確定にも疑問を投げかけている。纏向遺跡や箸墓古墳の炭素年代測定法による、邪馬台国・卑弥呼と同時代の「3世紀中」推定だ。毎回測定するたびに時代が遡ることにも不思議さと違和感を感じるという。邪馬台国、卑弥呼が存在した時代に合わせるように遡らせる考古学者。マスコミ、地元自治体という構図なのか。倉本先生の「余談」によれば、纒向遺跡研究の第一人者である寺沢薫先生も、もはや地元とマスコミに押し切られて、自説を訂正できなくなっているという。どこまでホントなのか知らないが、言い出した以上引っ込みがつかない事は研究の世界でもあるかもしれない。きっと王の纒向居館遺構も盟主墳である箸墓古墳も、「環濠集落」形態の国/クニで特色づけられるチクシの邪馬台国よりは、もう少し新しい時代の遺跡ではないのか?という素朴な疑念である。炭素年代測定法という「科学的証明」の信頼度と、文献史学的な「整合性」との相剋だ。木を見て森を見ない断定は危険ですらある。そこに何らかの政治的、利害的な意味合いや意図を潜り込ませうる余地があるからだ。

いわゆる「邪馬台国論争」についてはこれまでのブログで私論を述べてきたし、倉本先生の論考で整理され私なりの結論は出たので、ここで改めて繰り返さない。そこで、やはり問題は「初期ヤマト王権(倉本先生は「倭王権」と呼んでいる)はどこから来たのか?」「彼らは何者なのか?」ということに行き着く。以前のブログでも考察してきたが、意外にこの「日本という国家の成立起源」がよくわからないことに気付かされる。今までは邪馬台国がそうだ、とあまり深く考えずに片付けていたのだが、そうでないとすれば、大和に発生したという日本のルーツは奈辺にあるのか。Q&Aセッションでは下記の質問に丁寧に解説を加えていただいたが、やはりスッキリと謎の解決には至らない。まだまだ未知の部分が多いと感じた。


1)そもそも初期ヤマト王権の勢力はどこから来たのか?大和盆地の土着勢力が発展したものか?外来勢力が「無主の地」に移住して成立したものなのか?

2)なぜ、奈良盆地が倭王権・倭国の中心になったのか?

3)チクシ王権が魏に朝貢し冊封を受けたのに対し、ヤマト王権が中国の呉王朝と通交があったとすれば、その証拠は出ているのか?

4)3世紀以降、奈良盆地になぜ古墳がこれほど大規模に築造されたのか?


1)唐古・鍵遺跡に代表される奈良盆地の複数の弥生以来の農耕集落を起源とする土着勢力が糾合して成長し、初期ヤマト王権を形成し、三輪山の麓に纏向王都を形成したのであろうとする。これは以前のブログで紹介した、奈良文化財研究所の坂靖氏が「ヤマト王権の古代学」で結論とした「土着説」と相通じる見解である(初期ヤマト王権はどこから来たのか?第五弾https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/06/blog-post_30.html)。「神武東征」伝承などに引っ張られがちであるが、外からの勢力が「無主の地」奈良盆地に移住してきてできた王権ではないだろうとする。吉備や、出雲、筑紫からも人は集まってきただろうし、多くの影響(祭祀、葬祭儀礼、古墳などに)を受けているが、ここで首長となるような勢力にはならなかったとする。ただ、特定の勢力が王権を最初から独占したのではなく、初期には大和・河内あたりの地域勢力の首長間のいわば持ち回りのような形であったのではないかと推測している。その証拠が首長墳、盟主墳である古墳群が盆地のあちこちに点在していること。大和古墳群、柳本古墳群、佐紀古墳群、馬見古墳群、古市古墳群、百舌鳥古墳群などである。盟主墳が次々場所を変えて造営された背景はこれだという。これまでの、三輪王朝、葛城王朝、河内王朝などが盆地内、河内で王朝交代を繰り広げたという説を否定するものだ。いずれにせよこうした狭い盆地内での各集落同士の寄り合いや談合の中から王や、さらにその上に立つ大王が生まれてきたのだろうということだ。しかし、なぜそのような盆地内の在地勢力が、列島他地域に優越し、全体を統治する勢力に育っていったのか。依然としてまだモヤモヤが払拭できない。やはり「王権の成立」には「大陸との通交」という東アジア的な視点に基づく地政学的な研究を無視し得ないのではないだろうか。その視点で考えると大陸の影響を早くから受けてきた西日本の先進地域(筑紫、出雲、吉備などの)と無関係に、急に奈良盆地の大和が高度先進地域に発展したとは考えにくい気もする。奈良盆地に移住してきた勢力や外来勢力の存在が鍵になっていることを否定はできないのではないか。

2)次に、なぜ奈良盆地なのか?これは謎だという。王都は交通の便が良い大阪湾岸、河内でも良かったはずだと。筑紫、出雲、吉備などの西日本との緩やかな首長連合が成立したので、次は東の国や首長との連合を目指した初期ヤマト王権が、西の瀬戸内海と東の伊勢、尾張との交通の要衝であった三輪山麓に交易拠点を設けたのではないかという仮説を示している。纒向は瀬戸内海と、大和川水系を利用した水上交通を運河で結ぶ交易の結節点という遺跡である。全国からの土器が出土していることから、ここが開かれた初期の「都城」であったらしい。しかし100年でその姿を消している。かといって盆地の外へ「都城」が移転したのではなく、盆地内で拠点が移動している(奈良盆地を出て北の山城国に移転するのは794年のこと)。なぜ、そんな箱庭のような狭い盆地の中で主導権争いに終止していたのであろうか。それが日本列島全体に大きな影響を与え得た理由は何なのか。1〜3世紀のチクシ王権(奴国、伊都国、邪馬台国)の有り様を見ていると、大陸の強い影響下にあり、王の統治権威や権力基盤、鉄資源を主とする経済的な優位性も、中華王朝の朝貢冊封体制下(東アジア世界的な秩序)にあったことを考えると、外界から適度に隔絶された奈良盆地に成立したヤマト王権の統治権威、権力、経済基盤がこうした東アジア世界的秩序と無縁で、大陸の影響なしに確立できたとは考えにくいのではないか。それともチクシ王権とは異なる求心力があったのだろうか。

3)そういう視点からも、3世紀に江南の呉との通交があったのではと推測するのであるが、呉との通交の証拠で確実なものはまだ見つかっていない。中国側の文献史料(三国志呉書のような)が逸失している以上、何らかの物証が日本側で発見されることが期待される。特に大陸との朝貢冊封関係や通交を示唆するような印綬や「威信財」が盟主墳墓から出てこれば有力な証拠となる。しかし、多くの盟主墓と考えられる前方後円墳が陵墓指定されているため発掘調査ができないから調査しようがないという。またそれ以外の古墳(実は未指定の大王墓があると考えられている)の多くが盗掘されており副葬品の出土が少ないという。他の墳墓でいくつかの呉鏡が見つかっているし、呉の工人が存在していたらしい痕跡(仿製鏡の工房など)もある。しかし、そもそも奈良盆地の3世紀以前の遺跡から王権の存在や大陸との通交を推測させるような遺物・威信材は見受かっていない(前述の坂靖氏の「ヤマト王権の古代学」)。初期ヤマト王権と呉王朝との通交(朝貢冊封関係)はまだ推測の域を出ないのだはないかと感じる。やはりここでもチクシ王権(奴国/伊都国/邪馬台国)がその統治権威を中国王朝との朝貢冊封関係によって得ていたこと、その証拠としての金印や、王墓から大陸由来の鏡、剣、玉などの威信財が大量に出土していることを鑑みると、今後の考古学的発見に期待するものの、初期ヤマト王権と中国王朝との通交の痕跡が乏しい感は否めない。そうなると、再び3世紀の初期ヤマト王権の統治権威の基盤はなんだったのだろうという疑問が湧いてくる。

4)そこで古墳の持つ意味合いが重要になってくる。大和盆地に発生した我が国に特有の前方後円墳は、ヤマト王権を特色づける重要な考古学資料であるが、単なる首長の墳墓(盟主墳)ではなく、葬送儀礼や前方部は祭祀や即位儀礼の場であり、しかも葺石で覆われた建造物自体が権威/権力を表象する巨大なモニュメントとしての意味合いがある。これが国内に置ける政治的な同盟、同祖同族関係の証しとして全国に広がっていった。すなわちヤマト王権から統治権威を地方に与える意味を持っていたと考えられている。しかし、箸墓古墳や渋谷向山古墳、行燈山古墳、メスリ山古墳などの初期の大型前方後円墳の築造が、本当に3世紀初頭〜中期(魏書に言う邪馬台国/卑弥呼の時代)なのか?前述のように多くの考古学者は炭素年代測定法という「科学的計測」によっているので、間違いないと信じているようだが、サンプリングによる計測精度に誤差は全くないのか?また、その時代の列島内の先進地域であったチクシ倭国の農耕環濠集落(戦闘/防御を意識した集落)形態の国の姿(吉野ヶ里の姿に象徴される)と、ヤマト倭国の都市(防御施設がなく運河、河川で外部と繋がっている)形態を有する国の姿(纒向に象徴される)とが、全く同時代とはどうも考えにくい。前方後円墳のような巨大な構造物も弥生の香りを残す環濠集落(例えば唐子・鍵遺跡のような)と同時代的に併存するものではないのではないか。これらの大型前方後円墳は早くとも3世紀末期のものではないかと推測する。4世紀に入ると中国は魏や呉の末裔である晋が滅び、五胡十六国の混乱の時代に移ってゆくことから、周辺国(いわゆる蛮夷の国々)は中国王朝との朝貢冊封関係が揺らぐ事態となる。そうしたなかで倭国では新しい統治権威の確立、新秩序の模索がはじまっていたとも考えられる(魏王朝と晋王朝という統治権威の後ろ盾を失ったチクシ倭国の邪馬台国は衰退していったのだろう)。大和の古墳はその象徴的な遺跡であろう。そういう意味では古墳は4世紀以降に普及していったモニュメントであると考えるのが妥当ではないのか。なお古墳は大陸からの影響は考えにくい倭国独特の施設だ。吉備の特殊基台、出雲の四隅突出型古墳。筑紫の威信財副葬形式などが集合してできたと考えられる。なぜこのような墳墓形態が生まれたのか。どうしてこれが奈良盆地発の統治権威や同祖/同族のシンボルとして列島統合に用いられたのか。じつはあまり分かっていないことの方が多い。最近、韓国で前方後円墳が見つかったと話題になっており、韓国の考古学会では、やはり前方後円墳は半島由来ではないか、と発掘調査を進めた。しかし、結局は6世紀以降の築造であり、むしろ倭人の半島進出に伴う倭系有力者の墳墓であることがわかってきている。だが、このような巨大な施設や土木工事技術が、列島内で、さらにいえば奈良盆地や河内で独自に発展したものなのか明らかではない。何らかの渡来系の集団の技術ノウハウが伝わっているのではないだろうかとも考える。ちなみにチクシ王権の地、北部九州には、3世紀時点では大和で見られるような大型前方後円墳は見られず、大陸由来と思われる墳丘墓が中心である。このように大規模古墳がヤマト王権を特色づける統治権威のモニュメントであることは疑いないが、その全容はまだまだ解明されていないと感じる。

残念ながら、今回はこれら全ての謎の解明には至らなかった。やはり「初期ヤマト王権」のプロファイリングには未知なる部分があまりにも多い。明治維新後の「天皇制」や「国体」につながるルーツの歴史であり、戦後は皇国史観が廃されたとはいえ、日本の起源に関する歴史であるが故に、さまざまな憶測や思惑も絡む。そして、まだまだ限られた文献史料、考古学的資料に依拠する議論であることが謎の解明に立ちはだかっている。新しい発見とこれからの更なる研究成果と斬新な仮説が待たれる。まあわかってしまうとこれ以上探求する興味も失せてしまって、やることがなくなるのでいけない。幸いなことに、これからも「時空トラベル」は終わることはなさそうだ。


三輪山山麓に広がる初期ヤマト王権の所在地、纒向遺跡
箸墓、他の前方後円墳群
(桜井市纒向学習センターHPより)


(掲載した写真は、2012年三輪山、箸墓古墳、纒向遺跡発掘現場、龍王山を訪ねた時のもの。撮影機材:Nikon D800E + Nikkor 24-70, 70-200)




「初期ヤマト王権はどこから来たのか?」シリーズ、過去のブログ

2020年4月15日:第一弾 https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/04/blog-post_15.html

2020年4月27日:第二弾 https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/04/blog-post_27.html

2020年5月8日:第三弾 https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/05/blog-post.html

2020年5月26日:第四弾 https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/05/blog-post_26.html

2020年7月1日:第五弾 https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/06/blog-post_30.html

2020年12月26日:プレゼンテーション資料 
                                                                                                                                                                                https://tatsuo-k.blogspot.com/2020/12/blog-post_26.html










2021年8月8日日曜日

パラドックスの夏が終わった 〜「これにて一件落着」なのか?〜

 

お台場に設置された聖火台

閉会式


緊急事態宣言下で外出自粛を求められるなか、64年の東京大会を観た「昭和老人」にとってオリンピックのテレビ観戦は、退屈で鬱々とした巣篭もり中のまたとない時間潰し、いや楽しみとなった。あんなに「こんな時にオリンピックやるなんておかしいじゃないか!」と息巻いていたのに、アスリートの活躍に歓喜し、興奮し、涙し、そして金メダルの数をカウントして朝から晩までテレビに齧り付いている自分を見て、まさに奴らの「術中にはまった」と苦笑いする日々であった。あのSNS上を席巻した怒りのコメントはなんだったのか?上から目線のボヤキ漫才?いや老人性パラノイア、はたまた老人性不定愁訴だったのか? 無観客試合という異例の開催が、自宅でのテレビとネットにかじりつかせることになったことも皮肉だ。頑張ってチケットを手に入れた人には残念だろうが、我々のように一枚もチケットをゲットできなかった「ドンくさい」人間には、小さな声で「ザマアミロ」と快哉を叫び、下劣な溜飲を下げるTV観戦だ。もっとも開会式と閉会式のチケットに大枚叩いた人たちの間では、このTVを観て「これにこんな大金払わされるなら払い戻してもらう方がよかった」との声も...まさかの「金返せ、金返せ」コールというわけだ。

事前の人選トラブルが相次いだ因縁の開会式と閉会式の出来栄えについては敢えてここではコメントしないが、しかし観客席に人影もなく歓声なく、静寂の中でただただアスリートが真剣勝負で競い合う姿が新鮮であった。がらんとした競技場にアスリートの掛け声や息遣いが遮るものもなく響き渡るオリンピックはそうないだろう。また世界が注目するイベントに海外から人々が集まり交流する祭りを求めることも不自然ではないが、こういう時期だからそういう祝祭の色合いは取り除かれても仕方ない。天皇陛下も開会宣言で「祝う」というお言葉を使われず「記念する」と述べられた。アスリートは、こういう困難な時期に開催されたことに感謝し、「ありがとう東京」の言葉を異口同音に語る。そして、だからこそこれまで磨いてきた技と力を、こうして与えられた舞台で出し切るべく競技に専念する。ある意味でのスポーツの原点を見た感じがする。もちろん海外からの観客はなく、選手団/関係者/マスメディアなどの多くの海外からの訪問客との交流はシャッタアウトされ、街に親善友好、祝祭のムードはない。期待する経済効果もなかった。本来ならこれだけでも開催する意義は半減しただろうが、そこはそれ「アスリートファースト」のIOCだ。競技さえできれば他のことは良い。どうせ放映権料を取っているのでTVで観れば良いのだし、開催さえしてくれればよいのだ。まして開催国の国民にパンデミックの厄災が及ぶかどうかIOCの問題ではない、それは開催国の責任だろう...と。

こうして強行されたオリンピックは、始まってみると多くの国民がテレビ、ネットで観戦し、コロナコロナで鬱々とした日常に束の間の非日常的なわくわく体験を思い起こさせてくれた。アスリートの活躍に元気をもらい、そしてアスリート同士の敵味方を超えたフェアプレーとレスペクトに感動をもらった。日本は史上最多のメダルを獲得し高揚感に包まれた。結局はメダルの数が大会が成功か否かを評価するのだと人は言う。だとすればこの東京大会は日本にとって大成功であったことになる。政府、大会関係者は胸を撫で下ろしているのだろう。そして、やはりこのTokyo 2020に「感動」した我々は、まんまと為政者の「策略」にはまってしまったのか? いやそうではあるまい。オリンピック開催さえすれば、なんだかんだ言ってもコロナの鬱憤を晴らし、日本選手の活躍でメダルラッシュとなれば、コロナ対策でミソつけた政権に対する国民の不満も和らぐに違いない(選挙で勝てる!)。そういう読み/期待は、開催期間中に起きた異次元の感染爆発(ついに全国で史上最多の1日の感染者15000人超)と、現場の医療崩壊危機。それに対する相変わらずの政治の迷走、思考停止に儚く潰え去った。オリンピック開会式セレモニーというスイッチが入って、一瞬、パンデミックからオリンピックへとモードが切り替わったかに見えたが、夢の饗宴に酔いしれた17日間は、閉会式と聖火の消灯とともに消え去った。たちまち酷暑の夏と、まだそこにいるパンデミックという悪夢のような現実に引き戻された。政府はコロナの感染爆発とオリンピック開催は関連性がない、と述べているが、オリンピック関係者の感染は450人を超えた。組織委員のバブル方式は機能したのか。その検証はなされていない。海外からの持ち込みだけでなく、日本からの持ち出しはこれからだろう。これからどういった影響が出るのか経過観察が必要だろう。また世論調査では60%がオリンピック開催で、緊急事態宣言と言われても開放感と気の緩みが出た、と答えている。「緊急事態宣言」と「オリンピック開催」というパラドックス。「真夏の夜の夢」の後に残った未曾有の感染爆発と、一年の延期と無観客のオリンピックで残った膨大な赤字と借金、そして危機的な日本の政治と経済の劣化という置き土産を目の当たりにして、国民は現実の厳しさに気付かされる。すでに当初の予定を大幅に超えてしまった1兆6千万円大会経費の回収は無理だ。誰がそのコストを負担するのか?そして商業主義主導で金にまみれ、政治をも動かすオリンピック興行主というIOCの正体も見てしまった。なぜこんな酷暑の夏に競技を集中させるのか。開催国だけでなく世界中がパンデミックで苦しんでいるのになぜ開催を強行するのか。素朴な疑問が湧いてきて、そうだったのか!と現実を知る。そもそもオリンピックって何?誰のためにやるのか?という根源的な問いにもぶち当たったこの夏である。

今回、オリンピック史上も前代未聞の大会となったことは間違いない。パンデミック下の一年延期、無観客、聖火リレー/交流行事中止など異例ずくめの開催。この東京大会は後世にどのように記憶されるのだろう。今回の緊急事態宣言とオリンピック開催という二律背反のパラドックスは、普段気づかない色々なことを気付かせてくれた。その一つが政治やこの国のリーダのあり方である。非常事態下におけるオリンピック開催強行は、為政者が目論んだような、国民の不満をそらして、政治への信頼回復(選挙で勝つ)や、国威発揚や、愛国心の醸成を生み出したわけではなく、むしろ皮肉にも為政者やリーダー、社会的エリートと言われる人々の、いざという時の混乱と迷走を露呈したように思う。オリンピックにしろパンデミックにしろ頑張って結果を出したのはアスリート、ボランティア、大会スタッフ、そして医師、看護師、保健師、警察官、自衛隊員、救急隊員、エッセンシャルワーカーなどの個々人であったということ。要するに現場で全ての仕事を額に汗し、手を汚し、足を動かして走り回って実行し、目的の遂行を支えた人々であったということ。彼らの努力と活躍がなければ、困難な環境下での大会運用もできなかったし、アスリート自身の努力がなければメダルラッシュもなかった。短時間での大量のワクチン接種も進まなかったし、通常医療を抱えながらの感染症対策医療現場での命の救済もできなかった。結果を出したのは彼らだ。海外のメディアから、困難な時期の開催に謝意が示され、SNS上に多くの賞賛のコメントが投稿されているのも、こうしたアスリートの活躍や現場を支えた人々へのそれだ。一方でこうした有事における事態把握、課題認識、方針/政策決定、具体的な対処責任を負う政治家、官僚、リーダーと言われる人たちは国民の負託に応える結果を出せていない。国民の不安と懸念を振り切ってオリンピックは強行して終わらせたが、パンデミックは終わってない。経済の回復もまだだ。事態を見据える視座、合理的な判断力に欠け、国民への共感力も、事態の推移の想像力も欠如し、迷走と妄言をかさねたあげく、矛盾した結論へと突き進んだということになってしまっている。「上は三流だが現場は一流だ」と揶揄される所以だ。あの戦争へと突き進んだ顛末を彷彿とさせる。そして完全な破滅に直面しているのに終戦の意思決定を躊躇していた事実(おりしも76年目の広島、長崎原爆忌である)。トップの意思決定に合理的な根拠がなく優柔不断であること。失敗を認めない、都合の悪いことはなかったことにする思考回路。「根拠のない楽観主義」と「無謬性」という虚構。責任の所在を曖昧にする組織風土。これまでの歴史にたびたび出現した問題解決に取り組む「組織風土」の宿痾がまた今回も再現された感がある。

最後に、最初にスルーした開会式、閉会式の出来栄えの話についてやはり一言付け加えたくなった。厳しい評価の根っこにあるのは、要するに何をメッセージとして世界に伝えたいのかがはっきりしない、ということに尽きる気がする。このコロナパンデミックに見舞われる世界で、今行われるオリンピックにことよせて何を伝えたいのか。「あなた」のメッセージが「我々」に伝わってこないのである。「復興五輪」なんて本当に考えていたのか?と言いたくなるほどぐだぐだになってしまった。一つ一つのパフォーマンスや演奏や寸劇、ダンスは一流のパフォーマーや演奏家、歌舞伎役者を動員しているのだが、パーツである「コント」が全体としてのモティーフ、ストーリーに繋がらない。盆踊り、東京音頭、歌舞伎、和太鼓はこのストーリー上になければ、唐突な昔ながらの日本文化紹介コーナーにしか見えなくなる。参加者であり主役のはずの各国選手は3つに分断されたエリアに閉じ込められて、イベントに参加することもなく、「ショーの傍観者」になることを強いられている。ストーリーライター、総合プロデューサーがいない。指揮者のいないオーケストラだ。政治、経済、企業にビジョナリーリーダーがいない、全体最適を図れるリーダーがいない状況と同じだ。人々を惹きつけ、共感を生み、想像力と期待を掻き立てるものが感じられない。閉会式で披露された次期開催都市パリのフランス国歌演奏に合わせたParis 2024のビデオメッセージは、大勢のパリ市民の参加を得て簡潔で明快なパリオリンピックへの期待感を沸き起こす表現とストーリーでまとまっていた。比べるわけではないが、日本の総合的なプロデュース力、オーケストレート力との違いを見せつけられることになった。いやそうは思いたくないが総合的な文化発信力の違いかもしれない。そもそも例の如く電通に丸投げして、お笑い芸人を総合プロデューサーに起用している段階で、もはや限界かな?と。そしてこの開会式、閉会式のメッセージ不達が今の日本が置かれている状況を象徴しているように感じた。例に挙げるまでもなく、言葉によるメッセージ力がキモであるはずの政治家の、演説/スピーチや国会答弁、プレスコンファレンスでの原稿ボー読みを見るとよくわかるであろう。少なくとも間違えないように読んで欲しいものだが、読んでる本人が書かれている中身のメッセージやビジョンを共有してないから、2ページも読み飛ばしても本人は文脈の不連続に違和感を感じないのだ。リーダーに求められる能力とは何か?日本に欠けているものは何か?大きな課題を突きつけられている。開会式、閉会式の空虚感は日本の抱える課題を象徴している。


Paris 2024
次期パリ大会開催に向けたポスターの一つ